音の章


 『ああ。そっちもな。また電話するよ。』

 ーええ。待っています。


 ずっとずっと待っています。

 今でも。



 ピッピッ

 「・・・。」

 貴方の居ない世界で僕は目覚める。

 今日も明日も。

 『生きている』事を前提として。

 

 貴方はもう居ない。

 僕に笑いかけてくれる人はいない。

 あの時、もう少し話しておけば良かった。

 どうして貴方はもう居ない?


 逢いたい。


 ピッピッピッ

 「・・・。」

 スマホを操作し、鳴り止まない目覚ましを止める。

 起きようとするも体が重い。

 歳かな?今年で28だし。

 「・・・。」

 もういい大人。僕の人生は進んでる。

 「・・・。」

 毎日毎日、無意味に過ごす。

 どうせ生きるならあの人ができなかった事をして過ごした方がいい。

 

ーーー


 「おはようございます〜。」

 「・・・おはようございます。」

 生気の無い顔で僕を出迎えたのは妹の李桜。

 不登校になってもう1年になる。

 「今日は卵サンドですかぁー。美味しそうですねえ。」

 僕がそう言うと李桜は俯いた。そのまま席について用意されていた朝食を食べる。

 「李桜リモコン取ってください〜。」

 「・・・はい。」

 李桜からリモコンを受け取り、テレビを点ける。

 適当な番組にチャンネルを合わせ食事を再開する。

 黙々と食事を終え、僕は出勤準備・・・と言っても下地にファンデーション、リップといったくらいでメイクを終えてシャツに着替えた。

 

 「では行ってきますねー、李桜。」

 「・・・気をつけてね。」

 

 見送りに来た李桜に笑顔で手を振り玄関のドアを開ける。 

 

 ーバタン


 玄関を閉めた瞬間、表情が消えたのが自分でもわかった。


 愛らしくて、純粋な花。

 僕とは違う、護られるべき存在。

 それが僕の妹神夜月李桜(カグヤヅキリオン)だ。

 



ーーー


 僕は弁護士だ。

 相水事務所はそこそこ有名で、まあまあ忙しい。バイト時代も合わせたら7年くらい在籍している。

 所長に家庭環境を配慮してもらっての勤務なので僕にとっては働きやすい。

 馴染みのオフィス資料を抱えて歩く。


 「桜音。」

 

 名を呼ばれたので振り返る。そこには清潔感漂うスーツ姿の男がいた。


 「下の名前で呼ばないで下さい、聡勇(あきお)さん。」

 

 「君もだよ。」


 田中聡勇は同期だ。学生時代に陸上をしていて今でもトレーニングを欠かしていないそうだ。

 色気があると女子社員の間で有名らしい、知らんけど。


 「お昼付き合ってくれない?」

 

 その爽やかな笑顔なら周りの女達は放っておかないだろうに。僕に向けるなんて勿体無い。


 「いいですよ。」


 僕はそう返事を返した。

 笑って見送る聡勇に僕は嘆息する。


 「いいなぁ!神夜月さんっ!」


 デスクに資料を置くと事務の子達が僕の周りに寄ってくる。これもいつもの事だが。


 「田中さんと付き合ってるんでしょ!?いいなぁ、羨ましいー。」

 「将来この事務所を背負って立つって噂っ!」

 「この間の裁判も勝っちゃたしねー!」


 きゃいきゃいと騒ぐ事務の子達に呆れながらも僕は笑ってみせた。


 「私も精進しなきゃですね。」


 そう言うと女の子達は更に黄色い声を上げた。

 オフィスに響いたおかげで所長が彼女達を連れて行ってくれた。


 「はぁ。」


 毎度の事だけど疲れる。

 二十代前半だし、人生楽しんでいるならそれはそれで。僕には関係ない事だ。でもテンションを合わせるのは面倒い。


 書類整理、雑務をこなし終えたら丁度お昼だった。うん、時間配分完璧。

 僕はお弁当を持って外階段、非常用出入り口に向かう。

 ビルに囲まれたそこは人気も無いし、涼しい。ゆっくりするにはもってこいの場所だ。


 「桜音。」

 

 先客がいた。聡勇は壁に持たれたタバコを吸っていた。手にはコンビニの袋。いつものようにおにぎりとお茶が入っている。あと、プロテインドリンク。

 僕は階段にそのまま座った。お弁当を膝に乗せる。そのままお弁当を食べ始めた僕に聡勇は携帯灰皿にタバコを押し付けて僕の隣に座った。


 「何で無視すんのっ!?」

 「キモいんですよ、貴方。」

 「きぃー!あたし頑張って男演じてんのよっ!?キモいって、キモいってぇ〜!!」

 

 両拳を作り、内股。オネエ口調でキレる聡勇を無視して僕は弁当を食べ続ける。


 「ほんっと疲れちゃうわー。世の中見た目ってホントよねぇ。嫌になっちゃうー。のんちゃんもそう思うでしょー?」


 頬に手を添えて聡勇は話続けた。


 「あきちゃんも早くご飯食べたらどうですか?」


 半分以上食べ進め僕はあきちゃんを見やる。あきちゃんの表情がパッと明るくなる。


 「やっぱりあたし『あきちゃん』の方がいいわぁー。『あきお』なんて可愛くないもの。漢字もゴツいし!聡く勇ましくって!何?!昭和!?」

 「あんまり興奮しないで下さい。あきちゃんすぐ声がデカくなるんですから。」

 「あらごめんない。」

 「それで、話ってなんです?」

 「うちのだぁの事なんだけど〜。」


 あきちゃんの痴話喧嘩・・・惚気を聞いていたらお弁当を食べ終えた。両手を合わせてから弁当箱を片付ける。


 「聞いてた?のんちゃん。」

 「ええ。子作りの話でしょ。」

 「あたしも子供欲しいんだけどねぇ。ほら、ね?」

 

 そう寂し気に、いや悔しそうに話すあきちゃん。

 どんなに望んでも手に入らないもの。

 

 「ねぇ、いざとなったらのんちゃん産んでくれない?」

 「嫌です。」

 「卵子提供だけでいいから!」

 「張っ倒しますよ。」

 「こんなにお願いしてるのに〜!」

 「手頃な女性を引っかけたらどうですか。」

 「何言ってるの!あたしの職業ご存知!?」

 「存じています。」

 「のんちゃんがいいのっ!親友でしょ?」

 「違います。ビジネスパートナー。それ以上でも以下でもありません。」


 この茶番もお互いの利害が一致しているだけだ。

 深く関わろうとも思わない。


 「ああ、お昼休憩そろそろ終わりですね。先に戻りますね。」

 「あーん。ちょっと待ってよぉ。」

 

 非常ドアを閉めた後ガリガリと頭を掻いた。オフィスに戻る前にトイレに行こう。身だしなみは整えないと。ああ、疲れる。ホントに。

 


 仕事を終えて帰宅して、李桜と夕食を摂る。

 李桜は外出は出来ないが家の中でなら一緒に食事も出来る。朝も起きる事ができている。『心の問題』『打たれ弱さ』『甘え』等色々世間では言われてる。僕は全て合っていると感じている。

 辛い事も分かる。でも、辛くても生きていかないといけない。李桜はそれができる子だ。

 決して、男や薬に逃げたあの女のようにはならないし、させない。


 夕食を食べてお風呂に入って。くだらないテレビ番組を見て、笑って。

 李桜が部屋に戻った後の静まり返ったリビングで『お月見』をするのが日課だ。

 今夜はサラダせんべいとジンジャーエールを持って窓枠に腰掛けた。

 

 ああ、今日は綺麗な満月だ。まるでサラダせんべいみたい。


 サラダせんべいを齧る。しょっぱい。

 ジンジャーエールの炭酸は刺激が強い。


 ・・・この組み合わせの何が美味しいのか。


 見上げる月が歪み滲んでいく。


 いつまで頑張ればいいのか。

 

 楽しみもない。 

 やりがいもない。

 

 そんな事ばかり考えて後悔して。

 けれどそんな僕にも唯一の癒しはある。 

 それは『寝る』事。

 至福の時間だ。

 今夜も夢に浸る。


 そうあれは春が過ぎて夏に入りかけた頃。

 まだ、日差しも肌を撫でる風も優しかった。

 その日はいつもの公園じゃなくて、貴方が『穴場』だと話していた丘。

 幾つかある木を貴方は触りながら確かめた後に僕に白い歯を見せて笑った。


 『違う。この窪みに右足をひっかけるんだ。』

 「ぅ〜、でも、ありさんが・・・。」

 『大丈夫。この蟻は何もしない。次は左手で、上のボコってなってるとこ掴まえて。』

 「っ、怖いのっ!落ちちゃったら」

 『落ちないよ。俺がちゃんと支える。』

 「・・・無理だよ。はるおみは子供だもん。」

 『かのん!俺を信じろっ!絶対に落とさないっ!』


 僕を見上げる瞳は自信に満ちていた。だから、少しずつだけど、登る事ができた。

 初めて登った木から見た景色はびっくりする

程遠くまで見えた。

 貴方は隣で満足に笑っていた。


 大切な想い出を夢の中で繰り返す。

 何度も何度でも想い出すからどうか色褪せないで。


 

ーーー



 ピッピッピッ

 「・・・。」

 ああ、また無意味な1日が始まる。


 

 

 「おはようございます、李桜。」

 キッチンでは李桜が朝食の支度をしていた。リビングに入ってきた僕を李桜は怯えたように見る

 「・・・お姉おはようございます。コーヒーでいいですか?」

 「お願いします〜。」

 ダイニングテーブルに腰掛け、スマホを触る。

 適当にニュースを流し読んだ。

 ぼっーとしていると李桜が朝食を目の前に並べた。

 ワンプレートに纏めた朝食はバターロールとオムレツ。ササミのサラダ。コーヒー。

 「おや。今朝はオムレツですか。美味しそうですね。」

 黄色のオムレツに赤いケチャップは食欲をそそる。李桜は器用で料理も得意。

 「いただきます。」

 「・・・いただきます。」

 手を合わせ、互いにフォークを手に取る。室内には女性アナウンサーの笑い声が響くのみだ。

 会話らしい会話は無く、互いに朝食を食べ終える。

 「ご馳走様。美味しかったです。」

 「・・・お皿そのままでいいから。」

 「ありがとう。」

 そう告げて僕はリビングを出た。

 歯磨きして、メイクして、着替える。

 変わらないルーティン。

 

 玄関まで来た時に『サラダせんべい』が切れていた事を思い出した。

 「李桜〜。行って来ますね〜。あ、帰りにスーパー寄りますけど何か買う物ありますか〜?」

 僕の声に李桜はお弁当を持ってきてくれた。

 「あー、忘れてましたねぇ。」

 お弁当を受け取ると李桜は顔を上げた。

 久しぶりに目が合った。また、痩せたようだ。

 「・・・後でLINEします。」

 「了解しました〜。」

 買い物の返事だろう。僕は頷いて手を振る。

 李桜はジッと暗い瞳で僕を見送った。


ーーー


 「・・・ふぅ。」


 書類業務は得意だけど、肩が凝る。

 書類業務が終わったのでスマホを見る。

 新しい通知はきていない。

 ・・・忘れてる?

 李桜は頼まれた事は直ぐに処理する子だ。

 一応、僕からもメッセージを入れておこう。

 

 「桜音。」


 起案処理をしている僕に声をかけたのは「田中聡勇」。・・・昨日も散々惚気を聞いたのにどうやら今日も聞いてほしいようだ。

 

 「そんな顔すんなって。」


 露骨に嫌な顔をしていたのだろう。あきちゃんは苦笑して僕の肩を軽く叩いた。

 ああ、周りの視線が痛い。

 

 「業務中ですよ。」

 「だからこれも宜しく。中嗣パイセンの。」


 なんだ、仕事を押し付けにきたのか。

 僕はファイルを受け取りパラパラ捲った。

 うん、これくらいなら定時まで纏められる。


 「了解です。」

 「ありがとう。助かる。お詫びに昼飯奢ってやるよ。」

 

 ・・・。上手いな。


 僕はその提案を溜息で承諾した。


 お昼はあきちゃんの話を聞かされて、来客対応していたらもう定時だ。

 僕は定時で帰れるように仕事量は調整している。

 70パーセントくらいで取り組むのが丁度いいし、最低限の成果はあげてる。給料も生活できるだけ貰えればいいからそれ以上は望まない。健康も大事だ。

 なんてあきちゃんに言ったら「世の中甘くみないでよ」みたいな事を言われた。

 

 

 「お先に失礼します。」


 そう挨拶してそさくさと帰宅。

 電車を降りて商店街を歩く。李桜からの返事はないし、既読すらついてない。


 特売の日用品とかを適当に買って帰る事にした。在庫確認とか面倒だし。ティッシュとか消耗品はあっても困らないし。

 あー、歯ブラシとかシャンプーとかも買っとこ。惣菜コーナーは値引きシールが貼られてる。よしからあげも買お。

 適当に特売品や見切り品をカゴに詰めていく。


 「ぁ。」


 特売品の中に『サラダせんべい』を見つけた。

 2枚入りで7袋。14枚入り。

 

 『7袋だと丁度一週間分だろ?それに2枚入ってるから1枚ずつ食べれるしなっ!』


 ああ、もう。

 

 このサラダせんべいだけはどうしても買えない。


  

 ーーー


  

 マンションに着いてエレベーターに乗る。

 エントランスで仕事帰りのサラリーマンや部活終わりの子供を迎える母親達とすれ違う。

 今日も1日が終わるんだなぁとどこか他人事のように感じた。

 

 玄関で鍵を回し、ドアを開けるとガンと音がした。ドアロックが掛かっている。

 李桜には僕が出て行った後は安全対策でロックをかけるように言っている。そして夕食準備前にロックを外している。

 LINE未読だし、調子を崩していたのだろう。

 僕は深呼吸して、笑顔を作った。

 

 「李桜〜。ロック外してください〜。」

 

 李桜が気に病まないように。呑気な姉を演じる。

 奥からパタパタと走ってきた李桜は顔面蒼白だ。

 震える手でロックを外す。


 「・・・ご、ごめんなさ「見て下さいよぉ、半額のからあげゲットしちゃいました〜。ご飯にしましょうか。ほらほら〜、準備お願いしますね。僕、着替えて来ますから〜。」

 

 李桜の謝罪に被せるように言葉を捲し立てる。言葉を無くした李桜に僕は惣菜の入った袋を手渡し、自室に向かった。


 「・・・お姉!」

 震えた声で僕を李桜が呼んだ。

 「どうしました?」

 いつもより大きめの声だった。

 李桜はそのまま俯いて黙ってしまった。 

 肩が揺れている。

 

 暫く待ってみるが李桜は黙ったままだ。


 ああ、僕もこんな感じだっただろうな。

 幼い頃はきっとこんな風に弱さを見せていた。

 だからあの人はいつも、


 ポンと李桜の頭を撫でる。李桜は泣きそうな顔で僕を見上げた。


 「唐揚げ5個入りなんですよ。李桜が3個食べて良いですよ、成長期ですからねえ。」

 「違っ、あと、あんま触んない方が・・・私、お風呂入ってなくて。」

 ほら、そうやって恥ずかしさを隠す為に的外れな事を言うのだって似てるじゃないか。

 「おやおや。なら一緒にお風呂に入りましょうか。たまには良いものですよ〜。」

 

 李桜の頭を撫でながら、安心する言葉を探す。

 大切な妹は社会に傷つけられた。

 李桜から出てくる言葉は謝罪と否定的ばかりだ。

 そして、見え隠れする『依存』が涙となって僕に訴えかける。

 縋ろうとする手を僕は離さないように掴まえないと。

 

 「李桜は泣き虫ですねぇ。」

 『桜音は泣き虫だなぁ。』

 

 ねぇ貴方ならきっとそうするでしょ?

