[Disc 3] パウリの排他原理

 昨日とはうって変わって夏の強い日射しが、制服から飛び出る若い肌を、傷ついた若い心を、じりじりと焦がす。

 四宮あいつの言葉が何度も脳内で反響して、昨晩はあまり眠れなかった。

 それに加えてこの暑さ。学校へ向かう足取りが、とても、重い。

「二葉ちゃん、探したんだよ…って、下駄箱でなに突っ立ってるの?」

「……零子ぉ」

 私の意思とは無関係に、零子を呼ぶ声は上ずってしまう。

「え、ちょっと、どうしたの?そんな涙ぐんで」

「あのね、あのね……昨日、四宮と帰ったんだけど」

「あー、それで。何かあったのね……」

「え……?」

「悪いけど、とにかく教室に行きましょう」

「でも……っ!う゛っ!!」

 猛烈な痛みが、頭蓋骨の中で走り回る。

 気づいたら私は、零子の制服の布地を、握りしめていた。

「ちょっと、二葉ちゃん!大丈夫!?」

「ごめん、ちょっと、頭痛がして……。大丈夫、ちょっとしたら治まると思…うっ」

 そうは言うものの、痛みは引くどころか激しさを増すばかりで。

「大丈夫じゃないよ!今、保健室連れてくね。ほら、しっかり掴まって」

「ごめん…零子……。ありがとう……っ」

 するり、と零子が肩に腕を回す。彼女の腕に、体重を幾らか委ねると、少し身体が楽になった。

 そして、傷ついて穴だらけになっていた心も。


 ガラッ。

 零子が勢いよく保健室の戸を開くと、保健室の先生はこちらに視線を向ける。

「先生、二葉ちゃんが、急に頭痛がしたって」

「あら、大丈夫?とりあえずベッドに腰掛けて。…だっていうのに、大変だったねぇ」

「え、先生、何を言ってるんですか。まだ朝のホームルーム前ですよ」

「こらこら、零子ちゃんが嘘つくなんて珍しい。でもね、先生は騙せませんよ。……うーん、二葉ちゃんは熱は無さそうね」

「そんな、嘘じゃ」

「零子ちゃん、もしかして授業中寝てた?もうの途中よ。……とりあえず、二葉ちゃんは横になって休んでようか。零子ちゃんも、先生には後で伝えとくから、二葉ちゃんの側に居てあげて」

 先生はそう言って、シャーッと仕切りのカーテンを閉める。

 カーテンの内側で、私と零子は目を見合わせた。

「ねぇ、零子…これって一体……?」

「分からない、何かの悪い冗談としか思えないけれど……」

「だけど、先生がそんな冗談言うかな…。そういえば、今朝そもそも零子は、何を言おうとしてたの?」

「そうそう、驚かないでね。今朝、四宮君が四人に増えてたの」

「…え、何それ、悪い冗談?」

「ううん、この目で見たの。だからまた二葉ちゃんに何かあったのかと思って」

「……でもまあ、今のところ時間が飛んじゃったみたいだもの。もともと二人に増えてたことだし、今更あいつが四人に増えても驚かないわ」

「そうか…そうよね。…ん?そう、そうか!時空が歪んだんだわ……!」

「えっ、何を突然…うっ……」

「ちょっと二葉ちゃん、大丈夫?ちゃんと横になってないと」

「うん、そうね…。それで?どうしたの、一人で納得して」

「それがね、二葉ちゃん。『パウリの排他原理』って知ってる?」

「……?なに?それ」

 完全に横になって、身体の全体重を保健室のベッドに預けても、頭がますます痛くなってくる。

「位置とかを含めたパラメーターが全く同じ粒子は二つとして存在出来ない、っていう原理」

「?……っ何を…言ってるの……?」

 頭の痛みが酷くなる。零子の言ってることが、何一つとして理解出来ない。

「つまりね、今は同じパラメーターの四宮君が二人、かなり位置の近いところに存在しちゃってる。それで、世界が不安定になってるんだと思うの」

「……よくわからないけど、何で今更なの?それなら二人に増えたときに既におかしくなってるはずじゃない?」

「多分、四人の四宮君のうち二人は反物質なの。反物質なら別なパラメーターのもの扱いだから。それに、最初の二人は『一ノ瀬先輩の彼氏』と『そうでない方』と区別がついていたの。だから世界に不都合は生じなかったわけ。……つまりね、二葉ちゃんが四宮君と付き合っちゃえば、四宮君の区別がつくようになって世界が安定化されるはずなのよ!」

