ワンナイト・ドリーム

 警察署の中は、クーラーがガンガンに効いていた。民の安全を護れるのか不安になってくる、目がイッちゃっているオレンジのマスコットが飾られた入り口を潜り抜け、目に付いた窓口の警官に声を掛けた。


「すいません……」


「はい、どういたしましたか?」


警官がにこやかに訊ねる。


「はい、私は風祭萬平かざまつりまんぺいの妻でして……、その、萬平の遺体があると電話で窺って……」


「ああ、少々お待ち下さい」


一度、警官が奥の方に消えて、そして、職員のような、普通なスーツ姿に眼鏡の男が代わって出てきた。


「この度はご愁傷様です。わざわざ遠方から足をお運びいただき、ありがとうございます。検視もそろそろ終わりますが、数日間は焦らずにゆっくりお待ちください」


そして、と言ってカウンター越しのその男は両手を組んだ。


「一応、身元確認をさせてください。戸籍謄本と住民票の2点を提出ください。すいません」


白みがかった髪を掻き上げながら、男は苦笑いをした。


「いや、本当に何のためでしょうね、この確認。そもそも、家族以外に誰がこんな手続きに来るんだよって思いますし。戸籍上は家族だったからって、そこに本当に家族と呼ぶに相応しい愛とか、想い出とか、苦い記憶の染みとかが存在してるかどうかなんて分からないのに」


母は、椅子の横に置いていた鞄の中からクリアファイルを取り出しながらも、震えていた。


「あ、自分のこと語ってしまってすいません。でも僕、家族に裏切られた時、本当に自殺しようと思ったんです。なんか、結婚って人生に1度の大事な契約のはずなのに、有効期間も曖昧だし、破った罰も無いから、案外簡単に破られてしまうんですよね。そんなことなら結婚なんてしなない方がいい、って僕は思ってしまうんですけど」


「そうだったんですね……」


母は、うまく言葉を見つけられずにいた。ただ、今の言葉が少なからず母の気持ちを揺さぶっているような気がした。


「それじゃあ、確定ではないですが、現在疑われている死因についてお話しますね」


その言葉を聞いて、母は私に言った。


「詩、さっきのベンチに戻ってなさい」


「え、でも……」


父親の死因を知りたかった私は渋ったが、母は今になって子供を守る親でも目指すような真剣な顔だった。


「いいから、早く」


諭すような言い方と、見開かれた目が釣り合っていないと思った。私が感じていた嫌な予感を、同じように母も感じているような気がした。私は、こんな今だけは従順で素直な娘を演じてやろうと思った。母に背を向け、私はベンチへと向かう。




 結局、母親には父が亡くなった理由をずっと誤魔化されたまま、検視が終わるのを待っていた。二束三文で泊まれる宿を探したけれど、都会には都会に見合う値段の部屋しか見当たらなかったから、私たちはそこに、慎ましやかに留まった。シングルベッドに大の字になって眠るシングルマザー。文字にしたら面白くなってしまうけれど、全く笑えない母親だ。私と紬を連れているというのに、近くのコンビニで買ってきた酒を何本も開けて、払えるのか甚だ疑問なくらいのルームサービスを、クレカで頼んでいた。しかも紬が泣き出したらキレだす始末で、私は紬をおぶって、「外に空気を吸いに行く」と言った。このまま、出ていってやろうかと思ったけど、私の力ではどこにも行けやしないことは分かっていた。文字通り外の空気を吸って、自販機で缶ジュースを買って部屋に戻った。その後も、地獄のような部屋から抜け出せずにいる私たちは、さながら蜘蛛の巣に捉えられた虫でしかなかった。いや、それよりも木に絡まった風船の方がまだ可愛いか。ホテルの慣れないベッドでやっと眠りに落ちた時、また〝あの夢〟を見た。




 真夏の昼下がりの遊園地。茹だるような暑さの下でも、夏の自由さに足が軽くなった人たちはそこに集まっていた。そしてやはり、前方の陽炎のその中から、父が歩いてくる。ただ、その一歩一歩は妙にゆっくりで、スローモーションの映画を観ているみたいだった。父の顔が見えそうになった時、風が吹いた。近くの子が風船を飛ばして、空へ吸い込まれるように流されていった。眩しい眩しい、黄色。やがてその色は、弾けて、空全体を染めた。人類最後の日みたいだった。その目が眩むような色に照らされ、さっきまで見えなかった父の顔が浮び上がる。



それは、父の顔ではなかった。



その顔は、私が知っていたのに忘れていた顔だった。母のスーパーの常連でもあり、父の会社の同期。父がコンペを共に戦った相棒で、何度か家にも来ていた。私の心の拠り所だった想い出は、父とのものではなかったのだ。



でも何故?

何故、同期のこいつが出てくる?



簡単だ。夜の魔力に引き寄せられた母とこいつは、朝になれば無かったことになる関係を築いていたのだ。思い出した裏の事情と、その風景の色合いが妙にマッチしていた。空の黄色は更に輝度を増して、目を突き刺してくるようだった。そして、その黄色の中から影が現れ、顔を形作っていく。それは紛れもなく、父の顔であった。恨めしく眉間に皺を寄せて、強く強くこちらを睨んでいた。




 ブルブル、という音に目が覚めると母の携帯が着信を知らせるバイブで震えていた。部屋はもう消灯されていて、着信の画面だけが爛々と光っていた。蝉が馬鹿みたいに鳴いている中、母はアホ面で眠っていた。クーラーの設定温度が少し暑かったのか、そのうちに紬も泣き出して、耳障りな二重奏になった。けれど、私が動くことを放棄したらこの家庭は崩れてしまうので、ひとまずクーラーの設定温度を下げた。その横で、髪を掻き毟りながら「っるさいなぁ……」と苛立たしげに呟く母に無性に腹が立って、ベッドサイドの灰皿でまだ燻っている煙草を喉元に押し付けてやった。母が呻いたので、私はそれを鼻で笑って部屋を出た。紬をおぶって深夜のコンビニまで歩く道は、生温い風がなだめるように私の肌を撫でて、通り過ぎていった。




 夜明け前の部屋に戻って、本当はいけない酒を呷った。甘味と苦味とが交互に押し寄せるのが心地良くて、俗に言う〝チルい気分〟になった。甘味と苦味に混ざって、次は眠気が襲ってきたので横になった。そしてまた、夢を見る。




 その夢の中で、あの日手放した風船が、割れて弾ける瞬間を見た。私は気球に乗っていて、横には母がいた。けれど、ガスが無くなりかけているのか、気球は緩やかに下降を始めていた。母は大気の中に取り込まれていく現状に、疲れたような顔をしていた。私はと言うと、何も怖いことはなくて、このままどこか異国に降り立てれば面白いなと思ったし、別に食料やガスの不足で死んでしまったとしても、それはそれで悪くないんじゃないかと思っていた。そして、そんな自分の呑気な思考と向き合ううちに、私は気づいた。この気球は、父なのではないかと。父という、一番弱くて一番頼もしい存在。それが、夢の中で足元を支える気球と重なった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る