 


ーーー


 夕食を食べて、一緒に湯船に浸かって。

 他愛ない姉妹の会話をして。

 僕にとって何でもない事だけど、李桜にとっては重要な事。

 『自分に価値がある』と誰かに認めてもらいたい。

 貴方はそういうのが上手かった。

 

 窓枠に座り、酎ハイを開ける。

 ビールは苦いから苦手。手にした缶が月灯りに照らされ「アールコール」の文字が浮かぶ。

 

 

 「・・・お姉。」

 李桜に呼ばれ僕は振り返る。

 「・・・これ。」

 おどおどと差し出されたのは買い物リストだ。

 「カップ麺も買い足しましょうかねぇ。後はお菓子。サラダせんべいと李桜の好きなバニラプリンも。」

 「・・・お姉はサラダせんべい好きですね。昔から食べてますもんね。」

 顔を上げて話す李桜は緊張しているようだった。

 『昔から』と言われて胸が締めつけられた。

 「ええ。大好きですよ。」

 上手く笑えたかは分からないが、僕はそう返すのが精一杯だった。

 

 会話が途切れたが、李桜はその場を離れようとしない。まだ伝えたい事があるのかと僕はジッと李桜を見た。

 李桜は俯いたが部屋に戻る様子がない。僕は溜息を殺して李桜に声をかけた。

 

 「明日は丁度外回りなので弁当はいりませんからゆっくり休むといいですよ。」


 そう促すと李桜は頷いてリビングを出て行った。

 

 李桜の心はまだ不安定なんだから、僕が助けないと。

 頭ではわかっている。

 それでも何処かで煩わしいと感じる。

 姉妹でも違う人間だから。


 残っていた酎ハイを一気に煽って僕も自室に戻る。


 

ーーー

 

 ベッドに横になり、スマホの目覚ましをセットした。明日は『外回り』だ。

 色々と考え込んでしまうのが嫌で僕は布団を頭から被り目を閉じた。



 ーぱちっ


 眩しさを感じてゆっくり目を開ける。

 僕はベンチに座っていた。

 ジャングルジムにターザンロープ。滑り台にブランコ。

 今ではあまり見かけない、遊具。

 懐かしい公園の風景をぼっーと眺める。


 『かのん、こっちこっち。』

 『待ってよ、はるおみっー!』


 追いかけっこをしているのは幼い時の僕と悠臣。

 よくあの人を追いかけていた。

 一生懸命走っても中々追いつかない。

 息が切れて、足が痛くなって。

 もう走れないと思ったらあの人は何も言わずに立ち止まってくれた。


 『かのんは階段からでいいぞー。』

 『逆走はダメって先生言ってたよ!』

 『かのんが内緒にしてたらバレないって。』

 

 当時の滑り台はそれなりに高さと角度があった。

 それでもあの人は階段を登る僕より早くて。頂上で待ってくれて一緒に滑った。


 懐かしいなぁ。

 そんな事を思いながら僕は2人が仲良く遊んでいるのを眺める。

 

 「?」

 

 ベンチが軋んだ。何だろうと左側に視線を移す。


 「!」


 息を飲んだ。僕の夢なのに、僕の知らない男が隣に座っている。

 その人はジッと滑り台で遊ぶ幼い僕と悠臣を見ていた。


 誰?


 黒髪の短髪。年齢は僕と同じ?いや、ちょっと上くらい?

 無遠慮に横顔を睨みつけていると、急に現れた男が笑った。


 夏の眩しい日差し

 青々とした木々が作る木陰の中で。

 僕の時間は止まった。


 『今度はトンネルつくろー!』

 『いいぜ。競争なっ!』


 無邪気な声に僕は我に返った。

 無意識に男の腕を掴んでいた。

 

 「・・・悠、臣?」


 ネットで見た写真より、成長している。

 信じられなくて。

 僕は男の、悠臣の顔を凝視していた。

 間違いない、間違わない。

 だってこんなにも似てる。

 顔に震える指を沿わせる。悠臣は微動だにせずに僕にされるがままだった。

 髪の毛に触れる。一本一本が太くて硬い髪質。懐かしい感触に、涙が溢れてくる。


 「・・・ぅ、はるおみっ!」

 

 貴方に逢えた事が嬉しくて。

 僕は彼を胸に抱きしめた。

 嬉しい、嬉しい。



 『まだ砂いるのー?』

 『どーせならでっかい山がいーじゃんっ!』

 


 僕は悠臣の存在を確かめるように力を込めた。

 

 「やっぱり、貴方の方から会いに来てくれるんですね。」


 悠臣の肩に右手を置く。悠臣は黙ったままだ。

 

 「・・・悠臣?」


 首を傾げ、視線を落とした。悠臣と目が合う。

 黄金の瞳。

 

 「っ!?」


 体を仰け反らせたが、腰に手を回せるのが早かった。バランスを崩し、抱き寄せられる。


 「・・・。」


 悠臣は漆黒の瞳だった。


 僕は顔を上げた。目の前にいる悠臣の瞳は金だ。

 何故と考えたが、答えは直ぐに出た。

 これは『夢』だ。僕の願望を叶える夢。

 悠臣に逢いたくて、作り出してしまったんだ。


 笑いが込み上げる。可笑しくて。

 笑っているのに、涙も出てくる。


 ああ、可笑しい。僕は既に狂っているかもしれない。


 「・・・もうちょっと、マシな夢が良かったな。」


 夢なのに、こんなにも苦しいなんて。


 笑いも涙も止まって僕は真っ直ぐ『悠臣』を見つめる。

 似てる。一緒の時を過ごせていたらと思う。

 頬を撫でると『悠臣』は自身の手を重ねた。そしてそのまま口元に僕の手を持っていき、キスをした。


 正直、驚いた。

 悠臣らしくない行動だったから。

 掌、指とキスを落としていく。


 何処でこんな事を覚えたのかと苦笑が漏れた時、


 「っ、?!」


 中指を舐められた。


 ぬるっとした感触に体が跳ねる。それはそうだ、想定外だ。

 手を引こうとしたが、強い力で掴まれている。

 眉を寄せ、睨みつけた僕を真っ直ぐと見詰める金眼。

 

 ーぴちゃ


 「・・・っ、何して。」


 視線は外さずに、指先を口内に含まれる。

 唾液の音が嫌に響く。


 『ねー!あっちにバケツがある。誰かの忘れものかな?』

 『よっしゃ!借りよーぜ!』

 『え〜?勝手に使ったら怒られない?』

 『元の場所に戻せば大丈夫だろ?』


 

 ーぴちゃ、ぴちゃ


 「いい加減に、・・・っ。」


 僕が喋ろうとすると、奥まで咥える。

 唇を噛む僕の反応を楽しんでいるように見える。

 腰に回った腕を抓ろうとしたけど、筋肉で抓る事が出来ない。ムカついたから、爪を立てて思いっきり引っ掻いた。

 

 それには驚いたようで唇から手を離した。

 ざまぁみろ。

 僕はフンと鼻を鳴らした。


 「・・・ふっ。」


 金眼を見開いたかと思ったら、今度は目を細めた。

 

 「何か可笑しな事でも?」


 馬鹿にされたようで、嫌、実際には馬鹿にしていたと思う。

 僕が不機嫌を隠さずに睨み付けると、『悠臣』は肩を揺らして笑った。そして、僕の耳元で囁いた。


 「喰わせろ。」


 ・・・え?


 何を言われたか理解出来ずにいた僕は顔を上げて『悠臣』を見るしか出来なかった。


 くわせろ?

 意味がわからずに黙ってままの僕に『悠臣』は微笑んだ。

 そして、僕にキスをした。

 唇同士が触れる感触は何も感じ無かったのに、舌が絡むと一気に身体が熱くなった。


 「?!」


 離れようとしたけど、離れられない。

 次第に霞がかかったように頭がぼんやりとしてくる。

 いやらしい水音だけが響いて、力が抜けていく。


 「・・・っ、はぁ。」


 理解が追いついていないのに、快楽で更に思考がぼやける。

 どうして?と過ぎる間も、頬に額にとキスをされている。気付かないうちに服の中に手が入っていて、胸を好き放題に触られていた。


 「っ、んっ。」


 嫌じゃない。だって、「いつかは」と夢見ていたから。それが、紛い物でも夢の中で叶うなら良いじゃないか。


 僕はもう抵抗する事はやめていた。

 服を捲り上げられて、胸が露わになっても。

 胸を弄られ、吸われても。

 

 「・・・もう引っ掻かないのか?」


 電話越しに聞いた声より、少し低い声。

 こんな的外れな言い方をするなんて。


 「ふふっ。ほんっとに憎たらしい。」


 きょとんと金眼が丸くなった表情は悠臣だった。



 『お山できたっー!』

 『おー!貫通させるぞー!俺はこっち掘るからかのんはそっちな!』

 『りょーかいですっ!』

 


 

 身体が熱くて熱くて堪らない。

 触れられる度に跳ね上がる。外側も内側も。

 キスを繰り返せば更に熱が籠ってしまう。

 

 「・・・悠臣。」


 抱きしめて何でも貴方の名前を呼ぶ。

 

 気持ちよくて、貴方の事だけしか考えられない。

 

 「悠臣、悠臣っ、」


 体の奥が熱い。

 もう、離さない。

 全部受け止めるから、どうか離れないで。

 僕は必死に悠臣にしがみ付いた。

 



 『ぁ!はるおみの手だ!』

 『かのんつかまえた!』

 『『やったー!貫通だっー!』』



 幼い日の想い出の中。

 僕は幸せを感じていた。



 

 『5時だっ!かのん帰るぞー。』

 『まって、おてて洗ってからー。』

 『あっちの水飲み場行こーぜ。』

 『うん!』



 2人が公園から出ていくのを僕達は見送る。

 僕は後ろから悠臣に抱かれていた。

 体は重く怠かったが、悠臣から離れたくなくて、悠臣に背もたれ僕は悠臣の服を握っていた。


 誰も居ない公園。

 日が落ちる事のない夕方。

 話したい事は沢山あるのに、黙って傍に居るだけで心地良いなんて。

 ずっと続いて欲しい時間。



 「・・・朝だ。」


 悠臣の声に僕は顔を上げた。

 

 「そろそろ目が覚める。」


 優しい笑顔。貴方はいつもそうやって僕を安心させていた。


 「美味しかった。」


 そう言って悠臣は額にキスをした。

 「美味しかった」なんて、失礼過ぎる。

 ムードもへったくれもない。


 「・・・もっと言葉選んで下さいよ。美味しかったなんて。僕は貴方に逢えてとても良い気分だったのに台無しです。」


 そう、台無しだ。

 いつもいつも肝心な時に。


 ワザと悪態を吐いた僕に悠臣は左眉を下げて笑った。


 「それは仕方ないな。俺は夢魔なんだから。」




 ーぱちっ。


 視界に入るのは自室の天井だった。


 「・・・。欲求不満?」


 目が覚めても下半身が疼いている。

 あー、やっぱりあの人はムカつく。



ーーー

 

 

 目覚ましより先に目が覚めたせいで頭が重くて、気分が悪い。

 李桜はまだ寝ているようで良かった。こんな苛々した姿を見られたく無い。


 冷蔵庫には『朝食』の変わりになるような物はなかった。牛乳もパックの半分以下だ。

 

 戸棚から残ったサラダせんべいを取り出して小分けの袋を引きちぎるように開ける。

 シンクの前でサラダせんべいを食べ終えて、パックから直接牛乳を流し込む。


 「・・・ぷはっー!」


 口の端から溢れる牛乳を拭い一息吐く。

 今日は『外回り』だから、気合いを入れないと。


ーーー


 いつもとは反対の電車に乗って、人の波をかき分ける。

 ビルの中に入り、エレベーターの5階を押した。

 エレベーターを降りると目的地の自動ドアが開いた。

 

 『すもも心のクリニック』


 自動ドアが背後で閉まる。僕は受付に予約票を渡した。


 

 今日は混んでないな。そう思いながら待合室で社用携帯のメールをチェックする。優先度の高い物はあきちゃんに転送した。


 溜息を吐いてぼんやりと宙を眺めていたら名前を呼ばれた。診察室に入るとテーブルを挟んだ向かいに年配の女性が座っている。某お菓子のおばあちゃんみたいなふくよかな体型に優しい笑顔は安心する。


 「もう半年経つんだね。ほら、座りな。」


 僕は促されるままに椅子に座った。

 

 「お久しぶりです、先生。」

 「久しぶり。また美人になったねぇ。何か変わった事でもあったのかぃ?」

 「・・・変わった、事。」


 考えこむ僕に先生はニッコリと笑った?

 

 「変わった事がないなら良いんだよ。もう通って9年くらいになる。気持ちが安定してるなら無理に桜音ちゃんが時間作って通う必要はないよ。・・・妹ちゃんの事なら電話してきな。」


 先生は僕の仕事の事を心配してくれているのだろう。僕は頷いた。

 

 「変わった事、あったんです。」


 太腿に置いた拳をギュッと握る。先生の茶色の瞳を真っ直ぐに見つめた。


 「恋人にレ○プまがいな事される夢を見たんですけども、欲求不満ですかね?」

 「・・・。」


 先生は黙った。まぁ、そうだろう。医者も弁護士も秘密保持の職種だから。


 「・・・彼氏が出来たのかぃ?」


 先生は絞り出すように言った。僕は首を横に振り否定する。


 「いいえ。僕が『恋人』と認めたのはあのブラコンだけです。」

 「・・・当時はそういう行為は?」

 「ありません。あのブラコンはキスすらしてくれなかったので。なのに、何かこう、手慣れてた感じが癪に触るといいますか。夢ですけど。」

 「・・・安定剤持っていく?」

 「いえ。薬には頼りたくないですし、現実と夢の区別はついています。ただ、欲求不満なら困ったな、と。自分で処理するのが良いのかラブグッズでも買えばいいのか。アドバイスを下さい。」

 「・・・ああ、丁度時間だね。症状が続くようならいつでもおいで。」

 


 僕は頷いて診察室を出た。

 お会計を済ませてビルを出る。

 日差しが厳しくなったなぁー。

 駅までの道を歩いていると社用携帯が震えた。

 取り出して画面を見るとあきちゃんからのメールが数件。

 時間給って言葉知らんのか。

 

 折角だし、ランチしてから行こうかなぁ。

 

 お昼前だしどのお店もまだ混んでなさそう。

 パスタもいいし、オムライスもいいな。

 サラダせんべいと牛乳だけじゃ腹持ちは悪かった。 


 何を食べようか色々考えてみたけど、僕が選んだのは『海鮮丼』だった。


 「ふぅー。美味しかったー。」


 お腹も満たされた事に満足する。僕は両手を合わせて席を立つ。

 そう、「美味しかった」って言うのはこういう事だ。まるで僕を食べ物みたいに。



 『それは仕方ないな。俺は夢魔なんだから。』


 そう言えば、変な事を言っていた。

 夢魔。西洋の悪魔。


 「・・・夢魔だろうが鬼だろうが貴方なら何だって構わないんですよ、僕は。」


 そう、どんな姿であれ悠臣なら。

 ・・・やっぱ人型限定。ナメクジとかダニとかならコミニケーション取れないし。



 事務所に出勤するとあきちゃんの機嫌が悪かった。なんだか苛々してるなぁと思っていたけど僕はそのまま午後の打ち合わせに入る事にした。

 

 半日業務はあっという間に終わった。帰宅しようとするとあきちゃんに睨まれたけど僕は手を振って事務所を出た。申し訳ないけど、残業はしない。


ーーー





 「たっだいまでぇーすっ!」



 買い物を終えて、テンション高く帰宅する。


 勢いよくリビングに入り僕はバニラプリンを李桜の前にかかげキッチンに向かう。

 

 「今日は炒飯ですかー。いいですねー。」


 香ばしい醤油の匂いにフライパンを覗きこんだ。

 ビクついた李桜に微笑みリビングを出る。

 部屋に戻るとシャツとスラックスを脱ぎ捨てて、タンクトップとショーパンに着替える。

 ホントは家の中でくらい、下着でいいと思う。

 服を着るのも面倒だ。


 着替えを終えたらキッチンに行き、酎ハイを勢いよく飲んだ。

 

 「ぷっはぁー!うっまい!」

 

 その後はダイニングテーブルにつき、李桜が料理を運ぶのを待つ。


 「ありがとうございますー。美味しそうですねー。流石李桜ですー。」

 「・・・ありがとうございます。」


 小さく答えた李桜が席に着くのを待った。席についたのを確認し、僕は手を合わせる。


 「ではいただきまーす。」

 「・・・いただきます。」


 引き篭もってから李桜は僕が食べ始めてから食べるようになった。まるで、僕の許可を窺うように。

 

 「う〜ん。美味しいですねぇ。」

 

 ほっぺが落ちそうと僕は頬に手を添えた。


 「・・・良かったです。」


 それに李桜は遠慮がちに笑った。

 テレビの音がBGMのようにリビングに流れる。


 「ごちそーさまっ!さっ、別腹スイーツの時間ですよん♪」


 チャーハンを食べ終え、僕は飛び跳ねるように冷蔵庫に向かいバニラプリンを手にとる。

 李桜にも手渡し、僕はすぐにパッケージを開けた。


 「20%増量ですよ、お得ですっー!!」


 やっぱり甘いものは正義っ!なのだ。

 李桜もバニラプリンを食べてくれた。

 

 それからは互いの自由時間だ。僕はソファに座りスマホでネットニュースを眺めていた。

 ふと窓の外を眺めると月が出ている。


 今朝は変な夢だった。


 あの人をきちんと弔えてないから、あんな形で現れたのだろうか。

 それとも僕の罪悪感?


