沈黙
海面が上昇し、海から近い場所からどんどん沈んでいった。徐々に嵩増ししたものだから、人々の避難は問題無く済んだが、建物などは取り残された。町が沈むと、高い建物・ビルなんかは頭だけ見えるようになる。大学生の寛平は、そんなビルの残骸に会いに行くのを趣味にしていた。
「今日はあそこらの町に行ってみるか。」そう言って寛平は日焼け止めクリームを塗り、大きめのリュックサックを背負って車に乗り込んだ。今日も空は青一色。日差しが眩しく、容赦無く肌に突き刺さろうとする。しかし、最新の日焼け止めクリームともなれば二時間は暑さも凌ぐのだ。
寛平の車は飛行機能は勿論、水上も走行可能なタイプの車である。しかし、親のお下がりなので所々に傷があり、燃費もそれほど良くない。今回は二時間も移動にかかるという。暇つぶしにテキトウな曲を爆音でかけ、運転を車に任せる。寛平には友達がいないわけではないが、わざわざ暑く、アトラクションも無い場所へ行く物好きは寛平くらいであったのだ。
海へは行ってはいけない決まりとなっている。海が人を呑むようになったのだ。高波などという問題ではない。どれほど大きな船でも、陸から10Kmほど出ると排水口へ吸い込まれるように呑まれる。あらゆる手を尽くしているが、未だ解明には至っていない。
そんな恐ろしい海へ寛平はなぜ行くのか。一つの理由としては、特に何も考えていないからである。自らのやりたいことも、目指すことも特に無い。そんな寛平は自分の生にそれほど関心が無かった。
もう一つは、寛平の行く場所にあった。寛平が目指すのは少し海の影響を受けた程度の町であり、それほど規模も大きくない所ばかりであった。所謂、田舎と呼ばれる場所であった。しかし、いつ侵攻が始まってもおかしくはないということで、住民達は既に避難している場合が多いのだ。政府は海の先へ行けないものかと頭を悩ませているので、田舎の方まで手を回せておらず、見張りなどもいないのであった。
今回、寛平が見つけたのは海からはかなり近く、既に侵食の始まっていた場所であったが、近くに大きな山があったのだ。不思議と山は海による影響を受けず、侵食されないのだ。なので、山は重宝され、あまり干渉されなくなった。
寛平は見張りが居ないのを遠視メガネによって確認し、山側から町の方へ進んで行った。町は思っていたより海に呑まれており、一番低いビルの頭は海面から10メートルほどであった。海により途絶えた道から、海に沈んだ町の上へ移動する。少し身構えていたが、何も起こらなかった。
まずは海の上を車で漂うことから始めた。日焼け止めクリームを取り出し、塗り直す。お気に入りの音楽をかけ、ただ何も考えることなく、緑の揺れる山や、青い空を眺めていた。風が気持ちよく吹き、どこかで鳥が鳴いている。一応釣りをしようかと竿を持ってきてはいたが、餌を忘れたのでただ針だけを垂らしていた。
この町はどれほど栄えていたのだろう。ふと気になって海を覗くが、よく見えない。小さい魚が既に住み始めているようで、海面から数匹を確認できた。「どんだけ積み上げても、埋められちまえば更地と変わんねえなぁ。」そんな悪態を吐き捨て、寛平は自分を振り返ってみた。いきなり働くのは面倒くさく、逃げるために大学へ行き、バイトはせず、勉強もそこそこ、呆けているうちに、時間がどんどん潰れていく。そこに意味があるかなどどうでもよく、何も考えずにいられて楽だった。そんな自堕落な生活を送ることに多少の罪悪感はあれど、それは一体何に向けたものなのだろう。支援してくれた親か?それとも夢を持っていたあの頃の自分か?考えるのも面倒になって止めた。
しばらく時間を流したので、ビルの屋上へ登ることにした。登ると言っても、車の腹からの空気放出による圧力で海を蹴り、その勢いでビルの上まで跳ぶというものである。寛平は竿をしまおうとしたが、針は無くなっていた。寛平は「歯の鋭いやつにあたっちまったか」と、気にも留めなかった。
車に電源を入れ、ボタンを押した。車は大量の空気を一気に放出した。水飛沫を上げ、大きな波紋を海に描き、一番低い建物の上へ着地した。
屋上だというのに特に何もなく、寛平は少しがっかりしたが、そこへ寝そべり大したことなど考えず、ただただ時間を流していた。
何故こんなことをするのか?それは、誰も来ない場所で、自分だけが存在できているという優越感と、非日常的な環境によって自分が特別になったという錯覚を味わえるからだ。
しばらく空を飛ぶ鳥や、緑の栄えた山を見た後、ふと車の方へ目を遣った。そこに車は無かった。寛平は頭を抱えた。「なぜ無くなった?」「これからどうする?」「どうやって帰ろうか」など、在り来りなことばかり考えていた。やがて、面倒くさくなり、考えるのを止めようと寝っ転がった。しかし、事の重大さに焦らされ、思考を放棄することが中々できなかった。
埒が明かないので、思い切って屋上の柵から身を乗り出し、海を見た。海面が近くなったように感じる。いや、実際に海面は上昇していた。海面から十メートルはあったはずの建物の頭が五メートル程になってしまっている。先程よりも魚が多く見える気がする。
寛平は呆然とした。彼の連絡手段は車の中へ置いてしまっているし、何より移動手段が無い。日焼け止めクリームの冷却の効果が切れ、肌が日差しに晒されて暑い。水分も無ければ食料も無い。八時に出発し、十時に着いて。現在、十二時を少し過ぎたあたりである。太陽は真上にいた。
「やっぱり一緒に来てもらえばよかったなあ」
彼は孤独であった。周りには誰も居ない。ただ山と海、所々頭の出た建物があるだけである。彼はとうとう考えるのもバカらしくなり、足を放り投げ、また寝っ転がる。さっきまでは心地良く感じた床の熱さも、今となっては恐ろしい。彼は極力何も考えないよう努力する。目を閉じ、耳を塞ぎ、体を丸くした。
そんな行動にも飽きてきた頃、寛平は山の方へ目をやる。古くなったガードレールが、山へへばり着いている。そこを一台の赤い車が下っていく。寛平は目を見開き、精一杯気付いてもらおうと努力しようとした。だが急に、そんなことをする自分が恥ずかしくなってしまった。そうこうしているうちに車は行ってしまった。なぜ自分は車への声掛けを戸惑ってしまったのか。今さら後悔しても遅かった。
そんな時、海から声が聞こえた気がした。何と言ったのかは全く分からない。寛平は何も考えることが無かったのでその声の方へ行くことにした。
彼は、ただそこにいただけであった。特に悪いことも良いこともしていない。存在していただけだった。そして、海に呑まれてしまった。
海では魚が泳いでいる。限りなく、大量の魚が泳いでいる。彼等は沈黙などせず、バタバタと尾ヒレ背ビレを振っていた。
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