気づけばうたは、小梅村まで引き返していた。

 少しは兄に心配してほしかった。兄の忠告を無視して外出を続けていたのも、構ってほしいという、子どもじみた考えだったのかもしれない。

 兄が自分を家族として見ていないことなんて、わかっていたはずだった。取り替えられた子は家族ではない。本物ではない。

「っ……」

 微かにれ出たうめきは、嘆きの象徴だった。

 泣いてはいけないと、うたはかろうじて奮い立たせる。曇り空の下、心地よくない湿気を肌に感じて、昼間は輝いて見えた田圃の苗も、今はくすんで見える。追いかけてくれなかった兄に期待してしまった自分に、自嘲じちょうした。

「お兄ちゃん、やめて!」

 突然、うたの耳に若い女らしい叫び声が聞こえた。辺りを見回しても、すでに百姓たちの仕事も終わった刻限、遠くに人の影が見える程度で、近くには誰もいない。でも声は、すぐ近くで聞こえる。

 もしかしてこの中かと、うたは目の前の小屋に耳をすませた。

 物音も、人の声も皆無だった。

 しかし切羽詰まったような女の声に、うたは念のため、小屋の中に踏み入ってみる。

「え……」

 小屋の中には……うたはそこで、頭を殴られた。


 大川から北上する急ぎ足の舟に乗っているのは、仁助と伝吉である。

 環游にありったけの幽霊画を見せてもらった仁助は、小平次とおこんについてを調べていた伝吉に、違うことをお願いして、早くもその日の中に調べ終えた伝吉と合流して、ある場所へと向かっていた。

 揺らめく水面は明るくて、空の彼方は茜色に染まり始めている。

「どんぴしゃでしたぜ。福太郎には妹がいました」

 福太郎は、おこんの死体を発見したときに幽霊を見た正三とともに、書画会に参加していた人物である。彼らの住まいが中之郷横川町にあり、仁助と伝吉の目的地であった。

「おきぬって名で、半年前に亡くなってるそうで」

「正三というのは……」

「福太郎とおきぬとは幼馴染と聞いてます」

「協力したのは幼馴染の頼みだったからか、それとも、おきぬのことを好いていたのだろうか……」

「俺にはまだわからねぇんですが……」

 伝吉にうながされて、仁助は解れた糸を説明した。

 小平次、そしておこんを殺害したのは、福太郎と正三である。彼らが殺害に踏み切った訳は、おきぬにあった。

 半年前に亡くなったおきぬは小平次に泣かされた女の一人であり、関係を持つうちにおきぬは小平次の子を身籠ったのだが、子どもができたと知った小平次はあっさりとおきぬを捨てたという。泣く泣く子どもを産む決心をしたおきぬは子どもを流産してしまい、おきぬもそのまま亡くなってしまったそうだ。

「ある意味、小平次が恨まれている女に殺されたってのは合ってたんですね」

 妹を、幼馴染を不幸に追いやった男を、二人は許せなかったのだろう。

「亡者の復讐といったところか……」

 そう、あの奇怪な死体を演出したのには、三重の意味があった。

 一つはおきぬの恨みを思い知れといった、おきぬに代わって復讐をしたという意図が込められている。おそらく、凶器に使った髪の毛はおきぬの髪そのものかもしれない。

「そしてもう一つには、幽霊の呪いに見せかけるためだ」

「犯人は幽霊だと思わせたかったというのはわかるんですが、本当に二人がやったんですか?おこんの死体が急に現れたときだって、二人は広間にいたんですぜ」

「そこがみそなんだ。単に、幽霊の仕業だと仕立て上げることが目的ではなかった。二人には犯行が不可能だったということを証明するために、あの幽霊騒ぎは必要だった」

「どういう……」

 伝吉は頭が混乱している様子である。舟は源森げんもり橋から源森川へと折れた。

「おこんの事件のとき、まずはじめに起きた不可思議な現象は……」

「花瓶がひとりでに倒れた……まさかあいつらが倒したっていうんですか」

「正確には、花瓶を倒したのは正三だ。水山が現れず暑さにも辟易へきえきしていて、注意散漫となったところで倒したのだろう。花瓶の一番近くにいたのは正三と聞いている」

「まあ花瓶を倒すくらいならできますが、足音は……」

「あれは福太郎だ」

「でも福太郎は正三と一緒に広間にいたんですぜ」

「広間にいたと証言しているのは正三じゃないか。一緒にいたところを見ている者はいない。花瓶が倒れたとき、皆は一斉に花瓶の方を見る。皆を花瓶に視線を集中させて、その隙を見て福太郎は屋根裏に侵入し、駆け回ったというわけだ」