 立ち上がって冷蔵庫からビールと酎ハイ、サラダせんべいを手にとる。

 そのまま、窓枠に腰掛けた。


 僕は甘い物が好きだ。悠臣は甘い物は苦手だけど、炭酸なら飲めた。

 大人になったらビールや日本酒が飲めるようになるだろう。ワインも飲んでみたいな。


 なんて話していた頃があったのに。

 その味もわからずに貴方は死んでしまった。

 

 悠臣ならどんな味を好むだろう?

 悠臣ならどう振る舞うだろう?

 悠臣なら、

 

 そんな事ばかり考えて囚われて。

 

 「くしょっ!」


 くしゃみが出るとぶるりと産毛が逆だった。

 気付けば2時間近く夜風に当たっていたようだ。


 残ったビールを一気に飲み干し空き缶を捨てる。

 そろそろ寝ようか。


 部屋に入り布団を被る。抱き枕を脚に挟んで。

 



ーーー



 ーぱちっ


 夕暮れ時の教室。並んでいる机に1人座っている。

 窓ガラスに映る僕の姿は中学生の制服を着ている。懐かしいセーラー服だ。


 「ここは学校か。」   


 声がしたのは教室の後方のドアからだ。

 僕は無言で振り返る。

 そこにはドアに背もたれ、憎らしい笑みを浮かべている『悠臣』いや、夢魔がいた。

 しかも、僕と同じ中学生の姿で。


 「よくもまぁ姿がコロコロ変わりますね。」

 「夢魔だからな。」


 肩を竦める様は外見に合っていない。悠臣はこうも落ちつき払っていない。

 

 「ふーん。夢魔ってこぶつきなんですか?」

 「は?」


 目を丸めた『悠臣』の足元に視線を落とすと『悠臣』の視線も下がっていく。


 「あー!」


 ひょっこりと顔を出したのは弟の『悠真』だろう。髪質がそっくりだ。姿は2、3歳くらいだろうか。

 『悠臣』のズボンを引っ張りくりくりの瞳で見上げている。

 

 「・・・お前。」

 「??」


 驚く『悠臣』に『悠真』はコテンと首を傾げ、自身の頭の重さを支えられずバランスを崩した。


 「ゆうまー。おいでー。かのんですよー。」


 僕はしゃがんで両手を伸ばした。

 

 「あーうー。」


 『悠真』はにぱっと笑うと両手をついて立ち上がった。手を伸ばしてヨタヨタと僕の元に歩いてくる。


 「あんよがじょうず♪あんよがじょうず♪」

 「あー♪あー♪」

 

 手拍子すると『悠真』は満面の笑みになる。

 素直で可愛いですねぇ。


 「うー♪あー!」

 「はーい、上手にあんよできましたー。お利口さんです。」

 「あー!」


 僕の前まで歩いてきた『悠真』を抱き止める。

 『悠真』小さな手でしっかりと僕の胸を掴んだ。


 「おやまぁ。淫魔の兄と同じで『悠真』もおっぱいが好きなんですか〜?」

 「うー?」

 

 抱き上げると『悠真』は幼児独特の黒い目を更に丸めて僕を見ている。


 「・・・ぉい。」

 「でもね、『悠真』。彼女は大事にしないとメッですよ?」


 不機嫌に声音を低める『悠臣』を無視して僕は続ける。


 「スケベでも良いので一途な素敵な男になりなさい。」

 

 ちらりと『悠臣』を見遣る。『悠臣』は腕を組んだまま、ふいっと明後日の方向を見やがった。ムカつく。

 

 「いいですね、『悠真』。好きな女を傷つけるようなどこかのレ⚪︎プ魔みたいになっちゃメッ!ですよ。」

 「ぁーい!」


 にぱぁと『悠真』が返事をする。本当に良い子です。


 「ふふ。元気が良いですねぇ。」

 

 胸に抱くと『悠真』はスリスリと僕の胸に顔を寄せた。

 中学生の体だし、そんなに大きくないが『悠真』はくすぐったそうに笑っている。そしてそのまま寝てしまった。


 「ホントに抱っこすると直ぐ寝ちゃいますね。」


 『悠真』を抱き直す。さっきまで何も無かった教室に一脚の椅子があった。僕は椅子に腰掛けた。


 「僕が納得できる説明を頂けますか?」


 考えても説明が付かない。夢なのに妙にリアルで、起きた後も意識がはっきりとしている。

 暫くの沈黙の後に『悠臣』は口を開いた。


 「説明も何も。俺は夢魔だからここでスケベな事をするだけさ。」

 おやおや。根に持ってますねぇ。

 「夢の中で性交し死に至らしめる、その『夢魔』で合ってます?」

 僕の問いに『悠臣』は答えない。

 

 「僕を、殺しにきたんですか?」


 まぁ、別に構わないのだけど。

 胸に顔を埋める『悠真』に頬が緩む。


 「殺すまで生気を貰おうとは思わない。後が面倒だからな。」

 

 そう言って『悠臣』は僕の前で膝を付いた。

 僕を見上げる金眼が夕陽を取り込んでいるように輝いて見えた。


 「・・・生気、ですか。」

 「それが俺達の食事だ。」


 そう言うと『悠臣』はスカートに触れた。

 

 「・・・触らないで下さい。」

 「しっかり抱いてろ。そいつは俺の片割れに似ている。」

 

 意味がわからない事を話し、上からの態度に怒りを感じる。

 僕が苛ついている事に気づいたのか、口元に笑みを浮かべた。そして、腰を掴まれ前に引かれる。


 「ぎゃっ!?」


 咄嗟の事で、抱いている『悠真』を落とさないようにと腕に力が入った。


 「色気のねぇ声。」


 クックッと喉を鳴らし、肩を振るわせた『悠臣』に蹴りを入れようと足をあげたが何なく掴まれてしまった。

 足を上げたまま、睨みつける僕は滑稽だろう。


 「・・・そんなに僕のパンツが見たいんですか?」

 このドSなら僕を辱しめようと頷くはず。

 昔は、ただのSだったのに。 

 『悠臣』はニヤッと可笑しそうに笑った。


 「パンツ?そんなの履いてないだろ?」


 『悠臣』の言葉にギョッとなる。

 パンツをはいてない?そんな事って?


 「ああ、口で分からせた方が早いか。」


 愕然とする僕の言葉を待たずに『悠臣』はスカートにに顔を突っ込んだ。

 

 「?!」


 何だろう、感覚が敏感になっているようで、全身の毛が粟立つ。


 ーぴちゃ


 「っ!!?」


 固まった僕の耳に追い討ちのように湿った音が聞こえる。


 「・・・ふっ、・・・まちなさい。」


 僕はどうにか声を出した。

 聞こえているはずなのに、止めるどころか腰を掴んでくるこの男は最低だ。


 「・・・ゆうまが、落ちちゃう。」


 『悠真』はスゥスゥと寝息を立てている。変に力が入っているので、『悠真』を落とす事はない。

 『悠真』を出しにしたのはブラコンのこの人なら反応すると思ったからだ。

 しかし、やめる所か激しくなっている気がする。


 頭の芯が蕩けて、喘ぐ声も抑えられない。

 体が跳ね上がる度に『悠真』が起きないかとヒヤヒヤした。


 「・・・、つ、もぉ、・・・だめっ。」


 快楽の波に抗えなくて、僕は絶頂を迎えた。


 

 下半身に力が入るわけがなく、だらし無く開いた足の間から『悠臣』が顔を上げた。唇のペロリと舐めて、荒い息を吐く僕を満足そうに見上げている。


 「・・・確かに甘い。」


 だから、第一声がそれはやめろ。

 

 ぼんやりとした思考でもこの男に悪態を吐かないと気が済まない。


 「・・・相変わらずスケベな顔だな。」


 立ち上がり、わざわざ顔を近付けてまでの勝ち誇った笑みが悔しくて僕は『悠臣』の胸倉を掴んだ。


 「・・・貴方ねえ。」

 「気持ち良かったなら最初からそう言え。」

 「はぁ?!僕が『悠真』抱いてるからって調子に、」


 『悠真』?


 脱力と怒りで忘れていたが、抱いていた『悠真』が居なくなっている。もしかして、落とした?!

 左右を見ても『悠真』の姿はない。

 

 「ここは『夢』だ。」

 

 彼が何を言わんとしているか理解できた。


 「便利ですね。」

 「そうだな。現実と違って、『或るもの無くなったり』が『無かったものを手にしている』世界だからな。」


 姿形はそっくりでも、やはり思考が違いすぎる。

 僕の感情を掻き回すのは似ているからなのか?


 苛々で眉間に深い皺が刻まれる。

 ふっと笑って『悠臣』は人差し指を眉間に当ててきた。

 

 「可愛い顔が台無しだ。」


 夕陽に照らされる笑顔はいつかみた悠臣だった。

 あの時に戻れたようで、胸が熱くなる。


 じっと魅入ってしまった僕の耳元にそっと顔を寄せる。耳に唇が触れた。


 「スカート捲って後ろ向けよ。」


 ・・・ああ、やっぱりこのブラコンは最低だ。

 生きてるうちにそんな事を口にしていたらボコボコにして泣き喚いて許しを乞うまで無視していただろうに。

 

 ムカつくムカつく。

 だけど、望んでいた事も確か。

 焦燥感を無くせるのも貴方だけ。


 「・・・はるおみ。」


 名前呼んでも返事もしない。

 僕の名を呼ぶ事もない。

 

 何なんだ、この夢は

 触れる距離で、感じるだけ感じさせられて。


 「善がれば善がるだけ、質も上がる。その方が都合が良い。」

 

 だから、そっちの話だけをするな。

 

 「・・・はる、」

 「悠臣なんて知らない。人違い、いや夢魔違いか?」


 クッと喉を鳴らす様に絶望と快楽がごちゃ混ぜになってくる。  

 もう全部ぐちゃぐちゃで狂ってしまいそうだ。

 貴方が僕を弱くさせるんだ、いつも泣かせるんだ。

 

 「・・・お願い、あの人の姿で酷い事言わないで。」



 心が持たない。

 愛しい記憶の中のまま、悠臣には笑っていてほしい。


 「それは、そっちの問題だろう?」


 予想もしない、残酷な言葉。

 僕は息をするのも忘れた。

 

 「これは夢だ。傷付きたくなければその男の事を忘れればいい。」


 悠臣の顔で、声で。

 僕を否定するんですね。


 「それならいっそ殺してもらえますか。」


 貴方を忘れるくらないなら死んだ方がいいかもしれない。

 貴方の事を考えて、どう立ち回ればいいのかその事ばかりだったのに。


 「生気、でしたっけ?吸い尽くして下さいよ。」


 セーラー服とスカートを脱ぎ捨てる。

 生きる意味なんてとうに無くしていた。

 

 「お前、拗れ過ぎてないか?」

 「音速で返してあげますよ。」


 なんだ、重くて面倒な女とでも言いたいのか?

 『悠臣』は態とらしく、大袈裟に嘆息した。


 「殺せなんて簡単に言ってくれるな?」


 僕は黙って睨み続ける。その余裕さが腹立つ。


 「お前は『美味い』。出来れば長生きして貰えるとこちらも助かるんだが。」

 「何が言いたいんですか。」

 

 回りくどい話し方もそっくりだ。


 「もう1人の女の子も美味いのかって。」


 ・・・この男は。


 「手を出すと?」


 怒りと、侮蔑と、愛憎で身体震えるのがわかる。


 「死んだらわからないだろ?どうなってるかなんて。」

 「・・・。」


 何て言葉足らずなんだ。はっきり言えばいいのに。


 強く噛み過ぎたか、唇から血が流れていた。

 止まる事なく流れ、首筋を、胸を、お腹をと伝っていく。


 夢だから。止まる事なく流れていく。


 「ああ勿体ない。」


 『悠臣』は僕の前に立つと切れた唇の端を舐めた。そして流れた血を舐めとった。


 「・・・甘いな、美味い。」

 「食べ物で評価しないでください。」

 

 流れた血は一本の道筋となっていた。その跡を丁寧に舐めとられる。くすぐったい。


 「俺達の存在を信じるなんてお前は変わった女だよな。」


 血の跡を舐め取りながら話し続ける『悠臣』の頭を鷲掴んだ。


 「なんだ?」

 「貴方も夢魔の中では異質な存在じゃないですか?」

 「何故そう思う?」

 「勘です。」

 「・・・ふっ。」


 真剣な僕に『悠臣』は笑った。

 ふいに見せる笑みはやっぱり似過ぎていて。

 抱き締める腕に力が入った。


 「・・・お前から押し付けてるんだからな。」

 「暫く黙ってなさいよ。」


 息が出来ないぐらいに力を入れても、息は出来るようだった。

 「暫く」『悠臣』は動かなかった。

 気が楽になり抱いている腕を緩めた。


 「ねぇ。」

 「なんだ。」


 ぶっきらぼうだけど、返事をきちんと返してくれる。


 「貴方夢魔でしょう?一応悪魔なんだから願い事とか叶えてくれないんですか?ヤリ逃げばっかじゃなくて。」

 

 僕の言葉に『悠臣』は金眼を見開いていた。

 それから、また肩を揺らして笑った。


 「何かと思えば。快楽を与えているだろ?」

 

 ああ、やっぱりそういう事か。


 「だったら毎夜、快楽を下さいよ。貴方のせいで欲求不満なんです。」


 ムカつく。ムカつくけど。

 それでもやっぱり『逢いたい』


 「それもいいな。」


 断られるかと思ったが、『悠臣』はすんなりと返事をした。


 「俺も餌場が減って困っていたんだ。お前は『甘い』し丁度良いい。」


 また、自分規準で話してくる。というか、すごい失礼な事言ってないか?

 

 「夢魔は自身の理想の姿に見えるんだ。それは頭の隅に入れておけ。」


 警告とも取れる発言がやっぱり癪に触るので、右頬を思いっきり引っ張った。痛覚がないのか『悠臣』はきょととした。だから、今度は僕からキスをした。

 

 「僕が寝ている間は傍にいてくるんですよね?」

 

 確信があったが、この人からも聞きたくてそう聞いた。やっぱり僕の意図を知ってか憎たらしい笑みを浮かべている。


 「悪魔と一緒に居たいなんてお前はとんだ変わり者だ。」

 「お前じゃありません、『桜音』です。」

 「かのん、ね。」

 

 金眼を細めた『悠臣』の含みのある言い方に僕は眉を寄せた。


 「なんです?良い名でしょう?」

 「悪いとかじゃない。お前、いや桜音はさっき片割れの名も呼んでいたな。」

 

 『桜音』

 懐かしい響きに胸が高鳴る。やっぱり、僕はこの人が、


 「どうした?ぼっーとして。もう媚薬効果は切れてるだろ?」


 ・・・ムカつく。


 「悠真の事ですか?」


 不機嫌に答えると『悠臣』は顎を摩り考え込むように黙った。

 

 「ゆうま、・・・ゆうま、か。」

 「相変わらず、ブラコンは健在ですか?」


 ニヤリと意地悪く笑う僕を『悠臣』は真剣な瞳で見つめた。その瞳に後ろめたさで一歩後退りそうになる。


 「・・・俺達には名前なんてない。人間でいうところの『記憶』もな。ただ、『意思を持って存在』しているだ。」


 僕は黙っていた。『悠臣』は僕から目線を外したが、話は続けた。


 「『自我崩壊』のリスクは避けたい。個体認識さえすれば、相手の情報で存在維持できる?・・・生気量を調整できる?・・・深層意識での維持は?・・・ぶっ」


 ブツブツと訳のわからない事を呟いている『悠臣』を僕は力いっぱい抱きしめた。

 どうして僕にはいつも関係無い話ばかりを聞かせるのか。


 「その話は僕がいない所でして下さい。夢魔なら夢魔らしくしなさいよ。」


 睨みつけた僕に『悠臣』は片眉を下げて笑った。


 「もうすぐ夜明けだ。」

 「だから何ですか。」

 「仕事ってのがあるんだろ?」

 「今日は休みですよ。」

 「へぇ。羨ましいな。」


 何故だろう。煽られているようだ。


 「それなら多少無茶しても構わないって事か?」


 ・・・わかってるくせに、わかってるくせにっ!!

