三
(しまった……)
うたは
おこんはつい先ほど、死体で見つかったばかりである。つまり、今うたが見ているのは、おこんの幽霊ということになるのだ。
すでにおこんの近くまで駆け寄ってしまった後で、意味もなく、うたは触れてみる。やはりその手はおこんの身体をすり抜けるだけ。動揺しているのは、後ろにいるであろう沙世にどう思われているかが怖かったからだ。
誰もいないはずの場所に亡き人の名を呼ぶうたを見て、
良い人だから、沙世に幽霊が見えることを知られたくなかった。
「
見間違えたなどの言い訳もできず、その場に立ち尽くすうたの耳に、おこんの声がしかと聞こえた。そしておこんは、
ただの独り言か、それともうたに対して
「何をしている」
うたの思考を停止させた
細くつり上がった瞳が、冷たくうたを
「おこんと言っていたが……隠し立てをすると、容赦はしないぞ」
折らんばかりの力で、西崎はうたの腕を
痛くて、怖くて、うたは声が出せない。
話せたとして、おこんの霊が見えると言ってしまえば、そのとき骨は折れてしまうだろう。仁助とは違う……うたは顔面蒼白になりながら、そう感じていた。
慌てて西崎を制しようとしたのは沙世だった。うたの細くて白い腕が、何より恐怖に
「彼女が何をしたというのです。殺人事件に出くわして、正気でいられるわけがない。追い詰める理由などないはずだ」
口調こそ普段の接し方と変わらなかったが、手に込められた力も、怒りを含んだ眼差しも、普段の仁助からは程遠い。
はらはらと沙世は成り行きを見守っていたが、やっと西崎がうたの手を離した。それからはどちらとも何も言わずにその場は収まって、西崎は広間へと戻っていった。
(お気楽者が、あんなに怒るとは……)
仁助につかまれた腕を見れば、くっきりと赤い痕となって残っていた。
少し空気はぴりりとしてしまっものの、うたと沙世も聴取を終えて、一同は帰されることになった。西崎の感情が
「……神山さん。悪いがこの事件、貴方が担当してくれませんか」
「え?」
と、仁助は正直に声を漏らす。あんなに捜査の指揮を振るっていたというのに、どうして今さら自分に任せようとしているのか……
「散々偉そうにしてたくせに、うちの旦那に押しつけんじゃねぇよ!」
伝吉が
「私は他の事件の捜査で忙しい。聞けば、神山さんが捜査している別の事件と類似しているそうじゃありませんか」
「そうですが……」
なぜ急にと問う隙を、西崎は与えてはくれなかった。たしかに仁助が担当している小平治の事件と類似していて、おこんの事件も担当するのは筋が通っているし、仁助も捜査をするつもりだが、急変した西崎の態度には疑問を覚える。
「けっ。何が
西崎が去った後、伝吉の彼に対する印象は散々であった。
ともかく、事件を捜査することに変わりはない。西崎からは丁寧に記された聴取の記録をもらっていたので、そこは助かるというもの。日も暮れかけていたが、もう少し現場を調べてみようと決めれば、うたに声をかけられた。
「神山様……」
「うた、帰るぞ」
立ち止まろうとするうたを兎之介は引っ張っる。
「今日は腕をつかまれてばかりだな」
ばつが悪いのか、兎之介は手を離してあげた。だが、その顔は早くしろと仁助に向けている。
「明日、小伝馬町まで来てほしい。無理にとは言わん」
「あんた、妹を疑ってんのか」
やはり大店の若旦那にしては口も愛想も悪いと、仁助は思った。うたは四六時中この顔に睨まれているのかと、哀れになってくる。
「安心しろ。事件のことで手伝ってほしいことがあるだけだ」
「わかりました。私にできることなら……」
あっさり承諾したうたに兎之介は不服気で、何とも微妙な関係の兄妹は家路に就いた。
仁助が帰宅したのは、沙世が帰宅するよりもずっと後の刻限である。遅い
母が切ってくれた
小平治が殺された事件とおこんが殺された事件、奇怪な死体から、二つの事件は同一犯という可能性が高い。髪の毛が——おそらく凶器を首に巻きつけるという演出をしてみせた訳は、犯人が人間であるとすれば、幽霊による殺人であると仕立て上げたかったのだろうか。だが、そうだとすれば妙な点もある。小平次とおこん、殺し方が同じでなければ、同一犯だとはまず考えなかっただろう。二人に接点があったのかすら、いまだにわかっていない。わざわざこの二人は関係がありますと教えてくれたようなものだ。それとも関係のない二人なのか……だとすれば、あの奇怪な死体にしてみせた理由がわからない。事件を解く鍵は、死体演出の訳にあるに違いない。それともう一つ……
おこんの事件のときに、複数人が見ている幽霊だ。
(俺の勘が正しければ、うたは幽霊を見ていない)
あのとき幽霊を見なかったのは、うたと沙世だけ。二人は幽霊を見たとは名乗りを上げなかった。沙世については本人にも確認したので間違いない。
霊視の能力があるうたに見えなかったとしても、複数人の証人がいる以上、幽霊は存在した。うたには見えなかった幽霊……明日うたに会えば、何かがわかる気がした。