 屋根裏を駆け回る足音が怖くて、誰もが誰かと寄り添っていた。つまり広間にいたと証明していたのは知人同士のことで、福太郎が広間にいたという確たる証明はなかった。

 そこまで言って、伝吉は合点がいった。

「じゃあ、そのあとの外で音がしたっていうのは、福太郎が屋根裏からおこんを放り投げたんじゃ……てことは、おこんは書画会が開かれる前には殺されていて、屋根裏に隠されていた……」

 さすがに音がやんで時間が経ってしまえば、福太郎がいないことに気づかれるかもしれない。それを防ぐためには、

 花瓶に視線を集中させたときと同じ方法で、今度は幽霊がいると騒ぎ、皆の視線を一所に集める。頃合いをみてしれっと、福太郎は広間に戻ってきたのだ。

 幽霊がいると思い込んだのは、正三だけではなく、他にも見た人がいたからだった。正三と福太郎は犯行のために吐いた嘘である。しかし……

「老夫婦が見たっていうのは……」

「見間違い、あるいは幻をおのずと作り上げてしまったのだろう。不可思議な現象が起こって幽霊がいた、他にも見た人がいる。集団意識というのか、風で飛んだ紙切れが、あれは幽霊だったかもしれないと思い込んだというところだろう」

「そんなもんですかね」

 知人の幽霊しか見えないかもしれないとうたは言っていたので、はじめは幽霊が嘘であると、そもそも幽霊の存在を肯定していたので、考えもしなかった。しかし幽霊騒動が嘘だと気づいたのは、環游に幽霊画を見せてもらったときである。

 ちまたに出回っている幽霊画のほとんどは、描かれているのが女の場合、白装束に足のない幽霊だった。

「幽霊を見たことがない人間が幽霊を発想するとしたら、そういう姿になるということだ」

 幽霊が全員、白装束を着ているわけではない。とわかるのは、うたのおかげだった。

 うたによれば、はじめは生きているその人だと思って触れてみれば、すり抜けてしまうそうだ。白装束を着て恨めしい顔をしていれば、触れてみようなどとは思わない。

「倒れているおこんを発見したとき、二人は裸足のまま駆け寄っている。屋根裏で駆け回った福太郎の足は汚れていて、広間や廊下に残した痕を不自然にしないように、死体を引き上げるときに上書きしたのかもしれんな」

「まだ充分には調べられてねぇんですが、小平次とおこんは知り合いだったようです。しかもおこんは水山の詐欺の斡旋あっせんもしてましたが……」

「小平次にもしていたのか」

「騙されやすそうな女を小平次に紹介して、いくらか紹介した小遣いをもらってたってところかと。小平次は女衒ぜげんの真似事までしてたっていうんですから。それにしても水山って奴がどうにも雲隠れしちまったようで……」

 おきぬのことを捨てた小平次を恨む理由はわかるが、なぜおこんまで殺したのか。それがやっと仁助にもかわるところだった。小平次におきぬを紹介したのはおこんで、元凶たるおこんも二人は恨んでいたのだろう。

「雲隠れも困るが、もしかしたら二人に捕まっているのかもしれん……」

 主催者たる水山は書画会に訪れるはずだった。

 仁助が考えているのは、一番に着いていた正三と福太郎がおこんを殺害しているところを水山が見てしまい、詐欺をしているくらいの人間だ、そのまま番屋に駆け込もうとはせず、二人を強請ゆすろうと思いついたのかもしれないということだ。最悪の場合、強請ろうとして逆に捕まってしまったのかもしれないとも。