 苛々する僕が面白いのか、『悠臣』は笑っている。しかも、僕から顔を背けて。やっぱり煽られてる?


 「いいから黙って抱きなさいっ!」


 怒鳴った僕に『悠臣』は態とらしく腹を抱えて笑った。


 「そんな横暴に縋られたのは初めてだ。」


 幸せな夢の中で快楽に溺れる。こんな贅沢な時間はない。



ーーー



 ーぱちっ


 自室の天上をぼんやりと眺める。


 夢でしかあの人に逢えないならずっと寝ていたい。

 あれは絶対に『悠臣』だ。僕をこれだけ苛立たせてるんだから。

 

 「・・・お腹空いた。」

 

 スマホで時間を確かめる。11時21分。

 うん、よく寝た方だ。・・・体は怠いけど。

 

 今日は土曜日だし、ゆっくりしよ。


 リビングに行くと、李桜がソファで寝ていた。

 目の下には隈が出来ている。

 

 『美少女』と呼ばれていた面影は今はない。

 優しくて、穏やかな李桜は僕とは正反対だ。


 ゴロゴロとベッドで時間を潰して、お茶でも飲もうと僕はキッチンに向かった。


 リビングでは李桜が珍しくうたた寝をしている。

 

 「・・・私、何もしてない。」


 ボソボソと李桜が乾いた唇を動かす。

 寝言?李桜は眉を寄せている。

 苦しんでいるかと思えば、口元を緩めたり。

 一体、どんな夢を見てるんだろう

 

 「・・・や、やめて・・・お願い、恥ずかしいっ!」

   

 まさかまた虐めの夢?

 李桜の頬を軽く叩く。

 睫毛が揺れ始めた。


 「李桜。風邪引いちゃいますよぉ〜。」

 

 声を掛けると李桜は目を見開いた。


 「!!」

 「魘されてましたよ。また、嫌な夢でも見たんですか?」 

 

 李桜の隣に腰かける。李桜は首を横に振った。


 「・・・嫌というか、・・・可笑しな夢でした。」

 「そうですか。」


 頷いた僕に、李桜は目を細めてみせた。

 うん、少しずつだが感情表出が出来ている。


 李桜が昼食準備に戻ったので僕も新聞を広げた。

 

 

 李桜お手製の豆腐ハンバーグは美味しかった。焦げてしまった事を李桜は謝っていたが、豆腐は焦げやすい。

 食器の片付けの水音が妙に心地良い。食後で血糖が上がっているからか、睡魔がやってくる。

 

 あれだけ寝たのになぁ。

 ・・・まぁ、あの人に逢えるならいいのだけど。


 背もたれにしていてクッションを枕にして僕はソファに横になった。

 

 

 白と黒がチカチカする何も無い『夢』

 何処にいるのか、歩いているのかわからない『夢』で僕の脳は「寝ていた」。


 

 目が覚める。

 どうやらあの人は毎回夢に出てきてくれないらしい。

 自室の天上と違いリビングの天井は茶色の木目だ。 

 ぼっーと、時間だけが過ぎていく。

 

 折角の休日。勿体無いかもしれない。 

 でも、やる事が見つからない。


 「・・・これも、あのバカなブラコンのせい。」 

 

 きっとそう、『夢魔』なんて変な事を言い出したあの人のせい。

 西洋の悪魔のはず無い。

 どうせなら『幽霊』の方がまだ良かったのに。


 ー俺は信じてないんだけど、宗教の発信地みたいなのがこの村にあって無理くり入信?させられてさー。


 「・・・。」


 そう言えば。

 宗教の話が書かれた手紙が届いていたような。


 起き上がった僕は自室に行き、クローゼットを開けた。

 クローゼットの上段に閉まっている段ボールから

 ファイルとアルバムを手に僕はリビングに戻った。

 


 悠臣からの手紙は全部ファイリングしている。内容は大体、村の事とだぁーい好きな悠真の事。最後に、『俺は元気だから桜音も元気で』という締めで終わっている。


 あの人らしい、鉛筆で下書きしてボールペンでなぞっている字体。懐かしくて口元が緩む。

 1枚1枚手紙を読んだが宗教の事の手紙はなかった。

 溜息と共にファイルを閉じる。

 僕は棚からサラダせんべいを、冷蔵庫からジンジャーエールとコーラを取る。

 

 プルタブを引っ張ると『プシュ』と炭酸が抜けた。喉も渇いていたので一気に流しこむ。

 サラダせんべいもバリバリ食べた。


 ついでに持ってきてアルバムを開く。

 あの頃はまだ父もいたし、母もまともだった。

 家が近所で僕らは保育園で出会った。

 子供の頃の僕は「怖がり」で悠臣といつも一緒だった。

 一緒にいるのが当たり前で一緒に大人になるんだと信じていた。

 

 アルバムの写真は色褪せる事なく綺麗なままで。

 

 最後のページにはあの人の事故の記事が挟まっていた。


 ・・・死の原因を調べる事もお墓に行く事も出来なかった。


 時間が経っていた事もあって、ネットでしか調べる事が出来なかった。地元の新聞記事に掲示板、オカルトサイトまでがヒットしていた。


 『足を滑らせての転落死』『神隠し』。

 現実的なのは転落死だが悠真が一緒だったのが気になる。しかも、発見に一カ月以上かかっていた事。 

 死体は腐り、獣が食い散らかした跡があったそうだ。捜索隊や駆除隊も山に入ったが獣の個体特定までは出来なかった。当時としてはよくニュースになっていたので信憑性は高いだろう。

 報道で名前が出る事は無かったからその被害者があの人とは思わなかったけれど。



 「・・・。」

 

 ソファに横になる。

 体が怠い。もう寝てしまおう。


 

ーーー



 桜が舞う季節はあの人もご機嫌だった。

 『やっぱここの桜は綺麗だなー。』

 丘の上に咲いた桜の木の枝ぶりは見事で。木の幹に背もたれ2人でよく『お花見』していた。

 『サラダせんべいにジンジャーエールって合います?』

 隣にいる悠臣はジンジャーエールの缶を見せつけて黒曜石のように輝く瞳を細めて笑った。

 『チョコレートにミルクティーより合うだろ。甘い×甘いって気分悪くなるし?』

 『失礼な。』

 僕が不機嫌になるのに悠臣はいつも笑うだけだった。

 『俺んとこ、弟だった。桜音のとこは?』

 『次回の受診日に聞くって言ってました。』

 『どっちがいい?』

 『元気に産まれてくれるなら弟でも妹でも。』

 『そうだなー。』

 そう言って、悠臣はゴロンと横になった・・・かと思えば図々しくも僕の膝を枕にした。

 『・・・悠臣』

 『こっから見る桜が1番綺麗なんだよ。』

 『・・・。』

 悪戯っぽい笑みで見上げる悠臣に嘆息し、僕も桜を見上げた。

 ひらひらと舞う花弁が僕らに降り注ぐ。

 『・・・ホントに綺麗ですね。』

 毎年見に来るけど、毎年違う姿を見せてくれる桜は僕も好きだった。

 『ああ。成長過程も見れるからなあ。』

 『枝も伸びてますしね。』

 『そ、そうだな。』

 肩を震わせる悠臣に僕は眉を寄せた。

 

 それが最後の花見だった。



ーぱちっ


 青い月灯りが眩しくして目が覚めた。

 もう、今夜は眠れそうにない。

 『夢魔』と宣うあの人には今夜は逢えないな。

 

 朝日が昇る。

 白い世界。

 また、今日が始まる。

 

 テーブルにはツナマヨとたまごふりかけ、ミネラルウォーターが置かれている

 本当にできた妹だ。

 昨日は夕方から何も食べていないからありがたい。右手にツナマヨ、左手にたまごふりかけを持って交互に口に放り込む。最後はミネラルウォーターで流しこむ。


 「ぷはっー。」


 食後はベランダに出た。朝日を浴びてセロトニンを生成しよう。

 下を見下ろすと老夫婦が犬の散歩をしている。

 向かいのアパートの住人はガーデニングをしていた。

 皆、やる事を見つけて羨ましいなぁ。

 

 朝日を浴びても幸せ気分にはなれなかった。


 「・・・?」


 ふと、鼻先を掠めた匂いに僕は当たりを見渡した。


 隣の住人か下の住人がお香でも炊いているのか?

 新緑を思わせる爽やかな香り。


 「ふぅ。」


 息を吐いて僕はまたぼんやりと街並みを見下ろした。

 

 鳥の囀りも心地よい。

 今度チェア買おう。ハンモックみたいなのがいいな。

 

 ーバタンッ、バタバタ!



 「?」


 室内から荒っぽい音が響く。


 何事かとリビングに戻る。

 珍しく李桜がせかせかと動いている。


 「おや、起きたんですね。」

 声をかけると李桜は青褪めた顔で振り返った。

 そして、ぼろぼろと涙を流している。

 「お姉っ!!」

 泣き出した事にも驚いたが、大きな、切羽詰まった声音にびっくりだ。

 「え?李桜どうしました?」

 近付いて、僕は李桜の背中を軽く叩く。

 細い背中が震えている。

 「・・・怖くなって、しまって。何も、出来なくてごめんなさい。・・・役に立ちますから。」

 嗚咽混じりの台詞にゾッとした。

 まるで、あの女のような言い草。

 ダメですよ。あの女の血が僕らには流れてるんですから。


 「・・・都合がいい事だってわかってます。でも、でも、「・・・さっきから何を言っているんですか?李桜は役に立っていますよ?」


 李桜を抱き締め言葉を遮る。その考えは良く無いですよ。不安が大きいなら、

 

 「・・・大丈夫、僕が守ってあげますから。」


 そう、護ってあげる。

 李桜が安心して大人になれるように。

 背中を軽く叩くと李桜の震えが収まっていくのがわかる。

 ぼくの腕を掴む指に力が入っている。

 李桜は顔を上げると真っ直ぐに僕を見上げた。


 「私、外に出たいっ!」

 

 決意の宿った瞳だ。

 ほら、大丈夫。この子は強い。


 「なら、せっかくですしランチに行きましょう。」


 僕の提案に李桜は大きく頷いた。

 

 「李桜は最高の妹です。」


 そう言って僕はもう1度李桜を抱き締めた。


ーーー


 李桜を風呂場に連れていき、僕も支度を始めた。

 服なんてここ何十年も買っていない。

 適当でいいだろう。

 僕は無難にTシャツとジーンズでいいけど、李桜はどうしようか。

 あの子もここ一年服は買っていない。

 体重は増えてないようだが、身長は伸びている。

 クローゼットには僕が昔買った服もある。

 

 白のワンピースに桜色のカーディガン。

 

 今の僕にはもう似合わないけど李桜になら似合うかもしれない。


 入浴を終えて、着替えた李桜は予想通りワンピースがよく似合っていた。リボンのついた帽子も合っている。うん、僕の時代のセンスだけど良かった。


 

 僕は李桜の手を引いて、駅前のファミレスに向かった。

 最初はビクビクしていた李桜も次第に足取りが軽くなっているように感じる。

 気分不良もないようだ。

 特に変わりなく過ごせているようだし、笑顔も増えている。

 次は李桜の食べたい物のお店に行こう。

 『自己決定』は大事ですからね。


 李桜がどう考えているかわからないが、僕は李桜には『社会復帰』してほしい。

 自尊心を上げて、上手く促さないと。

 人たらしの手法はあきちゃんから学ぼう。


 帰宅後も疲れはあったようだが、口調が以前のように戻っていた。いい傾向だ。


 

 「という事があったんです。」


 『悠臣』の胸に背持たれ僕は今日の出来事を話した。

 「それは良かったな。」


 返事は素っ気なかったが、最後まで話を聞いてくれる。それだけで僕は嬉しい。


 「様子を見て、学校にも行かせた方があの子の為です。あの子はそこまで弱く無い。選択肢は増やしてあげたい。それが僕にできる事だから。」


 『悠臣』の腕に触れる。顔を上げると、彼の金眼とかちあった。


 「弱くないなら自分で決めさせた方がいいんじゃないか?」


 「そうですけど。ある程度は導くのも大人の責任でしょ?」


 僕が口を尖らせると『悠臣』は左眉を下げて笑った。


 「そうか。」


 この何気ない会話が心地よい。

 ずっと続いていてほしい。


 「話しが終わったならそろそろ食事にしたいんだが?」


 抱き締める腕に力が入っている。

 金眼を細る『悠臣』に僕も目を細めて笑った。

 

 「気持ち良くして下さいね。」


 「・・・。くっ、りょーかい。」


 睨まれて、悪態を吐かれると思っていたのだろう。金眼を丸くして一瞬言葉に詰まっていた。

  

 李桜も変わろうとしてるのだから、僕も一緒に頑張らないと。

 ああ、でも僕も不安。

 誰かに聞いてほしい。ただ背中を押してほしい。


 「・・・はるおみ。」


 『悠臣』と離れたら現実を生きる。

 大丈夫、『まだ狂っていない』

 ちゃんと順応してるんだから。

 

 夢はぐちゃぐちゃな世界。

 それでも、貴方と触れ合える幸せがある。

 

 「あまり無茶するな。」


 貴方の腕が離れる。囁かれた言葉に心が満たされていく。


 また、明日も逢いにきて。


ーーー


 週明けは問い合わせの電話が多い。事務の子達も忙しそうだし、僕のところに電話が回ってくる事もある。

 『悠臣』が夢に現れてから、体調がすこぶる良い。精神的に、だ。


 今日は11時から市役所で無料相談が入ってる。

 カバンに必要な物を詰め込んで予定表ボードに『外勤、役所』と書いた。

 あきちゃんは拘置所に面会のようだ。戻り予定は夕方。残業確定だろうな。

 

 市役所では担当の方に挨拶し、相談室に案内された。

 1番目の相談者は30代の既婚女性。旦那からのモラハラに悩んでおり、慰謝料請求をしたいとの事だが、夫婦生活は続けたいとの事だ。

 ・・・出来ない事もないけど、それで夫婦生活持続は無理があるような。相手の気持ちもあるし。

 ただ、僕が話す前に彼女が25分間話し続けていたので、終了時間となって退室した。


 2番目の相談は60代の男性。独居叔父の後見人についての相談だった。家庭裁判所での手続きの前にもう一度相談したかったらしい。

 確かに、金銭管理の定期的な申告は負担に感じるかもしれない。親の面倒もみながら叔父もとなると。制度に任せる部分は任せた方がいい。事前に調べていてくれたので、確認事項だけでスムーズに終える事ができた。


 お昼休憩を取って、13時30分から相談を再開する。

 3番目の相談は20代女性。不倫トラブルだった。

 感情が高まっているのか、自身は悪くない、騙されたのに慰謝料を請求されたと喚いている。

 ・・・無料相談で解決できるわけないでしょ。本格的に依頼しにこい。

 と思ったが、笑顔を貼り付けて終了が時間が来るまで相手の主張を聞いていた。


 14時になり、無料相談が終了する。

 パンフレットを置いてもらい僕は早々に事務所に戻った。


 事務処理をして、明日の訪問の準備。えっと、離婚調停だったよね確か。

 スケジュールを確認して、資料の準備をして。

 ・・・最近は不倫や浮気、離婚事案が増えている。女性だからと僕が任される事が多いが言葉選びがとても難しいんですよね。場数熟すしかないか。


 週の始めの仕事は長く感じる。

 


 仕事はどっと疲れたが、帰宅前には気分を上げる。李桜も頑張っているし、僕も頑張らないと。


 「たっだいまでーすっ!」


 玄関から声を出して、リビングに向かう。

 

