悠かなる桜


 『休眠』を終えたゆうまは毎夜、李桜の夢の中に入っていった。


 「ごっはぁーんっ!」


 相手の性欲を満たす事で得られるエネルギーは夢魔であるゆうまに取って必要な食事だ。

 李桜もその事を理解しているので、無下に拒否出来ないでいた。


 「いっぱいえっちしよーねっ!」

 「・・・。」


 夢の中の出来事まで咎める者はいない。

 現実世界で『毎夜夢魔が夢に現れる』なんて言えば、憐れんだ視線に晒され、精神科を進められるだろう。

 

 これは夢の出来事。そう思い込んでも李桜には小さな罪悪感が残る。年齢が、心が成熟していないだけで悪い事はしていないはずなのに、大人達の目は厳しい。


 (・・・これが罪なら子供の時期は生きてるだけで罪。卑しいと言われて差別される。上手に世渡りするには経験値が足りない。)



 「李桜?元気ない?」

 

 物思いにふける李桜の顔をゆうまが不思議そうに覗きこんだ。


 「大丈夫?」


 ゆうまの金眼が不安気に揺れている。

 

 「大丈夫。」


 李桜は微笑んだが、ゆうまの表情は更に暗くなっていった。


 「ゆうま?」

 「・・・はるも、そうやって誤魔化すの。大丈夫じゃない時はウソついちゃメッなんだっ!」


 感情が昂ったのか、ゆうまは声を張り上げていた。ゆうまは常に真っ直ぐに想いを伝えてくる。

 それは李桜にとって嬉しくもあり、怖くもあった。


 「嘘じゃない。本当に大丈夫。」

 「じゃあどうして元気ないの?」

  

 顔を近付けるゆうまに李桜は返答に困ったが、考えてもどう表現したらいいかわからない。


 「・・・わからない事があるけど、大丈夫。」


 自分でも何を言っているかわからなかった。

 へんてこな返事だ。

 またゆうまに詰められるかと李桜は一瞬目を閉じた。

 

 「わかんないなら仕方ないね。」


 ゆうまの返事はあっけなかった。

 拍子抜けした李桜がポカンとゆうまを見上げていると、ゆうまは満面の笑みを李桜に向けた。


 「大丈夫ならえっちしよー!」

 「わっ!?」


 飛びついてきたゆうまを支えきれずに李桜は倒れ込む。ぽふんっと背中に柔らかな弾力を感じる。ベッドとは違う、包み込まれるような感覚。目の前には雲一つない青空が広がっている。


 (そうだ、ここ雲の上だ。)


 ゆうまと過ごす場所は決まっておらず、大抵がゆうまが行きたい場所だ。夢の中なので言葉通り自由自在なのだ。


 「・・・お腹空いてるんだ。だからたくさん食べたい。」


 金眼をギラつかせるゆうまに先程の幼稚さはない。『食事』となるとゆうまはガラリと豹変する。

 

 「・・・ゆうま。」

 「なぁに?」


 首筋の匂いを嗅ぐゆうまに李桜は小さく声を出した。


 「一回だけ、ですから。」


 恥ずかしそうに李桜が唇を動かす。ゆうまは金眼を見開いてショックを受けた後、「・・・はぁい。」と項垂れて返事した。

 

ーーー


 朝日が昇る。

 アラームの音に李桜は目を覚ました。


 「・・・。」


 半身を起こし、ボッーとしていた。

 夢にゆうまが戻ってきてから朝起きるのが少し億劫になっていた。それは、ゆうまと過ごす時間が楽しく心地よいからだ。


 鳴り続けるアラームを止めて李桜は布団から抜け出す。ふわりとバニラの甘い香りが漂っている。



 起床した李桜がまず行うのはリビングの窓を開けて新鮮な空気をリビングに取り込むことだ。

 

 (良い天気。オンライン授業が始まる前に洗濯しよう。)


 朝日を浴びた後、李桜は朝食の準備に取りかかった。

 

 (朝食は雑穀米に納豆。卵焼きと味噌汁はインスタント。お姉のお弁当は夕べ詰めて置いたから、中身の確認して。それから、)


 手際良くこなしてるとガチャリとリビングのドアが開き、ボサボサ髪の桜音が入ってきた。

 タンクトップの中に手を入れて、ガリガリとお腹を掻いている姿はドラマでみるダメ親父を連想させる。


 「・・・おはようお姉。」

 「おはよーございまーす。」


 のそのそとソファに近付き、桜音はそのままソファに倒れこんだ。


 「ご飯できたら起こして下さい〜。」

 「・・・うん。」


 李桜の返事に桜音はひらひらと手を振った。

 疲れているのだろうと思い李桜はそれ以上何も言わなかった。


 朝食をテーブルに並び終える。


 「お姉、ご飯できたよ。」

 「はいはい。」


 のそりと起き上がり、桜音は椅子に腰掛けた。

 テレビからはニュースではなく幼児向けの番組が流れている。


 「ああ、しばらくはそのままで。さ、いただきましょう。」


 桜音が先に話したので、李桜は聞くタイミングが無くなってしまった。

 食後桜音は出勤支度の為にリビングを出て行った。テレビから流れる陽気な歌。

 「そのまま」と言っていたが、誰も見る人が居ないのだからと李桜はテレビを消した。


 「おや、テレビ消したんですか?」

 「うん。誰も見てないから。」

 

 消えたテレビ画面を見つめ桜音がクスクス笑う。


 「お姉?」

 

 訝しむ李桜に桜音はそっと耳打ちした。


 「テレビね、悠真が見ていたんですよ。」

 「え!?」


 ギョッとなり李桜は消したテレビを見た。

 しかし、そこには誰もいない。


 「李桜は見えません?テレビ画面に悠真が映ってるの。半泣きで画面を見てますよ。」


 桜音に言われテレビ画面を凝視するが、ゆうまの姿は見えない。

 いや、見えるわけがないのだ。


 「ふふ。テレビつけてあげましょうか。」


 そう言い、桜音はリモコンでテレビをつけた。

 テレビ画面には人形劇が流れている。


 「では僕は行ってきますね。お弁当はこれでいいです?」


 テーブルに用意された弁当を桜音が鞄に入れる。

 

 「え?お姉、・・・ゆうまが見えるの?」


 ようやく、口にする事ができた。

 驚愕している李桜に桜音は寂しそうに笑った。


 「少しだけ、ね。」


 勿体ぶるように告げて桜音は出掛けていった。



 桜音が出掛けた後、李桜は朝食の片づけと洗濯をした。その間ずっと気になり。テレビはつけたままだった。


 時計を見ると9時45分を過ぎている。部屋に戻って慌ててタブレットと教科書を用意した。

 10時からの始まった授業には李桜の他に4人の生徒が参加していた。

 50分の授業を終え10分休憩。12時からは1時間のお昼休憩で13時からまた授業が始まる。


 「ふぅ。あ。」


 簡単な昼食を食べ終え李桜はテレビを付けたままだった事を思い出した。

 この時間なら教育番組も終わってるだろう。


 「ぁれ?」


 テレビが消えている。


 (消した覚えはないし、お姉が何かしてたのかな?)


 李桜は首を傾げながら自室に戻る事にした。

 

 (あ、そうだ。カフェオレ持ってこ。)


 冷蔵庫からカフェオレを取り出しお気に入りのカップに注ぐ。


 「?」


 草の匂いがする。嗅いだことの無い匂いだ。

 匂いの元を探ろうと見渡すがそんな匂いの物はない。

 

 (あとで掃除しよっかな。)


 李桜はそのままリビングを出て部屋に戻った。


 授業が終えた後は洗濯を取り込んで、夕食の準備だ。


 複数の家事を器用に李桜は熟していく。


 (洗濯は後で畳む。夕飯はカレーだから、弱火で煮込んで、その間にリビングを拭き掃除。お姉の弁当の下拵えをして)


 いくつかの段取りを纏める。

 リビングをワイパーで拭きながら、李桜は違和感を感じていた。


 (甘い匂い?)


 昼は爽やかな葉の匂いがしていたのに、今はバニラの甘い匂いが漂っている。

 というより、纏わりついている感じだ。


 (?)


 鼻がおかしくなっているのだろうか。

 何かの病気かな?病院に行くならお姉に話してみよう。


 リビングが終わり、シートを変えてキッチンの床の掃除を始める。

 

 カレーと甘い匂いで李桜は気分が悪くなった。


ーーー



 桜音が帰宅したのは19時前だった。

 普段の帰宅より遅い。


 「只今でーす。」

 「おかえり、お姉。」


 リビングに顔を出した後、桜音は自室に向かった。

 その間にと李桜はカレーをよそう。


 「・・・う。」


 カレーと甘い香りに表情が歪む。

 胸がムカムカしてきた。

 しかも、更に甘い匂いが強くなっているようだ。

 気分が悪くなる。


 「李桜?」


 冷蔵庫に手をかけ、桜音は李桜が口元を抑えている事に気付いた。


 「どうしました?」

 「・・・匂いが、きつくて。」

 「匂い?」


 桜音には異臭は感じられない。

 

 「どんな匂いです?」

 「・・・甘ったるい匂いとカレーの匂いが混ざってて。」

 「・・・ああ。」


 李桜の言葉に桜音は頷くと李桜の傍を離れた。

 ソファに座ると隣に叩きふりかえった。


 「悠真。食事が済むまでテレビを観てなさい。ほら、アニメやってますよ。」


 桜音がそう言うと、李桜の周りから甘い匂いが薄れていく。


 「いいですね、大人しくみてるんですよ?僕らの食事の邪魔したら、メッですからね。」


 誰も居ないのに空間に桜音は言い聞かせるように話した。李桜はそれを目を丸くしてみている。


 「お姉?」


 驚く李桜に桜音はリビングテーブルの椅子を引いて座った。


 「さ、ご飯にしましょ。カレー持ってきて下さいな。」 


 桜音に促され李桜はカレーを持って席についた。


 「鶏肉が柔らかくて美味しいですねぇ。」


 カレーを食べ進める桜音とは対象的に李桜の食は進んでいない。


 「ふふ。悠真の事が気になります?」


 頬杖を突いてスプーンをゆらゆら動かす桜音は意地が悪く見える。姉の意外な一面に李桜は少し驚いた。


 「うん。だって、ゆうまは夢魔なんでしょ?

傍に居るって言うけど、現実は夢じゃないし。」


 言葉を探しているのか、李桜はゆっくりと話した。

 

 「そこが不思議なんですよねぇ。夢魔のくせに『存在』を匂わせるなんて。何がしたいのか。」


 肩を落とした桜音が『悠臣』の事を行っているだとわかる。


 「匂い?」


 真っ直ぐ見つめてくる李桜に桜音は頷き、ソファに視線を移す。テレビ画面ではヒーローがヴィランをやっつけていた。


 「とても甘い匂いがします。」


 これまで不意に香っていた匂い。そこにゆうまが居た。

 朝も昼も夜も。夢の中でも。

 ゆうまが傍に居てくれた事が嬉しくもあり、恥ずかしい。

 桜音がニヤニヤしていたので、李桜は話題を変えた。

 

 「はるさんも居るの?」

 「居ないですね。」


 即答した桜音に苛立ちが見えた。それでも、李桜は聞いておくべき事は聞いておこうと思っていた。


 「はるさんも匂いします?」

 「ええ。悠真とは違った匂いがね。」

 「もしかして、葉っぱの匂い?」


 今度は桜音が驚く番だった。

 目を見開いた姉に李桜は続ける。


 「今日のお昼くらいに。これまで嗅いだ事ない匂いがして。葉っぱとかの植物っぽい匂い。・・・テレビも消えていたし。」


 李桜の話しを最後まで聞き終えた桜音の眉間には皺が深く刻まれていく。

 不快だと、表情に現れていた。初めて見る桜音の怒りに李桜は黙ってしまった。


 「・・・そう。不法侵入なんて良いご身分ですね。」


 静かに告げた桜音に李桜は固まってしまった。

これまで、こんな冷たい姉の声を聞いた事がなかった。カレーを口に運びながらチラッと李桜が桜音を見る。桜音は食べ終わり手を合わせている所だった。


 「ごちそうさまですー。お風呂入ってきますね。」

 「・・・お皿そのままでいいですよ、一緒に持っていくので。」

 「ありがとうございますー。」


 桜音がリビングから出ていくと、李桜は深く深呼吸した。それから食事を再開しようとしたが、


 「?」


 甘い匂いが鼻を掠めている。テレビの方を見るとアニメは終わっていた。

 立ち上がって李桜はリモコンを操作した。ゆうまが気に入りそうなアニメはしていない。

 李桜はタブレットで無料動画からゆうまが見そうな『キッズ向け』の動画を流した。


 「私がご飯食べて、片づけるまでは動画見て待ってて。」


 誰も居ない空間に話しかける。ただ、匂いが強まった感じがして、李桜はそれを了承だと受けとった。

 

 李桜が皿を洗い終える頃には桜音は入浴を終えていた。風呂上がりの桜音はスポーツタイプのブラにショートパンツ姿でソファに座りバラエティ番組を見ていた。

 

 「悠真もお笑いを見なさい。」


 2人掛けのソファの右側に向かって話しかける桜音を李桜は違和感なく見ていた。本当にゆうまが桜音の隣に座っているように感じる。

 

 「お風呂入ってくる。」

 「はいはい。こら、大人しくテレビ見てなさい。スケベは李桜に嫌われますよ。」


 桜音の言葉に李桜が固まる。段々と赤くなる顔に桜音は吹き出した。

 

 「見張ってますから。」

 

 そそくさと李桜はリビングを出ていった。

 部屋に戻り、着替えを用意し浴室へ向かう。その間も頬の熱は保ったままだ。


 「!」


 浴室に向かう際に李桜は足を止めた。リビング前から「木々の」匂いがしたのだ。

 

 先程の話が本当ならば、

 目の前に『居る』


 何も見えないのだから素通りすればいい。

 けれど、


 どんな顔で見ているのかと考えると背筋がゾッとなり李桜は駆け足になっていた。

 木々の匂いと冷気が肌に纏わりついた気がして、李桜は何度も肌を洗ってしまった。



 その夜は李桜はなかなか寝付けなかった。

 部屋中が甘い匂いに、漂っている。


 きっとゆうまが寝付くのを待っているだろう。でも、寝れない。


 夢魔、悪魔との契約


 「・・・。」


 もしかして、とても恐ろしい事をしようとしているのではないか。


 不意に感じた恐怖に包まれ、李桜は頭から布団を被った。


ーーー


 桜音は『月見』をした後、部屋に戻るのが面倒になり、ソファで寝る事にした。膝掛けをお腹に巻いて寝息をたてていた。


 甘い匂いが桜音の周りを包み込む。


 


 「桜音どこだろー?」


 桜音の夢に入ったゆうまは公園にいた。

 木陰の中で座っている。背もたれの弾力に座っている場所が気になり、キョロキョロと辺りを見渡すが人影は見当たらない。


 「あ!」


 自分の手が小さくなっている。お腹にベルトを巻いていて身動きが取れない。

 

 「これ取れない〜!」


 両手で掴んで引っ張るが外せない。

 

 「むぅー!ぁ!!」


 丸い体を捻ってみたりするが力が上手く入らない。抜け出せなくてイライラしていると、2人の男女が歩いているのが見えた。


 「りおん?」 


 風に靡く髪を抑え、笑っている女の子は李桜に似ている。隣の男は、誰?

