必ず帰ってきてくれる。

 うたが行方不明になって、家人の誰もがそう願っていた。

 一日、二日と過ぎても、うたは帰ってこない。誘拐ならばすぐに、犯人から身代金の要求がありそうなものを、無為に日々が過ぎ行くだけだった。勝手に家を抜け出すような子ではない。どこかで迷子になって泣いているのなら、どうして誰も気づいてくれないのだろう……もしかしたら、神隠しにあってしまったのでは……。

 神の仕業であろうと、人間だろうと、返してください。祈りをささげる場所もわからないままに、ひたすら無事を願った。

 ああ、願いが届いたのだ。うたは無傷で帰ってきてくれた。

 行方不明になったときの記憶をなくしているけれど、何があったのか、それがうたにとって忘れたいことならば、不透明なままでいい。帰ってきてくれただけでうれしいのだから。

「あら、誰と遊んでいるの?」

 またいつもの日常に戻りつつあった頃のことである。

 大人しく人形遊びをしているはずのうたの部屋から、話し声が聞こえた。うた一人分の声しか聞こえなかったのだが、楽し気に、まるで友達が遊びに来ているかのような調子だったので、母のおかじが様子を確かめた。

 やはり部屋の中にはうたしかいない。でも、うたは見えない誰かと話している。

 奇異な光景だが、おかじは特段気に留めなかった。よく娘は空想のお友達を作って遊んでいると、一人娘のいる親から聞いたことがあって、うたもそういう遊びを始めたと思ったからである。

 遊び相手がいない一人っ子ならまだしも、兄がいるのに仕方ないと苦笑すれば、うたは思いがけないことを言った。

「おのうちゃんだよ。そこにいるのに」

 瞬間、おかじの身体が凍りついた。

 うた以外に誰もいない。しかもおのうは空想の友達ではなかった。

 ——おのうは、三日前に亡くなっている。

 おのうはうたより一つ年上の、近所の商家の子で、うたの友達だった。遊びに来ることもあったし、うたがおのうの家に遊びに行くこともたびたびあった。

 だが、うたが行方不明になってすぐに、おのうはにわかに高熱を出して、そのまま帰らぬ人となってしまっていたのだ。

 うたの行方不明中のこと、しかも友達がいなくなってしまったことを、幼いうたに両親は伝えていなかった。聞かれたときは、おのうは遠いところに行ってしまったと答えている。

 だから、おのうがいるはずがなかった。

 おのうの姿が見えないおかじを、うたは不思議そうに見ている。空想の友達をおのうにしているのなら、おかじにとっては悪い冗談だ。

「おんもで遊んでくる」

 行こうと言って、うたは見えない誰かをうながした。

 外で遊び始めたうたが一緒に遊んでいるのは、誰だろう……

 きっと寂しいのだろうというのが、両親の考えであった。うたはどこかでおのうがいなくなってしまったのを幼いながらに察していて、おかしな行動をしている。ただでさえ行方不明になっていたうたには慎重に接していたので、両親は何も言わなかった。

 しかしまた違う日には……

「おかあさま!」

 うたは飛び跳ねながら、母にうれしそうに告げた。どんな歓喜があったのかと聞いたおかじは、再び凍てついた。

「早く来て!おばあさまが、帰ってきたの!」

 母の手を引いて、ほらとうたの指差した先は無人である。

 うたがおばあさまと呼ぶのは、たった一人だった。三ヶ月前まで一緒に住んでいた、父方の祖母のことである。

 うたと兄の兎之介は優しい祖母に懐いていた。その祖母が病にたおれたとき、兎之介はすでに死を理解できる年頃になっていたが、うたはまだ充分ではなかった。突然いなくなってしまった祖母恋しさに泣き暮らしていて、やっと笑顔が増えるようになったときに、うたは行方不明になっていた。

 母方の祖母はうたが生まれる前に亡くなっていたので、うたが祖母と認識しているのは、一緒に住んでいた祖母だけなのである。

「変なことばかり言わないで!気味が悪い!」

 今まで一度も怒鳴られたことのないうたは、母の怒声に、とたんに涙があふれ出す。

 そこに祖母はいるのに、おのうもいたのに……どうして母は急に見えなくなってしまったの……?違う、母だけではない。父も、兄も、使用人たちも、うた以外の誰にも見えないものが、うたには見えている。共通しているのは、すでにこの世にいない存在だということだ。

