第四話 地獄ノ怨言
一
なぜ早朝に、わざわざ肌寒い中を、しかも神社に向かっているのか。その理由は彼にはわからなかった。
彼はただ、導かれるままに歩いているだけである。
導く存在は
今日に限ってくろは、彼を早朝に起こして神社に導いていた。
眠くて寒くて、ここはどこなのかもわからない。彼はどうしようもなく泣きたくなったが、すんでのところで、靄の中に
ほっとしたのは、自分と同じくらいの小さい女の子だったからである。
女の子はずいと彼の手を引いて、どこかに案内しようとした。一歩、二歩と歩けば、隣にいたくろがいなくなっている。振り返っても、くろはいなかった。
「くろ!」
はじめてくろに対して、寂しいという感情が浮かんだ。もう会えなくなってしまうような予感がした。けれど女の子は容赦なく、彼を引っ張るように建物の中に連れて行った。
ある部屋の前まで来ると、女の子は障子戸を開けた。中には男が一人、夢の中にいる。とんっと背中を押されて、彼は部屋の中につんのめった。連れてくるときもだが、乱暴な子だと思いながら彼が振り向いたときには、障子戸も閉まり、すでに女の子は姿を消していた。
どうして女の子はここに連れてきたのか。くろはどこに行ってしまったのか。女の子を追いかけた方がいいのか。彼がこの疑問たちに触れたのは一瞬で、次第に睡魔に侵食されてしまった。
男が寝ている布団は温かそうだ。少しだけ、ここで寝かせてもらおう……
布団の中にいた男、もとい深萩神社の宮司である宿禰が目を覚まして、隣にいる知らない男の子に驚くのは、後の話である。
「うーん……」
「そうそう、同じ力加減を意識して……」
険しい顔で針と向かい合ういつ子は、優しい声で先生に手ほどきを受けている。
この日、うたといつ子は裁縫の稽古のため、亀井町にある塾にいた。
二人はこの塾で知り合った間柄である。歳が同じで、普段は大人しいうたと明るくはきはきしているいつ子は性格は違えども、妙に馬が合った。出会ったその日から友達になって、たびたび一緒に過ごしては、友好を深めている。
いつ子は、神田は豊島町にある乾物問屋
「できた!」
いつ子が心底からよろこぶ顔をして、初めてその手で作り上げた羽織を掲げる。一斉に、塾にいた皆が拍手した。失敗してはやり直し、先生に根気よく教えられながら頑張っていたのを、誰もが知っていて、すごいすごいと称えている。
「お父様もきっと、感動しちゃうわ」
柔和な笑みを浮かべる若い先生の言葉がより一層、いつ子の心に
「先生、ありがとうございました」
父のために作った羽織をいつ子は大事に畳んで、うたと塾を後にした。
江戸の町に冬が訪れようとしているこの頃、陽が沈むのが早くなっていた。二人が塾を出たときはすでに空は朱に染まっている暮れ六である。
いつ子の歩調が少し速かったのは、時刻を気にしていただけではない。早く、父に羽織を見せてあげたかったからだ。うたもいつ子の気持ちがわかるので、歩調を速めていた。
「先生の説明はわかりやすいし、優しい。私、前に習っていた所では見放されていたから、先生のところにきて本当によかった。うーちゃんにも会えたし」
「うん。私も、いーちゃんに会えてうれしい」
若い娘二人が、ふふっと笑い合う。
うたが唯一、習い事において両親から通うことを許されていたのが、亀井町の塾であった。裁縫の稽古所に塾とは仰々しい言い方だが、間違ってはいない。というのも、本来は読み書きを教える塾であり、いつしか裁縫も教えるようになっていたからである。
貧しくて手習所に通えない子どもや、小さい時分に読み書きを習っていなかった大人たちのために開かれた塾だった。ただし来る者
神隠しにあって呪われた子という
こうした訳ありのうたもいれば、いつ子のように、前の所で
二人はそれぞれの帰路を行くため、道を分かれた。
いつ子は今日だけにあらず、いつも帰りを急いで空き家を突っ切って家に帰っていた。大通りを行くよりも、その方が格段に近いからである。