 ジッとゆうまは2人を眺めた。

 会話の内容は聞こえないが、楽しそうに笑っている。男の子がズボンのポケットから何かを取りだし、女の子に渡している。


 「・・・かのん?桜音だ!」


 幸せそうに笑っている女の子が子供時代の桜音だとゆうまは匂いで気付いた。

 

 「桜音っ!桜音っ!!」


 ゆうまは何度も桜音の名を呼ぶが桜音には届いていないようだった。

 

 「桜音っ!!・・・かのん?」

 

 視界が暗くなる。大きな手がお腹に触れと、「カチリ」と音がして体が浮いた。


 「何やってんだ。」


 聞き慣れた呆れ声にゆうまは、はるに抱き上げられている事を知った。

 

 「はる?」


 きょとんとしたゆうまに、はるは苦笑しゆうまの背中をさする。


 「帰るぞ。」


 はるに抱かれたゆうまはポカンとしていたが、ハッと思い出した顔になった。


 「桜音にお話があるのっ!李桜が眠れないのっ!!」

 

 小さな手足をばたつかせるゆうまをはるは簡単に抑え込んだ。


 「勝手に人の餌場を漁るのは良くないぞ。」

 「桜音のとこ行ってないじゃん!!はる臭いもんっ!!鼻曲がるっー!!」

 

 嫌々と暴れるゆうまの言葉にはるは内心大きなショックを受けたが、兄のメンツを保つ為に無表情を決め込んだ。


 「桜音とお話するっー!はる臭いっー!!」

 「・・・ダメだ、帰るんだ。」


 空間が歪んでいく。桜音に助けを求めるようにゆうまは小さな手を必死に伸ばしていたが届くことは無かった。


 

 「はるは意地悪ばっかりぃー!!臭いしいやだぁー!!」


 何も無い空間でゆうまは大声で叫んでいた。はるは腕を組み深い溜息を吐いた。


 「・・・俺だってあまり干渉したくない。でもな。見ただろ、あの幸せそうな笑顔を。」


 頬を膨らませ睨み上げるゆうまにはるは諭すように話しかける。


 「幸せな夢に入ってまで食う必要はないだろう。しかも、相手もいる「はるじゃんかっ!!」


 ぽかぽかとゆうまがはるの胸を叩く。


 「あれ、はるだったじゃん!自分だったくせにっ!!桜音が好きな事知ってるくせに何で離れるのっ!桜音が泣いてるの知ってるくせに!バカバカっ!!」

 「いい加減にしろっ!俺達は相容れない存在だ、傷つくのはお前なんだ!」


 一喝したはるにゆうまは怯んだが、顔を真っ赤にしてはるの鳩尾に力を込めて重い一発を放った。


 「好きなの我慢するのもメッなのっ!!はるのバカっー!!」


 ゆうまは泣きながら高く飛んで行った。

 油断していたとはいえ、ゆうまの一撃ははるをその場に留まらせた。


 「兄弟喧嘩すっかぁ〜?」


 ニヤニヤと笑い声が頭上から響く。はるは声の主を不機嫌に睨み上げた。

 緑色の髪が持ち主の感情を表現するように愉快そうに跳ねている。


 「お前か。」

 「ちっこいのどーしたんすか?あんなに泣き喚く事ってぇないじゃないですか〜?『はるにくっついてないと眠れなーい!』って言ってるのに。」


 似てないモノマネにはるの眉が上がる。


 「・・・お前には関係ない。」

 「いやいや〜?遊び相手して上げてるの俺ですから。」


 えっへんと鼻高々に踏ん反り返る姿をにはるは冷たい視線を向けた。


 「そうか。なら余計な事は言うな。」


 そう言い残し、はるもゆうまの後を追うように飛んでいく。

 その背中を『風の王子さま』はつまらなさそうに見送った。

 

ーーー

 


 アラームの音に李桜は布団から顔を出した。

 もやもやと色々考えていて眠れなかった。それでも、頭は妙に冴えている。


 (ご飯とお弁当作らなきゃ・・・)


 カーテンが朝日を受けているのを暫く眺めていた。


 「!」


 甘い、目眩がする程の甘い匂いがする。

 息をする度に体内に深く入り込む匂いに李桜は鼻を抑えた。


 『眠ってっ!!』


 ゆうまの声が聞こえた瞬間、李桜は意識を失った。



 「・・・李桜っ!李桜っ!!」

 

 李桜が目を覚ますとゆうまが泣いていた。


 「・・・ゆうま?」

 

 力が入らない李桜の体をゆうまは抱きしめる。


 「李桜っ!あのね、はる酷いし臭いのっ!!」


 ぐすぐすと鼻を啜るゆうまの話は要領を得ない。順序だって話す事がゆうまは苦手だ。

 そんなゆうまの話を李桜はぼんやりと聞いていた。


 ゆうまが居るのだからこれは夢だ。いつの間にか寝てしまった。もう、朝だったのに。


 「はるは桜音が好きなんだ。でもいっつも、夢魔だからって言うの。夢魔は好きになっちゃメッなの?・・・オレ、李桜と居たい。大好きだもん。楽しいし、嬉しくなる。桜音もポンポンしてあにめ見てくれる。だから桜音が悲しいのも嫌。

でもでも、はるが邪魔するの。臭いしバカなんだっ!!」


 捲し立てるゆうまの話が李桜の頭には入ってこない。


 「・・・そう。はるさんはお姉が好きなんだね。」

 「うん!!」

 「・・・ゆうまは、どうしたいの?」

 「オレは皆と一緒に遊びたいっ!1人でも悲しいのやだっー!!」

 「・・・そっ、か。皆で仲良く、」


 李桜の言葉が途切れていく。 

 

 「李桜?」


 李桜の様子が変だと、ゆうまが気付く。

 体に力が入っていない。


 「李桜?」


 ゆうまの呼びかけに李桜の返事は無い。


 「李桜っ!」


 慌ててゆうまは李桜の体を揺さぶる。目を閉じた李桜の体が重くなっていく。

 

 他人の夢に入ってもこんな事は無かった。

 


 「李「来い。」


 ゆうまの服のフードが引っ張られる。ゆうまは勢いよく後方に飛んでいた。離れた李桜の体はその場に倒れ込んでしまった。


 「李桜っ!!!」


 叫んだゆうまは李桜の部屋に居た。

 桜音が李桜を抱いて泣いている。

 

 「・・・ぇ、」

 「これが、お前のした事だ。」

 

 はるにフードを掴まれたまま、ゆうまは言葉を失った。

 

 「覚醒しようとしている意識を無理に抑えつけたんだ。相当の負荷がかかった筈だ。」


 淡々と話すはるの言葉をゆうまは黙って聞いていた。桜音の必死の呼び掛けにも李桜は反応しない。


 「わかっただろ。これが俺達と人間の違いだ。」


 固まったまま、青褪めるゆうまの肩をはるが優しく叩いた。


 「・・・行こう。」

 「・・・。」


 涙を溜めて唇を噛み締めるゆうまは李桜と桜音を見つめたままだ。

 

 「・・・ほら。」

  

 はるに促され、ゆうまは肩を震わせた。

 もう、李桜に逢えない。

 離れたら逢えなくなる。

 

 抱き付くと柔らかくて、優しい声で名前を呼んでくれた李桜。

 

 「り、りお、・・・ごめん、なさいぃ。」


 涙と鼻水でぐしゃぐしゃな顔を服の袖で拭いながらゆうまは謝罪を口にした。


 「・・・頑張ったな。」


 はるの言葉にゆうまは頷いた。はるの服の裾を掴む。


 「待ちなさい。」


 凛とした鋭い声にゆうまは顔を上げる。桜音が真っ直ぐに見つめている。

 姿は見えないはずなのに、その視線は確かにゆうまとはるの存在を捉えているようだった。


 「悠真、ソファで座って待っていなさい。」

 「・・・ぇ。」


 桜音の視線に耐えきれずにゆうまははるを見た。はるも真っ直ぐに桜音を見ている。


 「聞くな。俺達の姿は見えていない。」

 「でも、桜音と目が合う・・・」


 動揺するゆうまの手を握りはるは部屋を出ようとした。


 「逃げるなんて許しません、向き合いなさい。」


 その言葉はゆうまに向けたものではなく、自分に向けられたのだとはるは知っていた。

 

 「・・・はる、オレ、ちゃんと李桜にごめんなさいする。」


 そう言い、ゆうまは部屋から出ていった。

 その場に残されたはるは桜音を見る。桜音は確かに真っ直ぐに見つめている。

 

 「ああ、鏡か。」


 桜音の正面の姿見に自分の姿が映っている。ゆうまは鏡を背にしていたから鏡の存在に気付かなかったのだろう。

 

 「貴方も出て行って下さい。李桜と話をしますから。」


 はるは嘆息し部屋から出て行く事にした。


 「どうせ、貴方が原因でしょ。」


 苛立ち気に、ワザと聞こえるように話した桜音にはるは肩をすくめた。

 

 新緑の匂いが薄れていく。桜音は匂いが完全に消えた事に大きなため息をついた後李桜をベッドに寝かせた。

 蒼白かった肌は血色が良くなっている。弱かった脈も正常に戻っている。


 「・・・所長に連絡入れなきゃ。」


 顔にかかっている髪を払うように桜音は李桜を撫でる。李桜のまつ毛がピクリと揺れてた。


 「・・・おねえ。」

 

 か細い声で李桜が桜音を呼んだ。

 

 「大丈夫ですか。」

 「・・・うん。あ、大丈夫じゃない。頭がぼんやりして、体に力が入らない。」

 「そう。」


 最初の返事は流れで言ったのだろう。その後に続いた本音に桜音の頬が緩んだ。


 「後でお水を持って来ますね。」

 「・・・ありがと。あのね、・・・ゆうまは?」

 「テレビ見てますよ。」

 「よかった。」


 そう言って李桜は目を閉じた。


 「まずは自分の心配をしなさい。僕は今日休めるか連絡しますから。」

 

 そう言い桜音はまた李桜の頭を撫でる。


 「・・・昨日は眠れなくて。朝、ゆうま泣いてたの。はるさんと喧嘩したみたい。・・・邪魔してるし、臭いって。」

 「く、臭い?」

 「うん。ゆうまの感覚はちょっとよくわかんなくて。」

 「・・・もう、休みなさい。」


 李桜に気づかれないように桜音は笑いを堪えた。


 「うん。今夜はゆうまにも謝らなきゃ。」


 そう言って李桜は寝息を立てた。


 桜音は部屋から出るとリビングに戻った。甘い匂いと新緑の匂い。悠臣がいることに桜音は李桜の言葉を思い出し、吹き掛けた。

 リビングに戻り鞄から社用のスマホを取り出す。所長に急遽の休むことを伝える。


 「さて。」


 咳払いし、桜音はソフアに向った。テレビ画面には俯いたゆうまが小さくなって座っている姿が映っている。


 「悠真、顔をあげなさい。」


 そういい、桜音はゆうまの隣に座った。暗いテレビ画面には眉を寄せて既に半泣きのゆうまと桜音がソフアに並んで座っていた。


 顔を上げたゆうまと画面越しに桜音の目が合う。


 「悠臣は出て行ってもらえますか。貴方が居ると悠真の本心が聞けないでしょう。」


 ゆうまが後ろを振り返る。

 

 「悠真。悠臣が出て行ったら前を向きなさい。」


 テレビ画面に映るゆうまは交互に桜音とはるを見る。そして後ろを見ていたゆうまが正面を向いて座った。


 「悠臣は出て行きましたか?」


 画面越しのゆうまが大きく首を縦に振る。


 「そう。僕の事が聞こえるなら返事をして下さい。」


 ゆうまはは右手を上げて口を動かした。その返事は桜音には聞こえない。


 (聞こえるには何か条件みたいなのがあるのかもしれない。)


 ふぅと息を吐き出す。するとゆうまは桜音の口元に手を翳した。

 瞳を丸くし、桜音は苦笑した。


 「ふふ。悠真、今は悠真の声が聞こえないんです。画面を見て頷いて下さいね。」


 桜音の言葉にゆうまは桜音の隣に座るとテレビ画面を見つめる頷く。理解は出来ているようだ。


 「まずは。李桜は悠真の事は怒っていません。寧ろ、悠真が泣いていた事を気にしていましたよ。」


 ゆうまの金眼が見開き口元が緩んでいく。

 

 「李桜がね、謝りたいんですって。」


 桜音の言葉にゆうまは両手を上げて喜びを表現した。笑顔で話しているが、桜音には聞こえない。


 「ふふ。でもね、今朝みたいな事にならない

ようにしてほしいんですよ。何故、李桜の意識が無かったのか。」


 続ける桜音にゆうまはハッとなり、ストンとソファに座り直した。背筋もピンと伸びている。


 「李桜は昨日は寝ていないと言ってました。」

  

 こくりとゆうまが頷く。  


 「悠臣と喧嘩した事も関係ありますか?」


 うんうんと2回ゆうまは頷いた。

 

 「・・・そう。ならあっちと話す必要がありますね。悠臣に今夜僕のところに来なさいと伝えてください。」


 うんうんと2回ゆうまは頷く。


 「僕は李桜にお水を届けてきます。悠真はテレビを見てなさい。今は李桜の夢に入っちゃメッですよ。休む事優先です。」


 大きく何度も頭を振るゆうまに桜音はクスリと笑った。


 「ふふ。悠真はお利口ですねぇ。」


 にぱっとゆうまは笑顔になった。


 「ねえ、悠真。」


 コテンとゆうまが首を傾げる。


 「悠臣、・・・臭いんですか?」


 ゆうまは目を見開いた後、少し怒ったように眉を上げて何度も頷いている。


 「ふ、ふふ。そ、そうですか。」


 笑いを堪えて、桜音はテレビを点ける。ゆうまの為に登録したアニメにチャンネルを変えた。 


 「僕は、李桜にお水を持っていきます。」


 冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、桜音の部屋に向かう。その際に、廊下に漂っている新緑の匂いに桜音は堪えきれずに声に出した笑った。


 「く、くふ、・・・あっーはははっ!!臭いんですって!貴方っ!!」


 桜音の笑い声に反応したのか、匂いが強くなる。


 「現実ではこれが限界のようです。言い訳は夜に聞きますよ。」


 目を細め、桜音は強気に告げた。

 

 

 部屋では李桜はぐっすりと寝息を立てていた。

 桜音はそっと机にミネラルウォーターを置いた。


 李桜の寝顔を見ながら今朝の事を思い出す。

 いつまでも起きて来ない李桜が珍しく、出掛ける前に顔を見ようと部屋を覗いた。


 扉を開けた瞬間、甘い匂いが全身を包んだ。眩む視界にベッド下に倒れている李桜の姿が映った。

 『李桜!』

 異常だとわかる。

 抱き上げた李桜は死人のように肌が青白かった。

 胸の動きが鈍い。手首の脈も弱い。

 視認と触診に桜音は救急車を呼ぶか判断に迷った。

 甘い匂いから、悠真が関わっている事はわかる。けれど、説明はできない。悠真の事を伏せて隠せば、原因を探る事から始まり時間がかかるだろう。


 とにかく、起こさなければ。


 『李桜っ!起きて!!』


 反応は、ない。


 『李桜っ!!』


 頬を軽く叩くが李桜は目を閉じたままだ。

 目頭が熱くなる。


 『李お、ん・・・。』


 甘い匂いの中、新緑の匂いがした。


 『・・・はる、おみ?』


 悠臣が近くにいる。

 どういう事だ。

 あたりを見渡す。

 目の前の姿見にうっすらと人影が映っていく。


 悠真を捕まえている悠臣だ。


 李桜に視線を移すと、胸を大きく上下させている。手首の脈も正常だ。


 (良かった。)


 赤みをましていく李桜の頬に桜音の溢した涙が伝っていく。


 (良かった・・・?)