「おばあさま……」

 私には見える。感触のない手で慰めてくれる、祖母の姿が。

 いつしか祖母も消えて、おのうも遊びに来なくなった。見えない皆がおかしいのではない。おかしいのは見える自分だと気づいたときには、家族が自分を遠ざけるようになっていた。

「あの子は神隠しにあったときに、取り替えられてしまったんだ……」

 この虚しさが、離れなくて。いつまでも孤独に慣れずに、小さいころのままだった。


 うたと沙世と別れた仁助らは、それぞれ骨董屋をあたっていた。

 おこんの正体もつかめていないが、書画会の主催であった水山なる絵師の正体も不明である。何しろ水山は書画会に一度も姿を現していない。同じ絵師の環游に尋ねてみたのだが、彼は知らないという。しかもこんな絵で絵師と名乗れるなら、江戸が絵師だらけになってしまうと憤慨する始末である。これはもしかしたらと、書画の類を扱っている骨董屋に尋ねることにしたのであった。

「これは素人絵ですな」

 書画会で飾られていた一つを骨董屋の主人に見せれば、即座に主人は言い切った。

 その道に精通している者が見れば一目でわかるほど、とても書画会を催せる絵ではないとのことである。

 つまり、水山は偽絵師ということになる。おこんが偽絵師と知っていて書画会に誘ったとすれば……

 他の骨董屋をあたっていた伝吉も、やはり水山は偽絵師との報告だった。

 一方、うたと沙世は書画会が開かれた屋敷に向かっていた。

 参加者のほとんどが見た幽霊は見えずとも、うたはおこんの幽霊を見ている。すぐに消えてしまったのだが、まだ屋敷をさ迷っているとすれば、おこんの幽霊から何かがわかるかもしれない。と、うたが屋敷の探索を仁助に願い出ていたのである。

 うたに協力してもらうことは沙世に叱られたばかりで、仁助個人としてもうたが嫌な思いをしてしまうのなら、協力はしてほしくはないと思っている。だが、本当に無理はしていないと言って、このまま何もできないことの方が苦痛だとうたは折れなかった。私が近くで見守ってあげると申し出た沙世がついていくことを条件として、仁助はうたの協力を許した。

 屋敷に着いてみれば、おこんの幽霊どころか、人っ子一人いなかった。

 と、それぞれが報告し合っているのは、神田川の河岸にあるうなぎ屋の座敷である。

 普段は捜査の途中で贅沢はしないのだが、今回の事件のみならず、以前にも協力してくれたうたに、仁助がろくなお礼をしていないと知って、沙世が誘ったのである。

「私たちはおこんさんにだまされてたってこと?」

「そうなるな……」

 骨董屋で聞いてわかったことだが、書画に詳しくない者にねらいをつけて、価値のない書画を高値で買わせる詐欺が横行していたという。

 おそらく、おこんと水山は通じていて、おこんはめぼしい人物を探し出して書画会に誘っていたのだろうと仁助は推測していた。うたも沙世も、書画には詳しくなければ興味があるというわけでもない。

 西崎の聴取によれば、参加者全員がおこんに誘われたと話していたという。そして沙世のようにふと買いたくなったからだとか、誘われた義理で参加したかのどちらかで、参加者に骨董に詳しい人物はいなかった。

 格別おこんと親しい間柄ではなかったものの、実は騙していたとわかって、うたも沙世も傷つけられた思いである。

『騙される方が悪い』

 おこんが消える間際につぶやいた言葉を、うたは沙世のためにも教えなかった。いま脳裏にその声を思い出して、疲労がどっと溢れ出したように胸が苦しくなった。はたしてそれがうたに対しての言葉だったのか、消えてしまった彼女に確かめることはできない。

