風船と希求
骨上げをしている時、母は泣いていた。何でなのかは分からないが、ただ泣いていたのだ。親族がジロジロとこちらを見るが、そんな事はどうでもいい。母がボケてしまったのは、父の恨みか。分からないけれど、母は呟き出した。
「ごめんなさい、ごめんなさい、反省するから
、許し、て……」
ほぼ聞こえない囁き声のようなものだから、周りには聞こえていなかったと思う。けれど、私はそれを聞いて、少しばかり戦慄していた。ただ、それが母なりの反省の形なら、私はそれで良いとも思った。
最後に葬式の終わりに精進料理を食べていると、紬が泣き出した。ミルクかと思ったけれど、どうやら違うらしい。額に手を当ててみると、凄い熱だった。それを母に伝えたら、母は帰ろうと言った。
——けれど……
母は認知症を発症していて、運転などできるのだろうか。調べてみたら、認知症患者は原則として運転免許の取り消しが規定されている。だから、仕方なく私たちは新幹線で帰ることにした。
やはり喪服で新幹線に乗り込むというのは、気まずいものである。最初は視線が気になっていたが、出発を告げるアナウンスと共に車両が走り出すと、それも特には気にならなくなった。車窓に流れていく景色が、今までの人生を回顧しているようだった。だけど、そんな平穏な日常にも、急展開があったりする。神様は悲劇のヒロインでこそドラマや映画を撮りたいのか、その深淵は沈める限界を探っているみたいだ。車内販売で来た添乗員に、母は凍りついたような顔をした。
「何しに来たんだよ」
急に、母が低い声で言った。私は驚きで、リクライニング目一杯に反ってしまったが、母は続ける。
「あんたがもっと早く妻だって言えば、あんなことにはならなかったんじゃない!」
認知症になった母でも、強烈な過去は記憶に残っているのだろうか。凄い形相で、彼女を睨んでいた。そして、彼女も彼女で応戦を始めた。
「あんたって本当に最低よね! 尻は軽いくせに言葉だけは鋭利なそういうとこ、大っ嫌いだった! このクソ売女!」
そう言ってアイスピックで母を痛めつけ始めた。それには母も、悲鳴を上げる。
「この添乗員、ヤバいわ!」
だけど、次の瞬間に母はまた、ぽかんとした顔になった。
「あれ、何の話だったかしら? どうしたの、添乗員さん?」
添乗員の彼女は面食らって、アイスピックを引くと、そのまま数秒間、母を凝視してから歩き出した。私は、真夏の遊園地に私たち家族を連れ出したあの男を思い返していた。きっと、彼の奥さんに違いない。
新幹線で見た夢では、眼科の視力検査の〝あの気球〟を覗き込んでいた。けれど、それは異常に曇っていて、私の目を通して覗いたものではないように見えた。そして、しばらくすると数十秒間、全体が黄色に染まり始めた。それは、あの夢の中で見た光景に違いなかった。けれど、その黄色も徐々に和らいで、それは曙光だったのだと知った。曇る視界に一瞬手が写って、少しだけ視界が晴れた。恐らく涙を拭ったのだ。そして、それでも見えずらいのは父の目を通して見ているからだ。
「気球がありますか?」
夢の中で、誰かに呼びかけられる。だが、それは私の脳内では、こうも変換された。
「希求がありますか?」
父は、どれだけ自分が沈もうとも、私たちの幸せを願ってくれていたのだ。
希求。祈り。
だけど、その希求の中に、母はいらない。
気球から、母が落下していくのを見た瞬間に目が覚めた。
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