 

 「お姉?」


 目覚めた李桜が桜音を見ている。

 

 「お水、持ってきました。」


 270mlのペットボトルを李桜に見せると李桜は起き上がった。桜音はキャップを緩め李桜に渡した。


 「ありがとう。」


 受けとり、李桜は二口程飲んだ。


 「お姉、・・・あの、」

 「悠真ならアニメ見てますよ。夜まで李桜の夢に入らないように伝えてます。」


 ベッドに座り、桜音が説明する。李桜はホッと肩を落とした。

 

 「お昼は宅配頼みましょう。何食べたいですか?」


 桜音の提案に李桜は少し考え、


 「冷やしうどん。」


 と答えた。


 「良いですねぇ。僕もそれにします。あ、もちろん、食後のデザートもね。」


 李桜の返事に桜音は頷いて立ち上がった。

 

 「リビングに来れるなら来なさい。悠真が待ってますから。」


 桜音の言葉に李桜は照れたように笑った。


 リビングに戻り昼食の注文を行い、メールの確認を行なった。


 (昼を食べて、李桜に問題なければ半日出社してもいいかな。どーせあきちゃんも残業だし。)


 リビングではゆうまはアニメに釘付けのようで、ソファからは甘い匂いが漂っていた。

 桜音は何も言わずにダイニングテーブルに腰掛け頬杖をついてアニメを一緒に見る事にした。


 「ふふっ。」


 向かいの席から新緑の匂いがする。

 見えない事と、ゆうまの邪魔をしないようにと近くに来たはるに桜音は吹き出した。

 ムッとした顔をしながら見ているのだろうと想像がつく。


 12時に宅配でうどんが届いた。

 李桜も部屋からリビングに顔を出す。甘い匂いに李桜は「大丈夫。」と笑っていた。

 


 「李桜の様子も良くなったので、ちょっと仕事に行ってきます。帰りは21時過ぎると思いますけど、何かあれば連絡して下さいね。」

 「うん。ありがとうお姉。気をつけていってらしゃい。」

 「ええ。悠真、李桜の事頼みましたよ。」

 

 甘い匂いが強くなる。李桜も桜音もゆうまが手を上げて返事をした姿が難なく想像できた。


ーーー


 桜音が出掛けてたから李桜はオンライン授業の事を思い出した。急いでタブレットを開く。チャット画面には休みの連絡を桜音が既に入れていた。


 「良かった。」


 安堵した李桜の傍から甘い匂いが漂ってくる。

 

 「ねえゆうま。ちょっとお昼寝するから夢に入ってきて。」


 1人しかいないリビングで李桜は微笑んだ。


 「お姉と約束したけど、大丈夫。ゆうまとお話したいから。」


 返事はなく、甘い匂いだけが漂っている。

 李桜はソファに横になった。


 「大丈夫。お姉には言わないよ。」


 そう言い、李桜は目を閉じた。

 

 次に李桜が目を開けるとそこはラベンダー畑だった。何処までも続く現実感の無いラベンダー畑。

 

 風は吹いているのに、ラベンダーの匂いはしない。夢の中なので、不思議な感覚だ。でも、ゆうまに取ってはこれが『当たり前』なのだろう。


 「・・・李桜。」


 泣き出しそうな、小さな声に李桜は振り返る。

ゆうまはは服の裾を握って俯いていた。

 

 「ゆうま。」


 李桜が微笑み手招きする。ゆうまは顔を上げたが躊躇しているようで戸惑っている。


 「好きなの、我慢するの?」


 李桜の言葉にゆうまは堪えていた涙を溢した。


 「り、りおん〜!」


 泣きじゃくり掛けてくるゆうまを李桜が抱き止める。膝を突いてゆうまはわんわん泣いた。


 「う、りぉ、ご、ごめ、ごめなさぃ。」


 呂律が回らず、引き攣る声でゆうまは李桜に謝った。ゆうまの頭を撫で李桜も泣いていた。


 「ごめんね、私が寝なかったから。ゆうまが待っていたの知ってたのに。」

 「オレが、む、むりにおじゃ、ましたから、りおん、死ぬかと思ったー!」

 

 互いの存在を確認するように抱き締める腕の力が強くなる。


 ラベンダーが揺れている。



 「・・・うにぃ、ふびゃ。」


 泣き疲れたゆうまは李桜の膝で眠っていた。

 李桜を離さないように、しっかりとスカートを握っている。その様子に李桜は苦笑するしかなかった。

 ゆうまの頭を撫でると丸い突起に触れる。

 『角』だ。

 ゆうまが夢魔である、証。


 「みゅあっ!」


 角を触るとゆうまは奇声を発して飛び起きる。

 

 「りおん?角触ったぁ?」


 寝ぼけ眼のゆうまに李桜は頷いた。大きな欠伸もしている。

 

 「ゆうま眠いの?」

 「ぅん。いつもは寝てる時間なの。」


 そういい、ゆうまは李桜の隣に座った。

 

 「はるにくっついてぷかぷか。・・・でも、はるのお腹ボコった事まだごめんなさい出来てない。」

 

 しょんぼりと話すゆうまに李桜は大丈夫だよと笑った。


 「はるさんはゆうまが大事だもん。謝ったら許してくれるよ。」


 微笑んだ李桜にゆうまは首を横に振った。

 

 「今のはるね、臭いの。血が臭いのはあったけど、はるから臭いのは初めて。近くに行きたくない、臭いもん。」

 「・・・。」

 

 臭いの問題は切実だ。スメルハラスメントという言葉ができるくらいに。


 「・・・臭いなら仕方ないのかな?」

 「うん、とっても臭いの。おえーってなっちゃう。」


 べっーと舌を出して顔を歪めるゆうまの拒否度が李桜に伝わる。


 「桜音とえっちしてた時は良い匂いだったの。血も。でもね、今は手当たり次第えっちしてるから血もはるもくっさいっのっ!ふしゅっー!」

 「・・・。」


 かおが赤くなり、何と答えたら良いかわからない李桜にゆうまが続ける。


 「でもね!桜音とお話するんだって!だから良い匂いになるっー!」


 両手を上げて喜ぶゆうまは普段のゆうまのようだ。


 「良かったね、ゆうま。」

 「んっ!あ。」


 ぐぅうう。


 ゆうまのお腹の音が鳴った。ゆうまは直ぐにお腹を抑え李桜に背を向ける。


 「ゆうま?」


 黙ったままのゆうまの背中に問いかける。ゆうまは恐る恐る振り返った。

 

 「・・・お腹、空いちゃった。」


 ゆうまは昨日から食事していない。

 李桜の体調も万全ではないし、はるのところにも行けない。


 「・・・いいよ。」


 ゆうまの背を抱き締めた李桜に金眼が見開いた。聞き間違いじゃないか、耳を疑う。


 「・・・キス、くらいなら。」


 ボソボソと頬を真っ赤にしながら話す李桜にゆうまは歓喜に震えた。


 「〜〜っ!!李桜〜!」


 振り返るとゆうまは李桜を抱きしめていた。


 「ありがとう〜!李桜大好きぃ〜!!」

 「・・・キスだけだからね。」

 「ぅんっ!ちゅーでもちょっとお腹いっぱいになるっ!!」

 

 ゆうまの喜びように李桜は恥ずかしいそうにだけど幸せそうに笑った。



ーーー



 昼過ぎの出勤は電車が混んで居なくて快適だ。

桜音が出勤するとオフィスには事務員のみだった。


 「神夜月さん。」

 

 透き通る声に桜音が振り返る。

 

 「所長。今朝はご迷惑おかけしました。」

 「問題ないわよ。」


 相水弁護士事務所の所長『相水政子』。

 実年齢にそぐわない、若々しい声に姿勢の良さからオーラを感じる女性。もう既に還暦を過ぎている事は所内でも一部しか知らない。


 「少し、良いかしら?」

 「はい。」


 所長の後に続いて桜音は所長室に入った。


 所長室のソファセットは来客用も兼ねている。VIP専用なので、豪華な作りである。


 「座って。紅茶でいい?」

 「コーヒーをお願いします。」


 無遠慮な桜音の言葉に、政子は笑って電気ケトルのスイッチを入れた。カップを2つ用意し、桜音様にドリップコーヒーを、自分用に紅茶を淹れる。


 「どうして、コーヒーなの?」


 テーブルにコーヒーと紅茶を置いて政子が桜音に尋ねる。


 「これから仕事なので眠気覚ましに。」


 微笑んだ桜音に政子は苦笑し頷いた。


 互いに一口ずつ飲み喉を潤す。先に口を開いたのは政子だった。


 「妹さんは大丈夫?」

 「はい。多分、環境の変化が大きかったと思います。」


 睫毛を伏せ話す桜音に政子は目を細めた。


 「貴女は頑張り過ぎるのよ。肩の力を抜いたら?」

 「大分抜いてますよ。おかげで田中さんは忙しいようです。」

 「今は彼にはうちの事務所の評判を上げてもらわなくちゃ。」

 

 政子の瞳が怪しく光った。


 「いずれは貴女にも稼いでもらうんだから。妹さんの手が離れれば問題無いでしょ?」

 「所長は私の事を買い被り過ぎですよ。」

 

 カップに揺れるコーヒーを見つめ桜音が呟く。カップの中は黒く波打っている。

 

 「何言ってるの、隠しても無駄よ。貴女が弁が立つのは知ってるのよ。事務所でバイトしながら司法試験もパスしちゃうんだもの。期待するわよ。」

 

 わざとらしく肩を竦める政子に桜音は答えない。政子が言っているのは実母の育児放棄が児相にバレて面会した時の事だ。あの時は自身と李桜の権利を主張するので頭がいっぱいで何を言ったか桜音は覚えていない。


 「それより、貴女も良い歳だし。お見合いとか「結構です。」


 間髪入れずに拒否した桜音に政子は固まった。

 怒気を含んでいたからだ。


 「この手の話が嫌いな事は知ってるじゃないですか。」


 コーヒーを一気に飲み干し、桜音は立ち上がる。


 「私は諦めないわよ。」


 何故か挑むような政子を桜音は静かに見下ろした。


 「私を自由に出来るのはこの世で1人だけです。」

 「ほんっとにプライド高いんだから〜。これだから完璧主義者は困っちゃうのよ。」

 「この仕事には向いてると思いますよ。」

 「恋愛には向いてないっていってるの。」


 今度は桜音が肩を竦め所長室から出て行った。



 オフィスに戻り、メールと電話対応をした後昨日の残した事務処理を行った。

 18時が過ぎるとオフィスに戻ってくる者達もいて、その中に田中聡勇の姿もあった。


 「桜音?」


 休みと聞いていた桜音が出社しており、こんな時間まで残っている事に驚いていた。


 「お疲れ様です、聡勇さん。」


 デスクトップ画面から視線を上げずにキーボードを打ち込み答える桜音に珍しげに聡勇はジャケットを椅子にかけた。


 「こんな時間まで残ってるなんて、明日は槍が振るのか?」

 「是非ともそうなってほしいものですね。」


 聡勇が悪態を吐いても桜音は視線を上げない。

 残業をしない桜音が出社しているのなら期限の迫った案件があるのだろう。


 邪魔はするまいと聡勇もPCを立ち上げた。


 キーボードの音だけが1時間程室内に響いていた。先にキーボードから手を離したのは桜音だ。


 「んっー!終わったー!」


 達成感を表すような大きな伸びに聡勇の手も止まる。桜音は既にパソコンの電源を落としていた。

 

 「それではお先に失礼します。」

 

 すれ違う桜音の腕を聡勇が掴んだ。


 「手伝ってよ。そしたら送ってくし。」

 「結構です。早く帰りたいんで。」

 「女性の1人歩きは危ないよ?特に桜音は美人なんだから。」


 2人っきりの時はオネエ口調のはずが、今日は何故か『男』のままだ。

 桜音は眉を寄せると聡勇の手を振り解いた。


 「そういうのやめてください。不愉快です。」


 聡勇を睨み付け桜音はオフィスを出て行った。

1人取り残された聡勇は額に手を当てて小さく息を吐き出した。


 普段より2時間ほど遅い帰宅時間だが電車はそれなりに混んでいた。

 ドア付近で車窓からの景色をぼんやりと眺める。

 電車を心地良いと桜音は感じる方だ。

 他人は景色の一部だと感じている桜音は人に興味はない。

 だから、聡勇の好意も桜音にとって迷惑なだけだ。

 全ての人間に好かれる必要はないのだから。


ーーー


 「たっだいまでーすっ!・・・おやぁ?」



 リビングにテンション高く入る桜音はソファに座る李桜を見てニヤニヤと笑った。

 2人掛けのソファの左端に座っていた


 「おかえり、お姉?」

 「お家デートですかぁ〜?」


 にんまりと揶揄う桜音に李桜の頬は赤くなる。


 「違うっ!」


 力いっぱい李桜は否定するが桜音は気にも留めずに鼻歌を歌い出した。そして、普段通りにシャツのボタンを外す。


 「お姉っ!」

 「はい?」


 急な李桜の声に桜音は首を傾げた。


 「ゆうまが居るんだから、部屋で着替えてっ!」


 桜音の部屋を指差し、李桜は顔を更に赤くした。


 「別に悠真は気にしませんよ?」

 「・・・そうかもしれないけど、部屋で着替えてっ!」


 追い出された桜音はそのまま浴室に向かった。


ーーー


 桜音が湯船に浸かっている間、李桜は夕食をテーブルに並べた。


 「ありがとうございます〜。今日はカレードリアですかー。」


 ノースリーブにショートパンツの桜音がリビングテーブルについた。その格好もやめてほしいと思ったが確かにゆうまなら気にしないだろうとも思う。


 (なんだか、お姉に、・・・嫉妬してるみたい。)


 嫉妬という言葉が浮かんだ事に李桜はぶんぶんと首を降った。

 

 「李桜?」

 「何でもないです。それから、」

 

 李桜が持ってきたのはふるふるに揺れるシフォンケーキだった。桜音の瞳が輝く。


 「やぁーん。素敵じゃないですかぁ!いただきまぁーすっ!」

 

 桜音が先に手をつけたのはふわふわのシフォンケーキだった。


 「おかわりあります?」

 「あるけど、」

 「もう一切れくださいっ!」

 「ドリアも食べてくださいね。」

 「勿論です〜。」


 何気ないやり取りが続く。桜音がひょうきんに振る舞い李桜が少し呆れながら。


 22時を回った頃、李桜は部屋に戻った。李桜の後を甘い匂いがついていく。


 「・・・。」


 桜音はソファに座っていたが、そのまま右に倒れ込んだ。正面にあるテレビ画面にはソファに横たわる自分の姿が映っている。


 背後には誰もいない。


 夢に来いと言ったけれど、約束を守る保証はない。


 直接逢いたい。


 桜音のもどかしさは何度も溜息に現れた。

 もう、このまま寝てしまおう。

 そう、桜音が目を閉じた時。


 新緑の匂いがした。


 桜音は目を覚ましてテレビ画面を見た。

 自身が横たわるソファの後ろに角が生えた長髪の男が立っている。


 はるは呆れながらリビングのドアを指さしていた。

 その表情に桜音の目尻が熱くなる。桜音は頷いて電気を消しリビングを出た。

 

ーーー


 中々寝付けないかと思っていたが、李桜はすんなりと眠りにつく事ができた。目を開くとそこは白い砂浜が光る海だった。


 「わぁー!今夜は海〜!」

 

 海に向かってゆうまが走りだす。李桜はその様子を砂浜で眺めている。

 

 「李桜もバシャろー!」


 服やズボンが濡れる事にゆうまは抵抗なく水飛沫を上げてはしゃいでいた。


 「うん。」


 ゆうまの元に李桜も駆け出す。白い砂浜を蹴り波打ち際に進む。


 「水かけっこー!!」

 

 腰までの高さに入ると海水をかけるゆうまに李桜も負けずに腕を動かした。


 「わっ!目に入っちゃう!」

 「楽しいぃ〜!!」


 互いに海水を掛け合う。水飛沫が太陽光を反射してらキラキラと光る。


 「楽しかったー!」


 満足したゆうまは砂浜に大の字に寝そべり伸びた。その隣に座り李桜は海を眺める。

 何処までも続く水平線。白い雲が流れる空。

 果て無く続く白い砂浜。

 磯の香りはせずに人気の無い砂浜が現実味を感じさせない。


 「現実の海とはやっぱり違うね。」

 

 きょととゆうまは李桜を見上げる。


 「海違うの?」

 「うん。匂いもしないし。ヤドカリもいない。」

 「ヤドカリ!」


 金眼を輝かせゆうまが起き上がる。


 グゥ〜。起き上がった途端、ゆうまのお腹が鳴った。


 「・・・お腹空いた。」


 お腹を抑えゆうまはチラリと李桜を見た。うるうると金眼を潤ませゆうまは李桜を見上げる。


 「・・・ぇ、」


 頬を赤らめ固まる李桜をゆうまはうるうるとした瞳で見つめ続ける。

 