空き家の戸はすべて取り払われていて、
誰かが背を向けて立っているのが、見えたからだ。
後ろ姿で顔は見えないが、白髪が目立つ頭髪の男であることはわかった。いつ子は空き家の背後に、男は部屋を隔てた正面側に立っている。
いつ子は今まで、この空き家に人がいるのを見たことがなかった。いつ子のようにただ通るだけならまだしも、男は微動だにせずにいる。見つからない方がいいだろうか、しかし一刻も早く家に帰りたいいつ子は、疑念と
「待たせたな」
いつ子は
立ち尽くしていた男の声ではない。男がいるさらに向こうから誰かが来たのを、いつ子は
何事か、二人は話している。声からして、後から来たのも男である。背を向けている男の声は聞こえるのだが、やって来た男の声量は、秘事でも話しているのか小さくなってしまい、聞き取れない。
「話が違う!今さらおかしいと思ったんだ。こんなことが、許されると……」
背を向けている男が声を荒げた。二人は揉めている。
どうして立ち去らないのか、いつ子は二人のことが気になって仕方なかったからだ。好奇心旺盛なところは、うたと共通している。
ちらっと頭を
(あの人……)
久兵衛が懐から取り出した何か――きらりと光ったのは
それはいつ子が見て聞いた、一瞬だった。
いつの間にか身体の中にため込んだ息が、震えながら口から漏れた。どさりと音を立てて倒れた男の胸には、匕首が突き刺さっている。
男は久兵衛に刺された。その事実は否応もなく理解しているのに、声なき心の中の言葉にもできない。自分の声が、久兵衛に聞こえてしまったのではないか。久兵衛に見つかっては、とてもいけない。という意識だけは言葉にできている。
久兵衛はゆっくりとした動作で匕首を抜き取り、その場を去って行った。いつ子にとっては長い時間だった。久兵衛の姿が見えなくなっても、戻ってくるのではと、恐怖で動けない。しかし、男を助けなくては……
いつ子は勇気を振り
「ねぇ……」
声をかけても、身体を軽く揺すっても、男はびくともしない。
もうどうしていいかわからなくなって、いつ子は家に急いだ。泣きながら帰ってきた娘に、両親は何事かと
徐々にいつ子が見てしまった出来事の全容をつかんだ両親は、急いで医者を呼んで空き家に向かうも、男はこと切れてしまっていた。心臓を一突きにされ、ほぼ即死だったろうというのが、医者の見解である。
で、こうなれば殺人事件であり、我が子が目撃者となってしまった両親は、日頃、懇意にしている町廻り同心の仁助と御用聞きの伝吉に助けを求めた。幸い、仁助たちは神田近辺を見廻っていて、すぐに駆けつけてきた。
「あの波川屋の主人が犯人だって……!」
と、伝吉が驚いたのは、波川屋といえば江戸でも一番の乾物問屋だったからである。小売りをしていて、奉公人も置いていないような木花屋とは違い、波川屋は大店中の大店で、まさかのそこの主人がと思うのも無理はない。
大店の主だろうが何だろうが、犯人となれば捕らえるだけだ。
速やかに二人は、その日の
だが、目撃者がいるのにも関わらず、久兵衛は無実を主張したのである。
「その時刻なら、私は料亭におりました。とても人を殺すなどできようはずはございません」
「嘘を吐くとためにならんぞ」
久兵衛は仁助の言葉を、鼻でせせら笑った。
「嘘だとお思いなら、確かめてごらんなさい」
自信、いや確信に満ち溢れた久兵衛に疑念を抱きながら、仁助は伝吉に料亭を調べてくるように命じた。時間稼ぎだろうか。そんなことをしても意味がないのに。伝吉に無駄足をさせるのも申し訳ない。てめぇ、やっぱり嘘を吐いてやがったなと、伝吉は引き返してくるはずだ。
「旦那……どうやら間違いねぇようで……」
さっぱりわけがわからないと、息を切らしながら、戻ってきた伝吉は、想像していたことを言ってはくれなかった。
「何……!」
料亭の
