うたはいつものように、裏口からこそりと出ようとしたところで、兄に見つかってしまった。

「お前もこりないな。親父たちにばれたら、また座敷牢の騒ぎになるかもしれねぇよ」

 先日、うたはある事件に関わり、番屋に連れていかれたことがあったのだが、その件があって両親は、うたを座敷牢に入れた方がよいのではないかと、一度話が持ち上がったものだ。どうなるのかと、うたは気が気でなかった。もしも座敷牢に入れられてしまったら、すぐに牢を蹴破りに行くと言ってくれた仁助の言葉を励みに過ごしていたものの、いつの間にか杞憂きゆうで終わっていた。だからというか、兄の言葉を借りるならこりずに外へ抜け出していたのだが、今日は運悪く、兄の目に留まってしまったようだ。

「兄さまには迷惑かけない……」

 うたは兄が恐ろしくて振り向けなかった。兄はいつも恐い。会えば睨まれる。ぐいと手を引っ張る力が痛い。

 兄は自分が邪魔なのだ。いや、邪魔だと思っているのは兄だけではない。父も、母も。神隠しにあったときに、別人に取り替えられたと家族からは思われている。姿形はうたであって、中身はうたではない。霊が見える、気味の悪い娘。

 そんな家族のことをおもんぱかれば、兄のような態度も納得した方がいいのかもしれないとうたは自分に言い聞かせているけれど、とても空虚なものだった。

 兄の舌打ちを背に受けて、うたは裏木戸を抜けた。

 うたがその足で向かったのは、神田須田町で開かれる書画会だった。書画に興味があるというわけではなかったのだが、最近知り合った——よく茶屋で顔を合わせるようになったあんみつ仲間とでもいうのか、おこんという女性に誘われたのである。

 書画会はすでに空き家となっている、かつては大店の別宅であった所をきれいにして開催されるという。水山という絵師の書画会で、おこんはその絵師と知り合いだそうだ。一度は書画に精通していないからと断ったのだが、見るだけでもいいので顔を立ててくれと言われ、それならとあんみつ仲間のお願いを聞いた経緯であった。

 うたが着いたときには三十代くらいの二人の男がいて、あとからまた婦人が一人、老夫婦が二人ほどやって来たが、それで全員のようだ。三十畳の広間には、所狭しに書画が飾られていて、水山はまだ姿を見せておらず、参加者は自由に見物しているといった有様である。で、うたも作品を一つ一つを見ていたのだが、待てども水山という絵師は来ない。他の見物人たちも、まだかまだかと口にし始めていた。

「暑いわね」

 この季節、じっとしているだけで汗が湧き出てくるというもの。その状態が長時間続けば、具合も悪くなりかねない。

 他人ばかりがいる中で話しかけられたうたは、少しだけほっとした。

「はい……書画のことをわかならいのに来たから、ぼーっとしているだけで……」

 うたは見ず知らずの、穏やかそうな婦人に答えた。

 実はこの婦人が仁助の母、沙世であることはまだ知らない。

「あら、私も素人よ。知人に誘われて来てみたの」

 といっても、知人と呼べるほどの間柄ではなかった。

 部屋に飾る書画を新しい物にしようと、骨董屋をうろうろしていたところを、沙世はある人物に声をかけられた。今度、知り合いの絵師の書画会が開催されるから来てみないかと。

「もしかして、おこんさんに?」

 貴女もおこんさんに誘われたのと問われ、うたはこくりと頷いた。

「てっきりおこんさんも来ると思ったのだけど……」

 沙世がそう言い切るのと同時に、がたんという音が会場に響いた。

 皆が一斉に、音のした方を見やる。

「花瓶が……」

 うたより先に会場にいた男の一人が、倒れている花瓶に近づいてみる。地震もないのにふいに倒れたと、不思議そうに皆を振り向いた男の顔がそう物語っていた。

 しかし考える間もなく、今度は耳を塞ぎたくなるほどのけたたましい足音が去来した。

 天井裏を走り回っている——そんな音だ。

 うたと沙世は思わず身を寄せ合う。他も知人同士で身を寄せ合っていた。

 何が起こっているのか、頭の中は不安に駆られるばかりで、やっと、音が鳴り止んだときには、動悸が激しかった。

 ほっと、一息ついたとき、またどんっという音が聞こえて、うたはびくりと身体を震わせた。今度は広間に隣接している縁側の先の、外から音がしたようだ。

 だが、誰も障子戸を開けようとしない。花瓶が倒れ、足音が聞こえ、次は何が起こったのか……開けてはいけないような、その先には不吉な何かがあるような気がしていた。

 息をのむ。先に動いてくれたのは、女、老夫婦ばかりの中にいた男であった。

 えいと、男は一気に障子戸を開け放つ。次いでひっと、情けない声を出して、男は尻餅をついた。

「どうしたんだい……?」

「あ、あそこに……幽霊が……」

 男の指さす先には、誰かが地面に倒れていた。

「あれが幽霊だっていうのかい?」

「違ぇ……さっきまではいたんだ。若い女の幽霊が、恨めしそうに……」

 動揺する男を連れの男が宥めて、それよりも倒れている人を助けなければと、裸足のまま外に出た。幽霊を見たという男も腰が引けたまま、倒れている人物の元に向かう。うたも沙世も向かおうとして、二人は同時に、倒れているのが二人を書画会に誘ったおこんであるのに気づいた。