 「・・・ご飯。」


 縋るような視線に李桜は「うっ」と仰け反った。

 体調は問題ない。夢の中なのだから。

 そう、夢なのだ。


 「ゆうまっ!」

 「ひゃい!」


 李桜の急な声にゆうまはビクついた。最近のゆうまは大きな声に敏感になっていた。


 「1日1回だからねっ!!」


 ヤケクソで叫ぶ李桜にゆうまは顔を綻ばせる。


 「うん!!」


 嬉しさのあまりゆうまが李桜に抱きついた。

 李桜はまだどうしても慣れない。でも、ゆうまと居る為には必要な行為だ。


 「いー匂い。李桜の匂い好きっー!」


 李桜の胸に顔を埋めゆうまは深く息を吸った。その感覚に李桜の産毛が粟立つ。


 「ゆうま、くすぐったい、「あ!1日1回なら、昨日えっちしてないから昨日の分も足していいよね?・・・ね?いいでしょ?」


 嬉しさで昂っているゆうまに李桜の小さな声は聞こえない。

 鋭い金眼で李桜を射抜く。こうなってしまっては李桜は頷くしかない。


 了承した李桜にゆうまは笑ってキスを送った。


 

ーーー

 


 桜音はベンチに座っていた。

 古めかしい、懐かしい遊具。今では危険だからと撤去されたものばかりが一定の間隔で配置されている。


 公園には桜音1人で子供達の姿はない。勿論、『当時の』桜音の姿も。


 (昔の日差しは柔らかかった。今のように突き刺さる感じではなかったな。)


 桜音がそう考えていると、ベンチが軋んだ。


 隣に誰かが座った。

 黒い短髪の軽装の男。


 「で、何が聞きたいんだ?」


 ぶっきらぼうに問うはるに桜音は眉を寄せたが、一呼吸して堪えた。


 「悠真は咎めませんよ。あの子はまだ幼くて何も知らなかった。」

 「妹が植物状態になるところだったんだぞ。」

 「貴方の保護管理責任でしょ。」


 はるからの返事はない。桜音が続けた。


 「李桜も怒ってはいませんし。・・・あの子は優しい子だから。」

 「優しさで、死ぬのか?」


 桜音もはるも隣同士に座っているが、正面を向いたまま話を続けていた。


 「・・・それは貴方も同じでしょうに。」


 桜音の言葉に呼応するように風が吹いた。


 「僕ら、ずっと平行線じゃないですか。・・・昔は僕の方が意地っ張りだった。今は貴方が意固地で。・・・余裕無いとか?」


 桜音の話をはるは黙って聞いていた。


 「何度も同じ事を言わせるな。俺達は夢魔だ。お前の知っている奴じゃない。」

 「貴方、李桜に言ったそうですね。『お姉さんは想いが強すぎる。どれだけ望んでも絶対に叶う事はない。心身を病むだけ。強過ぎる激情は誤った判断をさせる。・・・幸せになりたいだろ?って』。」

 「一語一句違わずに言ったかな。」

 

 否定しないはるに桜音は呆れながら、それでも笑った。


 「悠真を助ける事が出来なかった、死んでしまった。無念だったでしょ。」

 

 金眼を見開いたのが、桜音にはわかった。それでも気付かないまま桜音はまだ正面を向いて喋り続けた。


 「当時何があったかはわかりませんが、悠真を助けようと必死だった事はわかりますよ。貴方は約束を破る人間じゃない。勿論、僕を傷付ける事もしない。」

 「誰の事かさっぱりだ。」


 さわさわと風が吹き、時間が流れる。

 その沈黙さえも悠臣とならば桜音は心地良かった。


 「悠臣ならそうするでしょ。」

 「やけに確定的だな。」


 はるは不機嫌に正面を向いたままだ。

 ブランコが風で揺れている。


 「貴方のつもりで、生きてきましたから。」


 風が木々を揺らす。はらはらと葉が落ちた。


 

 「・・・お前の重さにはドン引きだ。」

 

 苦笑するはるに桜音は肩を落として答えた。


 「それくらい、貴方が魅力的なのでしょう。」



 思考も人生観も全て変えるくらいに。


 

 「話は終わりか?」


 立ち上がったはるを桜音は見上げた。満足そうな雰囲気がある。ムカついたが、桜音は表情に出さないように気をつけ話し続ける。

 

 「いえ。まだ悠真との約束があります。」

 「ゆうまと?」


 訝しむはるに桜音は微笑んだ。


 「ええ。貴方臭いんですって。」


 天女を思わせる程、慈愛に満ちた笑みで発せられた容赦ない言葉にはるの柔らかい部分が抉られる。

 

 「座って、目を閉じて下さい。」

 

 はるは桜音に言われた通りに椅子に座って目を閉じた。

 

 「あっちがいいです。貴方暖かい場所好きでしょ?」


 桜音が指さしたのは整備された芝生だった。はるは指さされた場所に歩いていく。

 ゆうまの為なら直ぐに警戒心もなく受け入れるはるに桜音は苛立った。がやはりそんな感情は出さずにはるの前にいく。


 「悠真とね、約束したんですよ。」


 そう言って桜音ははるの右肩に自身の左手を置いた。一息つき、桜音は振り上げた拳をはるの頬にぶつけた。


 「っ!?」


 殴られた勢いで倒れこんだはるに跨り、桜音はもう一度右手を振り上げた。


 「何すんだ!?」


 右手を掴まれた桜音ははるにニッコリと笑ってみせる。ある種、狂気じみた笑みだ。


 「弱い貴方をボコると約束しましたので。あと100発くらいボコります。」

 「・・・私怨も混じってるだろ。」

 「100発ボコれば臭くなくなるでしょーよ。」

 

 フンと鼻を鳴らした桜音にはるは口を開けて固まった。これまでこんなイかれた女に会ったことない。


 「にしても。貴方そんなに臭くないですけどねぇ?」

 

 殴りかかったと思えば今度は猫のように擦り寄ってくる。ゆうま以上に行動が読めない。

 

 抵抗を辞めたはるの首筋に顔を寄せ桜音は匂いを嗅いだ。


 「・・・夢なんだから臭うわけないだろ。」


 桜音の肩を掴み、はるは上半身を起こした。面倒そうに顔を背けるはるに桜音はにんまり笑った。


 「ふーん。夢魔にしかわからないんですかね?」

 「そうだ。」


 肯定したはるに桜音は首を傾げ、細い腕をはるおみの首に回す。


 「?」


 金眼を細め、警戒しているはるの胸に桜音は全体重をかける。はるが後ろに倒れ込むと桜音はクスクス笑った。


 「僕の幸せはここにあるんですね。」


 桜音の言葉に答える事は無く、はるは何処までも高く広い青空を見上げた。


 「・・・重っ。」


ーーー

 

 拙い、けれど相手を思いやった優しい愛撫。

 触れ合いながらお互いに愛しいと感じる。


 

 「お腹いっーぱぁーいっ!!」


 ムードもへったくれもなく。ゆうまは事を終えると元気に両手を上げた。

 その隣で李桜は恥ずかしいとシーツに包まり隠れていた。


 「ねえー、李桜!気持ち良かったー?」

 

 行為に関しては気を配るゆうまだが、発言にデリカシーは無かった。李桜は小さく頷く。そんな李桜にゆうまは嬉しさで飛びついた。


 「良かったー!」


 毎夜こんな感じなのだが、李桜はまだまだ慣れていない。


 「それより、ゆうま。あの『召喚術』のこと。ちゃんと教えて。・・・ぇっちばっかりじゃなく。」


 ごにょごにょと小さくなる言葉にゆうまはあっとなる。


 「そうだ!あのね、李桜にもやってもらう事があるの!」


 忘れてた!と言わんばかりのゆうまの反応に李桜は嘆息した。予想通りだった。


 「あー!溜息吐くと幸せ逃げちゃうー!」

 「やってほしい事ってなんですか?」


 間髪入れずに聞いた李桜にゆうまの思考が切り替わる。


 「えっとね、いんのつきに黒い薔薇と白い薔薇をガラスの花瓶にさすの!」


 両手で×を作りゆうまは李桜には説明した。


 「ガラスの、花瓶に薔薇?」

 

 繰り返す李桜にゆうまは力強く頷いた。


 「うん!あと、お水に血を混ぜるんだ。」


 胸の前で両拳を握るゆうまに李桜はきょとんとしたあと、眉を寄せた。


 「私は真剣に聞いてるの。ちゃんと順序だって話して。」

 「!!」


 これまでに見たことのない、怒気を纏った李桜にゆうまは固まる。


 「約束したでしょ、召喚するって。ちゃんとしたいの。ゆうまが危なくないように。」

 「・・・でも、オレ説明上手じゃない。」


 俯くゆうまの頭を李桜が優しく撫でる。ゆうまはおずおずと顔を上げた。


 「私が聞いた通りに答えて。」

 「わかった。」


 微笑む李桜にゆうまは頷いた。



 

 用意するものはガラスの花瓶と真水。

 白い薔薇と黒い薔薇を一輪ずつ。

 ガラスの花瓶に真水、召喚者の血を一滴垂らす。

 2本の薔薇を交差させ、インの月に照らす。


 現実と夢の境界から対象の夢魔が現れる。



 「きょーかいからびょーんって出てくるのっ!」


 上手く説明出来たのか、ゆうまは上機嫌になった。


 「ガラスの花瓶と白い薔薇とお水は用意できるけど、黒い薔薇は・・・それにインの月ってどう

いう意味?」


 李桜の疑問にゆうまはハッとなった後に眉を下げた。


 「・・・はるに聞かなきゃわかんない。」

 「でも、教えてくれないんでしょ?」

 「絶対怒られるー。」


 しょんぼりとしたゆうまに李桜も困ってしまった。


 「私も調べてみる。ゆうまも調べてみて。夢魔の世界の事はわからないから。」

 「んっ!わかった!!」


 ゆうまは何度も頷いた。その直向きさを李桜も信じる事にした。


 「じゃあ、調べてまた夜に報告しましょ。」

 「わかった!」


 そう言い、ゆうまは右手の小指を李桜の前に出した。李桜は笑って自身の小指を絡める。


 「ゆーびきりげんまん、うそついたらえっちたくさーん!ゆ、「やだっ!!」


 ゆうまが言い終わる前に李さんが指を離した。

 頬を赤く染め、そっぽを向いた李桜にゆうまはしょんぼりと頭を下げた。


 「・・・かっちかっち〜。」


 そう、残念そうに呟きながら。

 

ーーー


 太陽が昇る。

 現実が光に照らされ始める。

 直感的に『帰る』時だと夢魔の本能がいっている。


 「夜明けだ。」


 いつもように別れの言葉をはるは告げた。

 

 今夜は食事をしていない。上物余りを探さないといけない。

 上に乗ったままの桜音に声をかけるが桜音からの返事はない。


 「おい。」


 桜音の肩を揺さぶる。翠髪が揺れている。

 

 「時間だ。」

 「・・・ぃや。」


 か細く小さな声にはるは空を見上げる。

 

 「・・・桜音。」

 

 はるに名を呼ばれ、桜音の涙が溢れだした。


 「もぅ、嫌なの。・・・貴方と離れるのは。現実にも夢にも悠臣が居ないのは嫌。貴方と生きたいっ!」


 離れたくないとしがみ付く桜音をはるは抱きしめた。

 わかっていた。こうなる事は。

 忘れてほしいと願ったくせに、近くに居た。

 自分の存在が苦しめていると知っていたのに。

 割り切れなかった。


 「・・・なんでこんな事になったんだ。」


 自身の胸にしがみ付いて泣いている桜音の頭にはるはそっと触れた。

 

 「・・・ごめん。」

 

 桜音の体が消えていく。

 現実に帰るのだ。


 喪失感だけが毎回はるには残っている。どんなに抱いても満たされる事はない。

 1人取り残された公園ではるはぼんやりと空を眺めていた。

 次第に黒く染まり歪んでいく空間の底にはるは落ちていく。


 目を瞑り、上下左右もわからない感覚の中を彷徨う。



 「はるっー!」

 

 元気な声がはるの耳に届く。

 上機嫌のゆうまがはるの背に飛び乗りにニコニコと笑っていた。


 「どうした?」


 優しく微笑むはるにゆうまはハッとなり離れる。直立不動ではるの前に立ち、


 「お腹ボコってごめんなさいっ!」


 90度に頭を下げたゆうまにはるは苦笑した。


 「もう怒ってない。」

 「それから、李桜の夢から出してくれてありがとっ!李桜元気になった!」

 「・・・そうか。」


 にぱっーと笑うゆうまにはるは目を細める。

 

 「はるは桜音とえっちした?良い匂いっー。」


 くんくんと鼻を動かすゆうまをはるは寂しげに見つめた。


 「お話しただけだよ。」

 「お話だけでこんなに良い匂いー?桜音すごーいっ!」

 

 近付くゆうまをはるは抱き締めた。


 「ほら寝る時間だ。」

 「はぁーいっ!」


 ゆうまの体を抱いて目を閉じる。

 深く眠るゆうまの頭をはるは撫でた。


 1人で食事が出来るようになったのなら、もう助けも必要ないだろう。

 俺の存在なんて、


 ドクンッと鼓動が鳴った。体が冷たく感じる。


 「・・・。」


 今、何を考えた?

 頑張らないといけないのに。

 ああ、頑張らないと、


 何の為に


 「・・・。」


 頭が痛い。桜音の泣き顔を思い出し不快になる。昨夜は食事をしていない。食事をしないと。

 

 「・・・はぁー。」


 ゆうまを抱いたままはるは深く溜息を吐いた。

 空腹は理性を失わせる。ゆうまが起きたら上物余りを探しいかなければ。

 

 「・・・腹減った。」

 

ーーー

 


 オンライン学習終え、李桜は軽くストレッチをしていた。運動は家事と週末の外出だけ。

 夢の中ではゆうまと遊んでいるが、現実で体を動かす事もない。


 やろうと思えば、行動できるはずなのに。

 あれこれ言い訳している『自分』がいる。


 「・・・。」


 沈んだ気持ちを切り替える為に李桜はタブレットを開いた。


 こうして安心して悩めるのだってお姉のおかげなのだ。生きるのに困らないからだ。


 恩返しがしたい。

 

 今自分に出来る事をしよう。

 

 きょろきょろと李桜は辺りを見渡す。勿論、誰もいない。そして、新緑の匂いもしない。


 ふぅーと緊張をほぐすように息を吐き出し、タブレットに視線を向ける。


 ショッピングサイトを開き、ガラスの花瓶を探す。

 値段はピンキリでどうにかお小遣いで買えそうだったので李桜はホッとした。そして、ショッピングサイトを閉じ、検索画面に戻る。


 ゆうまの話した『黒い薔薇』と『いんのつき』について検索してみる。


 『黒い薔薇』は直ぐに画像が見つかった。想像していた黒というより赤黒い感じだ。


 それから『いんのつき』を検索するがヒットはしなかった。片仮名や空白を入れても何も出てこない。


 「月、魔法、夢魔、召喚・・・。」


 気になる単語を打ち込んでみるが、検索されるのは漫画や小説、都市伝説といった類の物だ。


 (やはり現実的じゃないんだよね。ファンタジーだもん。)


 スクロールしながら流し読んでいくがはっきりとした事はわからない。


 『月』『魔法』の単語に掛かっているのか後半は昔話や童謡、宗教関連が羅列されている。


 (童謡かぁ。そういえばお母さんもお月様の歌っていたなぁ。)


 病室のベッドで寝たきりの母は幸せそうに童謡を口ずさんでいた。

 李桜が顔を覗き込んでも母は空虚の一点を見つめるだけだった。


 道ですれ違う母親達とは違う、自分の母親。

 名前を呼んでくれる事も、自身を見てくれる事もない。

 