 「おかえりなさい。」


 ソファに洗濯物を広げ李桜が僕を迎えてくれた。

 李桜の姿を確認し、僕は着替える為に部屋に向かう。着替えと言っても、シャツとズボンを脱ぐだけだけど。

 

 僕がリビングに戻ると李桜は洗濯物を畳み終えていて、夕食の準備に取り掛かっていた。


 「今温めます。」

 「りょーかいしましたー。」


 李桜に返事し、僕はテレビのリモコンを手にとる。チャンネルを変えて適当にバラエティ番組を流した。

 

 「この芸人、天然ですよねぇ!」


 画面を指差し声を出して笑う。

 料理を運ぶ李桜も釣られて笑っている。

 うん、いい傾向だ。

 

 「李桜もこの芸人好きです?」

 「私は、芸人さんはあんまりわかんないけど、この緑の髪の人の発言は面白いと思う。」

 「なるほどなるほど。」


 李桜の言葉に僕は大きく頷いた。

 夕食は鯖の味噌煮と出汁巻き玉子にきんぴらとすまし汁。

 

 「このすまし汁、絶品ですよ。」

 「昆布と鰹節で出汁とってみたの。」

 「凄いじゃないですか。いつ覚えたんです?」

 「ネットで調べたんだ。」

 「さすがですー。僕ではこうは作れません。」

 「お姉が毎日褒めてくれるから、もっと美味しいの作りたくて。」


 会話が続いた事にも驚いたが、李桜がそんな風に思っていた事が僕は衝撃だった。


 「本当に貴女は自慢の妹です。」


 僕の言葉に李桜は恥ずかしそうに微笑んだ。


 

 「っていう事がありました。」


 「そうか。」


 今夜も夢の中で『悠臣』に持たれかかり今日の出来事を話す。

 『悠臣』は僕が話し終えるまで聞いてくれる。


 「たまには貴方の話も聞きたいです。昔はあんなに悠真の話をしていたのに。」


 「俺はお前の知ってる悠臣って奴じゃない。」

 

 「もうこんなに似てるんだからから悠臣でしょ。良い加減認めて下さいよ。」


 このやり取りも何度したことか。


 その後は必ず嘆息して、目頭を抑える。

 面倒だと思う、貴方の癖。


 「聞き分けないな。」


 「お互い様です。」


 「「うちの子の方が素直だ。」」


 『悠臣』と僕の声が重なる。

 丸くなる金眼に僕は勝ち誇った笑みを向けた。

 

 「お前には勝てる気がしない。」


 肩を震わせて笑う姿も桜の下で見た笑顔と同じだ。

 

 

 夢の中で貴方と過ごす。

 他愛無い話を聞いてくれる彼との時間がまるであの時と同じで。

 

 今日の出来事を貴方に聞いてもらう。

 まるで一緒に生活してるみたいだ。

 

 これが僕の求めた幸せだ。


 


 「ねぇ、僕ってすごくないですか?」


 「?」


 のし掛かる僕を『悠臣』は不思議そうに見えげた。

 

 「だって毎日えっちしてるのに、疲れもなく仕事してるんですよ?」

 「夢だからな。」

 「え〜それでもすごいと思いますけど〜。」

 「確かに今までの女より体力ある方か。」

 「・・・は?」


 この男は今なんと?


 黙り込んだ僕に『悠臣』はきょととした後にバツが悪そうにハッとなった。

 どうやら自分の失言に気付いたようだ。


 「・・・俺は夢魔だ。お前だけを相手にしているわけじゃない。」

 「だったら夢魔らしく今の相手に気を使いなさいっ!デリカシーが無いんですよ!」

 

 ムカついたので怒りに任せて何度も殴るが手応えがない。

 

 「気が済んだか?」

 「済みません。」


 睨みつけても余裕綽々の笑みが憎たらしい。

 

 「今はお前だけだよ。」


 耳元で囁かれたのは陳腐なありきたりの言葉なのに。

 どうしょうもなく、恥ずかしくて顔が赤くなった。

 顔を背けても、覗き込む表情は優し気で。

 

 「ほら、顔上げろ桜音。」

 「・・・嫌です。」


 名を呼ばれた事が嬉しくて思わず顔を上げかけたけど、どうにかして抑え込むことができた。


 「悪かった。」


 意地を張る僕を苦笑しながら見ている。その事が雰囲気から伝わるのが悔しい。

 


 『これ以上喋ったらマジ切れしそうだし切るな。

悠真もお腹空いたかもだし。』

 ーはいはい。では体に気をつけてね。

 『ああ。そっちもな。また電話するよ。』

 ーええ。待っています。


 

 最期の会話を思いだす。

 意地を張って、もう話す事も出来なかった。 

 ああ、それでも僕はまた同じ事を繰り返すんですね。


 「桜音?」


 『悠臣』の顔が歪んでいく。夢でもこうして逢えたのに。


 「・・・貴方と一緒に居ると、全てが満たされて我儘になるんです。居なくなって、あれだけ苦しかったのに。また、んっ。」


 『悠臣』は人差し指と中指で僕の唇に触れたあと、目元の涙を舐めとった。


 「泣くのはセックスの時だけにしとけ。」

 

 ああ、なんて言い草。


 「・・・そうですね。」


 可笑しくて吹き出してしまった僕を抱きしめてくれる。


ーーー


 日曜日。李桜と2度目の外出は近くのショップグモールに行った。

 フードコートで早めの昼食を摂る。

 李桜が選んだのは有名チェーンのうどんだった。

 隅っこの席に座り李桜はかけうどん、僕は温玉うどんを食べた。うどんの後はクレープを食べる。

 李桜は抹茶クリーム、僕はイチゴチョコだ。

 勿論、互いに一口ずつ食べ合いっこした。


 スーパーに寄る前に僕はお手洗いに行った。

 ・・・歳を重ねると胃腸が、ね?


 用を足してお手洗いを出ると李桜は青ざめた顔で立っていた。


 「李桜、大丈夫?」


 僕が近付くと李桜は安心したのか、ほっと息を吐いた。


 「・・・ぅん。ちょっと胸が苦しかったけど何でもなかったみたい。」


 表情も段々と良くなっていく。


 「精神的なものでしょうね。」


 そう言って僕は李桜の頭をなでた。

 僕が出てくるまで、1人で耐えたんですね。偉いです。


 その後は自販機の前の休憩スペースで少し休んで、併設しているスーパーで特売品を買った。

 帰りはタクシーを使った。まぁ、最初からタクシーに乗るつもりだったから沢山買ったんだけど。


 自宅に戻ると李桜は直ぐに食材を片付けた。

 僕はソファに座りゆっくりする。

 

 エコバッグから食材を取り出しながら、溜息を吐いている李桜。

 今日の事を気にしているのかな?

 李桜は元々完璧主義に近い性格だし。

 でも、それなら、


 「李桜〜。」

 普段のように暢気な姉を演じる。

 「コーヒー下さいー。砂糖多めでー。あとチョコとかあります〜?」

 戸棚を開ける音が聞こえる。

 「コーヒーと一緒に持っていきますね。」 

 「自分の分も忘れないでねー。」

 そう言うと李桜は頬を緩めた。


 李桜がコーヒーを用意している間に僕はタブレットで目当てのホームページを開いていた。

 

 テーブルにコーヒーとチョコを置き、李桜が僕の隣に座る。


 「李桜、僕ずっと考えていたんですよ。週末外出するのもいいけど、李桜が無理しそうだなって。だから。」

 

 最近、『フリースクール』の事を耳にした。

 通学必須かと思っていだがそうではなかった。丁度良い李桜にはリハビリになるかなと思った。

 

 「今はオンラインで授業が受けられます。貴女は賢い子だから学力は問題ないでしょうしね。無理に必要以上の他人と関わる事もないし。どうです?」

 

 無理はしなくていい。でも早めに手を打たないと。

 

 「・・・ぅう、・・・おねぇ。」

 

 ホームページを凝視していた李桜が泣き出してしまった。嫌だったかなと思ったが、李桜は笑っている。


 「慣れるまではもちろん一緒に外出します。今は短時間だけど、1日と増やして。旅行もしましょう。目標は高校デビューってやつですよ。」

 「・・・がんばる。」


 良かった。李桜はまた一歩前に進んだ。

 偉い偉い。抱き締めると李桜は泣き止んだ。

 

 「ではコーヒータイムといきましょうか〜。」

 「・・・うん。」

 

 李桜が淹れてくれたコーヒーも程よい温度になっているだろう。

 手を伸ばしマグカップに触れた時、


 "ダメェ!"


声が聞こえた、子供の声。

 

 カシャン


 マグカップが倒れ、コーヒーが溢れる。


 "コーヒー飲んだら眠れなくなちゃう!"


発音が拙く聞こえる声。


 ''こら、危ないだろ。"


被さる落ちついた声には聞き覚えがある。


 目の前には誰も居ないのに。

 

 倒れたマグカップが溢れたコーヒーが混ざり合っていく。

 そこに映っていたのは駄々を捏ねるように首を振っている男の子とその子を宥める長髪の、・・・悪魔を思わせる角を話した男。


 

 「お姉?」

 

 李桜の声に僕はハッとなった。


 「・・・コーヒーではなく、ハーブティーにしましょうか。確かレモングラスがありましたよね。」

 「あ、はい。」  


 李桜がトレイに手を伸ばすと男の子はパッと顔を綻ばせた。男の方は苦笑している。

 その笑い方は・・・

 李桜がトレイを下げる際、一瞬。溢れたコーヒーに映った金眼と目が合った。


 その後、李桜と話した内容が頭に入る事はなかった。


 何故?どうして?


 頭の中が混乱している。

 それなのに、こんな時に李桜が甘えてくる。

 食事中も話しかけていた。一緒にお風呂に入りたいのか、そわそわしていた。

 部屋に戻ったのかと思えば枕を持って僕の部屋に来る。


 1人になりたいのに、それを口に出来ない。

 李桜が拒絶されたと感じてしまうから。


 隣で眠る李桜が寝息を立てたのを確認し、僕は李桜に背を向けた。



 「悪かったな、コーヒー。」


 目を開けると僕はリビングのソファに座っていた。

 目の前に現れた『悠臣』を僕はジッと見つめる。


 「子供がやった事だ。」


 だから、許してやれ。


 そう言う事を言っているのだとはわかる。

 でも、僕が聞きたいのはその事じゃない。


 「まるで僕が見ていたみたいに言いますね。」

 「見えていたんだろ。」


 僕の隣に腰掛け、『悠臣』はソファに背もたれた。空を見つめている。


 「俺の姿も。」


 溜息とも、投げやりな言い方だった。

 

 「ああ。あの似合わないコスプレですか。センス問われますね。」


 「・・・ふっ。」


 『悠臣』は鼻で笑った。僕が睨みつけても笑い続けている。


 「かぼちゃパンツの王子よりマシじゃないか。」


 「王子って柄じゃないでしょ。」


 どっちかというと、


 「騎士の方がカッコいいだろ?」


 『悠臣』が冗談めいた言葉が僕の胸に響いた。

 

 「あはっ。そうですね。」


 自然と溢れた笑みに『悠臣』もつられて笑っている。彼の傍に寄り、その左肩に頭を預けた。

 

 「いつも傍に居てくれたんですね。」

 「そりゃ、大切な食糧だからな。」

 

 肝心なところははぐらかす。 

 現実でも貴方が居ると思うと、恋しさが倍増してしまう。


 「・・・ねぇ。現実にも居るのなら姿を見せてくださいよ。」

 「それは無理だ。」


 柄にもなく甘えたのに、このブラコンは即拒否をした。


 「どうして?」


 右手を『悠臣』の左手に合わせ、指を絡める。こんなに密着しても体温を感じない。

 きっと現実なら体温も全て感じられるのに。


 沈黙が訪れた。


 『悠臣』は何かを考えている。

 僕は黙って彼の答えを待った。

 

 ああ、でも。こうして時間が過ぎるのは勿体無い。彼との時間は決まっている。


 絡めた指を解いて、手首を掴む。

 僕の手首よりも太いし、重い。掌もこんなに大きいなんて。僕の掌はぷにぷにしてるけと、『悠臣』の掌は押し返してもこない。


 マッサージするように親指で指圧したり、指を引っ張ってみたり。

 そんな僕を『悠臣』は苦笑しながら見ていた。

 まるで、子供扱いされているような気分だ。


 いつまでも大人しいままだと思うな。


 睨み上げたまま、思いっきり人差し指と中指を咥えこんでやった。

 

 「・・・。」


 金眼を丸める『悠臣』に僕はどうだと言わんばかりに指に舌を這わせる。

 やり方なんて知らない。こんな事、初めてした。

 

 「ふーん?」


 細められた金眼は妖しく光っている。獲物を狙う獣のように。

 その瞳は僕だけを見ていて欲しい。


 「ふぅ、んう・・・。」


 じゅっぷと、粘液の絡む音が耳に届く。

 余裕の表情を歪めてやりたいと思うけど、どうしてか、僕の顔の方が歪んでいく。

 上手く出来ているのかわからない。

 『悠臣』見上げても、意地悪く口角を上げているだけだ。

 

 「はぁ・・・。」


 指を離す。糸を引いた指先に体が疼く。

 

 「まだだ。」

 「んむぅ!!?」


 今度は無理に口内に指を入れられた。舌を挟むように器用に動かされる。しかも、奥ばかりを刺激されては苦しくて仕方ない。


 「ん、んっ。」


 いつの間にか頭を右手で抑えられている。こんな事ばかり行動が早いのは本当に恨めしい。


 「自分から誘ったんだろ?イかせられなかったんだからお前がイけよ。」

 

 なんて男だ。ムカつく。

 

 「んむっ、んんっ。」


 ムカつくけど。どうしょうもなく愛しい。

 だから、全部言う事は聞いてやるんだ。


 「んっ!!・・・けほっ、う、・・・はぁあ。」


 

 満足したのか、息を吐く僕に見せつけるように『悠臣』は僕の唾液塗れの指を舐めて見せた。

 

 「・・・甘い。」


 ああ、もう。そんな感想はいいから。


 「・・・早く、抱いて。」


 貴方の事しか考えられないのはいつもの事だけど。今度は貴方とのセックスしか考えられなくなってしまった。


 「今夜はまだ時間はたっぷりあるから焦るな。」


 耳元で囁かれた言葉に身体が悦びで飛び跳ねる。

 

 もっともっと愛して。

 僕は応えるから、貴方に愛されて幸せだと。

 

 「・・・ねえ、どうして現実で逢えないの?」


 気持ちいいこの感覚は幻。

 

 「これ以上の事はやらない。」


 『出来ない』とは言わないんですね。

 寂しそうに、いや、その悔しそうに笑う事は一体どこで覚えたのか。


 「欲張ってもいい事ないぞ。」

 「貴方に逢えるなら欲張ります。」


 どうしてそんな言い方なのか。

 理由を聞いても教えてくれない。


 「・・・本当に出来ないんですか?」

 

 何度だって、懇願する。貴方が頷くまで。


 「俺を困らせるな。」


 そう言って貴方は僕を抱きしめた。

 ズルい。


 「・・・それはそっちの問題でしょ。」

 

 そう呟いた僕に貴方は眉を下げて笑うだけだった。



ーーー

 


 目が覚めると既に李桜の姿は無かった。

 朝食の準備に取り掛かっているのだろう。

 僕は両手足を思いっきり伸ばしてリビングに向かった。

 

 

 「・・・ぉはようございますー。」


 テーブルには朝食が用意されている。

 目玉焼き。醤油かなぁ。

 椅子に座ると李桜が声をかけてきてくれた。

 「おはようございます。今日は目玉焼きとほうれん草ソテーです。鮭のふりかけも。」

 「・・・鮭ですか。」

 僕が手を合わせると李桜も手を合わせた。


 平日の朝は変わらない。

 テレビの音がBGMだ。

 

ーーー


 

 出勤して、書類作成、郵送の業務をこなしていく。合間に電話やメール対応。

 所内の打ち合わせを終えると12時前だった。


 よし、お昼にしよう。

 お弁当を持って休憩室に向かう。

 

 「桜音。ちょっと。」


 呼び止めたのはあきちゃんだった。

 毎回毎回、休憩時間を潰しにくるなぁ。


 「何です?僕これからお昼なんですけど。」

 「お願いっ!」


 両手を合わせ頭を下げるあきちゃんに僕は溜息で返した。

 

