番外篇 夢先ノ猫
一
激務の定町廻り同心にとって休みはありがたいものだ。いつもよりも遅くに起きて、遅い朝食を食べて、だらだらと横になって、草双紙なぞを読んでみる。趣味もこれといってないから、身体を横にしているだけの休日である。
好きなだけ寝ていたというのに、秋の穏やかな陽射しを浴びて、また
「そんな恰好をしていたら、うたちゃんに笑われますよ」
「休みの日くらいこうしていないとおかしくなってしまいますよ。母上だって、頭のおかしくなった息子の姿は見たくないでしょう」
「もう……」
なぜ今日に限って母は小言を言ったのかを、このとき仁助は考えるべきであった。だが、仕事中でない仁助は深く考えることをしなかった。
それ以上、沙世の小言はなかったので、仁助はうつらうつらと草双紙の字を追った。
案外、気軽に読み始めた草双紙が面白くて、眠気が吹き飛んだ仁助は草双紙に見入っていた。時折声を上げて笑いながら、見られても母か女中だけだと思っていたので、尻をかいたりも……
「ふふっ」
母、もしくは女中にしては声が若いと思った。神山家に若い女はいない。それで振り返って確かめた仁助は、あっと短い声を上げる。
「ほら、笑われるって言ったでしょう」
「どうしてここに……」
口元に手を当てて笑っているのは、うたである。来るとわかっていれば寝転んで尻などかかなかったのにと、恨めしい気持ちにもなったが、穏やかな微笑の訪れに、少し胸が高鳴った。
「今日は沙世様にお花を教えてもらう約束をしているんです。お邪魔しますね」
「さ、行きましょう」
目的は沙世であって、自分には
家にいるだけだからと気休め程度に剃った姿がだらしなくて、仁助はあわてて
その姿を、お茶を運んできた女中のおとらが見て、
「髭くらい朝の
と言われてしまった。おとらは沙世と違って小言に容赦がない。
折り目正しく茶を受け取れば、「ま、何でござんしょう」と
まさかうたを気にして無理な格好をしていると正直には答えられない仁助である。
おとらには来ないと言われたが、いつうたが来てしまっても問題がないようにと、しばらくそのままに草双紙の世界に
だが、足音は仁助の部屋の前を通り過ぎてゆく。本当にうたは、習い事のためだけに訪れたようだ。
まさかもう帰るつもりなのかと
「坊ちゃん!家の中をうろちょろされては困ります」
「別にいいだろ。自分の家なんだから」
「うたちゃんの気が散ったらいけませんでしょう。ご飯ができるまで大人しく待っていてくださいね」
「ご飯……ということは、うたは料理をしているのか」
おとらがにっこり笑って答える。
「せっかくだから皆で食べましょうって奥様が仰ったんです。うたちゃん、最近はめきめき料理の腕も上げているんですよ」
楽しみで仕方ありませんでしょうと、おとらがにやり。
何だその反応はと言い返してやりたかったが、言い返しておとらに勝てたためしがない。いいように
おとらの言う通り、大人しく待っているのが無難だろうと、今度は見られることもないだろうからと部屋に戻ってふてぶてしく横になる仁助であった。
しばらくするとおとらからお呼びがかかって、
香ばしくて、揚げ物を
仁助が箸を持ち上げたのを皮切りに、うたと沙世も箸を取った。
まずは熱い汁を喉に流し込む。貝の旨味が舌の上を流れて、何とほっとする味であろうか。沙世の味付けよりも少し薄く感じられるが、あくせく働かない穏やかな休日にはちょうど良い。次は煮びたしを口に入れ、いったん汁の味を流し込む。そして餡のかかっている揚げ豆腐をぱくり。白米の進むこと進むこと。あっという間に仁助は空の器をおとらに差し出していた。
「休みの日はあまり召し上がらないのに、今日は随分とじゃありませんか」
食が進んでいるのは、うたに作ってもらったという気持ちの高揚の
「あの、仁様。無理に食べてくださらなくても……」
だがうたは、仁助は自分を気遣ってくれていると思い込んでいる。仁助は食べたくもない物を気持ちよく食べるほど器用な男ではないので、大真面目に言った。
「うたの料理がこんなに美味しかったとは知らなかった」
おとらがよそってくれたおかわりも、すぐに腹の中にため込んだ。
そしてうたは照れ隠しのように
「はじめは
「そんなことないわ、うたちゃんの実力よ」
沙世がうたに料理だけではなく、今日のように花や色々なことを教えていることは仁助も知っている。まるで花嫁修業だと、秘かに思っていた。
あなた、と呼ぶうたを想像して一人甘いものに
「これでいつでもお嫁に行けるわね」
「お話はあるんですか?」
身を乗り出してうたに聞いたのは、おとらだ。
「まったくありません……」
「でもお年頃だから、いつそういう話がきたって不思議じゃございませんよ。坊ちゃんだって……」
聞いていないふりをしていた仁助が自身に話題を向けられて、今度は軽くむせてしまった。
仁助もうたも、誰かと縁づくには適齢期である。とくに仁助は跡取りであるからして、本来ならば周りがやきもきするところを、父はすでに亡くなっていて母ものんびりしているから、本人に