 看護師との会話が終わり、桜音が病室のドアを開ける。その時の桜音はいつも唇を結んで辛そうにしているのだ。

 李桜の視線に気づくと、桜音はにっこりと笑って見せていた。


 そんな姉が泣いている姿を見たのは初めてだった。

 はるの話をする時だけ、表情や声音が変わるのも。


 「・・・逢わせてあげたいなぁ。」


 そんな簡単な事じゃないかもしれない。

 それでも喜んで貰えるならいいじゃないか。

 誰かの役に立てる自分を誇らしげに思えるなら。


 もう一度、タブレットに向き合い大きく息を吸った。


ーーー


 「はーるー?」

 目を覚ましたゆうまははるの頬を突いた。深く眠っているのか起きる様子もなかった。

 腕を組んで暫く考えた後、ゆうまは閃いたようにその場を離れた。

 

  ぷかぷかふわふわしながらゆうまは『何も無い空間』を漂っていく。

 

 「いないー?」


 きょろきょろ辺りを見渡す。いくつもの黒い塊がふわふわと浮いる。それは飛んでいったり弾けたり、急に消える事もあった。


 「あ!」


 ぴょこんと緑の髪が跳ねている、探していた男を見つけた。


 「くねくねっー!!」


 自称風の王子様を見つけたゆうまが大きな声をだす。


 「おー、ちっこいのじゃん。」

 「ねー、教えてっー!」


 飛びついたゆうまを風の王子様は簡単に受け止めた。

 

 「何何?やっぱ兄貴とケンカしたのか?」

 

 ニヤニヤと笑う風の王子様にゆうまは「仲直りしたー。」と答える。それはつまらんと風のおうじは呟いた。


 「で?何よ?」

 「インの月って何て言うのー?」


 首を傾げ問うたゆうまに風の王子様も首を傾げる。


 「インの月はインの月だろ。」

 「ちーがーうー!そーじゃなくて!」


 むぅうと頬を膨らませるゆうまに風の王子様は神妙な顔つきになる。


 「それは他の夢魔に聞かない方がいい。騙されるぜ?」


 きょとんとゆうまは首を捻る。


 「召喚術の事だろ?」


 こくりとゆうまは頷いた。


 「陰の月、淫の月、印の月、隠の月・・・インの月は俺たちの相性が良い月を指すんだ。それは個体で違うから、どれかは自分しかわからねぇの。」

 

 普段の能天気な様子とは180度も違う風の王子様をゆうまは真っ直ぐ見つめた。真剣さがゆうまにも伝わる。


 「じゃあどうしたらいーの?」 

 「そりゃ、・・・あー、余計な事言うなって釘さされてんだよねぇ。」

 「おーしーえーてー!」

 「こら、角触んなっ!」


 顔の王子様の細い角を掴みゆうまはがゆする。


 「だー!夜、月みて気持ちーって思ったのが相性だっ!」


 風の王子様の言葉にゆうまはにぱっと笑った。


 「ありがとー!じゃあねー!」


 礼を言いゆうまは現実世界に飛んでいく。


 「ったく。」


 角を摩り、風の王子様は頭上を見上げた。


 何十者の黒い塊が浮いている。


 「こんなとこでする話じゃないけど、まあ俺には関係無いし。」


 

 今夜は雲が少ない夜だった。

 ゆうまは両手を突き出し、風を切っている。

 これもアニメの影響だ。


 風の王子様の言葉をゆうまは感覚で理解した。

 月の満ち欠けに相性があるのだと。


 「今夜の月は違うー。」

 

 半月はゆうまの相性ではなかった。


 李桜住むのマンション近くで、はるはまだ眠っていた。ゆうまは頬をツンツン突いたが起きる様子はない。

 角をツンツンしたが反応は無かった。ゆうまは思いっきり角を握る。

 

 「!!?」


 ビクンッ体を震わせたはるおみに、ゆうまはにまっーと笑った。それは誰かの笑い方によく似ている。

 

 「はる、起きたっー!」


 そう言って、ゆうまは逃げるように李桜の家の窓を擦り抜けるように入っていく。

 リビングのソファに座わっている桜音が座っていた。初めてはるに悪戯した。ちょっと楽しかった。その事を桜音に話したくて桜音に近づいていく。

 桜音は振り返ると手招きした。

 

 「おかえりなさい。アニメ見ますか?」


 『おかえりなさい』

 ゆうまは笑顔になると、桜音の隣に座った。桜音は姿を認識する事は出来ないが匂いでゆうまの存在で気付く事ができる。

 

 チャンネルを変えてもらう。今夜は犬や猫といったアニマルアニメらしい。

 ゆうまはテレビに釘付けだ。


 「お姉、おやすみなさい。」


 入浴を済ませた李桜がリビングに顔を出す。ゆうまはピクッと体を震わせた。


 (李桜!)


 ゆうまの声は李桜には聞こえない。

 

 「ええ。おやすなさい。」

 「まだ、起きるの?」

 「ええ。」


 そう言って桜音がチャンネルを変えた。

 

 (あっー!ねこさんっ〜!)

 「これからお笑いがあるんです。」

 「そっか。あんまり遅くならないようにね。」


 そう言って李桜は部屋に戻る。アニメを強制終了されたゆうまもしょんぼりと李桜の後をついていった。

 リビングから甘い匂いが消えた後、新緑の匂いが漂った。

 桜音はクスリと笑い、「おかえりなさい。」と微笑んだ。


ーーー

 

 自室に戻ると李桜はスマホのアラームをセットし、ベッドに横になった。

 ふよふよと漂う甘い匂いに李桜はクスクス笑う。

 

 「すぐ寝るからね。」


 一段と甘い匂いが強くなり、李桜を夢の中に誘う。



 ぱちりと目を開けると公園のブランコに座っていた。

 

 「滑り台もういっかぁーいっ!」


 滑り終えたゆうまが階段を登っていく。

 近所の公園と違う、単体の滑り台は李桜にとっても新鮮だった。

 

 「ゆうまー!私も滑りたいっ!」

 「うん!一緒に滑ろっー!」

 

 滑り台の上でゆうまが大きく手を振った。


 滑り台を2人一緒に滑り、ブランコに一緒に乗った。そして、ゆうまの好きなシーソーに乗る。


 「きょーも楽しかったー!」


 両手を広げて草むらに寝そべるゆうまの隣りで李桜も倒れこんだ。

 青い空を2人で眺める。


 「・・・眠くなっちゃうー。」

 

 うとうとしたゆうまの角を李桜が突いた。


 「ふみゃあっ!?」


 奇声を発し飛び跳ねる。ゆうまは驚いた顔で李桜を見た。

 

 「眠気覚めた?」


 悪戯っ子の笑みの李桜にゆうまは頷いた。


 「覚めたー!えっちするー!」

 「え!?」


 言うが早いかゆうまは李桜に覆い被さっていた。金眼を光ら笑っている。


 「・・・ご飯食べたら月のお話しようね。」

 「・・・うん。」


 抗えない力に頷くしかなかった。



ーーー


 はるが目覚めると抱いていたゆうまの姿が無かった。

 探しに行かないと思ったが体が動かない。

 軽い飢餓状態だと気付いたが頭が重たくて何も考えたくなかった。

 ただ、何も考えずにぼんやりと空を眺める。


 月が輝いているのだから、夜だ。


 (・・・月を見上げるのはあまり気分のいいものじゃないな。)


 はるは目を閉じて眠る事にした。


 夢魔なのだから、夢は見ない。夢を見せるのが仕事だ。代価は『生気』。


 大分前に、この世界を認識した時の事を思い出す。

 目を開けると、何もない空間にいた。

 ここはどこだ、自分はなんだ?

 様々な疑問の中で

 腕に抱いているものはなんなんだ。


 体の特に下半身力が入らない中で、強く抱いていたもの。

 自分より、小さく弱い生き物。

 

 護らないといけない。しかし、その術を知らない。


 どうしたらいいかわからない不安の中、ぽつぽつと黒い玉が浮いている事に見えた。

 ふよふよと浮いているそれを追いかけていく。


 「!」


 世界が変わった。

 言葉の意味のままに。

 眼下には広がる人工灯に機械な人工音が溢れている。


 「・・・。」


 懐かしいような感覚に体が強張った。

 思い出してはいけないような、不愉快な気持ち。

 

 「・・・ふぁ。」


 腕に抱いたものが身じろぐ。焦ったはるは追いかけてきた黒い玉を探すが見つからない。


 どうしていいかわからなかった。はるはふよふよと街中に降りて行った。

 

 頭上から人混みを見下ろす。

 自身と同じように赤子を抱いている女性を見かけた。はるはその女性の後を追いかけた。


 自宅までついていき、赤子の世話の様子を見る。オムツ替えは出来そうだ。入浴もできるだろう。ただ、肝心の食事が用意出来ない。


 考えていた時に気付いた。

 そもそも。自分は『人間』と同じだろうか?


 人間の目に見えず、宙に浮いている。


 自分は何だ?


 自己覚知できない不安にはるはその家から飛び出し、夜空に上がった。


 月に向かって飛んでいるはずなのに、距離が縮まらない。


 はるの中で不安と恐怖が混ざり合う。


 「ぅ、あっ!」


 シャツを小さな手が掴んだ。ビリビリと簡単破けていく。こんな見窄らしいボロ雑巾のような物を纏っている事にはるは気付いた。


 「・・・。」


 なんで、こんな事に。

 

 怒りとも悔しさとも思える、負の感情。

 黒く黒く塗りつぶされていく制御出来ない渦に呑み込まれていく。


 ーまたか。


 目の前に満月を背にした男が立っていた。

 夜色の長髪を後ろに纏め腕を組んでいる。


 ーまた、救えなかった。


 逆光で男の顔は見えない。

 淡々と男は喋り続けていた。


 ー次に繋ぐ為に。


 男はそう言ってはるの眼前に手を翳した。

 一気に脳内に流れ込んでくる情報を処理出来ない。

 ズキズキと痛む頭を抑える。小さな手が何度も頬を撫でていた事で何とか我慢出来た。

 そして理解した。

 自分は『魔』という存在だと。

 どうやって生きていくべきかと。


 小さな手が何度自身の頬に触れている。

 その手に触れると力いっぱい握り返してきた。

 

 「お腹空いただろう?沢山食わせてやるからな。」


 はるの前には男の姿は無かった。

 



 「・・・。」


 懐かしいとは感じないが、不快になった事は覚えている。あれから一気に全てが変わった。


 幾度となく他人の夢に入り、それこそ老若男女問わずに『相手の理想』になっていった。

 夢に入る度に、食事をする度に、頭痛は鈍くなり、常態化していった。

 それは自分の本来の姿もわからないくらいに。答えが出ないと知った時に考える事も求める事もやめた。


 それなのに。


 『おかえりなさい。』


 待っていてくれる誰かが居る。

 

 リビングで笑顔を向けた桜音がはるには滲んで見えた。


 「・・・ああ、腹減った。」


 頭痛が解消される度に、腹が減っていく。

 もっともっとと欲しくなる。


 見えないはずの自身を桜音は認識している。

 立ち上がった桜音ははるを誘うように自室へと手招く。


 ベッドに横たわり桜音は妖しく口角を上げて見せた。


 (・・・どっちが悪魔っぽいのか。)


 肩を落とし、はるは桜音が寝静まるのを待った。


 桜音の夢の中に降り立つ。

 桜の下で桜音は膝を抱えていた。

 近付く足音に桜音は顔を上げる。

 

 「悠臣。」


 桜音は中学生姿でセーラー服を着ている。はるの姿も中学生になっていた。

 

  『はるおみ』


 そう呼ばれるのは嫌いじゃない。


 桜音ははるに抱きつく。はるはそんな桜音を抱き止めた。


 「お腹空いた。」

 「仕方ないですねぇ。先に食事にしましょうか。」


 くしゃりと笑ったはるに桜音は笑って口付けた。


ーーー



 朝日が昇り、陽が沈む。

 月が夜に輝き、白く消えていく。


 単調な毎日はルーティンワークを繰り返すだけ。ただ生きているだけの、小さな幸せは夢の中だけが幸せ。



 「オレとあいしょーいいのは多分まぁるいお月様〜!」 


 元気に手を伸ばしゆうまは李桜に話した。

 

 「満月って事?」

 「うん!満月の夜に、ガラスの花瓶に真水と李桜の血を入れて、白と黒の薔薇をさして、月の光に照らすときょーかいからびょーんなのっ!!」


 興奮するゆうまに李桜は苦笑するしかなかった。


 紙にメモした通りだと李桜は頷いた。


 ガラスの花瓶はこの間通販で買ったし、今日には届く。後は薔薇を花屋に買いに行けば。


 「そういえば次の満月って「明日っ〜!」


 ニコニコ顔にゆうまに李桜の顔が青くなる。


 「・・・あ、明日?」

 「うん!明日〜!」


 李桜を抱きしめゆうまはニコニコだ。


 「しょーかんしたら一緒に居られるねっ!」


 満面の笑顔で幸せそうなゆうまに李桜の心は温かくなる。


 「私頑張るね!」

 「オレがついてるから大丈夫っ!」


 抱き締める事で互いの存在を感じる。初めてのこの感覚がゆうまは心地良かった。


ーーー



 「最近、ゆうまが変だ。」

 「貴方、ピロートークって知ってますか。」


 体を重ね終えた第一声がそれか。ムカついた桜音は向いあったはるの顔を思いっきり抓った。痛みを感じないはるは表情を崩さない。それがまた桜音の癪に障る。


 「食事後にダラダラ店に居たら店員さんに迷惑だろ。」

 「とてもわかりやすいご説明ありがとうございます。」

 

 ふんとそっぽを向いた桜音の髪をはるが優しくすいた。

 色々とあったが何とか元の鞘に収まった桜音とはるの関係。互いにWin-Winだと桜音は思っていた。


 「それで、変ってどんな風に?」


 『興味はないが聞いてやろう』と口を尖らせ話す桜音にはるは苦笑するしかなかった。


 「1人で考え事をしてる事が多い。」

 「別に普通でしょ。」

 「前は小さな事でも相談してくれてたんだ。」

 「・・・いい加減にしなさいよ、ブラバカ。」


 はるの両頬を左右に引っ張る。呆れて物も言えない。


 「成長に伴い自己の考えを持つのは自然な事です。」

 

 桜音の言っている事は正しい。だが、はるは納得しない。


 「・・・しかしな、数えた蟻の数まで教えていてくれてたのに急に何も聞かなくなるのは「相談相手が貴方から李桜に変わったって事じゃないですか。」


 ウダウダと話すはるにとどめを刺す。はるはショックを受けたように黙ってしまった。


 「っていうか、こんな良い女を満足させられないなんて貴方夢魔失格ですよ。もっーと良くしてくれなきゃ対価に見合いません。」

 「それは大変だ。」


 はるは笑って桜音を抱きしめた。

 

 「お前はやっぱり美味い。」

 「当たり前でしょ。」


 悠真の存在で悠臣を繋ぎ止めるのはやはり虚しいが急に居なくなるよりマシだ。

 もやもやとした中にも安らぎがある事が桜音は悔しかった。


ーーー


 朝、目覚めた李桜は気合いを入れるように、両頬を叩いた。

 吸い込む甘い香りが強くなる。ゆうまが心配しているのだと気づき、李桜は大丈夫と笑った。


 それから普段通りに桜音の弁当を用意し、朝食の準備を始める。

 7時を過ぎてもリビングにやってこない桜音に声をかけようか迷っていると、丁度のそのそと桜音がリビングに入ってきた。


 「おはようお姉。」

 「おはよーございまぁふー。」


 大きな欠伸と珍しく何度も目を擦っている姿に疲れが取れていないのかと李桜は心配になった。


 「体調悪いの?」

 

