第19話 赤い


 まとめたゴミ袋を玄関脇に積み重ねる。

「明日、燃えるゴミの日、ちゃんと捨ててね」

「今捨ててこよーぜ」

「今何時?」

「二十一時」

「ゴミ捨ては朝六時以降」

「えー。めんどくせぇよ。つうか起きれねーし」

「そこは頑張って。遅くなったし、今日は帰るね」

「もうおせーし、泊まってけよ」

 私は自分を指さし、そしたらヤンを指す。

「別に友達なら泊まるぐらいあんだろ。嫌なのかよ‼」

「別に嫌じゃないけど」

「じゃあ決まりな‼」

 スマホで家に連絡。母親からは短く了解の返事が来た。相手のお家に迷惑をかけないようにね、とか、誰の家に泊まるの、とかそういう文言はなかった。

「腹減ったな。カップメン食おうぜ」

 カップメンでもいいけれど、冷蔵庫を開いてもハムとトマトしかない。化粧品が入っている。化粧水……はもしかして飲み物だったのかもしれない。実は中身がジュース。のわけないよね。

「どれにする?」

 カップメンならうどんがいいけれど、ラーメンしかない。しかも全部大きい奴。

「ハムとトマト、使っていい?」

「ん? 別にいいぜ」

 ガスの音とか、扉を開ける音とか、子供の声とか、団地ならそういう人の住む音が聞こえてきそうなものだけれど、ここはとても静かで、カーテンを閉めようと近寄ったベランダの向こうに明かりはなかった。何も見えない。何もいない。真っ暗。カーテンが閉められていて、明かりが遮られているというよりも、中身が真っ暗だった。

「お湯沸いたぜ」

 まな板も無い……。この人トマトもハムもそのままかぶりついてそう。包丁は、果物ナイフのみ。果物ナイフでハムを細かく細切りに、トマトはスライスする。

 細切りにしたハムをカップメンに乗せてもヤンの表情は変わらなかったけれど、スライスしたトマトを乗せたらあからさまに嫌な顔をされた。

「おいトマト入れんなよ‼」

「嫌いなの?」

「別に嫌いじゃねーけど」

「ちゃんと食べないとダメだよ。トマトに含まれるリコピンは体にいいからね」

「りっりこっリコピン? 何言ってんだお前。まぁ体の心配してくれてんのはわかったから食うわ」

 ご飯を食べ終えたら後片付け。

 カップメンなんて久しぶりに食べたけれど悪くなかった。

「んじゃ、風呂入るか」

 お風呂、どうしよう。体用のウェットティッシュをコンビニで買ってこようかどうか。

「おーい。何してんだよ。風呂入るぞ」

「私も?」

「なんだよ。嫌なのかよ。女同士なんだから別にいいだろ」

 そういう問題じゃないと思うけれど……。

 お風呂はレトロだった。風呂桶の近くに大きな機械。ハンドルが付いている。お風呂はもう湧いていた。お風呂が小さい。シャワーはある。

 ヤンが風呂桶に手を入れてかき回していた。

 人の家のお風呂は、やっぱり匂いが違う。

「あちちち」

「何してるの?」

「かき回してんだよ」

「なぜ?」

「お前、風呂入らねーの?」

「いつもシャワーで済ませてるから」

「はははっ。ちゃんと風呂には入ったほうがいいぜ」

 湯船には浸かったほうがいいの方が正解じゃないかな。それだとお風呂自体に入ってないみたいだよ。

「下が冷たいんだよ。だからかき回さねーといい温度にならねーの」

「そうなんだ」

「上は熱々、下は冷え冷え混ぜれば丁度いいっつってな」

 棚のようなでっぱりには沢山の容器。シャンプーとかコンディショナーとかリンスとか。シャンプーとボディソープ。ヤンとヤンのお母さんとで分けてあるのかな。

 体を洗ったら湯船に入るように言われて湯船に浸かった。ヤンが隣に入って来て狭い。足を折り曲げてお湯が溢れて零れていく。何も喋らないから静かで、天井から落ちて来た雫が、湯船でポチャンッと跳ねる。

「ちゃんと百まで数えるだぜ」

 ヤンはそう言って笑った。

 お風呂から上がったら、Tシャツとズボンを渡される。下着はそのまま。

 ヤンの部屋は襖の向こう。開いて、カーペット、薄ピンクの。

 ヤンの部屋だけ色づいて見えて、ぬいぐるみが無造作に置いてあった。

 たぬきとクマ……熊のぬいぐるみが多い。一つを拾い上げて抱えるとヤンの表情に少し変化。目を反らしている。口元が動いている。何かを我慢するような仕草。

「そればばあの趣味なんだよ。俺の趣味じゃねぇ」

 半分ほんとで半分嘘。多分今抱えているこの子がヤンのお気に入り。お気に入りのクマのぬいぐるみを取らないで欲しいと言う気持ちと、それを言うのが恥ずかしいという気持ちのせめぎ合い。

「そうなんだ」

 ぬいぐるみを棚の上に置く。

「違うからな。俺の趣味じゃないからな」

 カーペットがピンクだけどね。

「うん」

 それから他愛の無いことをヤンが永遠と話しはじめた。床に布団を敷いて、布団は一組しか無くて、別にいいだろと同じ布団に横になって、ヤンの話に相槌を打ちながら、やっぱり他人の布団は匂いが違うって、私の臭いが布団についたら申し訳ないと思いつつ、何時の間にか眠ってしまっていた。

 目が覚めたのは、真っ暗な闇の中。

 音がする。マグマが流動するような轟轟とした音。音なのか幻聴なのかも判断できないほど静かな……それでも私には轟轟とした音として聞こえている。

 朝、遠くから聞こえる無数の車の音のような。

 眠らない夜の街で聞こえる無数の音のような。

 耳を塞いでも通り抜けてくるその音は耳鳴りに良く似ている。

 隣のヤン、吐息、眠る時の呼吸。柔らかいのはヤンに抱きしめられているから。

 抱き癖がある。多分、いつもはクマのぬいぐるみ。温かい。身を寄せるとより温かい。ぬくい。口から洩れるミントの匂い。口先に近く……。

 音がして瞳孔が開く。

 ヤンの腕をかいくぐり立ち、カーテンをめくり、窓の外。世界は赤かった。夕日の赤に混じる、炎の赤。何かが動いている。大きな犬がいた。

 そっと足音を消して、玄関、靴を履いて、鍵をゆっくり回し、扉を開いて外へ出る。ドアノブを回したまま扉をゆっくりと閉め、回したノブが手の中で擦れるように戻っていく。

 階段を下りて広がる世界。視界に入る大犬。私が来たのに気づいてこちらを向いた。いつも家に来るオオイヌさん。ついてきてしまったみたい。

 燃えるような底。オオイヌさんの体に手を添える。

 杭に打ち付けられた、人。お腹のあたりから、地面に、縫い付けられている無数の人がいた。右に半回転、左に半回転。轟轟という音は、それらの口から洩れていた。それから逃れようと体を捻り、こちらへは逃げられないと体をひねる。赤い割には肌寒い。白い息、私はその光景をただ眺めていた。

 オオイヌさん、唸るでも吠えるでもなく、眠るように伏せた。

 赤い。

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