黒い姫

 明朝、母親に揺り起こされた。仕方ないから行くわよ、と言っていた。もうその時には雨は止んでいたけれど、母親はずっとイライラしているようだった。朝ご飯を普段はちゃんと作る母親が、明太子とたくわん、炊飯器に残っていたご飯をレンチンして投げるように並べた。ふと目に入った、庭にできた泥濘ぬかるみが、私のまだ整理できてない心を代弁してるみたいでちょっと戸惑った。


「あんたの部屋の箪笥の最下段だかに、喪服あったわよね……。それ必要だから、入れて行ってちょうだい」


そう言いながら、母は明太子をご飯に塗りたくった。テレビでは、素人のアナウンサーがコピー食品を食べ比べるコーナーをやっていて、世の中は呑気なもんだなと思った。私は寝ぼけ眼を擦りながら、ゆっくりゆっくりと明太子のパックを寄せて、ラップを剥がす。その動作を母は苛立たしそうに見て、「早くしなさいよノロマ!」とヒステリックに叫んだ。私はなんで、父は死んでしまったのだろうと思った。テレビは速報のニュースに切り替わって、淡々と、好きだった芸能人がまた1人、自殺したことを報じていた。




 父と私たち家族の距離は、この数年で相当に掛け離れてしまっていた。それは空間的な問題でもあり、精神的な問題でもある。母が不慣れな運転をしている車の中で、ずっと車窓を眺めていた。いつ帰れるか分からないからと言われ、ひとまずリュックサックに入る限りのパジャマとワンピース、スキンケアとコスメ、そして、お菓子を詰めてきた。母は、自分に課された義務は全うする人だから、印鑑とか戸籍謄本とか入れていたが、この期に及んで、まだ帰りたいなどとぶつぶつ言っている。母は、本当に父のことを愛していたのだろうか……?私は考えてしまう。ずっと高速道路の変わらない景色に飽きてきて、私はお菓子を取りだした。妹は隣で、チャイルドシートに身体を預け、またすやすやしている。けれども私も、そのうち退屈さに眠くなってきて、いつの間にか眠ってしまったようだった。




 また、遊園地に来ていた。けれども、季節は冬で、クリスマスマーケットなんかが催されていた。父親が、温かいおでんと風船を買ってきた。母親と妹は、いなかった。でも父親はやけにニヤニヤしていて、私はその顔を気持ち悪いと思ってしまった。この頃の私は思春期で、ひねくれていた。遊園地に来ているのに、スマホばかり弄って、露骨に嫌な態度をとっていた。それでも頑張って話しかけてくる父親が痛くて痛くて、もっと当たりを強くしていた。父親は、他に比べてデブだった。だから、そんな父親と歩いているのがパパ活に見えるんじゃないかとか思って、私はもう恥ずかしくて仕方なかったのだ。父親が渡してくる風船を、受け取りかけた瞬間に平手打ちした。あの夏の、本当に掴みたくて掴めなかった時とは違って。風船は、飛んでいった。それを惜しそうに、そして苦しそうに、父親は目で追いかけた。おでんも、器ごと蹴りあげたら、「熱いッ」と言って、つゆの熱さで痛覚を刺激された右手から器が落ちて、父親は頭を抱えてその場に座り込んだ。一緒に来るのが彼氏だったら良かったのにな、とか思っていた。その後のことはよく覚えていないし、そもそもなんで父親と二人きりでそこに行くことになったのかも憶えていない。けれど、あの頃、私はおかしかった。目が覚めたら、自分のことを嫌いになった。




 雨がまた、バケツをひっくり返したように降り出した。母は、煙草を咥えながら車を運転している。ラジオからは、〝蛙化現象〟についてZ世代を鼻にかけるギャル数人が喋っていて、その纏まりのなさがラジオという理路整然としたコンテンツにおいて、ある種のリズムを産んでいるような気がして、くだらないと思いつつも聴き入ってしまった。灰皿に煙草がどんどん溜まって、車内はどんどん邪悪になった。私は高校生になって、思春期も抜け出して、その後悔と現実の壁に打ちひしがれていたので、母は良い身分だなと思った。週に多くて3回のスーパーのパート以外は、家でいつもグウダラしているのだ。努力というものから遠い星に生まれたお姫様の母は、愛嬌だけは上手に身につけて、内面はどんどん黒くなっていったのだと思う。


うた、もうそろそろ着くから、紬起こして」


突然、母が声を出したので一瞬驚きつつ、すぐに隣のつむぎを揺さぶる。


「紬、もうそろそろ着くってよ」


退屈だった車窓は、急に都会の駅前へと移り変わっていて、その人の多さと窮屈さに困惑した。地元のような良心が1ミリも感じられない料金の駐車場になんとか車を停め、私たちは降り立った。


父が移り住み、そして、人生を終えた街に。

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