 李桜が不安気に問うと、桜音はニッコリ笑った。


 「そんな事ありません。絶好調ですよ。」


 正反対な回答に李桜は首を傾げたがそれ以上は追求しなかった。


 桜音が出勤した後、李桜はいつものようにオンライン講義を受けた。

 昼の講義はキャンセルする。


 自分からやりたいと言ったのだし、もちろんキャンセルする事には抵抗があった。

 それでも、満月の今日を逃したくない。


 昼食は簡単におにぎりにした。食前に気合いを入れる為両頬を叩く。心配なのかやはり、甘い香りが強くなる。その度に李桜は笑ってみせた。


 そして李桜は大きく口を開けておにぎりを食べた。


 おにぎりを食べ終えると李桜は着替えの為に自室に戻った。ゆうまが付いて来ないように、リビングに置いたタブレットからはキッズアニマが流れている。

 

 

 部屋に入るとクローゼットからパーカーを取り、李桜はジーンズに合わせた。ポシェットに財布とスマホを入れ、キャップを被る。

 

 「よしっ!」


 キャップのつばを直し、李桜は気合いを声に出す。リビングに戻りタブレットの電源を落とす。そして玄関に行き、靴を履いた。ドアノブを触る手が冷たく、震えている。


 「・・・。」


 1人で外出するのは1年以上ぶりだ。

 週末、桜音と出掛けていたのだ、大丈夫。

 大丈夫と李桜は何度も自身に言い聞かせ、息を深く吸った。


 甘い匂いが体内に充満する。


 「いってきますっ!」


 李桜は声を出してドアノブを捻り一歩踏み出した。


 14時はまだ日差しを強く感じたが、人通りが少ないからだ。ビクビクしながらでは挙動不審で声を掛けられてしまう。まして、平日のなのだから。


 端の方を歩き李桜は駅前の花屋を目指した。



 『フラワーショップマエドウ』は家族経営のこじんまりとしたお店だが花の種類は多かった。


 「いらっしゃいませー。」


 30代半ばの女性店員の声に李桜は一瞬固まったが、店内に入る事が出来た。隣りから香る甘い匂いが勇気付けている。


 「ば、薔薇を下さい。」


 緊張のあまり吃ってしまった。

 店員は薔薇の置いてある場所に李桜を案内した。白、赤、黄、ピンクの薔薇が咲いている。黒い薔薇は見当たらない。

 

 「あの、白い薔薇と黒い薔薇を一本ずつ・・・。」

 「え?黒い薔薇?」


 店員に聞き返され、李桜は頷いた。女性店員の表情が変わったが李桜は見上げる事が出来ないので気付く事は出来なかった。


 「置いてませんか?」


 このお店に無いのならまた花屋を回らなければ。


 「ちょっと待っててね。」


 女性店員が奥に入っていく。李桜は薔薇を眺めて、白い薔薇を一本選んだ。


 「これになるんだけど。」


 戻ってきた女性店員が見せた薔薇は『赤黒い』薔薇だった。

 店内に並んでいる赤い薔薇に比べれば『黒い』方だ。


 李桜が迷っていると、甘い匂いが強くなった。李桜は頷く。


 「この白い薔薇とそちらの薔薇を下さい。」


 白い薔薇を店員に手渡す。女性店員は受け取った白い薔薇と赤黒い薔薇を新聞紙で包んだ。

 お会計を終え、2本の薔薇を受け取る。


 李桜は一礼し、花屋を出た。

 

 花屋を出て、数歩歩く。次第に早足になり、駆け足になり、走っていた。


 (買えた。1人で買いに行けた!)

 

 達成感に息を弾ませ李桜は帰り道を急いだ。

 

 マンションに戻ると、丁度通販で買ったガラスの花瓶も届いていた。李桜は薔薇と段ボールを抱えエレベーターに乗り込んだ。


 「ただいま。」


 誰も居ないとわかっていたが、自然と声がでる。李桜は急いで買ってきた2本の薔薇をグラスに生けた。とりあえずの処置だ。


 そして、ソファに横になって目を瞑る。

 ゆうまと最終確認がしたかった。

 

 甘い匂いは漂っている。しかし、興奮で眠れない。

 

 李桜は起き上がって自身の頬を叩いた。


 「頑張るっ!」


 甘い匂いが薄れていく。



 夢魔が境界から現実に現れるには虚無に還るしかない。

 召喚術を行う場に居合わせる事は出来ない。


 ゆうまは『何もない空間』でその時を待っていた。


ーーー


 今夜は満月だ。

 オフィスの窓から桜音は空を見上げた。


 (確か、コンビニ限定の酎ハイが今日から・・・。ビールも買って、サラダせんべいも・・・)


 「桜音っ!」

 「はい?」


 振り返ると聡勇が書類片手に呆れていた。

 

 「中嗣パイセンから。」

 「ああ。どうも。」


 資料を受け取ると桜音は直ぐにデスクトップに視線を戻した。


 「ぼっーとしてるみたいだけど?」

 「今日は火曜なので新商品の事考えてました。」

 「仕事は真面目にな。」

 「気をつけます。」


 事務的な会話を終える。聡勇は桜音を一瞥したが、桜音が顔を上げる事は無かった。



 18時前に桜音はオフィスを出た。

 帰宅者でごった返す駅に入り、満員電車に無理に入り込む。鞄を胸の前に抱えて揺れる電車内を耐える。


 (我慢、我慢。)


 眉間に皺を寄せ苦痛の数分を耐える。


 最寄りの駅の手前で雪崩のように電車から人が降りて行き、桜音は一息ついた。

 動き出した電車の窓からは満月が昇り始めている。


 (・・・綺麗な満月。公園の帰りに悠臣とよく見たなぁ。夜じゃないのに、月が見えるのが不思議だった。)


 いつも、直ぐそばにいる。

 人混みを掻き分けながら桜音はコンビニにより家路についた。社会生活を営むのも一苦労だと、年齢にそぐわない事を思いながら。



 「たっだいまでーすっ!ん?」


 陽気にコンビニの袋を掲げリビングに入った桜音はゆうまの匂いがしない事に首を傾げた。


 「悠真は?」


 キッチンで食器類を片付けていた李桜に桜音が話しかける。

 ゆうまが居ない事に直ぐに気付いた桜音に李桜は感心してしまった。

 

 「今は帰ってます。」

 「おやまぁ。悠真の好きなアニメの時間

なのに。」


 酎ハイをレジ袋から取り出す。冷蔵庫を開けるとシュークリームが入っていた。


 「美味しそうなシュークリームですねっ!いただき「待って、お姉っ!」


 李桜が慌てて桜音を止める。


 「ゆうまと、はるさんが来てから皆で食べるの。」

 「え?悠真はともかく、悠臣は甘いの食べませんよ。それに一緒に食べるって言っても食べられないでしょ。僕が今2人分食べてもいいじゃないですか?」

 

 我慢出来ずに桜音が手を伸ばすのを李桜は抱きついて止めた。それに、何故2人分食べようとしているのか。


 「とにかく今はダメだってばぁ!」


 必死に止める李桜が可愛くて桜音はからかって楽しんだ。姉妹の戯れ合いを月が見守っていた。


 「では僕は夕飯前にお風呂済ませますね。」


 李桜を揶揄うのに飽きた桜音がシャツのボタンに手をかける。


 「お姉待って。お姉も一緒に・・・」

 

 李桜は真っ直ぐに桜音を見つめた。桜音は李桜の言葉を待つ。


 「ゆうまとはるさんを迎えましょう!」


 李桜の言葉に桜音の瞳が見開いた。



ーーー



 膝を抱えてゆうまはぷかぷか浮いていた。

 くるくると回り舞っている。


 「・・・。」


 何も無い空間に今は無数の夢魔がいる。

 何でだろー?とゆうまは首を傾げ、ぷかぷか浮く。


 李桜との約束は現実では20時前後。そろそろだ。

 李桜の匂いはわかる。後は境界の歪みに飛び込むだけ。


 「まだかなー?」

 「何がだ?」


 上を見上げたゆうまをはるが覗き込んだ。ゆうまは驚いて口を開けたまま固まった。


 「李桜のところに行かないのか?」

 「いく、よ?」


 にへらーと誤魔化しの笑みを見せたゆうまにはるの左眉がピクリと動いた。


 「悩みでもあるのか?」

 「無いっ!」


 即答したゆうまにはるの金眼が細まる。

 疑いの目にゆうまは耐えきれずに眉を八の字に寄せた。


 「・・・桜音に、保護責任の件で注意を受けてるんだ。前回の事は下手したら「きたっ!」


 はるの説教を無視し、ゆうまは頭上を見上げる。小さなヒビが空間に入っている。


 「あれは!」

 

 金眼を見開いたはるの腕をゆうまは嬉々として引っ張った。


 「李桜がオレをしょーかんしてくれるのっ!」

 「この馬鹿っ!なんて事をしたんだっ!!」


 これまでに無いはるの怒声にゆうまは固まった。

 

 ビキビキと空間のヒビが大きくなる。

 近くに居た夢魔達が一斉に体当たりを始めている。


 「行くぞっ!!」


 ゆうまのフードを掴みはるは上を目指した。複数の夢魔達も同じように上を目指している。


 「え?何、なんで?」

 「召喚されるのはお前じゃない、入り口を作る事だ。急いで殺さないとも2人は喰われる。」

 「え?」


ーバリンッ


 はるがつく前に、空間に開いた穴から次々に夢魔達が吸い込まれて行った。



ーーー


 「ゆうまと相性が良い満月の夜に、ガラスの花瓶に真水と、」


 淡々と楽しげな様子で進めていく李桜を桜音は不気味に眺めた。

 引っ込み思案の李桜がこうもオカルト的な事をするなんて。


 「一滴の血を入れて。」


 カッターナイフを左手人差し指に当てる。桜音が止める。


 「待ちなさい、一滴なら針がいい。」


 引き出しから安全ピンを取り出す。


 「ありがとうございます。」


 それを受けとると李桜ら自身の指を刺した。柔らかい皮膚がさけ、血の玉ができる。李桜は花瓶に指を入れ水とかき混ぜる。

 

 「そして白い薔薇と黒い薔薇を、交互に指す。」


 2本の薔薇を交わるように刺す。

 月明かりに当てる為に、いつも桜音が腰掛けている窓枠に李桜は花瓶を置いた。

 これで準備は終わりだ。


 「・・・何も起きませんね。」

 「悠真の事だから、どこか抜けてたとか?」


 残念そうな李桜に、桜音が苦笑し背中を摩る。


 月灯りに照らされた花瓶の影が室内に伸びていく。

 その中から、数本の手が飛び出している事に2人は気づいていない。

 

 「さ、では夕飯にしましょ。」

 「うん、あ。」


 振り返った李桜は桜音の背後に複数の金眼と大きな手が伸びているのを見た。


 「李桜?」


 恐怖で固まった李桜は何も喋らない。ただ、一点を凝視している。


 「どうし、ぅぐっ!!?」


 喉が締まる。いや、絞められている。

 原因がわからず桜音は首に手を持っていった。しかし、自身の首に触れる事はない。

 何が絞めているのか、視線を下げる。


 手が、見える。


 「っ!お姉っ!!」


 固まった李桜はようやく言葉を口に出来た。

 しかし、李桜は何も出来ない。

 

 首を絞めら続け、桜音の意識は朦朧としていた。やばいと感じるが何がこの状況を理解出来ない。背後から首を絞められている。

 手首の大きさや力強さから男だ。


 視界が霞んでいく。幾本の手が李桜に伸びている。李桜は簡単に捕まってしまった。


 (・・・これは、何)


 馬乗りになり李桜の服に手をかける、角の生えた化け物。


 (・・・夢?)


 しかし、苦しい。

 

 「いやだぁあああっ!!」


 李桜が叫んでいる、どうにか、しない・・・と、


 「李桜に触るなぁっ!!」


 場違いな、子どもの声。

 その声が聞こえた瞬間、首の締め付けが弱まった。桜音はその場に崩れ落ちる。


 「かは、はっ、・・・。」


 呼吸を無理に整えて桜音は顔を上げる。


 ーぎゃあああぁっ!!!


 断末魔と言える形容し難い声が響いた。

 両目を抑え、仰け反る化け物の胸からも血が吹き出している。


 「あっちに行けっ!」


 血濡れる化け物を小さな身体で蹴り飛ばし、すぐに桜音の手を掴む。


 「桜音っ!こっちっ!」


 腕引っ張られ、その小さな背中の背後に隠れる。茫然とする桜音に李桜が抱きついた。


 「お姉っ!」


 桜音の思考は止まったままだ。一体何が起きているんだ。


 「桜音、大丈夫?」


 夜色の髪に拙い口調。

 

 「・・・悠真?」


 ぼそりと呟いた桜音に応えるように、ゆうまは振り返るとニッコリ笑った。


 「うんっ!」




 姉の後ろに化け物が居た。

 化け物は細い姉の首を簡単に捕まえた。

 私はどうして良いかわからなかった。

 死ぬんだと思った。

 目の前にいるのは人間じゃない。

 どうしていいかわからず、動けない体は簡単に捕まった。

 目の前には涎を垂らした化け物が息を荒げている。

 服を引っ張られた瞬間、何をされるか理解した。

 


 「いやだぁあああっ!!」



 怖くて、やめてほしくて、否定したかった。



 「李桜に触るなぁっ!」


 化け物の身体がグンと近づいた瞬間、仰け反った化け物は目から赤い血が流れていた。

 そして、胸に杭のような物が刺して抜かれる。


 「あっちにいけっ!」


 その声と共に化け物は吹っ飛んていった。

 声も出ずに見上げた先にいたのは、金眼の男の子。


ーーー



 「ぅー。こいつら嫌いー!」


 花瓶から伸びる影から1匹、2匹と角生えたモノ、翼が生えたモノと異形のモノが現れる。


 「筋肉バカー!」


 ゆうまはイライラとしながらも李桜と桜音を背に迫りくる巨体を退けていた。

 

 両手に持った太い針のようなモノで相手の急所を、特に両目を突き刺さしていく。

 

 桜音は李桜を抱いてこの光景を眺めるしか無かった。


 両目をゆうまに潰されても暴れまわるモノ達。

次から次へと床から溢れ出てくる化け物。


 (・・・これが夢魔?)


