さよならが夢なら

 葬式を近々執り行うことになって、母はホテルでも常に忙しなく準備をしていた。その生真面目さに逆に腹が立ってきて、眠っている母の口に枕を押し付けて、呼吸困難で失神させてやろうかと思ったこともあった。けれど、開始2秒くらいで怖くなってやめた。眠れない日々が深くなって、目の下にも刻まれたようにクマができた。そして迎えた葬式当日。私は不意に落ちた眠りの中で、母の犯した〝罪〟を見つめる。





 僧侶が読経を始めたタイミングで、目を閉じて手を合わせる。そして、父の冥福を祈っているうちに、私は眠りに落ちてしまった。その夢の中で、気球に乗る母は、ひたすらに暴言を吐いていた。


「早く仕送り送れよ」


「こっちは育児が大変なんだよ」


「こんなはずじゃなかったわ」


「どうせそっちでも仕事以外にやることないんだから、早くしろよノロマ」


そんな言葉を聞いているうちに、私は苛立ちを隠せなくなってきた。空の上が荒れ始めて、気球は風に煽られる。気球は既に下降を始めていて、浮力が足りなければこのまま死んでしまう。



だから私は、母を気球から突き落とした。



落ちていく母は、何ダースかの煙草の塊にしか見えなかった。ひたすらに醜悪で、同じ気球に乗船していたのが気持ち悪かった。空の表情も和らいでいき、私がおぶっていた紬もケラケラと笑い始める。これで、父は浮かばれただろうか。そんなことを考えていたら、ハッと目が覚めた。




 焼香をする番は、私の前にまで迫っていた。最初は喪主で、次に親族という順なので、そんなに長時間寝落ちしていたわけではないらしい。だが、母はなんだかビクビクと身体を震わせながら焼香をしていて、もしかすると私が夢の中で母に対してした行動が何か影響を及ぼしているのではないかと思った。その後ろ姿を眺めながら、私は順番に則して、焼香をしに行った。遺影の中の父が、母の方向をずっと睨んでいた。気のせいではないと思う。母が肩を震わせていた理由はそれで、その遺影の顔に影響を与えたのは恐らく私だ。私は心の中で呟く。


「お母さんを、今にも突き落としてやるからね」


その言葉を聞いて、幾分か父の表情が和らいだ気がした。私は静かに、席へ戻る。




 最後に弔辞を述べて式を締めくくるのが一般的な告別式の流れなのだが、母が父の棺に花を飾る時に、急に泣き叫んで出ていった。参列者が唖然とする中で、代役として私が、弔辞を読むことにした。正直、どんなことを言ったかまではもう覚えていない。だが、なんとなく父への感謝とそれを伝えられなかったこと、そして、母は父に対して無礼で、人間として接することのできない病に掛かっていたんじゃないかと皮肉って締めた気がする。しかし、それが皮肉とは伝わりきらず、本気で母の精神状態を心配する親戚がいたことは鮮明に覚えている。そして、父がとうとう出棺して、火葬場へと送られる。逆らえない流れに沿いながら、私たちは一歩ずつ前進していく。母は前進を諦めたのか、それともまた戻ってくるのか。それは分からないままだったけれど、私はバスに乗り込んだ。




 火葬場に着くと、挙動不審な母がいた。ペットボトルを持っているが、なぜ私たちよりも先に来ていたのだろう。そう思ってバスを降りると、母は言った。


「お父さんに謝ろうと思ってね」


「何をだよ」


私が、母の昔の父への態度と同じように返したら、母は一瞬驚いた顔をして答えた。


「言動の全てよ」


私はわざとらしく目を丸くして言った。


「えぇ、お母さんって罪悪感とか人間らしい感覚ああったんだ」


私が投げつける言葉に、母はいちいち傷ついているように見えて、まるで人が変わったようだった。


「それで、お父さんはいつ来るの?」


「何言ってんの、今来たんだよ」


私がそう答えると、母はきょとんとした。


「でも、バスの中にいないじゃない」


「いや、だから、これはお父さんの……」


言っている途中で、気づいた。母はもう、いつもの母ではなく、老人の母になってしまったのだろう。高校の保健体育の授業で、習ったことがある。認知症は、急激に進行することもあるのだ。


「うん、えっとね、遅れて来るらしいよ。まずお母さんは、親戚の人が亡くなっちゃったから火葬をするの。だから、その骨上げを手伝ってくれればいいから」


阿呆みたいに口を開けているけど、母はそれを理解したようだ。


「わかったわ」


母と共に、火葬場へと足を踏み入れた。

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