ただ一人の英雄よ

ここのえ栞

眩いあなたへ



 重厚な扉を開けると、そこには兵士達の死体が転がっていた。

 十数名といったところか。悶え苦しんだのだろう、皆痛々しい表情で息絶えている。胸や背中に細い矢が刺さったままの彼らを横目に、宰相は部屋の中心へと目を向けた。

 夜明けの光が辺りにうっすらと満ちている。喧騒ははるか遠く、血の香りはあまりにも鮮明だ。絢爛な装飾にまみれた部屋の中心には、一人の兵士がこちらに背を向けて佇んでいた。彼がゆっくりと振り返る。頭から防具が落ち、鈍い音を立てる。


 刃先のような青だった。


 窓から差し込む淡い光を呑み、彼の瞳がぬるりと鈍く光る。息苦しいほどに深い青。痛々しいほどに冷たい青の瞳だ。一秒でも目を逸らしたなら、すうと肌を薄く削がれ、ぼとりと首を落とされることだろう。

 濡れたような艶を帯びた黒髪は襟足にまで届き、彼の真っ白な項を覆っていた。彼の影だけが死体の上に伸びていた。弓と矢を片手で掴んだまま、ただ一人生き残った青年兵は、真っ直ぐに宰相を見つめていた。

 宰相は怯えたように肩を震わせ、兵士の足元へと視線を落とした。そして目を見開いた。咆哮のような歓声が静寂を切り裂く。

「……ついに!ㅤついにだ!ㅤ革命は成された!」

 彼は踊り出さんばかりに喜び、にやにやと満面の笑みを浮かべた。兵士の足元にあるのは一人の少女の死体だ。

 豊かな金の髪、鮮やかな赤の瞳は王家の象徴。彼女はこの国の王女だった。レースをあしらった真っ白なネグリジェは赤黒く染まり、ロングウェーブの髪は血で汚れて固まっている。肌は生気を失って土色にくすみ、瞼の隙間から薄らとのぞく瞳はひどく濁っている。

 勢いよく切りつけられたのだろう、部屋の中心で息絶えた彼女の周りには血が飛び散り、まるで一輪の大きな薔薇のように成り果てていた。

「先王の一族は皆死んだ!ㅤようやくこの国にも自由が訪れる!ㅤ私の時代だ、私が新たな王となるのだ!ㅤ……おい、お前が王女を殺したのか?」

 宰相に問いかけられるも、青年兵は黙ったままだ。愛想のない奴めと思いつつ宰相は笑みを深める。もうどうでもいいのだ。革命は成された。彼の脳内は輝かしい未来で溢れている。

「よくやった!ㅤ反乱分子は潰しておくべきだからな、女は特に恐ろしい!」

 宰相は髭を撫でつけながら猫なで声を出した。革命には勇者が必要だ。勇者を手なずけておくというのは絶対的支配者となる条件の一つでもある。

「褒美をやろう。何でも申し出なさい」

 その言葉に兵士はしばらく目を伏せ、やがて口を開いた。

「……このひとを」

「何?」

「このひとを、ください」

 赤子のように拙い発音だ。北の訛りも強い。最近滅びた隣国からの移民なのだろうと見当をつけた宰相は、彼の指先が王女の死体に向けられているのを見て下品な笑い声を上げた。

「ははは!ㅤネクロフィリアとは恐れ入った!ㅤ確かに綺麗な顔はしているが、色気のない薄っぺらな体じゃないか。生きた女を山ほどあてがってやってもいいんだぞ?」

「……いいえ」

「ならばお前の祖国を再建するというのはどうだ?ㅤあそこは今や我が国の領土だ、お前の領地としてくれてやるから好きにすればいい」

「いいえ、このひとをください」

「つまらん奴だな。まあいい。その代わり、広場に飾る頭の部分だけこちらへ寄越せ」

 宰相はそう言うと、キンと音を立てながら剣を引き抜いた。既に王と王妃の首は揃えてある。憎き国王一族を見世物に呑む酒はさぞ美味かろう。王女の首は革命の最後のピースだった。

「安心しろ。ほとぼりが冷めた頃にはお前の元へ返してやる」

 剣の先が王女に向けられる。宰相が一歩、二歩と近づこうとすると、青年兵は王女の死体の前に立ちはだかった。伸びきった前髪が青年の目元に影を落とす。俯いたまま動こうとしない彼を見て、宰相は慌てて言葉を重ねた。