 弾けるような痛みが、頭の内側を襲う。そして、胃もギュッと握りしめられるような感覚。そんな脳内に稲妻が走る。

「んな、ミクロの話をマクロに持ち込まないでよ!」

「わあ、きゅ、急に賢くならないで」

「大体、私と四宮あいつが付き合うなんて、無理に決まってるでしょ!?フリーな方のアイツに、昨日私がなんて言われたと思う?いっ……『一ノ瀬先輩のことが好き』って、そう、言われたのよ……っ!だから…だから……」

 昨日のことのはずなのに、何故だか涙が止まらなかった。

 俯く頭に、ぎゅっ、と優しい感触を感じる。

「ごめん…ごめんね…二葉ちゃん……っ」

 回された腕が、顔を彼女の胸に押しつける。

 不思議と、嫌な感じはしなかった。

「ううん、私こそ、取り乱しちゃって…ごめん。……でも、じゃあどうすればいいの?」

「分からない…。もう少し考えてみるね。とりあえず、落ち着いたら現状を確認しに行きましょ」

「……うん」

 内側から割れそうな頭の痛みを、零子は優しく包み込んだ。



「本当だ…四宮が四人居る……」

 結局痛みが治まったのは、昼休みに入ってからだった。

 零子と一緒に教室に入ると、そこには見慣れた四宮の姿が四つある。

 どれも寸分違わず四宮あいつの姿で。どこか奇妙な光景に、また頭が痛くなる。

「でしょう?何かがおかしいのよ」

「「「「あっ、二葉。もう大丈夫なのか??」」」」

「ま、まあ、大丈――うっ……」

 四つの四宮の影が、重なり、ぼやける。

 瞬間、頭の中の爆弾が炸裂するような痛みとともに、視界が真っ白になり、縦も横も重力も、何も分からなくなった。

「二葉ちゃん!大丈夫!!?」

 側にいた零子が咄嗟に肩を支える。四宮も、慌てて駆け寄ってきた…気がした。


「また…時間が飛んだ……?」

 次に視界が捉えたのは、さっきも見た保健室の天井だった。

「まあ二葉からしたらそうなのかもな」

「えっ、四宮、来てくれたの」

「そりゃあ、心配だからな」

 声のする方へ顔を向けると、ベッドの脇に置かれた丸椅子に、四宮は座って教科書を開いていた。

「……でも今四宮は一人なのね」

「他のはちょっと用事があるみたいで。四宮って言っても、みんなちょっとずつ違うんだよ」

 そう言って、四宮はばつが悪そうに頬を掻く。

「そうなんだ」

「うん……ほら、なんてったって一ノ瀬先輩と付き合ってる奴もいるし」

「……。らしいね。前、聞いた」

 またこの話か。せっかく今は二人きりなのに、そんな奴の話をしないでよ。それで、そんな悲しそうな顔しないでよ。

 私だけを、見て。

「あー別な奴から聞いたか。何て言ってた?」

「ズルい、って」

 せっかくの四宮との会話なのに。耳に入ってくる自分の声は、酷く不機嫌に低い声だった。

「そっかー、やっぱそう思うよなー」

 昨日の今日で、そんなこと思い出させないでよ。

「僕が四人いるなら、一ノ瀬先輩も四人いればいいのにね」

――ごめん、零子。やっぱり私には無理みたい。不安定な世界を、救えないみたい。

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