「旦那、あれは……」

 舟は業平橋を通って横川にいたる。左手には小梅村の風景が広がっていた。

 伝吉が指差したのは、小梅村を駆けている兎之介であった。


 兄と別れて一とき半、うたの身体はいつの間にか縛られていて、小屋の中に拘束されていた。

 朦朧もうろうとする意識の中で目が覚めて、殴られた頭がずきんと痛む。抵抗する気力がなかったのは、肩で息をするほど高熱にさいなまれていたからだ。

 小屋の前では、うたを殴った福太郎と正三が話し込んでいる。

「福ちゃん、あのままだと二人とも死んじまう……もう恨みは晴らしたはずだ。おきぬだってきっと浮かばれて……」

「水山を見られた以上、生きて返すわけにはいかねぇよ」

 うたが小屋に入ったとき、そこには捕らわれの身である水山がいた。見られてしまったという焦燥しょうそうと同時に、何とかしなければという思いで、福太郎の手はうたに伸びていた。

 でもと追いすがった正三の目に、あせった調子で駆けてくる兎之介の姿が映った。

「若い娘を見なかったか……探してるんだ。俺の妹で……」

 荒い息をそのままに、無我夢中で兎之介は聞いている。

「まさか、あの子の……」

「知っているのか……!どこに、うたはどこにいるんだ!」

 正三の胸倉をつかみかかっていた兎之介を、福太郎が引きはがす。だが福太郎は正三を助けただけではなく、自分たちの犯行が露見してしまうのではと、危機意識にとらわれていた。

 そのままみ合いになって、小屋の中に転がり込んだ。

 兎之介が福太郎から距離をとって後ろに引きさがれば、探し求めていた人を見つけた。

「うた……!てめぇら、大事な妹に何しやがる!」

 迫っていた福太郎の動きが、ぴたりと止まった。

 ぐったりとしたうたを抱え上げるその姿に、自分を重ねてしまったのである。

 そのとき、兎之介のあとを追っていた仁助と伝吉も駆けつけていた。二人が小屋に踏み入った瞬間……目の前がぐらりと揺れた。揺れているのは地面ではなく、小屋そのものだ。

 きしむ音、農道具が倒れる音、誰かが小屋を破壊しているようなすさまじい音が入り乱れていた。今度こそ、生きる誰かでも、自然が起こした音でもなかった。

 やがて、音は止んで……

「誰かがずっと叫んでる……お兄ちゃん、やめてって……」

 兎之介の腕に抱かれているうたが、か細い声で告げた。

 その声は、うた以外の誰にも聞こえていなかった。でも、放心したように座り込む福太郎にも、かたわらに寄り添った正三にも、声の主は痛いほどにわかった。

「おきぬ……」

 いつしか女の叫び声は聞こえなくなった。

 うたは兄の温もりを感じながら目を閉じる。苦しくて、起きていられない。熱のこもった部屋に閉じ込められたことで、うたの身体は衰弱していった。それからどうなったのかはわからない。再び目覚めたときにはかえるの鳴き声が聞こえて、夜風が気持ちよかった。

