第89話 ヤンナの膝枕

 夕方、俺は自室で寛いでいた。


 ヤンナと別れて、三十分程度が過ぎただろうか。シャワーでサッと汗も流したし、多少疲れているのもあって、俺はうつらうつらと舟をこいでいた。


 そこで、コンコン、とドアがノックされたので、ハッとして立ち上がる。扉を開けると、部屋着っぽい可愛らしい服を着たヤンナがそこに立っていた。


「お、お邪魔します、ゴット様……っ」


「お、おう。いらっしゃい。……どうでもいいけど、どうやってその服で男子寮に侵入できたんだ?」


 言わずもがな、男子寮は女子禁制だし女子寮は男子禁制だ。大ルーン制作の時も思っていたが、今回みたいな緩い格好でも忍び込めるものなのか。


 そんな問いは微笑みと共にスルーされたので、俺は食い下がることなくヤンナを部屋に招き入れる。


 ヤンナはずっと赤面気味で、チラチラと俺を見ている。俺を見ては地面に視線を戻し、隙を見ては俺を見る。


 俺はじれったくなって言った。


「それで……ダメな風? 甘える? だけど、ヤンナ今回頑張ってくれたし、無茶なこと以外は何でも言う事を聞くつもりでいるんだけど」


「!? い、今なんでもって言いました!?」


「無茶なことはやめろよ」


 俺の念押しを聞いているのかいないのか、ヤンナは「はわ、はわわわわわわ、どうしましょう! 何でも、何でも……!」と両手で自分の頬を挟んで興奮している。


 ……これ大丈夫かなぁ。無茶し始めたら止めるか。うん。それだけ決めておこう。


 俺はヤンナがグルグルその場で顔から蒸気を上げながら回り始めてしまったので、放置してベッドに腰かける。


 にしても眠い……。俺はあくびをしながら見守っていると、ヤンナが俺の様子に気付いた。


「ゴット様……お眠なのですか?」


「ん……? まぁ多少は」


「で、であれば、その、ひ、膝枕などどうでしょうか!」


 赤面に蒸気を上げながら、ヤンナは果敢に提案する。なるほど。


「……俺多分、横になったら結構すぐに寝ると思うけどいいか?」


「はい。好都ご、もとい、ヤンナはゴット様に甘えていただくだけで嬉しいですから」


「お、おう……今好都合って」


「言ってません」


「言ってないかぁ」


 俺が首を傾げていると、ヤンナがベッドに乗り上げてくる。


 ベッドが軋む。ヤンナの軽い体重分だけベッドの表面が傾く。ヤンナはベッドの奥まで四つん這いで進んで、くる、と方向転換してから正座の体勢を取った。


「さ、どうぞ、ゴット様……♡ ヤンナの膝で、お休みください」


「……うん」


 顔を真っ赤にして受け入れ態勢を取られると、どうもこちらも小恥ずかしい。俺はしかし、ヤンナの要望だから、と我慢して頭をヤンナの膝に預けた。


 薄布越しに感じる、ヤンナの膝の柔らかさ、人肌の熱。俺も男だから多少興奮するかと思っていたが、眠気がそれより幾分か上回っていた。


 まぶたが重い。視界は、真上からのぞき込んでくるヤンナでいっぱいだ。


「ふふ、可愛いです、ゴット様……」


 言いながら、ヤンナは俺の頭を撫でてくる。ヤンナは母親になったら、子供にも同じことをするのだろうな、と思いながら、俺はされるがままだ。


 俺は心地よくて、そのまま、まぶたを閉じる。


「ゴット様、眠ってしまいましたか……?」


「……」


 俺は半分以上意識を微睡みに落として、ヤンナの声を聴く。まだ寝ていないと答えたかったが、半分以上寝ているので嘘になる。


「本当に寝てしまったのですか……? ゴット様……?」


「……」


 ヤンナの柔らかな声色が、俺の意識をさらに眠りに落としていく。ヤンナは俺の額に触れながら、静かに言った。


「ご、ゴット様……? お、起きないと悪戯しちゃいますよ……?」


「……」


 ……ん?


「本当に寝ちゃいましたか……? 寝てるふりは嫌ですよ……?」


 ヤンナは囁き声で何やら言っている。俺は何か変だなとぼんやり思いながら、特に反応せずにいる。


「はわ、はわわわわ……。ヤンナの膝枕で、本当にゴット様が寝てしまいました……! これは、これは千載一遇のチャンスです……っ!」


 何だかヤンナがわちゃわちゃしている気配があるが、俺は眠気に敗北しているので反応しない。


「では、失礼して……」


 額に、感触。チュッと音を聞く。


「……ふふ、ゴット様……♡ 好き、愛してます。あなただけを……♡」


 額の辺りに、何度も何度も感触がする。俺は八割寝ていて、何かをしているのは何となく分かっているが、嫌な感じがしないのでそのままでいた。


「ゴット様、可愛いです……♡ ヤンナの膝の上で、すっかり安心して……。最近はやんちゃになってしまいましたが、眠るとこんなに無垢なお顔……」


 吐息。


「少し前までは、ヤンナだけのゴット様でしたのに……。ライバルが増えて、心休まりません。反省してください。めっ」


 額にぺしっと指が当てられる。痛いと言うほどではない。だが、少し覚醒に近くなる。


「―――ゴット様は、きっと英雄にお成りになるのですね。いえ、勇者ですから、もう英雄なのでしょうか。でも、きっとこれから、もっとあなたは遠くに行ってしまう」


 ならば、とヤンナは言う。


「ヤンナは、心に決めましょう。ヤンナは、未来の皇帝たるゴット様だけの呪術師となります。あなたの影となり、あなたの暗部を一手に引き受けます」


 それが。


「それが、ヤンナが『呪具蔵の呪術師』たるレーンデルス伯爵家に生まれたことの意味、……宿命だと、思うのです」


「……ヤンナ……?」


 俺はまどろみの中に僅かに浮かんだ意識で、ヤンナの名を呼んだ。おぼろげな視界の中心で、暖かく微笑むヤンナの顔が見える。


「……起きてしまわれましたか? ゴット様」


「ん……膝、重くないか、頭……」


 俺がヤンナの膝を案じて言うと、ヤンナは少しだけポカンとしてから、愛しげに俺の頭を抱きしめてくる。


「どうして重いことがありましょうか。愛しい人の重みは、ただ愛おしいばかりです」


「ん……そ、か……?」


 俺は寝ぼけた頭で、ヤンナが満足そうだという事だけ聞き取って、また目を閉じた。ヤンナは再び俺の額にキスをして、そっと囁く。


「お休みなさい、ゴット様。あなたの眠りの安寧は、いつ何時も、このヤンナがお守りします」


 意識が遠のく。とうとう俺は、完全に眠りに就くのだった。

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