 落ち込んでいるうたのもとに、鰻が運ばれた。

「たらふく食べて、おこんのことなんか忘れちまえ」

 香ばしい匂いに箸を動かして、まだ晴れない顔のうたは、それでも出された料理を綺麗に平らげた。細い体に似合わず、小食ではない。

「神山様。少し、考えてみたのですけど……」

 おこんの事件以前に、小平治という男が同じ死に方をしている事件があったのを、うたは昨日の聴取のときに聞いていた。というのも、類似性がある事件であったので、参加者全員が小平治を知らないかと尋ねられていたのである。

 うたは先日、上野で小平治と会っていた。

 悩みごとを抱えているふりをしてうたを出合茶屋に誘った男であったのだが、昨日の時点ではまだ、おこんと同じ死に方をした男が小平治であるとまでは一致していなかったので、聴取のときには知らないと答えている。それが今日、仁助から詳細を聞いて、小平治が自分を騙そうとしていた男であるとわかった。またしても知人が相次いで亡くなってしまい、うたは衝撃を受けた。

 捜査に口を出すなど、身をわきまえていないとうたは思っている。けれど、仁助なら話を聞いてくれるという気持ちの方が勝ってしまうのであった。

「もしも私が神山様を好いていたとして……」

 とここで、仁助が盛大にあわてた。どういうことなのか、そういうことなのかとわけのわからないことを言ってのける仁助に、うたの言葉が止まる。助け舟を出したのは、沙世だった。

「もしもって言っているじゃない。うたちゃんは事件のことで話したいことがあるのよ。ふふっ、この子は恥ずかしがり屋なの。気にしないで」

 はいと返事をするうたは冷静である。沙世の言う通り真面目な話、そしてただの例え話であるとさとって、仁助は心を落ち着かせることに努めた。

「旦那、顔がにやけかけてますぜ」

 伝吉は隣で、面白がっている。

「その、神山様が私のことを裏切ったとしたら、もちろん哀しいけど、怒りの矛先は相手の方に向く気がするんです」

「……そうか!確かに、言われてみれば」

 うたの言いたいことを瞬時に察して、合点する仁助は同心に戻っていた。

「どういうことなんで?」

「小平治のことだ。犯人が人間だとした場合、小平治に騙された女の犯行によるものではない。小平治の女癖は相当だった。だから恨んでいる女が必ずいるだろうと、ましてやあの殺され方だ。俺たちはまず女の怨恨の線を考えた」

 しかし、小平治を恨んでいる女は一人も現れなかった。現にうたは小平次のことを、母性をくすぐられたように、放っておけなかったという感情を抱いていた。

「ああ、なるほど......!小平治に騙された女が恨むのは小平治ではなく、他の女に対してだってことですね。じゃあ、誰が小平治の奴を……」

「恨むとすれば」

「その家族、大切な人」

 仁助とうたが、息を合わせて答えた。

 騙された女に代わって、実行した者。殺人までをしてのけたのだから、女にとって近しい人物であろう。

 だがこれは、あくまでも可能性の一つである。仮に騙された女の家族などが小平治を殺したとして、なぜおこんまで殺したのかという疑問が残る。小平治とおこんの接点が犯人の手がかりになると、仁助は踏んでいた。


 翌日、奉行所に出仕した仁助は、早々に上役吹田の叱責しっせきを浴びせられていた。

「第二の被害者が出る前に、なぜ食い止められなかった!おかげで瓦版が好き放題、奉行所をあなどっているのだぞ!」

 これ以上、市中の笑いものにされてたまるかと、吹田は仁助に丸めた瓦版を投げつける。

 どこから広まったのか、女の幽霊が起こした殺人事件として、江戸では瓦版がはやし立てていたのだ。瓦版には白装束を着た女の幽霊が悪鬼羅刹の表情で、二人の男女を呪い殺している絵が描かれている。犯人が幽霊では、奉行所は手も足も出ないという読売の口上に、吹田は心底腹を立てている様子だ。

「はっ……申し訳ございません」

 吹田の気が収まるまで、あと何度謝ればいいのだろうか……とがめるよりも早く捜査に行かせてほしいと願う仁助の心の声は、届かなかった。

 おとそ半刻後、やっと解放されれば同情の目を向ける者もいれば、声をかけてくれる者もいて、仁助は少しだけ重荷が取れたような気持ちになる。そして彼も、仁助に声をかけたのであった。