 ゆうま達とは姿がかなり違う。人に似た化け物。

 

 「・・・お姉、ぁの。」

 

 ガタガタと震える李桜に桜音もかける言葉が見つからない。まさか、こんな事になるとは思わなかったのだろう。

 浅はかだった。小さな望みにも縋りたかった。

 それがこの結果だ。



 「ぅわあっ!」


 ゆうまの小さな身体では相手の目を刺すときに全体重をかけ脳に到達させるしか殺す事はできない。上手く体重移動が出来なければ、吹き飛ばされてしまう。


ーグィううぅ、


 ゆうまを吹き飛ばした巨体が避けた口から息を漏らし、桜音達を睨め付ける。

 獲物を向ける視線に桜音は李桜を抱きしめる事しか出来なかった。


 「このぉ!」


 ゆうまが太針を投げた。

 それは背中に刺さっただけで対してダメージを与えていない。


 煩わしいと化け物が背中に刺さった針を抜いた時、


 「返せ。」


 その言葉と化け物の毛むくじゃらな胸に4本の杭が刺さるのは同時だった。口から青い血が流れ化け物は勢いよく横に飛んで行った。倒れた場所が丁度、ガラス瓶の影になっており、境界線の中に消えていった。


 「全く、大変な事をしてくれた。」


 冷たい金眼の中に呆れの感情が見えた。

 夜色の長髪を1つに束ねた、角を持つ男。


 「・・・悠臣。」

 

 桜音が何度も逢いたいと願った人。

 再開したら涙が出るかと思ったが、どうやらそんな事はないらしい。 

 茫然と見上げるしかなかった。



 「責任は取ってもらう。道を塞いでくれ。」

 「道?」


 繰り返す桜音にはるの背に数匹の夢魔の爪が迫っていた。


 「人の餌場を荒らしてくれるな。」


 はるは振り向き様に腕を振り下ろし、夢魔と呼ばれる化け物を切り裂いていく。


 「2人とも、大丈夫?」


 はるといれかわる形でゆうまが桜音の前に立った。両手には太い杭を持っている。

 

 「ええ。・・・それより責任って。」

 「はるね、オレをぶん投げて先いけっーって!でね、」

 

 緊張感が無いゆうまは両手をあげて話を続ける。

 その後ろでははるが他の夢魔を切り裂いていた。


 「・・・ちょっと、本当にどうしたら、」


 困惑するに桜音にゆうまはにこっーと笑った。


 「大丈夫っ!」

 「大丈夫じゃないっ!」


 呑気なゆうまの声とは違い、はるの声は焦りで切羽詰まっていた。


 「道を閉じろ、キリがないっ!」


 切り殺しても後々から出てくる。しかも、知性がない夢魔ばかり。話が通じないなら殺すしかない。はるはそう判断していた。


 「道?どうやって閉じるの?」


 きょとんなったゆうまにはるはぽかんと口を開けた。召喚術も、理解していなかったのだから『閉じ方』等知るわけがない。

 

 「〜〜っ、水を捨てろっ!ゆうまは触れるなっ!」

 「へ???」


 コテンと首を傾げるゆうまに桜音は頭を抱えた。李桜は青褪め震えたままだ。


 「李桜。大丈夫です?怪我は?」

 「私は、大丈夫。お姉こそ、首・・・。」

 

 不安気に見つめる李桜に桜音は首をさする。

 痛々しい痣が残っている。

 

 「とにかく、『水を捨てない』とですね。」


 顔を上げた桜音の先には月明かりを浴びて輝いている花瓶があった。


 「むぅー!こっちにいっぱい来るー!はるやっつけてっー!」

 「誰のせいだっ!?」


 減らず口を叩くゆうまはまだ余裕があるが、はるは肩で息をしていた。

 現実と虚無の境界線から夢魔が次々と出てくる。


 「くそっ!」


 喉を切り裂き、心臓を突いても数が減らない。

 


 「えいっ、やぁー!!」


 掛け声を発し、ゆうまは迫り来る夢魔の眼球を刺しては引き抜く。

 他の夢魔と圧倒的に体格差がある中、アクロバッティングな予測不能の動きで李桜と桜音を守っている。  

 

 (このままでは、)


 素人の桜音でもわかる。持久戦はこちらが不利だ。

 

 「悠真、花瓶を狙って。」

 「ふぇ?」

 

 桜音の声にゆうまはコテンと首を傾げる。

 

 「その手にしている物を花瓶に突き刺さしなさい。」


 イライラとした桜音にゆうまは手にしていたものを見た。


 「無理だよ。これ、はるの爪だもん。」

 「は?」


 ゆうまの言葉に桜音は固まる。また、状況が飲みこめかい。

 

 「これははるの爪!オレ爪伸びないのー。だからね、オレ達は花瓶に触れないの。」


 桜音の中で何かがブチ切れた。


 「あーもうっ!ややこしくて面倒な兄弟ですねっ!!?」

 

 自分達は花瓶には触れないから中の水を溢せ。そう伝えたかったのだろう。

 桜音は花瓶に視線を移す。花瓶の影から何本も手が伸びている。

 

 「あっ!またきたー!えいやっさっー!」


 奇妙な声を出し、ゆうまは『はるの爪』で夢魔達の眼球を刺しては回転させる。


 「コツ掴めたっー!」


 嬉々とするゆうまとは反対にはるの息は乱れている。


 (このままではマズい。『責任』を・・・。)


 チラリと桜音は李桜を見た。李桜は青ざめ震えている。これが一般的な反応だ。目の前で繰り広げられているのは殺戮だ。


 その中で、落ちついている方が狂っている。


 「李桜。」


 桜音は李桜の頬を自身の手で包んだ。


 「僕は花瓶を倒します。貴女はここに居なさい。」

 「・・・ぇ。」

 「ここを離れないで。悠真が守ってくれるから。」


 言い聞かせるように話す桜音を震えながら李桜は見上げた。


 (悠臣も悠真も触れる事はが出来ないなら、自分がやるしかない。)


 「お、お姉?」

 「後で説教ですよ。」


 真っ直ぐに桜音は李桜を見つめた。



 月が上昇する度に花瓶は光を受ける。床に陰が伸びる程、入り口は大きくなる。


 「くそっ!」


 悪態を吐くはるに余裕はなかった。

 相手を切り裂く度に空腹が増し、イライラが止まらない。

 時間はそう経っていないはずなのに。

 唯一の救いは境界線から上がってくるのが雑魚ばかりな事だ。


 「えいやっー!」


 ゆうまも相手の両目を潰し、脳を掻き回す事で夢魔は倒れ消えていく。

 花瓶の水は『人間』でないと捨てられない。

 

 『・・・処女ノ匂イガスル』


 「!」


 どす黒い影から何体の夢魔が出てくる中、はるに声が聞こえた。

 はるは咄嗟に夢魔を切り裂くのをやめて心臓を突き刺し、そのまま影である入り口を塞ごうとした。


 ーパシュッ


 影に抑えつけた夢魔は破裂してしまった。


 (ヤバいのが、来る!)


 夢魔には決まった序列は無い。それでも力の差はある。今の状態では下級クラスの夢魔でも体力が持たない。


 「桜音っ!急げっ!!」

 

 はるの焦りは桜音にも伝わった。花瓶まで3メートルくらいだ。

 桜音は頷いて、李桜から離れる。

 

 「悠真!李桜を頼みますよ!」

 「うんっ!・・・あ、はるの爪折れたっー!」

 

 「「悠真ぁっ!!」」


 呆れと怒りではると桜音の声が重なる。

 しかし、気にかけている場合ではない。


 「責任取ってやりますっ!」

 

 悠臣は数匹の夢魔の相手をしている。

 悠真は唯一の武器であるはるおみの爪が1本折れてしまった。


 一呼吸、深く息を吸い込んで桜音は花瓶目掛けて走った。桜音が走り出した事に夢魔達がギラつく。


 たかだか、3メートルの距離だ。

花瓶を倒すだけだ。ほら、手を伸ばせば、


 「っ!!?」


 足首を掴まれて、桜音は前のめりに倒れた。花瓶まで、数センチの所で影から出てきた夢魔に桜音の細い足首が捕まる。


 「っ、このっ!!」


 何か、投げられるものは無いか辺りを見渡すが手の届く範囲には何もない。

 

 「お姉っ!」

 「前でちゃダメ!」


 桜音に駆け寄ろうとした李桜をゆうまが制止する。

 桜音の足には沼のようなどろりとしたへどろが纏わりついており、段々と侵食していた。それに合わせて夢魔の顔も上がってきている。

 豚のような鼻が見えた瞬間、蹴り上げようと足を動かすが振り切れない。


 「桜音っ!」


 はるの声と花瓶に跳ね返され、桜音の前に落ちた。


 はるの爪だ。


 桜音はそれを掴むと迷わず足首を掴む手に突き刺した。手が離れた隙に花瓶を払う。

 花瓶からは白い薔薇と黒い薔薇が飛び、花瓶は回転しながら水を撒き散らして地面に落ちた。


 静寂。

 花瓶が無くなった事で、入り口が閉じていく。


 「やったぁー!」


 ゆうまは手をあげて喜び、放心する桜音の手からはるの爪を取る。


 「ありがとー、桜音!」


 何対しての礼かわからない桜音の元に李桜も駆け寄り泣いた。


 「・・・う、ごめんなさい。」


 こちらも何に対して謝っているのか。

 何も考えられず、気が抜けた桜音を李桜が支える。



 「よしゆうま、ラストスパートだ。」

 「んっ!」


 はるが切り裂く。ゆうまは眼球から脳を掻き回す。

 

 体感では何十時間と感じたが、それは数分の出来事だった。


 「おわりっー!」


 眼球に突き刺さした爪を抜き取りゆうまは両手を上げた。血が飛び散り、最後の夢魔が倒れ消えてゆく。


 「・・・。はぁ、疲れた。」


 やれやれと肩を回すはるにゆうまは首を傾げた。


 「疲れたの?」

 「ゆうま今はお口チャックだ。」

 「んっ!」


 唇を閉じ、チャックを閉める真似をするゆうまに桜音と李桜の緊張も緩み始めた。

 


 『処女ノ血ガスル。』


 「は?」


 はるは声がした方に視線を向けた。


 「っ!!?」

 「ひぃっ!!?」


 今までにない大きな2対の赤い目が床から覗いている。李桜と桜音は恐怖で顔を歪めた。何故か、体も動かない。


 「くっ、!!」


 はるは迷わずに今にも出て来ようとする夢魔の頭部に爪を突き立てた。

 4本では強度が無いのか、深く突き刺さる事は無かった。自身の体を押し返そうとする巨体に力では敵わない。

 抜き差し何度も突き刺すがゆっくりとそれは顔を出してくる。

 

 (こいつを出したらヤバい。)

 

 巨体に押されビキビキと空間が割れていく。鼻が、口が上がってくる。


 「えいやっ!」


 掛け声と共に背後に回っていたゆうまは耳が見えた瞬間、耳の中に爪を差し込み手首を捻った。

 グルンと白目を向いた所にはるは爪を突き立て押し返す。

 

 「・・・詰まってるのか?」

 

 気絶してさえも沈まない夢魔にはるが顔を歪めると、


 「えーいっ!」


 空気を読まないゆうまがはるの背に乗っかってきた。

 

 「ぉわっ!?」


 その勢いで、はるは前方に倒れ夢魔は押し返された。

 影が無くなるとそこは普段のリビングだった。

 あれだけ暴れていたのに、家具の破損はない。


 「・・・。」


 ただ、人数が増えただけだ。

 何とも言えない空気が流れる。

 


 「とりあえず、皆無事か?」


 疲労と最後の拍子抜けからはるは体の力が抜け、その場に座り込んだ。

 ゆうまはうずうずと震えている。そして、


 「李桜っー!触れたっー!」

 「きゃあっ!?」


 驚いた李桜を抱き締め喜ぶゆうま。にこにこ笑うゆうまに李桜は安堵から涙が溢れてきた。


 「李桜!?」

 「・・・良かった。」


 抱き締め返す李桜の頭をゆうまはポンポンと撫でた。はるに頭を撫でられると安心する。

 その事をゆうまも李桜にしてあげたかった。

 2人の様子を眺めるはるの口元も緩む。

 

 「悠臣。」

 

 はるの目の前に立ったは桜音は静かにはるを見下ろしている。聞きたい事が沢山ある。といった顔だ。

 何から聞いてやろうか。

 そう、言葉を選んでいた桜音にはるは一言だけ返した。


 「お疲れ。」

 

 穏やかな口調に屈託ない、少年のような笑み。

悠真の天真爛漫とは違う。

 桜音にとっては無条件で安心できるのだ。


 『待ってよ。』と追いかければ必ず立ち止まって手を握ってくれた。


 「・・・。」


 不安も恐怖も入り混じった中で気丈に振る舞った。

 労われるの当然だ。でも、足りない。もっと褒めてほしい。


 「どうした?」


 はるの言葉に桜音は瞳を潤ませたがぐっと唇を結んだ。そして李桜とゆうまに向き直る。


 「李桜、悠真。」

 「はいっ!」


 李桜に戯れているゆうまが返事をする。

桜音は静かに笑った。


 「2人とも座りなさい。」

 「!」

 

 笑顔を向けられているのに、ぶるりと身震いする。初めての感覚にゆうまは李桜に視線を送る。

 李桜は眉を寄せてゆうまに力無い笑みを向けた。


 「・・・。」


 ちょこんと李桜とゆうまは桜音に言われた通りその場に正座した。キョロキョロと落ち着きないゆうまの隣りで李桜は俯いていた。


 「悠真っ!そわそわしないっ!」

 「!!」


 桜音の怒声に悠真は体を震わせる。

 口元も震えて目線は忙しなく動いた。


 「貴方達2人には今夜の事しっかり話してもらいますからね。」


 桜音が本気で怒っている事に李桜は小さく返事した。先程、説教と言っていたのだ。今回の件は前回と違い建前でも叱らないといけない。

 怒られても文句の言えない事をしたのだから。



 李桜の隣りの悠真は瞳に涙を溜め始めていた。



 「僕も信じて無かったわけですし、おまじないみたいな物と思ってましたから止めはしませんでした。2人共危険である事は理解していたんですか?」


 「・・・はい。」

 

 返事をした李桜を見て、ゆうまも「はいっ!」と返事した。

 

 「危険であると知っていて、相談しなかったんですか?」

 「はるが怒るからっ!」


 真っ直ぐに桜音を見つめ答えるゆうまにはるは溜息しか出なかった。隣りの李桜も先程とは別の意味で青褪めた。ゆうまだけが得意気に鼻を鳴らした。


 「そう。怒られるとわかっていて、行ったんですね?」

 

 桜音の声は丁寧だが、怒りを含んでいた。


 「悠真っ!危ない事しちゃダメでしょう!!?どれだけ心配かければわかるんですかっ!一度は許しましたが今回は許しませんっ!!」

 「っ!!!?」


 桜音の豹変ぶりにゆうまは固まった。

 ゆうまに取って初めての事だったのだろう。泣かないように涙を堪え鼻を啜っている。

 助けを求めるように桜音の背後のはるに視線を移すがはるは首を横に振るだけだった。


 「怒られるとわかっていて、それでも2人だけで実行したのは何故です?上手くいけば怒られないとでも思っていたなら大間違いです。たとえ成功していても僕は怒りました。」


 「・・・はい。ごめんなさい。」

 

 李桜が謝る。ゆうまは涙と鼻水を堪えるのに必死だ。


 「・・ぅぐっ、うう。」


 ずびずびと鼻を啜るゆうまに桜音は容赦しなかった。


 「悠真っ!聞いてますかっ!?」

 「あばばばっ、・・・。」


 怒られ慣れてないゆうまは唇を震わせている。

 

 「・・・私とゆうまは、お姉とはるさんが逢えればと思ってたんです。」


 李桜の言葉にゆうまが力いっぱい首を縦に振る。


 「・・・お姉が泣いてた日に、ゆうまから召喚術の事を教えてもらって。」


 ぶんぶんとゆうまも頷く。


 「・・・ちゃんと調べなかったのは、ごめんなさい。」


 ゆうまも勢い良く頷く。先程より、揺れる回数が多い。


 「・・・相談出来なくて、大事にした事も。怖い目にあわせてしまって、何も出来なくて。ごめんなさい。」

 

 ゆうまは頭を振り頷き続ける。


 「悠真っ!」


 桜音の声にゆうまは半泣きで固まった。


 「悪い事したらごめんなさい、でしょ!」

 「?!」


 ぐずぐずと泣いて、ゆうまは言葉を失ってしまった。あうあうと言葉が出て来ないようだ。


 「もういいだろ。」


 桜音の肩に手を置きはるが諭した。そしてゆうまと李桜に視線を移す。


 「夜明けまでに『契約』するか決めないといけない。」


 李桜とゆうまは互いの顔を見つめた。


 「・・・契約?」


 李桜が繰り返す。涙でぐずぐずのゆうまもきょとんとしたままだ。桜音も眉を寄せている。


 「現世に来て終わりじゃない。えっちしないと消えるぞ。」


 固まったままのゆうままと李桜にはるは微笑んだ?