「まったく、嫌になりますよ」

 とこぼしている伝吉は、神田須田町の長屋で奇怪な死体で見つかった男の素性を調べたのを、仁助に報告していた。

 伝吉が嫌になるのも無理はない。

 殺された男、小平次はかなりの遊び人であった。騙した女は数知れず、これでは恨んでいる女も多いだろうと思ったのだが、むしろ逆で、騙された女は皆、小平次のことを悪く言わないのだ。

「騙された女はごまんといるってぇのに、あの人は悪くない、一度は殺してやりたいと思ったこともあるけど、彼を想うとそんなことできない……とぬかしやがる」

 多重交際はお手のもの、金を貢がせる、酷ければ遊里に売り飛ばす。そんなことをされてなお、いくら顔が整っているとはいえ、伝吉には理解できない。

「女というのはよくわからん」

 仁助にしても同じで、一丁前に言ってみせる。

 小平次の所業は長屋の住人には知れ渡っていて、首に長い髪の毛が巻きついて死んでいたものだから、誰もが小平次が泣かせた女が、化けて復讐したのだと言ったものである。まさか幽霊が復讐したとは……と考えるのが普通だが、幽霊の存在を認めている仁助は、その可能性を拭い切れてはいない。しかし恨みを抱いた誰かの犯行という可能性もあるので、小平次を恨んでいるであろう女を探してみたのだが、肩透かしを食らってしまった。

 さて、これからどうしたものかと思案していると、仁助は番太に呼び止められた。またしても小平次の殺人を知らせた、神田須田町の番太である。

「旦那……また殺しみたいで」

 神田須田町で開かれていた書画会で殺人事件があった。しかもその死体は……

 番太の言葉に、仁助たちは急いで現場へと駆けた。

 今は空き家となっている屋敷の庭に横たわる、女の絞殺体。一目見て、仁助は小平次の事件との類似性を確認した。

「これは……」

 女の首には長い髪の毛が巻きついている。小平次と同じように……

「よかったわ。仁助が来てくれて」

 聞き慣れた声に顔を上げれば、見知った顔が二人もいるから驚きだ。

「母上……!それにうたまで……」

 うたにはそれで、仁助と沙世の関係がわかった。

「神山様の、母上様だったのですね」

「母上様だなんて照れるわ」

「照れている場合じゃありません。一体、何をしているんですか」

「旦那も身内でわいわいやってる場合じゃありやせんぜ」

「そうよ。まだ誰も帰していないから、中で話を聞いてちょうだい」

 すっかり沙世の調子に合わせる形となって、仁助は軽く途方に暮れる。

 殺人現場に母親と知人がいることは稀有なことで、小平次と同じ奇怪な死体に驚いていた心が、落ち着いてしまった。

「殺しですか」

 仁助が同心の顔に切り替えようとすれば、またしても知っている声が聞こえた。まだ知人がいるのかと声のする方を見ると、はっとしてしまった。

 ずんずんと向かって来るのは、御用聞きを伴った同僚にして同期の西崎兵馬である。

「てめぇら、横取りしに来やがったのか」

 うちの旦那の方が先だと、つかさず伝吉が険しい声を上げる。兵馬に付き従う御用聞きの権蔵ごんぞうが、同じく険しい口調で言い返した。

「殺しがあるって聞いたから駆けつけたんでぃ。お前んとこの旦那より、うちの旦那の方が頼りになるぜ」

「何だと!」

「伝吉、よせ」

 仁助は今にも殴りかかりそうな伝吉を制して、自分も駆けつけたばかりであると西崎に告げる。

 主人をけなされたことに腹を立ててくれるのはうれしいが、人一人が亡くなっている以上、いがみ合っている場合ではない。しかも優秀な西崎が来てくれたのなら万々歳だと、仁助はそんなことを考えていた。

 殺されたのはおこんという名の、うたや沙世を書画会に誘った女である。書画会には姿を見せていなかったのが、突然、死体として現れた。

 とりあえず、おこんの死体は別室に安置して、書画会に参加した全員は広間に集め、一連の出来事を話してもらうことになった。

 書画会の参加者は主催である水山という絵師を待っていたが、一向に姿を見せない。まだかまだかと並べられた書画を見物していると、花瓶が倒れ、続いて天井裏の足音が聞こえた。

「足音がしたとき、全員が広間にいたのか」

 仁助は相槌あいづちを打つようにつぶやいた。あまりにも騒がしく、不可解な音に、誰もが知人同士で身を寄せ合っていた。つまり、互いが互いに広間にいたことを証明しているわけである。