「分かった、じゃあ髪で勘弁してやる。髪のひと房で勘弁してやるから。それなら良いだろう?」

 煌めくような美しい金髪は王族特有のものだ、王女の死の証明くらいならできるだろう。青年の沈黙を肯定とみなし、宰相は警戒しつつもゆっくりと彼へと近づいていった。

 異国の地から迷い込んだ若き兵士。言葉はろくに話せず、しかし顔立ちは美しい。勇者、もとい、操り人形にはこれ以上ない人材だ。王女の首を失うのは惜しいが、得られるものは大きい。

 ようやく時代は変わるのだ。そうだ、革命は成された。死んだ兵士の数などどうでもいい。ただこの手に権力を、地位を、名誉を掴んだ。その事実だけがあまりに愛おしく甘美に脳を焼く。

 宰相は思わず叫んだ。奇妙な高揚を咀嚼し、勝利の快楽を嚥下する彼は、もはや化け物じみた狂気を帯びていた。

「さあ!ㅤこの馬鹿げた時代にピリオドを!」






 ────トン、と。

 宰相の胸元に軽い衝撃が走った。

 彼は笑みをおさめ、ひどく不思議そうな顔をして視線を落とした。彼の心臓の真上に矢が刺さっていた。細く頼りない矢だ。弓を引く音は聞こえなかったというのに、衣服を貫き、肌に傷をつけている。

 彼は呆けたまま矢を左手で掴んだ。呆気なく抜けた矢じりには赤黒い血が付着しており、上等な服には黒い点を、ピリオドを打ったかのような血痕が残った。

「……ガッ」

 次の瞬間、宰相は獣のような声を上げてその場に崩れ落ちた。鈍い音を立てて剣を落とし、悲鳴と共に床をのたうち回る。目を見開き、顔を青くし、首筋に血管を浮かべながら喘ぐ。

「貴、様……!」

 涙や唾液をだらだらと零しながら、宰相は兵士を睨みあげた。兵士はその様子をただじっと見つめている。長く悶え苦しんだ後、やがて宰相は醜い姿で息絶えた。


 若き兵士はその死体に背を向け、王女のそばに跪いた。そして土気色の手を掬いあげ、優しく口付けた。

 宰相を殺した矢の先には猛毒が仕込んであった。彼の故郷に古くから伝わる狩りの手法だ。例え祖国は滅びようとも、その伝統は青年の中で生き続けていた。


 捕虜としてこの国に連れてこられ、弓の腕を買われて国の軍隊に入り、奴隷のごとき扱いを受けていた頃、人間として青年に接してくれたのは心優しい王女様ただ一人だけだった。彼女は侍女の目を盗んでは部屋から逃げ出し、青年の元へとやってきた。美味しいクッキーを持ってきたり、傷の手当をしたり、言葉を教えたりした後、ここにいるのが見つかればあなたが怒られてしまうからと、風のように帰っていった。

 青年は鮮明に覚えている。木漏れ日に煌めく金の髪を。透きとおるほど儚い肌を。薄紅に色づいた唇を。細くて頼りない、温かな指先を。

『愛してるわ』

 ひどく小さな声で彼女は囁いた。青年にはその言葉の意味が分からず、教えてくれとねだったが、彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて内緒だと言った。

 眩いほどの赤を秘めた瞳が、ただ、青年だけを映していた。


「……ごめんなさい」

 青年はたどたどしく懺悔する。彼女を守りきれなかった自分の不甲斐なさを呪う。彼が一人で相手をするには革命軍の数があまりにも多く、国王軍の数はあまりにも少なかった。

 彼は死後硬直の始まった王女の死体を抱き上げ、ベッドへと横たわらせてやった。そして額へとキスを落とした。瞼をそっと下ろしてやると、王女はまるで眠っているように見えた。

 彼女は青年にとってただ一筋の光だった。それを失った今、この世界にはもう何も残っていない。

 懐から短刀を取り出すと、青年はそれを自らの首筋に押し当てた。刃先がぬるりと鈍く光る。毒を塗りこんだこの短刀ならば、一瞬で自分を王女のところまで連れていってくれるだろうと、彼はひどく静かに覚悟を決めた。

 反対の手で王女の頬に触れる。肌は石のように冷たく、固くなっていた。柔らかな光が二人を照らす。血塗れた夜にピリオドが打たれ、穢れなき朝がやってくる。

「……あいしてる」

 ひどく掠れた声で青年が囁く。言葉の意味はついぞ分からなかったけれど、それでも彼女が自分にくれた言葉ならそれは素敵なものなのだろうと思ったのだ。青年兵は王女を愛していた。王女を見つめる彼の瞳は、温かな海の底のような色をしていた。

 ぷつりと刃が皮膚を裂く。そのまま勢いよく突き入れると、首に薄い氷が一枚挟まるような感覚の後、青年の視界はじんわりと赤く染まっていった。


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