「おわかりになってくれたのでしたらよいのです。裁くのは私ではなく、私に人殺しの汚名を着させようとした木花屋のお嬢さんではないでしょうか」
波川屋久兵衛は噓の証言によって殺人犯にされるところだった。その嘘を吐いたのは木花屋の娘、いつ子である。
という噂は、瞬く間に広まった。
いつ子が証人であることを、事件を担当した仁助たちは誰に広めることもしていない。しかし、はじめに医者を呼んだとき、番屋に駆けこんだとき、いつ子も両親も、いつ子が目撃してしまったことを隠そうとも思っていなかった。悪意があるなしに関わらず、いつ子が見てしまったこと、久兵衛は無実であったことが周知されてしまったのである。
噂というものは真実よりも程遠く、木花屋が波川屋を
うたがその噂を聞いたのは、事件が起きた三日後であった。沙世から花の手ほどきを受けた帰り、ふと誰かが木花屋の悪口を言っていたのを聞いてしまった。
いつ子も、いつ子の両親も、人を貶めるようなことは絶対にしないと、親交のあるうたは、決して噂を真に受けたりはしなかった。あの日の帰り、父に羽織を渡すことを楽しみにしていたいつ子が、どうして……
きっと、いつ子は何かに巻き込まれてしまった。うたは居ても立っても居られなくなって、すぐに木花屋まで向かった。
典型的な江戸っ子気質の父親――
一体、何があったのかとは、聞けなかった。過程よりも、気になるのはいつ子がどうしているかだ。
頼りない笑顔で、いつ子は奥の部屋にいると通された。
「いーちゃん!」
ぽつねんと、いつ子は部屋の隅に座っていた。うたの姿を見て驚いた顔をしたのち、泣き顔になる。
「本当に、見たの……嘘なんか吐いてない。お願い、信じて……」
押しつぶされた感情を、いつ子はうたの胸の中で解き放つ。
この目で、久兵衛が人を刺すところを見た。なのに、どうして自分が嘘吐き呼ばわりされなければならないのか。安くて助かる、また来るねと言ってくれた客たちが、どうして噂を
人の中には、悪いものを排除しようという意識がある。悪の基準は、噂という不確かなもので確立させてしまうのだ。
直面したそれに、いつ子は耐えられないでいる。
「いーちゃんは嘘なんか吐いてない。誰が何と言おうと、私は信じる」
たとえ江戸の町すべての人間がいつ子を悪と判断しようと、悪の
いつ子が一番に恐れていたのは、仲の良かった友人が離れてしまうことだった。
だけどうたは、最も辛い目に合っているときに、自分を信じてくれた。いつ子は急激に
ゆっくりと、短い言葉でいつ子はことの次第をうたに説明した。
「私が見たばっかりに、おとっつあんとおっかさんまで嫌な思いをしている……私のことを信じてくれているけど、だから、余計に……」
好奇心を捨て去って、早く退いてしまえばよかった。だが、殺した瞬間を目撃しなくても、あの場所で男が殺されたとわかれば、男と揉めていた久兵衛の名を告げていたことに変わりはない。どちらにせよ、こうなることは定まっていたとも言える。
うたは心の片隅で、もし自分がいつ子と同じ目に合ったならば、両親は自分のことを信じてくれるだろうかと、考えてしまった。悪し様な噂よりも、家族に信じてもらえないことの方が哀しいはずだ。
今は自分のことよりもいつ子のことだと、うたが思い直したとき、店の表の方で、喧騒が聞こえた。二人が耳をすませると、いつ子を嘘吐き呼ばわりした誰かに、朔蔵が怒鳴りつけているらしい様子が伝わってきた。
「てめぇの子を信じねぇ親がどこにいるんだ!」
朔蔵の言葉は、うたの不安をかき消した。強い信念と使命感さえ芽生えて、いつ子の手を強く
「私にできることをしてみる。仁様も親分も、頑張っているから」
いつ子の味方は一人だけではない。うたが信頼している同心と御用聞きもまた、いつ子と殺された男の無念のために、町を
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