失われた家族

 検視が終わったという父と対峙したのは、次の日である。父は萎んだ風船のような、力ない顔をしていた。全然似合っていなかった丸眼鏡は外されていて、優しそうだった目も思い詰めたような色を滲ませていた。そして、首には痛ましい縄の跡。冷たくて暗い部屋の中で、不意にボロボロと泣き出してしまった。それは本当に自然な流れで、やがて海になる滝のように、とめどなく溢れ続けた。やっと落ち着いてきた涙を拭いて、泣き腫らした目で母を見たら、ただ呆然とその亡骸を見つめていた。どんな気持ちをしているのか、全く読み取れない横顔だった。そんな母に腹が立って、平手打ちでもしようかと右手を上げかけた。けれど、その手を温かい手で握られた。父を見ると、さっきのまま変わったところはなくて、私はそれが気のせいだったのだと気づいた。でも、父のタマシイが一瞬だけ、私の手を包み込んだのかもしれなかった。私は、おそらく今までに一度も言ったことがなかったであろう言葉を口にする。


「お父さん、おかえり」






 霊安室を出て帰ろうとした時、長身の警察官が、目を細めながら紙切れを持ってきた。


「これ、お父さんのTシャツの胸ポケットから見つかった紙切れです。もし良かったら」


気まづそうに差し出されたそれを、私は受け取る。

そこには、こう書いてあった。


〝僕のこと、そんな簡単に手放さないで……〟






 警察署を出て、歩く影の伸びる道。道端に落ちている、大量のビラとビニールを見ながら、私はたどたどしく口にする。


「お母さんって、ティッシュもらったらすぐにこうやって、道端に同封のチラシとか捨てて帰るタイプでしょ」


母が、物憂げな表情で答える。


「うん、そうよ」


もはや否定もしない、浅ましい母、いや、女だった。


「そのティッシュが今手元にあったら、それを身体の穴たる穴全部にぶち込んで、さっさと地獄あっち行かせてやるのにな」

そう言うと、顔を強ばらせてこちらを見る。

私は最後に、追撃を加えた。


「私にいたはずの姉ちゃんがいないのだってあんたのせいなんだろ」


私が部屋を掃除してる時に見つけたお絵かき帳には、姉と共に遊ぶ自分のイラストがあった。


「どうせ姉ちゃんも、もうこの世にはいないんだろ」


そう言うと、道端にうずくまって母は泣き出した。




 遺品を整理しに、父がいなくなった部屋の中へ踏み入れていいと言われた私たちは、その足で寂れたドアの並ぶアパートの父の部屋に行った。玄関を入ってすぐの所に、スリッパが3足分用意されていた。私は来ようと思ったことがあったけれど、それも母に止められていたから来なかった。でも、こんな事になるのなら母の言うことなんか無視して来てしまえばよかったのだと思った。父はいつも玄関の横に備えたスリッパで、私たちが来てくれるのを待っていたんだと思う。私は鼻をすすりながら、湿った匂いのする部屋の中へ更に足を進めた。部屋の中は、ミニマリストかと言うくらいに物が少なくて、重い遮光カーテンが降ろされていた。電気をつけたら、それは嫌がらせみたいに明滅して頼りにならなかった。家の中のどこを探しても見つからなかったアルバムが、父の寝床のすぐ近くにあるのをふと見つけた。所々写真が折れたりしていたので、夜な夜な見返したりしていたのかもしれない。籠った室内の暑さに耐えかねて私が扇風機を回したら、その風でシーツがめくれて、下から封筒が出てきた。それを見るなり、母はシーツを戻そうとしたが、私が払い除けた。封筒の中身は、母の書いた仕送りを催促する手紙だった。それを1つピックアップして読み上げ、手で顔を隠し震える母の耳元で囁いた。


「お母さんが殺しちゃったんだよ」

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