 「2人で決めるんだ。」


 念を押すように告げるはるにゆうまは頷いた。李桜も続くように頷く。


 「ほら、部屋で考えろ。」


 はるに促され、ゆうまと李桜は立ち上がる。ゆうまは何度もはるを振り返る。


 「・・・李桜とえっちしたら、一緒にいられるの?」

 「そうだ。ずっと一緒に居られる。」

 「えっち出来なかったら?」

 「アイツらみたいに消えるだけさ。」


 アイツらが先程切り殺していた夢魔を指していると知ったゆうまは先程戦っていた室内を見渡し、頷いた。


 「・・・どうしたら、いい?」


 不安気なゆうまにはるは息を吐いた。


 「お前が頭ごなしに怒るから、恐怖で『自己決定』出来なくなってるぞ。」

 

 はるの言葉に桜音は被りを振った。


 「悠真っ!悠臣の話を聞いたでしょ?!」

 「!!」


 桜音の怒声にゆうまがまた縮こまる。


 「自分の事は自分で決めなさいっ!!」

 「っ!?・・・ぅ、ぅわぁーんっ!何言っても怒られるっー!!桜音こわいぃー!」

 「桜音、やめろって・・・。」

 「貴方の変わりに怒ってるんでしょーがっ!このブラバカっ!」

 「は?!お前の自己満だろ!?人の所為にするなっ!!」

 「甘やかすなって言ってんですよ!ゆうまの為なら本気で怒るべきですっ!」

 「うわぁああーーんっ!!はるも桜音もこわいぃー!」

 「・・・。」


 言い争う桜音とはるに、ギャン泣きするゆうま。

  冷静に落ちついていたのは李桜の方で、李桜は泣き喚くゆうまの手を引いた。

 ぐずぐず鼻を啜りながらもゆうまは李桜の後についていく。

 李桜は冷蔵庫から四つ並んだシュークリームを取り出した。


 「これ、なぁに??」


 泣き止んだゆうまの瞳は初めてみるシュークリームに釘付けだった。


 「シュークリーム。バニラビーンズを沢山入れたの。ゆうまの匂いだから。」


 微笑んだ李桜にゆうまはぱっと明るくなる。

 

 「皆で食べようと作ったんだけど。」


 未だに言い争う桜音とはるおみを見つめ李桜は笑った。

 

 「2人とも楽しそうですね。」

 「・・・たのしぃ?」

 

 きょっとなった後、ゆうまはぶんぶんと首を横に振った。


 「李桜変っ!おかしいっ!」

 「喧嘩する程仲が良いんですって。」


 微笑む李桜にゆうまの脳内はパンクしそうだった。


 「わけわかんないっ!なんでなんで?!」

 「大人だからじゃないですか?」


 李桜の言葉にゆうまは髪を掻きむしるのをやめた。

 

 「大人になると建前とか、プライドとかで偽る事も多くなるし。だから、喧嘩して発散してるんじゃないかな。言いたい事を言える相手が居るって素敵だよね。」

 

 ゆうまはぽかんとしたままだ。


 「わかんない。」

 「私達も大人になればわかるかも。」

 「そっか!ならわからなくてもいいよね!」

 「うん。召喚術の事は謝ったし。あとは、・・・。」


 俯き頬を赤らめる李桜にゆうまはこてんと首を傾げる。


 「・・・ゆうまと一緒に居たいから、・・・ぇっち、しようね。」


 恥ずかしそうに話す李桜にゆうまはふるふる震え、頷く。


 「李桜大好きっ〜!!」

 飛びつくゆうまを李桜はぎゅっと抱きしめた。

 「シュークリーム、食べよ。」

 「うんっ!」 


 

 「お前はそうやって自分基準で考えるから思いやりがないんだ!」

 「報連相もできない貴方に言われたくないですねっ!隠すのが美談とでも思ってんですか!?」

 「話さないのは相手を慮っての事だ!」

 「それが余計なお世話なんですよ!話さないなら上手く隠しなさいっ!中途半端だから気になるんでしょ!?今回の件の9.5割は貴方のせいですからね!」

 「だったらゆうまを叱りつける必要ないだろ!?」

 「貴方の変わりに怒ったって言ってるでしょ!?」



 「・・・やっぱこぁーい。李桜は怖くないの?」

 

 李桜の後ろに隠れるゆうまに李桜は苦笑した。

 手にはシュークリームを1つ持っている。


 「うん。さっきの夢魔の方が怖かった。それに今はゆうまがいるから。」

 「えへへっ。」


 そう言って李桜は言い争う2人の前に割って入る。ゆうまも満更でもないと頬が緩みっぱなしだった。


 「お姉。食べたかったシュークリーム。」

 

 手にしていたシュークリームを桜音の口に突っ込んだ。


 「ふがっ!!」

 「はるも〜!」


 ゆうまもぴょんと飛びはねはるの口にシュークリームを入れようとしたが上手く入らなかった。


 「入んなかったっ〜。美味しいのに。」


 しょぼんと落ち込むゆうまの肩を李桜が叩く。


 「行こ。・・・時間無くなちゃう。」

 「んっ!」


 にこっーと笑いゆうまははるに手を振った。

 

 ゆうまと李桜が出て行ったリビングに残された2人は互いを見つめシュークリームを食べた。


 「・・・甘い。」

 「僕ら、何やってんですかね?」

 「さぁな。」


 一気に頭が冷えたようにシュークリームを食べ終える。


 「・・・別に僕、ここでもいいですけど。」


 不貞腐れた桜音は顎でソファを指した。

 

 「俺が嫌だ。」


 そう言ってはるは桜音の手を引きリビングを出る。出逢ってから悠臣の方から手を引いてくれる事はなかった。それに手から伝わる体温に桜音の頬が赤くなる。


 まるで、昔みたいに、背中を見ている。

 

 なんだかんだ言っても好きだと気付かされる。

 

 嬉しいなと感じても今の悠臣に素直に伝わえるのは癪だと胸にしまった。

 

ーーー


 「李桜のお部屋〜!」


 部屋に入るなりゆうまはくるくる回ってベッドに座った。


 「いっつも足付かないのに、今夜はついてるー!」


 ニコニコと笑顔のゆうまの隣に李桜も座る。ただ、緊張で体が震えている。視線も下がっていき、膝に置いた自身の握り拳を見つめた。


 「李桜、えっちいや?」


 ゆうまは不安気に李桜の顔を覗き込んだ。金眼が揺らいでいる。李桜は首を振った。


 「嫌じゃないよ。」

 「なら、怖い?」


 拳を握っていた李桜が顔を上げる。


 「・・・初めてだし、怖いよ。でも、しないとゆうまは消える。その方が、きっと怖い。だから、頑張る。」


 揺らめいた李桜の瞳にきょとんとしたゆうまが映っていた。李桜は一息吐いた。


 「宜しくお願いします。」


 そう言って笑うと、ゆうまも満面の笑みで笑った。互いに抱き合い、そのままベッドに横たわる。

 

 「大丈夫だよ。いっぱい練習したから。」


ーーー


 桜音の部屋は殺風景だ。

 それがはるの抱いた感想だった。

 二十代後半の女性にしては、まるで男の1人暮らしのように物が少ない。


 ベッドにデスクに本棚。書籍は仕事関係と趣味の小説くらいだ。


 「では、さっさと済ませますか。」

 「待て待て。」


 服を脱ぎ出した桜音をはるが止める。桜音は眉を寄せた。

 

 「時間ないでしょ?」

 「何の疑問も持たないのか?」

 「別に。面倒事はさっさと済ませたいですし。」


 右手で額を抑え呆れるはるに桜音も嘆息する。はるの小指の爪が無く赤黒くなっている事に桜音の視線が向いた。


 「爪、痛く無いんですか?」


 両小指と左手人差し指の爪が根本から取れている。小指の爪は先にゆうまに渡していただろし、左人差し指の爪は桜音に届けてくれた。


 「ああ。」


 自身の手を、指を見つめるはるの横顔に桜音は居た堪れない気持ちでいっぱいになる。


 「悪魔と性交渉なんて碌な事にならない。」

 「今更怖気付かないで下さいよ。」


 それでも、今だに煮え切れていないはるに桜音は呆れもあった。ここまでくれば意地だろうと思う。


 「見ろ。」


 はるが人差し指で己を指した。


 「僕好みの顔です。そのなんちゃって騎士みたいな服は好みではないですが。」

 「・・・違う、そうじゃない。」


 盛大な溜息を吐いているが、はるが照れている事は桜音にはわかっていた。


 「牙も爪も、角もあるんだ。俺は人じゃ無い。お前を傷つける。」

 

 わかってくれ。


 懇願するように顔を歪めたはるを桜音はただ、黙って見ていた。


 「・・・セックスしないと、消えるのでしょう?」

 「相手は処女のみだ。」

 

 肩を落としたはるに桜音は小さな怒りを感じた。本当にどうしようもない男だ。


 「消えるとわかっていて悠真とここに来たんですか?」

 「保護責任だな。」


 いつかした話をここで持ち出すとは。何故そこまでゆうまに拘るのか理解不能だ。


 「だったら、最後に貴方の体を好きにさせて下さい。」


 そう言って、桜音ははるの唇に触れた。


 「・・・なら1つ頼めるか?」


 唇が離れるとはるは桜音を金眼に捉える。


 「ゆうまの事を。」


 最後の最期まで『悠真』の事。

 やはり、バカな男だ。


 真剣な金眼に桜音は自身の気持ちをグッと堪えた。いつまでも胸に突っかかっているこのやるせ無い気持ち。嫉妬しても仕方がない。


 「それは、貴方次第ですよ。」


 睨みつけた桜音にはるはくしゃりと子供のように笑った。

 

ーーー


 何度も抱き合ったはずなのに、体温を感じるだけで胸が高鳴る。何度も触れたいと、切に願っていた。


 それなのに、

 繋がってすらいないのに切れる事に恐怖を覚えていた。


 甘い息を吐き、髪を乱す。

 快楽に震えながらしがみ付く姿からは激しい愛情を感じられる。


 (・・・愛情、か。)

 

 はるが目が覚めた時。

 『己』を自覚したのは何も無い白い場所だった。

 手にしていた小さな生き物が身じろぎ動いている。


 ー護らないと。


 この小さな非力な弱い生き物を護らないといけない。そう、感じた。思い込んだ。

 いや思い込まされたあの男に。

 

 ーだって、もう1人だから。


 ぼんやりと邂逅を繰り返す。無気力な視界に映るのら自身の存在を望み、共に生きようとする女性。


 「・・・今だから言いますけどね、貴方で慰めてた事もあるんですよ。」


 荒い息を吐きながら、恍惚と話す桜音をはるは見上げる。


 「・・・へえ。」

 「十年以上も前の話ですけど。」


 そう付け足した桜音にはるの眉が寄った。

 彼女が見ているのは『己』ではない。

 幸せな時間を過ごした、『己』に似た男をいつまでも追っている。

 桜音を愛しても、桜音が愛しているのは『自分』ではない。


 これまでも、夢に入る度に誰かの代わりだった。自身に縋る手はいつも別の人間を求めている。


 「だから、性欲が無いわけじゃない。」


 淫らに腰を揺らし快楽を貪ろうとする桜音は艶かしく滑稽に見えた。 


 「・・・もうわかった。」


 ああ、もう疲れた。

 どうせ消えるのなら、そんな話は聞きたくなかった。でもこれも『約束』だ。


 ーもごっ


 口腔の違和感にはるは手で口を覆った。そのままゆっくりと体を起こす。


 「・・・ぇ、何?」


 艶やかな吐息を吐き出し、桜音ははるの首に手を回した。はるが抑えていた手のひらを口元から離す。手のひらには2本の犬歯があった。


 「・・・。」


 驚き見つめるはるに桜音も瞳を見開いている。


ーぽすっ。


 軽い音をたて何かが落ちた。シーツに転がっているのは角だ。


 「・・・角が。」


 手の甲を見つめる。これまで自在に伸びていた爪が伸びない。

 驚くはるの頬を包み込み、桜音は何度もキスをした。犬歯が取れるのを待っていたかのように、何度も深く深く口付ける。


 「・・・人間?」

 「当たり前じゃないですか。」


 瞳を潤ませる桜音にはるは金眼を見開いたまま続けた。


 「ってことはお前、処女だったのか?」


 はるの問いに桜音は頷いた。


 「貴方以外が触れるなんて気持ち悪くて考えられませんよ。」

 「お前、三十手前で未経験って。」


 思った事をそのまま言葉にしたのだろう。桜音ははるの長髪を力強く引っ張る


 「いでっ!?」


 痛覚がある事にはるは驚いていた。そんなはるに気付かずに桜音は眉を上げている。


 「貴方、ほんっとにデリカシー無いんですか?」

 「いや、諦めていたからな。」


 既に誰か、自身が知らない男に抱かれていたのだろう。そう考える事もあったのに。


 「・・・貴方だけを愛してるんです。」

 「重い。」

 「男なら黙って受け止めなさい。」


 膨れた桜音に苦笑が漏れる。そんな桜音の耳元ではるは囁いた。


 「ありがとう。」


 あの頃と違う、落ち着いた低音に桜音は感極まり涙が溢れていた。幸せで涙を流すのは10年以上ぶりだ。はるの首筋に細い腕を絡め直す。

 

 「ねぇ、もう一回。」


 甘える桜音にはるは苦笑する。

 夜明けが迫っていても、離れなくてもいい。

 

 「それは無理だ。」


 予想外の返答に桜音の表情が強張る。そして、

 ドタンと大きな音がした。


 「みてみて!はるっ!角と歯が取れたぁー!!」


 ゆうまがノックも無しにドアを勢いよく開けた。ベッドでは桜音とはるが抱き合っている。そこへゆうまはドタドタと走り、両手に乗せた角と歯を見せた。


 「はるっ!角と歯っ!・・・ぁれぇ?はるも角無ぁい?」


 きょとんと首を傾げるゆうまに桜音が震える。はるは苦笑しか出なかった。

 

 「出て行きなさいっ!!!」

 「!!?」


 桜音に怒鳴られ、ゆうまは脱兎の如く部屋を飛び出した。

 

 「まだ人間社会の常識を知らないからな。」

 

 まぁ、許してやれ。


 そのニュアンスが含まれる物言いに桜音ははるを睨みつけた。


 「貴方が責任取るならいいですよ。」

 「どんな風に?」


 唇を尖らせ、拗ねる桜音にはるは左眉を下げて笑った。


 「貴方の子供が欲しいです。」

 「お前は恩人だし、仕方ないなぁ。」


 


ーーー



  「・・・だから言ったのに。」


 朝食の支度中の李桜の腰にくっ付き、ゆうまはぐずぐずと泣いていた。


 「かのん、こぁい。・・・。」

 「邪魔しちゃったゆうまが悪いよ。」

 「!!?」


 味方だと思っていた李桜の言葉にゆうまは固まる。


 「卵焼きとお味噌汁と。鮭のふりかけ。作り置きのきんぴら。お姉の弁当は、鶏団子とごまふりかけ、ミニトマト、卵焼き。・・・ゆうま。動きにくい。」

 「!!?」


 がーんっと効果音を背負いそうなゆうまに李桜はクスリと笑った。


 「ご飯並べるの手伝って?」

 「・・・!うんっ!!」


 満面の笑みでゆうまは頷いた。李桜は褒めてくれるので、ゆうまにとって手伝いは楽しかった。


 「まいごのまいごのこねこちゃん♪あなたのおうちはどこですかー♪」


 歌を歌うゆうまを李桜も微笑ましく眺めた。

 

 「にゃんにゃんにゃぁ?」


 4人分の食事を並べ終えたゆうまは不意に気になったリモコンに触れた。

 テレビからは普段の朝と違い、神妙な顔つきのアナウンサーとコメンテーターが特報について話していた。

 

 『女性惨殺、酷い話しですねぇ。』

 『同じ女性として耐えられません。・・・息絶えるまて性暴力を受けるなんて。しかもまだ10代でしょう。』

 『大きな組織が絡んでいるとか・・・。』

 『腹部を裂かれ、内臓は全て持ち去られていたとは。』

 『早急に事件の解決を望みます。』


 ぼっーとテレビ画面を見るが面白くない。


 「ゆうまー。」

 「んっ!」


 李桜の呼び声にゆうまは元気に頷いた。

 

 「何見てたの?」 

 「わかんない。」


 ふるふると首を振るゆうまに李桜は笑った。


 「そろそろお姉達も呼んでご飯にしよっか?」

 「ぅー。桜音こぁーいー。」

 「私も一緒にいくから。」

 「んっ!なら安心ー。」


 リビングをでる李桜の後をゆうまは笑顔で追いかけた。



 


 

 

 

 

 


 


 




 


 

 


 



 


 




 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜は龍の夢に溺れ咲く @kabuu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