 弁当を温め非常階段に向かった。

 扉を開けるとあきちゃんが壁に張り付いていた。


 「きもっ。」

 「・・・第一声がそれえ?」


 イケメンが壁に頬をくっつけてたらそう言うだろう。しかも、ワイシャツ姿で。


 「で?どうしたんですか?」


 階段に座り弁当を膝の上で広げる。今日は唐揚げ弁当ですか〜?いいですねぇ〜。


 「・・・ダァが浮気したのよぉ。あたしも悪いとこはあったわ。残業もしたわよ。でも、ダァの誕生日の為だったのにぃ。」

 「そんな男は殺してしまえばいいんですよ。」

 

 弁当を食べ続ける僕にあきちゃんは泣くのを止めた。


 「・・・のんちゃん、大胆ね。」

 「裏切り者には死あるのみ、です。」


 う〜ん。冷めても美味しい唐揚げ。しかも油っこくない。ホントに李桜は料理が上手です〜。


 「のんちゃん、今夜付き合ってよぉ。」

 「嫌です。」

 「あーん。意地悪しないでぇ〜。」


 隣に座り、イヤイヤと首を横にふるあきちゃん。

 イケメンで女性社員からの人気も高いのに。

 

 「あたしものんちゃんと浮気するっー!」

 「殺しますよ。」


 食べ終えた弁当を終い立ち上がる僕をあきちゃんはハンカチを咥え涙目で見上げていた。


 「浮気が嫌なら捨てたらいいんですよ。捨てる事を後悔するくらいなら我慢なさい。」


 恋愛なんて僕にはあまりわからない。

 

 ぐすぐすしていたあきちゃんだが、昼休憩終了後は「聡勇」に切り替わっていた。流石だ。

 

 数回、目が合った時はあきちゃんだったのか、ふんとそっぽを向かれた。


 ったく、僕にはどうしようも出来ないのわかってるくせに八つ当たるな。


 結局、業務終了まで(僕にだけ)あきちゃんの機嫌は悪かった。

 

 ジト目で睨まれても僕は気にせずに退社した。


 満員電車に揺られ、一つ前の駅で電車を降りる。

 駅前にはいくつかコンビニや弁当、チェーン店が並んでいる。

 その中で僕の目を引いたのは『ロールケーキ生クリーム倍増中!』の幟。


 このロールケーキの生クリーム美味しいんですよね。喉が鳴った時には僕は店内に吸い込まれていた。


 

ーーー


 

 「ただいまー。ねぇ、李桜っ!帰りにふらっーとコンビニに寄ったんですよ。そしたら感謝セールでロールケーキの生クリーム倍増しててー。」

 

 玄関からドタドタと騒がしく中に入る。

 リビングでソファに座っていた李桜と目があったが、返事がない。


 「李桜?どうしました?」


 

 レジ袋を掲げてみるが李桜の反応はない。

 暫くすると「・・・おかえりなさい。」と返した。 

 少しは良くなったかと感じていたが、そうではないようだ。精神的な事だから波があるのも仕方ない。

 無言のまま夕食を終え、僕はお風呂に入った。

 

 

 「お風呂終わりましたー。」

 ワザと大きな声で話し、ソファに勢いよく座る。

 「李桜も入ってきなさい。」

 そう促すと李桜は小さく頷いた。

 「・・・。うん。お風呂入ったらもう寝るね。」

 「早いですねー。ではおやすみなさい。」

 手を振ると李桜はリビングを出ていった。


 う〜ん。ロールケーキは僕1人で食べる事にぬりましたねぇ。


 冷蔵庫からロールケーキとコーラを取り出す。そのままロールケーキを食べ、コーラを飲んだ。


 「かっはー!」


 炭酸の刺激が強い。ケーキにはやっぱりミルクティーが合う。


 その後はサラダせんべいと酎ハイを持って窓際に腰掛けた。


 今夜は雲が多く月が隠れている。


 「・・・。」


 ぼんやりと月を眺め、サラダせんべいを齧る。

 月を見たのは久しぶりだ。


 サラダせんべいを食べながら月を見ていたのはあの人の供養みたいなものだったから。


 

 今夜も貴方に逢えると思うと心が弾む。



 ーぱちっ


 想い出の中の僕らは幼くて、いつも一緒だった。

 学校が終われば、ランドセルを担いだまま公園に向かう。


 他の友達も居たかもしれない。でも、僕はいつも悠臣を見ていた。


 だから、ほら今夜も僕の前には2人仲良く遊ぶ『僕』がいる。


 『桜音っ!ほら、ヤモリ捕まえた!』

 『やだ。うねうねしてるっー!』

 『家の守り神だぞ!』

 『神様捕まえるなんて悠臣罰当たりっー!』


 きゃいきゃいと戯れる2人は知らない。

 この先に、逢えなくなる事。


 にしても、あの人遅いな。 


 木の幹に持たれ、2人を眺める。バッタを追いかける悠臣と四葉のクローバーを探す『僕』。


 懐かしく眺めていると、急な夕立ちに2人は慌てた。


 『桜音、こっちこっち!』

 『びっくりしたぁ。』


 土砂降りの雨では2人が木の下に入った事までしか確認出来なかった。


 確か、この後は二重の虹が見えたはずだ。


 降り頻る雨も直ぐにやむだろう。



 土砂降りでも、木の下に居れば濡れる事はない。夢だし。


 「・・・桜音。」


 背後から呼ばれ、ビクついて振り返ると『悠臣』がいた。後ろから僕を抱きしめている。


 「随分と待たせてくれますねぇ。」


 苛立ちを隠さずに刺々しく伝える。

 『悠臣』からは返事はない。


 「悪い、今は時間がない。」


 そう答えるなり、『悠臣』は僕の服を捲り上げた。


 「ちょ、何盛ってんですか?!」


 無遠慮に右胸を鷲掴みやがって。

 

 引き離そうとしたが、普段に比べ力が強い。

 違う、震えてる。


 「・・・悪い。直ぐに済ませる。」


 何を失礼な事を。

 髪の毛を思いっきり引っ張り顔を上げさせる。


 「・・・なんて顔してるんですか、貴方。」


 今にも泣き出しそうに顔を歪めている。

 情け無い、愛しい表情。


 「時間が無い。黙って付き合ってくれ。」


 そう、貴方は僕だけを頼ればいいんですよ。


 「仕方ないですねぇ。」


 理由は後で聞いてあげる。

 貴方の焦る姿も、困惑する表情も、後悔だって全部僕が受け止めてあげるから。


 「・・・んっ。ぁん。」


 雨が止みそう。地面を叩く音が無くなれば、雨のヴェールが上がれば、あの頃の僕達にこんな、欲に溺れた姿が見えてしまう。


 「はるおみ、・・・んっ!」


 必死にしがみ付いているが、もう立って居られない。

 

 「・・・悪い。」

 

 『悠臣』は何度も謝りながら僕を求める。

 僕が欲しいのはその言葉じゃない。


 「好き、はるおみ・・・」

 

 沢山の言いたかった。

 貴方に聞かせたかった。


 「・・・桜音。」


 キスを繰り返しても、気持ちいい感覚だけ。

 貴方の体温を感じる事は出来ない。


 「んっ!!・・・ぁ、はぁ。」


 2度の絶頂を迎えた後、空には綺麗な虹が三重に重なっていた。


 幼い僕らの気配は無くなっていた。


 「・・・悪い。」  


 幹に背もたれたままの僕に『悠臣』はまた謝って消えてしまった。あの人から先にいなくなるなんてこれまでなかった。


 何か、あったのだろうか。

 ああ、でもどうせ。


 ズルズルと木の下に座り込む。


 「悠真の事だろうなぁ。」


 消えかかった虹を見上げ、空に向かってボヤいた。

 

 その後の2日間、『悠臣』が夢に現れる事は無かった。


ーーー



 雨の中の公園で無理矢理僕を抱いてから4日経っていた。

 仕事は順調で問題ない。あきちゃんも彼氏と仲直りしたらしかった。

 

 夢に現れるのも幼い日の僕ら。

 

 教室で残って宿題したり、公園で遊んだり。

 図書館で本を一緒に選んだ。

 木登りもしたし、たまにはゲームもした。

 だらだらとアニメを見て、昼寝して。

 

 大切な想い出。


 虫取り網を持って走る悠臣を追いかける『僕』を見るたび涙が溢れる。


 夢に現れた貴方との想い出も僕の記憶に残るだろう、鮮明に。


 ドサッ


 隣から誰かの気配を感じる。急に現れるのは

 

 「もう、待たせすぎ、」


 嬉しいのに素直になれなくて、僕は隣を睨み付ける。目線の先に『悠臣』はいない。


 「え?」


 『悠臣』は倒れていた。血の気の引いたように血色が悪く、表情は歪んだままだ。


 「悠臣っ!!」


 怖くなった。

 

 「悠臣っ!」


 名前を呼んでも反応がない。

 頬を触れる。体温は感じない。寧ろ、冷たい。


 「悠臣ってばっ!」


 僕の声は金切り声のようになっていった。


 「・・・っ、大丈夫だ。」


 「悠臣っ!!!」


 小さく呟いた悠臣の反応に僕は嬉しさのあまり抱きしめた。

 

 「・・・だ、むっ」


 しっかりと顔を固定して、『悠臣』に口付ける。

 奥まで舌を絡めて、吸いやすいように。

 ぴちゃぴちゃとイヤらしい水音が響く中で次第に『悠臣』の方から貪るように口内を掻き回した。

 

 「んっ、んっ!」


 吸われて、奥まで舐め取られて。


 「・・・ふぁ。気持ちいい。」


 なんて気持ちいいんだろう。こんな快楽、貴方とじゃないと味わえない。


 「・・・足りない。」


 先程とは違い、欲を抑え苦しむ表情にゾクゾクと鳥肌立つ。

 

 「・・・僕も、足りない。」


 キスだけじゃ足りない。

 もっといっぱい触れ合いたい。


 何度もキスを繰り返して、汗ばむ肌に触れて。


 「・・・今日は僕が気持ち良くしてあげますよ。」

 

 『悠臣』の胸を軽く押す。よろめいた悠臣は金眼を細めた。

 本当に僕らに言葉は必要ないみたいだ。

 跨る僕に『悠臣』は笑うだけだ。ムカつく。

 数日、夢で逢えなかっただけで僕は壊れそうだった。

 

 「僕らの間に隠し事はなしって約束でしょ?」


 「そうだったのか?」


 余裕が出てきた貴方の憎らしい笑み。

 そんなの直ぐに消してやる。

 貴方が必要とするなら僕は全てを捧げてもいい。


 「っ、ぁ、・・・んんっ!」

 「・・・あんま、無理するな。」

 「ぁ、やっ、イクまで、・・・あぁ、やめないっ!」


 頑張って動いても、焦ったいだけ。

 もっとと刺激を求めても当たらない。

 

 「んっ、・・・でき、ない。」


 あれだけの啖呵を切ったのに、悔しくし、恥ずかしい。できると思ったのに。


 「・・・充分だ。」


 『悠臣』はニッと笑った。

 その笑みに胸がキュッとなる。


 「・・・はる「俺がイかせるから。」


 腰を掴まれ、深く抉られる。思考が停止する。


 「!!?」


 声にならない。頭の芯まで犯される快感。

 身体中に変に力が入る。


 「・・・ここが踏ん張り時かもな。」


 更に力を込めて穿たれる。受け止めきれない快楽から逃れようと腰が動いた。


 「はっ、だめ、だめ!・・・これ、いじょは」


 呂律がまわらない。

 

 「おねが、あ、ひゃ、・・・イクッ!イクゥ!!」

  

 喉が裂けるくらい、あられない言葉を発しながら意識が遠のいていく。


 「・・・やっぱり、綺麗だ。」


 ひらりと桜の花弁が『悠臣』の頬をに落ちた。

 見下ろした先の穏やかに笑う姿はあの頃と同じ。

 


 僕の好きな、綺麗な漆黒の瞳



 ひらひらと舞い散る桜が肌に触れる。くすぐったい。

 

 「・・・んっ。」

 「起きたか?」


 視線を上げると、金眼が僕を見下ろしていた。

 目が覚めるまでしっかりと僕を抱きしめてくれいたらしい。


 「夢の中で眠る奴なんて珍しいな。」


 喉を鳴らし笑う『悠臣』の頬を抓ってやろうと思ったが、腕に力が入らないので止めた。


 「そんな事より、僕に言うことあるでしょ?」

 「気持ち良かった?」

 

 はぐらかせ無いと知っていながらそんな事を言うのだから。


 「何かあったのでしょう?」

 

 『悠臣』の視線が揺らいだ。


 「僕に出来る事なら手伝いますから、ね?」


 黙ったまま答えない。昔からこーいうとこは頑固だ。

 

 「悠真の事でしょ。」


 悠真の名前に『悠臣』の体が揺れた。


 「・・・。」

 「話して。」


 固く結んでいた唇が薄く開いた。


 「・・・今、仮死状態なんだ。」


 そう呟いた『悠臣』の言葉を僕は黙って聞いていた。


 「・・・このままじゃ、また死ぬかも。」


 僕を抱く腕に力が入る。

 

 「何か方法はあるのでしょう?」


 『悠臣』の表情はまるで怯える子供のようだった。


 「運がいい事に俺達は繋がっている。普段は俺の血を飲ませていたけど、今の悠真は飲む事が出来ない。」

 「ならどうしてるんですか?」

 「浴びせるしかない。」


 そう笑って『悠臣』は僕を抱いていた左手を見せた。手首は横に引かれた瘡蓋が盛り上がっている。


 「自分が倒れるまで?」


 「・・・生気は、摂取した後に分解、吸収する必要がある。沢山抱いたから分解が間に合わなかったかもな。」

 「ちょっと待ちなさい。」

 「?」

   

 話を止めた僕に『悠臣』はきょととなる。

 

 「沢山抱いた?僕のとこに来ないで?」


 ギッと睨みあげると『悠臣』は視線を泳がせた。


 「・・・質より、量というか?」

 「ふぅ〜ん?」


 あれだけ甘いだの美味いだの言っておきながら肝心な時には他所の女に手ェ出すんですね。


 「仕方ないだろ、桜音のとこに来ると他の女のとこに行けなくなるんだから。」

 「行くなっつってんですよ、このブラバカ。」

 「・・・いひゃい。」


 左頬を抓ると『悠臣』は情け無い声を出した。


 「質より量と言いますけど、絶対に質ですよ。」

 

 睨みつける僕に『悠臣』は頭をかいた。

 

 「そうだよなぁ。悠真も李桜とヤッてれば桜音の血でいけたかもだけど。マーキングだけじゃなあ。」


 ん?


 「それは李桜の夢に悠真がってこと?」

 「え?そうだけど?」


 サラッととんでもない爆弾を落とすな。


 「聞いてない?」

 「聞いてないですっ!」


 声を荒げた僕に『悠臣』は左眉を下げて笑った。


 「思春期だからな。言えない事もあるだろ。」

 「でもっ!」

 「夢魔なんて他人に話せないさ。」


 確かにそうかも知れない。李桜と同じ立場なら僕も言えないだろう。


 「お、もう夜明けだな。じゃあな桜音。」

 

 そう言って『悠臣』は僕の額に口付けた。


 「まだ話しは終わってない、」


 待って。もう少しだけ。

 だって、今の『悠臣』は、

 

 ニッと歯を見せて笑う姿は


 僕の知っている悠臣なんだ。



ーピッピッ


 手を伸ばした先には見慣れた天井。

 涙が目尻を伝い、耳元に流れている。

 喉が引き攣って痛みを感じた。


 「・・・悠臣。」


 会話の途中から居心地を感じていた。

 懐かしい掛け合い。

 大好きな貴方の笑顔。

 

 ああ、何て最悪な目覚め。



 「おはようございます〜。」


 笑顔を貼り付けてリビングのドアを開ける。

 李桜がテーブルに朝食を並べているところだった。


 「お姉、おはようございます。今日はポーチドエッグつくってみたの。」

 「わあ!朝からオシャンティですね〜。」


 テンションを上げてテーブルにつき、テレビのリモコンを操作。李桜が席に着くまでスマホのニュースサイトを眺める。

 夏休みの時期なのか、子供の行楽地事故が多い。

 李桜が席に着いたのを確認し、手を合わせる。


 「いただきます。」

 「いただきます。」


 李桜も僕に続いた。


 「とろーりたまごは美味しいですねぇ。」

 「良かった。」


 僕の賛辞に李桜は笑った。

 最近の李桜の変化は悠真が関係しているのかもしれない。

 でも、李桜と悠真に接点なんて無いはず。

 僕も実際に悠真にあったことは無い。

 電話で話したくらいだ。



 『こんどいっしょにあそんでください。』

 『聞いたか!?今悠真が返事したぞ!』

 

 ・・・あの時?