「それで、幽霊がいたというのは……」

 思わずうたに視線を向けようとして、仁助は無理矢理にらした。

 うたは幽霊が見える。しかしそれを知っているのは仁助と伝吉だけで、わざわざこの場で広めるほど無粋ではない。しかも今回は、うた以外の人物が幽霊を見ていたのだった。

 足音が鳴り止み、次には外で一度、大きい音が聞こえた。勇気を振り絞って障子戸を開けた男が、その幽霊を目撃したのである。

「たしかに見たんで……あの女の横に立ってました」

 白装束を着た恨めしそうな若い女だと、男が補足する。

 本音を言えば、うたにも見えたのかと聞いてみたい。伝吉はこらえきれずにうたをちらちらと見ている。何となく悪いと思いながらも後で聞いてみようと、これは事件に関わることだからと、仁助は自分に言い聞かせた。

 だが、幽霊を見たのは一人だけではなかった。

「俺も‥…」

 と言ったのは、霊を見た男の連れである。

「私も、厠に行ったときに……」

「儂も……」

 と続けて言ったのは、老夫婦である。

「ふざけるな!さっきから黙って聞いてりゃ、幽霊だなんだとほざきやがって」

 権蔵がそう声を張り上げれば、老夫婦は縮み上がる。でも、本当に見たのだと男が言っても、聞き入れようとはしない姿勢だった。

「幽霊はともかく、死体が現れたときには皆がここに集まっていた。つまり、外部の犯行か……」

 とまとめたのは西崎である。

 そんなことはうちの旦那も気づいていたと言いたげな伝吉と、これみよがしに西崎を立てる権蔵とで、静かないさかいが勃発ぼっぱつしていた。

 まあ騒ぎ立てないだけいいかと、仁助は事件の思索にふける。

 首に髪が巻きついた死体は、おそらくその髪で絞殺されている。幽霊の存在は認めるにしても、はたして幽霊が生きる人を殺すことができるのか。はなはだ幽霊の殺人とは懐疑的に感じてしまうが、人の仕業だったとして、わざわざ奇怪な死を演出したのには訳があるはずだ。しかも同じ死に方をした小平治とおこんの事件は繋がっている。小平治の事件の探索が行き詰まっていたところで、光明が射した気がした。

「うた!」

 突如乱暴に、どたどたと広間に踏み込んできた男は、うたを見るなり彼女を引っ張り上げる。皆が目を丸くして、成り行きを見ていた。

「また事件に巻き込まれやがって……早く来い」

 あ、と仁助は男の正体を思い出した。一度だけ見たことがあるうたの兄、兎之介だと記憶の片隅をよみがえらせる。兄さまは恐いと、いつからしていたうたのぼやきまで思い出したところで、仁助より先に西崎が言った。

「まだ帰ってはいけませんよ。神山さん、私は個別に話を聞くから、貴方は犯人の痕跡が残っていないか外を見て来てください」

「何であんたが指図して……」

「伝吉、行くぞ」

 そもそも事なかれ主義の仁助である。不服気な伝吉を引っ張って、その場を後にした。

 書画会の参加者は、全部で六人である。幽霊を見たのは中之郷横川町に住む正三しょうぞうで、友人の福太郎と二人で参加していた。老夫婦は神田紺屋町に住む五十八いそはちとおとめの二人である。そしてうたと同心の母、沙世がすべてであった。

 所も歳もばらばらな人物が集められた参加者を、西崎はそれぞれ一緒に訪れた組ごとに、素性などを丁寧に聴取している。うたと沙世は単独で訪れたのだが、事件が起きたときは共に行動していたため、一緒に聴取をされることになった。

「兄さま、どうしてここに……」

「お前がいつまで経っても帰ってこないから、様子を見に来てやったんだ。ったく、お前はろくなことをしない。俺までここにつかまっちまって……」

「ふふっ……お兄様は心配になって来てくれたのね」

「ちが……俺は……」

 沙世の穏やかな微笑に、兎之介はたじろぐ。だが、うたの顔は曇ったままだった。

 妹が事件に巻き込まれたと世間に知れれば、どんな噂を流されるかわからない。ただでさえ、うたは呪われた子だという噂があるのだ。商売第一の大店の若旦那からすれば、今の状況はたまったものではないのだろう。ましてや、またうたが事件に関わっているとわかれば、両親の心労は絶えず、また不和が生じてしまうというもの。うたは溜息を吐きそうな兎之介の気持ちが、手に取るようにわかっていた。

「ねぇ、うたちゃん。一緒に厠について来てくれない?」

「実は私も……」

 うたと沙世の聴取は最後の番である。その前に行っておきたかったというのはうたの本音で、沙世の申し出に救われた。

 二人は西崎と権蔵に断って、庭に備え付けられている厠へと足を運んだ。

(ここにも幽霊が……)

 老婦人の証言によれば、厠にも幽霊がいたという。しかしうたはここに来てから一度も、幽霊の姿を見ていなかった。何人も目撃者がいるのに、なぜ霊視の能力のある自分には見えないのか。はじめて幽霊が見えないことを不安に感じながら、同時にあることを確信していた。

 今回は仁助の役に立つことはできない。それを思うと、情けなくて悔しかった。

 用を済ませて沙世と戻ろうとしたとき、うたは庭の縁側近くにたたずんでいる人の姿を見つけた。

「おこんさん!」

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