 ぼんやりと、ここはどこかと考えてみる。見知らぬ天井に、自分の部屋ではないとさとった。

 ぎゅっと手をにぎられた感覚がした。この感覚はいつもみたいに痛くはないけれど、覚えている。

「ごめんよ……」

 泣きそうな声は、うたに届けられた想いだった。

 神隠しにあった妹は本当の妹ではないと親に聞かされて、ならばもう一度、神隠しにあえば本当の妹を返してもらえると思ってしまった。

 だから妹を誘い出して歩いた雑踏の中で、手を離した。妹が追いつかないように全速力で逃げて、後ろに妹の姿が見えないのを確認する。

 どうして後から気づいてしまったのだろう。本当は、はじめから知っていたのに……

 妹を偽物と間違えるはずがない。霊が見えるようになっていても、帰ってきたのは他の誰でもない妹だ。

 迷子になってしまった妹は、泣きじゃくりながら家に帰ってきた。

 自分はとんでもないことをしてしまった。妹の泣き声は、自分を責めているようだ。あれから妹の姿を見るたびに罪の意識に苛まれて、うまく話せなくなってしまっていた。

 ずっと謝りたかった。昔の愚かな自分がした仕打ちを、いまだに許してはいない。

 大切にしようとすればするほど傷つけてしまう。ひねくれた自分は逆のことを言う。もう離してはいけないと思えば、妹の手を強く握ってしまうのだった。

 まだ、力の加減はわからない……

「兄さま、ありがとう」

 うたはとっくの昔に兄のしたことを許している。本当は甘えたいけれど、甘えられずに何も言えなかった。

 大事な妹と言ってくれた声は、やっと届いた。


 数日後、小平次とおこんを殺害した福太郎と正三は裁かれた。二人を殺害した福太郎は斬首、実際に殺害はしていなかったとして正三は島流しの刑に処せられた。

 白洲しらすでの二人は落ち着いた態度で、神妙であった。妹が死んでどうしてもやるせなく、原因である二人を殺すことが生き甲斐であったと福太郎は述べている。うたと水山を捕らえたのは、犯行が露見することを恐れた、自分勝手な理由だったとも、正直に打ち明けていた。その福太郎に協力した正三は、秘かにおきぬに想いを寄せていて、つまらない男に引っかかって命まで落としたおきぬが可哀そうで、二人を恨んでいたということである。

「俺はおきぬの想いがわかっていなかった。だからあの世に行っても会えないかもしれない」

 と、福太郎は虚ろな目で言っていたのを、仁助は覚えている。

 仁助たちが体験した本当の心霊現象は、きっとおきぬが起こした現象である。兄に罪を背負ってほしくなかった。その思いが伝わらずに、福太郎は二人の人間を殺傷し、あまつさえ罪が裁かれることにおびえてしまったのである。

 せめてあの世で妹に会えなければ救われないだろうと、仁助は雲一つない青空を仰ぎ見る。

 ちなみに水山は、仁助の予想通り、おこん殺害の現場を目撃して二人を強請ろうとしたところを捕まり、ずっと小屋の中に閉じ込められていたそうだ。幸いにも命はとりとめたが、次は水山の白洲が開かれることとなる。今まで行った詐欺行為が裁かれる番だった。

「旦那、聞いてくださいよ。奇妙なもんを見ちまったんで……」

 こんな真昼から怪談話でもするつもりかと、後ろから現れた伝吉に、仁助は話半分に聞いた。

「ついさっき花鳥屋の前を通ってきたんですがね、兎之介の奴がすげぇ愛想よく客に応対していやがるんですよ」

 何か悪い物でも食べてしまったのではないかと、伝吉は本気である。

「良いことでもあったんだろう」

 沙世が彼を天邪鬼と評した理由が、仁助にも納得できた。

 うたが西崎に詰め寄られているとき、仁助が先に入っていなかったら彼は西崎に殴りかかっていただろうと、すべてを見ていた沙世が言ったものである。

 さすがにうたも、天邪鬼に気づいている頃だろう。

「うた」

 ちょうどうたのことを考えていれば、誰かと待ち合わせている様子のうたに出会った。

「もう体調はいいのか?」

 捕らえられたうたは救出された後、花鳥屋まで連れて帰れる身体ではなかったので、しばらく小梅村にある親戚の家で療養していた。熱もすぐ引いたと聞いて、時間の後処理に追われていた仁助は一度しか見舞いに行けなかったのだが、うたの側から片時も離れないでいた兎之介ににらまれたことを、頭の片隅で思い出した。

「はい。また茶屋巡りができます」

「ところで誰と……」

 待ち合わせているのかと問おうとして、仁助は言葉を止める。

 なんとうたが待ち合わせていたのは、沙世であった。

「私と関わると不幸になってしまうって言ったんです。でも……」

「不幸になんかならないわ。それに、うたちゃんといると楽しいもの」

 無邪気に告げる沙世は、お世辞を言っているわけではなさそうであった。もとより、お世辞の上手な人ではない。

「さ、行きましょう」

 お仕事頑張ってねと、仁助と伝吉に頭を下げて、二人は人混みに紛れていった。

(何だかなぁ……)

 友達のような、親子のような後姿に、これも合縁奇縁かと仁助は心の中でつぶやいた。

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