「そうね、いい人が来てくれるといいのだけど……」
とだけ沙世は呟いて、おとらと顔を見合わせて笑った。
いつかそうなってほしいという沙世の願いは日増しに強くなるばかりで、しかし当のうたは他人事のように箸を動かしている。
「奥様、大事な御用を忘れていましたです」
「まあ大変」
おとらは大袈裟に、沙世にいたっては棒読みに近い受け答えをした。
急用ができたので今すぐ出かけなければならないと、沙世はうたに弁明する。
「では私も、これで失礼します」
「いけませんですよ!」
おとらがあまりにも切羽詰まって言ったので、うたは目をきょとんとさせた。
実は急用というのは嘘で、事前に二人が示し合わせていたなど、うたは疑ってもいない。休みの日に家にいられたのでは仁助の邪魔になってしまうだろうと腰を上げたのだが、おとらに必死に止められてしまった。
「すぐ戻るから待っていてちょうだい。ごめんなさいね」
沙世にそう言われては、帰る用事もないので待たせてもらうと、家には仁助とうただけが残された。
素人芝居の見え見えの態度、それに昼餉のときの二人の思惑がわからないほど、同心の仁助は鈍くはない。
はじめにうたと知り合ったのは仁助の方が先だが、偶然にもうたは沙世とも知り合いになって、親交を重ねている。しかも沙世は我が娘のようにうたを気に入っていることも、仁助の承知するところである。そして沙世は、うたが神隠しにあって取り替えられた子であると両親に勘違いされていることを、
沙世と一緒に出かけるようになってから、うたは前よりも表情が柔らかくなった。何より笑うようになってくれたことが、仁助からしてもうれしい限りだ。きっとこれが本来のうたの姿なのだ。
他に望むことはないのか、それとも、望むことが怖いのか。
まだうたは恋すら自覚できず、仁助も自身の気持ちすらよくわからない。
(まずい……何を話していいのかわからん)
お膳立てされたことがわかればこそ、縁側にうたと並んで座っている仁助は気まずい思いをしている。
時間があればうたに会いに行って、他愛ない話を少しだけ。いつもは自然にできることができなくなっている。
意識してどうすると、仁助は思い切って聞いてみた。
「本当に話はないのか?」
「え?」
「だからその……縁談の」
「あるわけありません。誰も私のことをお嫁にしたいなんて思いませんよ」
哀しく怒るように、うたが言った。
仁助はうたの言葉を否定しようとして、口を閉ざす。うたの言わんとしていることが伝わったからだ。
呪われた子。うたにはそのような忌まわしい噂が
大店の娘は同じく大店の商家に嫁ぐのが慣例だが、商家なればこそ、噂というものには敏感である。
「私の所為で、兄様まで縁談がこないんです」
「うたの所為ではない」
口が悪くて乱暴者の兎之介に関しては、自身の性格も災いしているはずだ。
励ますつもりで言ったのだが、うたは深刻である。
「しかも私がお嫁にいくまで妻をもらう気はないとまで、兄さまは言っているんです」
ならば一生無理だ。決して自分が誰かと添い遂げることはできないのだからと、本気で考えているうたがあまりにも可哀想だった。
「うたが知らないだけで、秘かに想いを寄せている男がいるかもしれんぞ」
慰めではなかった。仁助には嘘で塗りつくろった慰めができない。だからいつも、仁助は正直にぶつかっていた。本人ですら気づかないほど、
「そんな奇特な方がいれば、会ってみたい。……仁様は、お話はないのですか?」
「俺もその奇特な人を見てみたいよ」
つまりは、二人の進展はこの程度である。焦りを知らない仁助と、訪れることのない未来は描かないと決めつけているうた。涼しい風が少しだけ寂しい。
ああ、そうだ。おとらが昨日買いこんだという
「あ!」
だが、饅頭を与えるまでもなく、うたは何かを見て顔をぱっとさせた。
童心に帰ったような無邪気さで、一体何を見ているのだろうと仁助も視線をさ迷わせる。だが、無人の庭が映るだけだ。そもそも誰かが現れようものなら、ずっと庭を眺めていた仁助が気づかないはずがない。
うたは庭下駄を履いて、目を引くものは何もない場所へと歩いてゆく。
「何が見えるんだ」
自分には見えない存在がそこにいる。しかしうたには見えるということを当たり前のように承知している仁助だからそう聞いた。
「ぽんたです。八丁堀の野良猫ちゃん。仁様は会ったことがありませんでしたか?」
「ぽんた……」
会ったことはないが知っている名前に、仁助は声を落とす。
うたはあるところまで着くと、腰をかがめた。
「今日も遊びに来てくれたのね」
(そうか、うたは……)
仁助にはぽんたが見えない理由がまだわからないのだ。
うたの手が、虚空へ伸びた。
「ぽんたは昨日、死んだんだ」
温かかったはずの毛並みは見事にすり抜けて、今は何も感じられなくなってしまった。
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