 「今夏は猛暑日が続きますっ!日焼け止めの対策はバッチリですか!?こちら新商品の」


 女性アナウンサーの声に我に返る。

 ・・・憶測で考えるより、直接聞く方が早い。

 

 そっと朝食を食べる李桜を伺う。

 李桜は静かに朝食を食べている。

 きっかけがあれば直ぐ話せるだろう。

 そう思い、口にするのを辞めた。



 出社して、外勤。

 事務所に戻って、事案の整理。

 昼食後は面談。

 所内の打ち合わせ。

 タスクをこなし、業務終了。

 定時で上がり満員電車に揺られる。


 玄関の前に立ち、すぅと深く息を吸った。


 「たっだいまでーす!」


 1オクターブ高い声で玄関の扉を開ける。


 「お帰りなさい。あの、お姉・・・。」


 僕を出迎えた李桜がおずおずと話しかけてきた。


 「ん〜?なんです〜?」


 リュックをソファに投げて、シャツのボタンを外す。

 

 「・・・ぁ、着替えてからで大丈夫です。」

 「?このまま聞きますよ?」


 そう言うと李桜はタブレットを見せた。

 タブレット?ネットを開く李桜に僕はハッとなる。


 もしかして、悠真の事?

 記憶は無いと言っていたけど、昨日は確かに記憶がある感じだった。


 「・・・えっと、これ。」


 そう言って李桜が見せたのは『フリースクールの申し込み』ページだった。


 「一緒に話を聞いてほしい。」


 「ああ。いいですよ。」


 気の抜けた返事に李桜は嬉しそうに笑った。


 それから夕食を摂りながら他愛ない、話しをした。

 僕は芸人の事。李桜は自主学習の内容。

 話しを聞いて学習面は問題無いように感じた。


 「最近、明るくなりましたね。いい事でもありまた?」


 僕の問いに李桜は目を見開き俯いた。薄らと頬が赤い。


 「・・・前に比べてぐっすり眠れてるから。」


 そう、切ない笑みを浮かべた。



 特段の変わりはなく、僕も早めに布団に入る。

 現実は刺激が無くてやりがいも無くて。

 がむしゃらだったあの頃は考えなかった事を考える。


 李桜の手が離れれば、もう未練はない。





 僕ら母娘は父に捨てられ、3度引越した。2DKから1Kになり、風呂無し1ルームになった。  

 僕はバイト先のシャワーが使えるが李桜はそうはいかない。夕食後にシンク台ににお湯を張って李桜をお風呂に入れた。

 児相に逃げ込もうと考えなかったわけじゃない。ただ、自分が頑張れば済む事だとわかっていた。

 あの頃は『ネグレクト』と『貧困』の認識が曖昧だった気がする。


 中学の頃は朝刊の配達をした。『父に捨てられた母娘』に学校側は同情し、すんなりと許可が降りたのだ。

 

 バイト代は李桜の保育料で殆ど手元には残らなかった。年に2回の賞与はへそくり。李桜の分と自分へと分ける事で、何とか頑張れた。それに『これだけ頑張ったんだ』と自慢したかったから。

 1ルームでも、あの女は家に居ない事が多かったから広さは問題なかった。

 はずだった。

 

 「ぇ?」

 確かにここに閉まった封筒がない。

 部屋の角の古びた箪笥の下段。しかも、下に貼り付けていたはずなのに。

 全部の引き出しを取り外し、表も裏も全てを探

す。

 あの封筒には八万円入っていた。

 悠臣に会いに行く為に、バイトの時間を無理に伸ばしてもらって貯めたお金。

 

 どうして?


 茫然とした僕を嘲笑う女な声が聞こえた。


 「あんたあのお金どうしたの?売りでもしたの?」


 煙草を吹かし、ニヤニヤ笑う姿に殺意が湧いた。

 

 「ああっ!!お前何かと一緒にするなっ!!」


 手にしていた包丁を振り翳し、女の顔に突き立てる。血が吹き出し、倒れる姿に僕は笑みを浮かべた。

 この女のせいで。僕はバイトばかりで、妹の世話をしなくてはいけなくなった。

 男に狂い、金を貢いで捨てられたこの女のせいで。

 「お前なんかっ!し「やめろ。」

 振り上げた手が止められる。手にしていた包丁はいつの間にか消えていた。


 「これは夢だ。」

 

 背後から聞こえた声に体の力が抜ける。背中に確かに触れているのに、体温を感じない。

 振り返ると僕を見下ろす瞳は不安気に揺れていた。

 

 「・・・はるおみ。」

 「嫌な記憶からくる夢だ。」

 「・・・わかってますよ。だって、この女はもう死んでる。でも、あのお金はっ!・・・悔やみきれない。だって、だって貴方に逢えたかもしれないっ!」

 「夢には浄化作用がある。幸せな夢だけで見ればいい。」

 

 血に濡れた僕を抱きしめてくれた。

 温もりは感じない。それでも、抱きしめられると満たされる。

 涙が溢れて、止まらない。

 わかってる、わかってる。

 それでも、納得できない。

 時間は解決しなかった。想いは募るばかりだ。


 「・・・幸せな夢。」

 「嫌な事は忘れればいい。」

 

 貴方の言葉に僕は更に涙が溢れた。


 「・・・忘れるわけないでしょ。」

 

 そう返すと貴方は困ったように笑った。

 

 それでもこんなに血で汚れた僕を貴方は優しく抱きしめてくれる。


 「・・・悠臣。ずっと一緒に居て。お願い。貴方が悠真の事を大事に思ってるのは知ってる。悠真も一緒でいいから。」


 貴方に逢えば逢うだけ、貴方が居ない現実が辛くなる。


 「ややこしいな。」


 ふっと悠臣が笑った。僕は眉を寄せる。


 「可愛くおねだりしてるのにややこしいとはなんです。」

 「アイツは妹さんにゾッコンみたいだ。」


 小さく笑う『悠臣』に釣られて僕も笑うしかなかった。


 「安心してください。僕稼いでますから。貴方達の面倒くらいみれます。」

 「頼もしい限りだな。」


 冗談だとわかっているであろう『悠臣』に僕は舌を見せた。


 「それより昨日の事だけど。」

 「昨日?」


 僕の問いに『悠臣』が金眼を丸める。

 

 「悠真の事です。」

 「ゆうまがどうした?」


 昨日の慌てぶりとはやはり大分違う。


 「仮死状態で、血が必要なのでしょう?」

 

 そう聞くと『悠臣』は気難しい表情になった。

 初めの頃のように警戒している。


 「・・・仮死状態というより、深く眠ってるだけだ。」

 

 これ以上は聞くなと苛立だつ雰囲気が見える。


 「貴方と悠真が繋がっている事は存じてます。「そうか。なら話は早い。食わせてもらうぞ。」


 僕に話しをさせないと言わんばかりの強引な口付け。

 ムカつく。

 左腕に爪を立てて、思いっきり引っ掻く。『悠臣』の唇が離れる。


 「・・・面倒くさい。」


 ぼそりと呟いた。僕は顔を上げる。


 「お前は面倒だ。アイツが美味いと言ったから俺はここに居る。干渉されてまでお前の夢に来る必要はない。」


 悪寒が走った。冷たい金眼に移る僕の表情は硬い。


 「大人しく食わせてくれないならここにいる意味はない。」


 『悠臣』が離れていく。

 わかる。この人はもう夢に現れない気だ。

 

 「待って!」

 

 嫌だ。夢でも逢えなくなるなんて。

 そうなったら、きっと


 僕は壊れてしまう。


 「謝るからっ!」


 みっともなく縋ってもいい。だって僕には貴方しか居ないんだ。貴方を想って生きてきた。今の僕が居るのは貴方が居たから。


 「悠臣っ!!」


 遠くなる背中に気が狂いそうになる。

 足が震えた。


 「あーうー!」


 僕の足元を小さな手が掴んでいる。


 「あーう、めえー!!!」


 悠真はその小さな身体からは考えられないくらい大きな声をだした。そして僕に両手を伸ばす。

 僕は屈んで悠真を抱こうとした。が、力が抜けて尻餅をついてしまった。


 「あーあーうー。」


 小さな手で僕の頬を触る。くりくりとした金眼に僕は涙が溢れた。


 「う、うぅ。ゆうま〜・・・。」

 「あーい!」


 にこにこと笑い胸に飛び込む悠真を抱き止める。

 悠真は頭をすりすりと寄せてきた。


 「ふぇ、うっ、・・・うぅ。」

 「あーい、あーい。あ、あ、うー。」


 泣いている僕の頬を小さな手で撫でる。慰めてくれているようだ。


 「・・・ゆうまは優しい子ですね。」

 「あーいっ!」


 言葉は理解しているようで、悠真は得意げに笑った。


 「・・・なんで。お前。」


 悠真の姿に戻ってきた『悠臣』は茫然となっている。


 「あーうー、めっ!めっ!」


 悠真は『悠臣』を見上げ手を振り上げている。

 

 「悠真、怒ってくれるの?」

 「あーい!あーう、めっ、めっ!!」


 一生懸命な悠真の頭を撫でる。大きな金眼で悠真が僕を見ている。


 「ありがとう。悠真はお利口さんですね。」

 「あーい!!」


 にぱっと悠真が笑う。今回は抱き上げても悠真は眠らなかった。ただ、じっと『悠臣』を見ては「めっ、めっ!!」と連呼している。


 「ほら、帰るぞ。」


 抱いている悠真を僕から取り上げようとするように『悠臣』の手が伸びてきた。

 咄嗟に体を捻ったが悠真は簡単に『悠臣』に掴まる。


 「やぁあああっー!!」


 僕の手から離れた悠真は小さな手足をバタつかせ大声で泣き出した。

 

 「ぅわ、こら暴れるなっ!」

 「あーうー、やっ!あーあーう!あーうー!!」


 体をくねらせ逃れようとしている悠真に『悠臣』は困惑している。その隙に今度は僕が悠真を抱き上げた。

 言葉は悪いが『取り返した』が合っている。

 

 「悠真?大丈夫?」

 「あーい!!」


 僕の声に悠真は泣き止んで笑顔になった。胸に擦り寄る悠真の頭を撫でると悠真は気持ち良さそうに

目を細めた。


 「・・・。」


 『悠臣』は固まったままだ。悠真に拒否された事なんて無かったのだろうからいい気味だ。


 「あーうー、めっ!」


 追い討ちをかける悠真に僕は笑ってしまった。

 きっと、「はる、だめ。」と言っているのだろう。


 「・・・わかった。」


 渋々と言った様子で『悠臣』はその場に座りこんだ。帰るのはやめたらしい。


 「出て行かないんですか?」

 「うるさい。」


 不貞腐れ、『悠臣』はそっぽを向いてしまった。


 「はぁ。ん?」

 思わずため息がでる。すると悠真が僕の唇に触れた。

 「あーい、あーい!」

 幸せを逃さないようにかな?

 優しい悠真の行動に笑みが溢れる。


 「悠真は良い子ですねぇ。」

 「あーい!」


 にこにこと笑う悠真に僕の気持ちも和らいでいく。

 「悠真ー。お歌を歌ってあげましょーね。」


 幼い李桜を寝かしつけていた子守唄を悠真に歌う。悠真はうとうとと頭を揺らし始めた。


 まぁるいつきにはうさぎさん

 おかのうえにはおおかみさん

 きのえだとまるはふくろうさん

 よかぜがそよめくあおいよる

 よいこがよばれるゆめのなか


 子守唄が終わる頃には悠真は寝息を立てていた。

 

 「ふふっ。ぐっすり眠りなさい。」

 

 背中をとんとん叩く。その動きに合わせて僕の体も揺れていた。


 「寝たか。」

 

 いつの間にか『悠臣』が隣に立って悠真を覗き込んでいた。身構えた僕に『悠臣』は両手をあげる。

 

 「無理に連れて帰ることはしない。」

 「信用できません。」

 

 僕が距離を取ると『悠臣』は首を横に振り、背を向けた。

 この人は悠真が1番の宝物。

 

 「すぅ、すぅ。」


 眠る悠真が羨ましくて愛おしい。

 ちゃんと会いたかったな。

 悠真の事も抱いてあげたかったし。

 李桜とも遊ばせたかった。


 その姿を見たかった。


 「・・・うっ、」


 止まった涙がまた溢れ出す。考えれば考える程、悲しくて、悔しい。

 違った未来があったのに。

 

 涙が止まらない。悠真を抱く腕が震える。


 「・・・泣くな。」


 『悠臣』が僕の目元に指を伸ばす。僕は拒否するように俯いた。 

 流れ落ちた涙は抱いている悠真の頬に落ち、小さく開いた唇に落ちた。

  

 ーこくんっ

 

 

 「・・・うー?」


 腕の中で悠真が身じろいだ。


 「あ、起こしちゃった?ごめんね、悠真。」


 あやすように抱き上げると悠真はにぱっと笑った。


 「あーあーうー、あーあーっ!」

 「え?」


 小さな手を伸ばし、悠真は僕を見上げている。

 必死で何かを伝えようとしている。


 「あーあーうー、あーあーっ!!」


 段々と悠真の声が大きくなる。伝わらない事にもどかしさを感じているようだ。


 「悠真?どうしたの?お腹空いた?それともオムツ?」

 「やっー!いーっ!!」


 首を振り、悠真は否定している。

 じゃあ、何?


 「かのん、ありがとう。」


 横にいた『悠臣』が答える。夢はニコニコと手を上げた。


 「あーうー!あーあーあっー!!」

 「はる、あたり。」

 「あーいっ!」

 

 『悠臣』の通訳は合っているようで、悠真は手を手足を伸ばしている。

 無邪気な笑顔を向け、はしゃぐ悠真を僕はギュッと抱きしめた。


 「?」


 抱きしめたはずなのに、感触がない。

 


 「おかえり。」

 「あーいっ!」

 

 悠真は『悠臣』に抱かれている。


 何で?

 まるで瞬間移動だ。

 言葉を無くした僕に悠真はニコニコ笑って手を振っている。


 「あいあーい!」


 待って。

 行かないで。


 「夜明けだ。」


 『悠臣』を掴まえようと手を伸ばしたが手は空を掠めただけだ。


 「・・・っ!?」


 声も出ない。

 待って、待って。


 「っ!!・・・つ、・・・!!?」


 

 頭が、痛い。

 ああ、また僕は同じことを繰り返してたんですね。


 朝焼けの中目覚める。

 青白い靄は冷気を纏っているように冷たく、心が凍るようだ。


 ああ、また、無意味な1日が始まる。


ーーー



 あれからは、自分が生きてる感じはしなかった。

 体は生きてるかもしれない。

 ただ、笑って、話して。

 相手が感じる事を求めている事をすればいいだけ。


 自分を出さなければいいだけ。


 「のんちゃん!聞いてる?」

 あきちゃんの声にハッとなった。


 「ええ、聞いてますよ。ダァの事でしょ?」


 僕の言葉にあきちゃんは眉を寄せた。


 「何かのんちゃん変わったわー。前は棘があって良かったのにぃー。」

 

 左頬に手を添え、溜息を吐くのんちゃん。

 

 「はっきり言ってただけですよ。」


 そう言って僕は唐揚げを食べた。


 「あたしねー、のんちゃん好きよ。抱けると思うわっ!」

 「きもっ。」

 「あーん。のんちゃん大好きよー。」


 そう言ってあきちゃんが僕を抱きしめた。力強い、筋肉質な腕。厚い胸。

 『悠臣』との違いは体温を感じること。


 離れたあきちゃんはニッコリ笑っている。

 

 僕が生きるのは『現実』。

 僕が変われば見える世界は、生きていく現実は一変するだろう。


 ー僕が望めば。


 あきちゃんを見上げ僕は笑った。


 「急に抱き付くからお弁当溢れたじゃないですか。弁償して下さいね。」


 

 変わるのが、僕は怖い。

 貴方を忘れる時は僕が壊れる時だ。


 


 「お姉。」

 「はいはい。」


 家に帰れば李桜が僕のもとにやってくる。

 前までは避けて、食事が終わると部屋に篭っていたのに。

 

 「フリースクールの体験、楽しかった。先生も女性で優しかった。・・・だから、」


 言いにくいそうにしている李桜に僕は笑った。


 「李桜が良かったなら手続きしましょうか。お金の心配ならいりませんから。」

 「あ、ありがとう!頑張るから。」

 「ふふ。無理しないでね。」


 李桜の表情が明るくなる。嬉しいと雰囲気で伝わる。

 

 「おやすみなさい。」

 「おやすみ〜。」


 部屋へ戻る李桜を見送り、戸棚からサラダせんべいを取り出す。

 窓枠に腰掛ける。今日は半月だ。雲が無いので良く見える。


 バリバリとサラダせんべいを食べた。

 

 ・・・もし、このまま落下したら事故死扱いになるかな?

