わたしの夢風船(少女の夢日記)

囃子雨と夢枕

 西陽が地平線に沈む寸前の海岸は、人気もすっかり落ち着いているから好きだ。海がなければ本当に何も無い街だけど、その平凡さが何よりも愛おしい。海は昼と夜で表情を変えるけど、真夜中のざわめきが本当の顔だ。やがて、太陽が滲んだ障子のような空に風船みたいなシルエットが浮かび、それをぼーっと眺めていたら、顔に落ちてきた。それは子供が明後日の方向に飛ばしたボールでしかなかった。その子供たちが安心して帰れる家がありますように。私は腫れた頬を擦りながら、そう願わずにはいられなかった。




 どっちにしろ最近の夏は爽やかじゃないが、今日の朝は酷くどんよりした空気が横たわっているように感じた。梅雨に馬鹿みたいに雨が降ったから、もう当分無いと思っていた雨がまた降っている。雨が、太鼓みたいにトタンの屋根を叩いている。普段ほぼ鳴らないから、お飾りと化して埃をかぶった固定電話が鳴った。きっと怪しいセールスか何かだわ、と言いながらポテトチップスをバリバリと食べる母親を見ながら、私は嫌な予感がしていた。雨が一層強くなった。けれど電話は諦めることなく鳴り続け、やがて留守電に切り替わった。留守電のメッセージに吹き込まれた第一声は、事務的で淡々とした男性の声だった。


「もしもし、✕✕県警の長辺です。風祭萬平さんのことでお伝えしたいことがあり、お電話させていただきました。いらっしゃいましたら……」


母親は相手が言い終わる前に、さっきから何度も同じことを言い換えているだけのテレビショッピングを消音にして、転びそうな足取りで受話器を取った。


「はい、風祭です。夫が、何かしてしまいましたでしょうか?」


母親の不安な感情が、顔色に表れている。右手で受話器を耳に当て、左手は胸に当てている母親を見ると、わかるはずもない母親の胸騒ぎが、伝わってくるようだった。けれど、私はまだ子供で、肝心なことは全て母親に任せていたので、この時も、自分の気持ちが顔色に表れるのを隠せるパウダーはまだ発明されてないんじゃないかしらと、さっきのテレビショッピングの影響を丸っきり受けたアイデアを頭の中で描いていた。雨樋からシャワーみたいな量の雨が落ちて地面を叩く音の中で、受話器から漏れるただでさえ聞こえづらい声は、距離の遠い糸電話みたいにくぐもっていた。


「いえ、そうではなく、萬平さんが実は……」


母親の横顔は、みるみるうちに曇っていった。


「自宅で亡くなっているところを、同僚に発見されたんです」


はいぃ……?と素っ頓狂に首を傾げ、口元に左手を当てた母親は受話器を右手から落として、スプリングみたいなコードで本体と繋がったそれは、振り子みたいにぶら下がった。


「何かの間違いじゃないんですか?」


受話器を握り直した母親は、震える声で聞いた。ただ、彼女がこんなにも動揺している理由を、私は愛する夫を失ったショックによるものではないと分かった。不安なのだ、これからの暮らしが。父親が仕事で遠くへ行くことが決まった時、母親はついていくことを選ばなかった。家族の絆よりも、広い家で伸び伸び暮らすことを優先した。


「間違いではないです。死因はまだ特定していませんが、事件性はないというのが今の警察の見解です。検視が済むまでは、1週間ほどご遺体をお預かりしますが、そこはご了承下さい」


「私たちはこれからどうすれば……?」


「ええ、こちらの警察署まで足をお運びください。お話が色々とございますので、それではまた」


「いや、そういうことじゃなくて、私たちの生活は……」


ツーツーツー。


母親が言い終わる前に電話を切られた。さっきから後ろで雑音がしていたので、警察署は忙しいのだろう。私たちの生活に構っている暇などない。

母親は、電話台の前に力なくへたれこんだ。裏腹に妹はというと、縁側で気持ちよさそうに寝息を立てていた。




 その日の夜、久々にあの夢を見た。〝あの夢〟というのは、家族で出掛けた遊園地での想い出とすごく似ている。しかし、私はいつもその夢を見る度に不思議な気分になる。なぜかその日の父の顔だけは、いつまで経っても思い出せないのだ。あれは確か、夏休みに入って初めての猛暑日のことだった。後ろに妹を乗せたベビーカーを引く母がついてきていて、前方から父が戻ってきた。右手にアイスクリーム、左手に風船を持っていた。買ったばかりなのにとろとろと溶け始めていたアイスクリームはしっかりと受け取った。けれど、風船は受け取ろうとした時にちょうど風が吹いてきて、その風の先の景色を見たい自我でもあったかのように、煽られて、みるみる飛んでいった。その時、父がどんな顔をしたのかは、逆光、もしくは陽炎によってよく見えなかった。夢の中では、他の同い年の子たちも風船を飛ばしてしまって、少しがっかりしたような顔をしていた。けれど、その飛ばされた風船は大気中で破裂して、まるでインクみたいになって、空を彩った。私はそれくらい、デタラメで突飛な夢でも父に会うのを楽しみにしていたのかもしれない。

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