「大変ですね」

「はぁ……」

 仁助が曖昧あいまいな返事をしたのは、相手が西崎だったからである。

 はじめは捜査をしていた西崎がどうして急に、事件をゆだねてきたのかと、彼に対してはすっきりとしていない。怒りはしていないのだが、まっすぐに見ることができなかった。

 まさか伝吉の言っていたように、幽霊を恐れているとは、西崎からは想像できない。

「どうもあの書画会を主催した水山という絵師は、偽絵師で詐欺師だったようです」

「でしょうね」

 きっぱりと言った西崎に、仁助は二の句を告げなかった。

「見ればわかりますよ」

 というのが西崎の基準で、言うまでもないことだからと教えてくれなかったのだろうか……ますます西崎という人物がわからなくなった。

 闇雲に捜査をしても行き詰まるだけだと、まず小平次とおこんの繋がりについて、仁助は伝吉に命じて調べさせることにした。仁助は書画会に姿を現さなかった絵師の水山について調べようと町を歩いていると、昨日人相書きを書いてもらった環游と出会った。

「人相書きは役に立ってますか?」

「伝吉の捜査にも重宝しているだろう。新作ができたのか?」

 環游が小脇に、大事そうに抱えている包みを見つけて、地本問屋に売り込みに行くのだろうと仁助が聞いた。

「へい。旦那もご覧になってください」

 事件の捜査中にしてはのんびりとした会話である。だが、環游の新作というのが、いわゆる幽霊画であったので、仁助は同心らしく言ってみせた。

「事件があったばかりに、ただでさえ瓦版が面白おかしく幽霊だと騒ぎ立てているこのときには、こういう絵は控えてほしいのだが……」

 この世に未練を残した、不敵に微笑む女の幽霊が描かれていた。足のない、白装束を着た幽霊である。

 まさにおこんの事件のときにいた幽霊像そのものだった。

「幽霊を見たことがあるか?」

「見れるもんなら見たいんですがね、からっきし見れませんで……応挙おうきょなんかは見事な幽霊画を描いたって話ですが、見たことがあるんですかねぇ」

 円山まるやま応挙は後世においても名高い京の絵師である。淡い表現で描かれる幽霊画も、彼の有名作の一つであった。

「幽霊画というのは、こういう絵が多いのか?」

「だいたいはこんな感じです。男の幽霊画っていえば道真に将門って有名どころが多いんですけどね、女の場合は名もない方も描かれてますよ」

 そう言う環游の絵も、特に誰というわけではない女の幽霊である。おこんの事件から着想を得たのであろうが、仁助はひらめくものがあった。

「環游、知っている幽霊画を見せてくれ」


 うたはこの日、兄とともに小梅村に住んでいる親戚の家に、暑中見舞いとして訪ねていた。菓子折りを持って、しばらくくつろいでいたのが、昼八つになって家を後にした帰りである。

 行きは駕籠かごで来たのを帰りは徒歩にしたのは、大川沿いの茶屋に寄りたかったからである。普段は神田や上野あたりの茶屋巡りをしているが、大川周辺まで足を延ばしたことがなかったので、その場の甘味を堪能したかったのだ。

 で、なぜか兄まで一緒に行くと言い出して、うたは兄の後ろを歩いている。

 兄は監視役なのだ。また事件にまき込まれたり、奇妙なことをしないかを家族の中で見張る役目なのだろう。

「もう変な奴と知り合いになるなよ」

 無言だった兎之介が、口を開いた。おこんに騙されて偽絵師の書画会に行ったうたをたしなめている。

「騙されたって泣きついても、俺は助けないからな」

 兎之介の視界に茶屋が映った。あの店でいいかと聞こうとして振り返ると、今にも泣きだしそうな妹の姿が見えた。

 妹は背を向けて、その場を駆けてゆく。小さい頃、妹の手を離してしまったあの日の姿と重なった。

「うた……!」

 我に返ったときには、うたの姿は見えなくなってしまった。

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