と、ここまで整理しても、肝心の犯人の見当すらついていない。小平次の住んでいた長屋に聞き込みをしても、小平次の家に入った者の目撃者はいなかった。おこんの事件にしてみても、外部の犯行である。西崎に言われて周辺も探索してみたが、痕跡すら残っていなかった。現時点で犯人の手がかりはないということである。
犯人が幽霊だとすれば証拠はないが、人間の仕業だとすれば、必ずどこかに痕跡があるはずだ。
特に意識したわけではないが、父もよく縁側で、思索に
「旦那様そっくり」
重なる姿があったのだろう、沙世が追加の西瓜を持ってきて呟いた。
何か話したいことがあるのか、西瓜を食べ始めた沙世はその場を動こうとしない。
「あの子、大丈夫かしら。何も乱暴することはないのに……」
沙世が指しているのは、もちろんうたのことである。西崎に詰め寄られたときの恐怖、痛みを思い出してしまうのではないかと、これは仁助も心配するところだった。
「西崎さんも西崎さんだが、あんな恐い兄がいたのでは、家にいても心休まらないだろうに……」
あれが妹にする態度かと、うたが恐いと言っていたのも
「ふふっ。あの人は妖怪なのよ」
「妖怪……?」
素っ頓狂な沙世の言葉の真意を、このとき仁助はまだ知らなかった。
「妖怪、
翌日、仁助がうたを呼び出したのは、小伝馬町に住む絵師の家である。絵師の名は
眼鏡の奥の丸い目をくりくりさせ、うたと沙世が話す特徴を聞きながら、環游は筆を動かしている。環游が描いているのは、おこんの人相書きだった。
おこんについては、その名前しか判明していない。住まいなどの一切が不明なので、人相書きで情報を得ようと、おこんと面識のあるうたに、人相書き作成の手伝いをしてほしいというのが目的であった。
死体、つまり実物を見るのが手っ取り早いのであるが、おこんの顔は絞殺されたときの表情で、とても見れたものではないし、環游も死体を見るのを嫌がっている。この絵師、かなり
「どうして母上まで来たんですか」
「少しは仁助の役に立ちたいじゃない」
人相書きの作成ならうたと沙世、どちらでも問題はなく、二人で協力してくれるのならばそれに越したことはないが、うた一人を呼び出したのには理由がある。幽霊のことを尋ねてみたかったからだが、沙世がいたのでは聞きにくい。うたの霊視の能力については、人に言いふらしていいものではないのだから。
「まあ、おこんさんだわ」
沙世が感嘆したのは大げさではない。出来上がった人相書きは、生前のおこんそのものであると、うたも人相書きを見てつくづく思う。
調子が出てきた環游は……
「いま売り出し中の京斎環游。ぜひ御
と、愛嬌のある顔をしてみせた。
「旦那から小遣いを稼ぐか、あぶな絵で食いつないでいるだけじゃねぇか」
「あぶな絵……?」
聞いたことのない名称に、うたが小首をかしげる。
「嬢ちゃん、あぶな絵っていうのは……」
環游が自分の書いた絵を取って見せようとするのを、仁助が立ち上がって止める。うたはあぶな絵の正体がわからないまま、環游の家を後にした。
「あの、神山様」
仁助もうたに聞きたいことがあったが、うたも昨日言いそびれていたことがある。うたは意を決したように言葉を
「書画会で皆さんが見たという幽霊は、私には見えませんでした」
ただ見えなかったという意ではない。霊視の能力のあるはずの私には見えなかったと、うたは告げたのである。
沙世に変に思われたらどうしようと不安になりながらも、懸命に伝えてくれている姿がいじらしかった。うたの能力を知ってか知らずか、沙世はまったく奇異にも感じていない。
「やはりな」
「でも、おこんさんの幽霊は見たんです。もしかしたら私、お知り合いの方しか霊が見えないのかもしれません。小さい頃から、知っている人の霊しか見えなかったから……」
そう言ってうたは
わざわざ呼び出したのだって、幽霊について聞きたかったからだろうとは検討がついていた。役に立たないとわかれば、せっかく自分のことを気にかけてくれている仁助に見捨てられてしまいそうな不安に襲われた。
「仁助」
穏やかな声とともに、うたの肩に優しく手を置いたのは、沙世だった。
「今日うたちゃんを呼んだのは、彼女の能力をあてにしてたからなの?」
図星だった。能力についてはあまり触れてはいけないと
うたの孤独な心に寄り添ってあげたいと思っている。けれど、うたを利用しようとしていたことに変わりはないのだ。
「すまなかった……」
「そんな……神山様は何も悪くないです。私は自分の意思で、神山様のお手伝いをしたいと考えているんですから」
そこには自分が存在できる居場所がほしいという気持ちがあった。でも、それだけではない。
「俺ぁてっきり、別の意味で会いたかったのかと……」
「ふざけたことを抜かすな」
「むきになるところが怪しいというか、何というか」
「まあ、そうだったのね」
「母上まで
外の世界は知らないことが多すぎる。仁助たちの感情にまだ追いつけないけれど、疎外感はなかった。
この人たちは時間をかけて待ってくれる。夏の強い日差しが心地よく感じてしまうほどに、取り巻く空間が心地よかった。
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