 それなら保険金も降りるし、李桜の生活は問題ないだろいし。

 僕も、楽になれる。


 「?」


 新緑の匂いがする。

 以前も感じた匂い。

 僕も李桜も消臭剤はホワイトブーケを好んでいる。

 こんな爽やか系は買わない。


 ま、どうでもいいか。


 そろそろ寝よう。

 


 布団に潜り、目を閉じる

 夢の中は自由なんだ。

 貴方と過ごした日々を何度も繰り返す。



 「桜音っ!」

 悠臣の手を取って、公園で遊ぶ。

 木に登って一緒駄菓子を食べる。

 図書館で借りた図鑑を草むらに広げて。

 花を調べたり、虫を捕まえたり。


 「ほら、桜音っ!」


 悠臣の笑顔が好き。

 だからたまには僕から抱きついた。

 そしたら、耳まで赤くなる。

 いつも手を引く貴方が。

 ねえ、貴方も僕の事好きでしょ?

 わかるよ、悠臣の事。

 好きだから。


 

 仲良く遊ぶ僕らの前に大きな影ができた。

 見上げれば、金眼の男が見下ろしていて、


 「お前は面倒だ。」


 冷たくそう言った。



 「!!?」


 視界の先は白い壁だった。

 そう、自室の壁だ。

 

 鼓動が鳴り止まない。血流が勢いを増していて、胸が苦しい。


 「・・・。」


 嫌な夢だ。これまで、夢は拠り所だったのに。

 『現実』も『夢』も、居場所が無くなってしまった?


 これも、僕が欲張ったから?


 

 その日から、眠るのが怖くなった。

 


 

 「おっはようございまーすっ!」


 リビングにテンション高めで入ったのは眠れなくなって3日目くらいだろうか。


 「おはよう、お姉。」


 顔色も大分良くなり、健康的な体に戻りつつある李桜は僕を見てニッコリ笑った。


 「今日はミックスサンドですかー。美味しそうです。」

 「お弁当はキャラ弁にしてみたの。」

 「楽しみですねぇー。」


 そのまま僕は朝食を食べ終えた。

 少し体は重かったが、動けないわけではない。


 「じゃあ、いってきますねー、ん?」


 甘い、匂いがする。

 

 「どうしたの?」


 靴を履くのを止めた僕に李桜が首を傾げている。

 

 「芳香剤、変えました?」

 「ううん。玄関はずっと備長炭のだよ。」


 首を振り、李桜が否定する。


 「そ、ですよね。では行ってきまーす。」

 「いってらっしゃい。」


 李桜に見送れ玄関のドアを閉めた。

 

 「っう、・・・。」


 外に出ると目が眩んだ。

 やばい、眠れてないから。

 受診、いや今日まで案件がある。

 

 よしっ!!


 僕は両拳を強く握り、気合いを入れた。

 

 

 体調が崩れる前は鈍い頭痛が続く。

 

 何とか気合いで書類を午前中に処理し、郵送物は事務の子に預けた。


 今日はあきちゃんが外勤なのでお昼はゆっくり休憩室で摂ろうかな。


 休憩室でお弁当を開く。これは、ウサギのキャラ弁?まるで、幼児が大喜びしそうだ。


 「?」


 また、甘い匂いが鼻をつく。

 周りは誰もいない。


 「・・・弁当から?」


 弁当箱を持ち上げ匂いを嗅ぐ。中から甘い匂いはしないが、周りがすっごい匂う。


 食欲が失せてしまったので、自販機でカフェオレを買うことにした。


 席を立つとまた甘い匂いが漂ってくる。

 

 お金を入れて、ボタンを押す。ガコンとカフェオレが落ちてきた。


 席に戻離、プルタブに指をかける。

 上手く力が入らない。

 眠気からくるのだと感じる。


 眠いなぁ。

 目を開けるのも億劫だ。

 少し、寝ちゃおうかな。


 テーブルにうつ伏せようと体を倒した瞬間、


 “ちょっと待ってえ!”


 慌てる声が聞こえて、僕はそのまま倒れ込んだ。




 暗い、どこまでも暗い。

 四方が真っ暗で何も把握出来ない。


 ただ、立っていると、幼い僕が走っていた。

 お気に入りにピンクのワンピースを着ている。

 目で追っていたが、暗闇に消えてしまった。


 チリリン


 鈴の音共に自転車が通過する。

 前籠と荷台に新聞を積んで。

 自転車を漕いでいるのは中学生の僕。

 おかげで朝寝坊せずに李桜を園のバス停まで送って行けたっけ。


 前を向くと、ウェイトレスが料理を運んでいた。

 高校生の時にバイトしたファミレスは制服可愛いかったな。

 

 まるで自分史を見ているような変な感覚だ。

 こうやって見ると、僕頑張ってたな。

 

 もう、頑張らなくてもいいのかな?


 認めてほしい人は居ないんだから。


 

 考える事も、何もかも『面倒くさい。』



 「李桜のお姉っ!」

 「!?」


 目の前に金眼が現れた。びっくりし、退いた僕との距離を詰めてくる。


 「オレ、ゆーま!夢魔なのっ!」


 男の子は両手を伸ばして笑っている。


 「ゆ、うま?」


 茫然とした僕に『ゆうま』はニコッーと笑ったままだ。そう、悠真。

 

 「元気になったんですね。」

 「んっ!!」


 赤子だった悠真が成長したら、こんな感じかもしれない。期待通りの成長だ。

 

 「あのね、オレね、李桜のお姉に話があるのっ!!」


 両拳を作り、懇願する悠真に僕の口元は緩んでいた。


 「李桜のお姉でも構いませんが、僕は桜音といいます。」

 「かのーんっ!」


 悠真は両手を上げて僕の名を叫んだ。


 「かのんっ!あのね、手伝って!オレじゃはるの事無理なんだ!はるは弱いんだって!1人がダメなのっ!でも、オレ李桜と遊びたいっ!だから、何とかしたい!オレだけじゃわかんない事だらけなんだっ!」


 一生懸命悠真が気持ちを伝えている。

 僕は苦笑するしかなかった。

 「弟に心配かけるなんてダメな兄ですね。」

 「そうなのっ!はる、メッなのっ!」


 ホッとしたのか、悠真の肩の力が抜けていく。

 

 「僕が懲らしめてやりますよ。」

 「うん!かのんお願い、はるボコって!」


 悠真の言葉に僕はお腹を抱えてしまった。


 「はるが悪いのっ!好きな人いじめちゃメッなんだ!」

 「ふふっ。そうですよ、メッですよ。」


 どうしてだろう。悠真は小学高学年くらいの姿なのに、思考が幼すぎる。僕の言葉を理解しているのだから知的の遅れはないだろうけど。


 「かのん、約束っ!」

 

 そう言って悠真は小指を前に出した。

 

 「はい、約束ですね。」


 僕も右手の小指を悠真の指と絡める。


 「ゆびきりげんまん、うそついたら、えっちたくさーん、ゆびきった!」


 満足したのか悠真は得意気に鼻を鳴らした。

 

 「おやおや。これは嘘つけませんね。」


 クスクス笑う僕に悠真はハッとなった。


 「えっちたくさんは李桜なのっ!」

 「李桜ですか。なら李桜の為にも約束は守らないといけないですねぇ。」

 

 そう言うと悠真は衝撃を受けたように口を開いたまま固まった。そして、


 「やだー!李桜とえっちするっー!!」


 と大声で叫んだ。


 「それは李桜と決めなさい。」

 「うー。李桜ね、イヤイヤなのー。」

 「ガードが固いんですね。」

 「かっちかっちー!」


 しょぼくれた悠真の頭を撫でる。悠真はにぱっと笑顔を向けた。


 「かのん、ありがとうっ!」


 そう言って悠真は消えてしまった。

 言いたい事だけ言っていなくなるのは


 「兄弟ですねぇ。」

 

 夢から覚めるとお腹が空いていた。たった15分程度だったのに。

 お弁当も食べきる事ができた。


 午後のタスクをこなし、定時帰宅。

 家では抜けた姉として振る舞って。

 ベッドに横になって、悠真のとのやり取りを思い出した。


 あの人が弱い事も1人がダメな事も知ってる。僕だってそうだ。僕の欠けた部分はあの人が補ってくれる。


 「逢いたいよぉ・・・。」


 天井を見上げて泣くなんて、いつ振りだろう。


 それでも、僕の感情なんて無視して現実は回る。

毎日僕は演じ続ける、『他人の理想』を。

 大人になってから刺激は無くなったし、無理に刺激を求める事も無くなった。


 大人になったら何でも出来るって、自由に慣れるって。思っていた。実際は平日は日中仕事して。週末は李桜と過ごす。


 あの頃と変わらない。


 

 『悠臣』は夢に現れない。

 現れないから、『悠真』との約束も守れない。

 


 あれは僕にしてはゆっくり眠れていた日曜だった。勘違いした李桜に無理矢理起こされた。

 悪気があったわけではないので気にしなかったが、僕の隣で李桜が幸せそうに眠っている姿を見るのが嫌で僕は部屋を出た。


 リビングのソファで横になる。

 溜息を吐いた。


 「・・・。」

 

 また、だ。新緑の匂いがする。

 光合成できる植物は置いてないのに、


 嗅覚がおかしくなったのかと呆れる。

 テレビでも見ようかとリモコンに手を伸ばした時、

 

 僕は固まった。


 暗いテレビ画面には僕と、もう1人。

 ソファの後ろに長髪の男の背中が見える。


 そして、ヤギのような角も。


 「・・・。」


 そっと視線だけを後方に向けるが、勿論誰もいない。それでもテレビ画面にははっきりと映っている。


 そっと後ろに手を伸ばしてみる。

 しかし、何もない。

 

 なんで、近くにいるのに。

 捕まえられないんだ。

 

 あっちには僕の姿は見えているのに、僕は見えないなんて不公平だ。


 捕まえようと手を動かしても触れる事は無い。

 

 そのうち、僕の異変に気付いて離れたのかテレビ画面にあの人の姿は映っていなかった。

 

 そして新緑の匂いも消えていた。


 胸が苦しくなる。

 突き放したくせに、傍に居てくれるなんて。


 

 本当に僕らはどうしょうもない。

 

 “お顔が映ってるー!”


 テレビ画面ににゅと人の顔が映り込む。

 ギョッとなった僕の顔に『悠真』はハッとなり振り返った。だが、僕には『悠真』の姿は見えない。

 テレビ画面に映る後ろ姿から、『悠真』が固まったままなのが伝わった。


  僕はリモコンを手にして、ソファを左手で叩く。

 コテンと首を傾げたのか悠真の姿が画面から見切れた。


 「一緒に見ましょう。」


 そう言ってもう一度ソファを叩いた。テレビをつけると丁度アニメ映画の再放送中だった。

 

 ふわり甘い香りが漂う。

 左側から香った事に『悠真』が隣に座ったのだとわかった。

 

 そして、背後から香る新緑の匂い。


 近くにいてくれる事に僕は笑いが込み上げてしまった。


 アニメ映画が終わると甘い匂いも新緑の匂いも薄れていった。肩を落として、リモコンを手にしチャンネルを変える。


 お、この番組面白いって人気なんですよね。

 

 流れる映像で、笑い声が流れれば僕はワンテンポ遅れる声を出して笑った。


 ワンテンポズレていた笑いも段々とタイミングを掴めてきたな。


 バタンと扉が閉まる音に李桜が起きた事を悟った。


 「あーははっはっ!ドボンって!(笑)」


 無理に声を出して笑っているとリビングに李桜が入ってきた。


 「おやおや。慌てん坊の次はお寝坊さんですねぇ。」


 気付かないふりをして白々しく僕は声をかけた。


 「朝は起こしちゃってごめんね、お姉。」

 「うふふ。まぁまぁ。気にしないで下さいな。それより、李桜も一緒にテレビ見ましょうよぉ〜。」


 僕が手招きすると李桜は頷いた。そして、冷蔵庫からアイスを取り僕の隣に座った。

 

 「ありがとう〜。気が効きますねぇ〜。」


 チョコ味のアイスを受け取り咥える。口の中に甘さと冷たさが広がる。


  「・・・。」

 

 アイスを頬張っていると、李桜の視線を感じた。

 なんだろうと思うと李桜はブンブンと頭を振り出した。

 

 「何してるんです?」

 「・・・気にしないで下さい。」  


 顔を真っ赤にして俯く李桜に僕は首を傾げた。


 

 暫く、李桜とバラエティ番組を見ていた。

 

 「あははっ!やー、このドッキリいいですね!シリーズ化しないかなあ。ねぇ?」


 李桜に問うと李桜は顔を上げたあと、「はぁ。」と頷いた。


 「・・・お姉はバラエティ以外って、ニュースしか見ませんよね。ドラマとか見ないんですか?」


 僕自身興味が無い話題だったのだが、質問で返されてしまった。


 「連ドラはもう卒業しちゃいましたね。」

 

 そう答えると李桜は首を傾げた。

 

 「ふふ。笑いは健康に良いんですよー。僕、長生きしたいんです。李桜の孫ちゃんを見るまでは死ねませんよ。」

 「・・・はぁ。」


 そう答えて、僕はなんて嘘つきなんだろうかと思った。

 

 その時だった。

 ピッピと番組に不釣り合いな音が流れて『速報』と文字がテレビ画面に浮かんだ。


 『◯◯県△△町にキャンプで訪れ行方不明になっていた兄弟が今朝、川沿い付近にて発見されました。』

 

 ー兄弟、行方不明。


 その文字だけが視界に入りこんだ。

 瞬間、僕はリモコンは無意識にテレビを消していた。

 

ーパチッ


 暗い画面に映る僕の顔は真っ青だった。

 


 「テレビも飽きましたし、お風呂入ってご飯にしましょーか!」 


 無理に笑顔を作り、李桜に声をかけた。


 「・・・ご飯、まだ作ってないよ?」


 李桜の顔を直視出来ず、視線を外す。


 「ならピザ頼みません?お風呂入ってる間に届きますよねー。」


 「・・・じゃあ、ピザ注文しますね。」

 「ツナマヨコーンと照り焼きチキン、ナゲットとコーラお願いしますー。」

 

 ボソボソと返事する李桜に僕は頷いてリビングを出た。おぼつかない足取りのまま浴室に向かう。


 「うっうう・・・なんでぇ。・・・。」


 唇を結んでいるつもりでも、嗚咽が止まらない。

 後悔、無念。全てを吐き出したくなる。

 今まで我慢してきたのに、急に現れて。

 話す度に、触れる度に、

 望むのは当然じゃないか。


 

 「・・・ふっ、うぇ・・・ど、して、・・・はるおみ・・・。」


 僕は貴方がいい。貴方といたい。貴方は僕を嫌わない。貴方は僕が好きだ。僕も貴方が好きだ。


 「っ!?」


 背中に重みを感じた。振り返ると李桜が僕に抱きついていた。瞳には涙が溜まっている。

 

 「・・・り、お」

 「お姉っ!じゅ、っ!?」

 

 李桜の表情が変わる。苦しそうに唇を動かしている。


 「っ、・・・!」

 

 李桜の表情が歪む。新緑と甘い匂いが強くなる。


 「やめなさいっ!」

 「っ、かはっ!」

 

 僕は李桜を抱きしめ宙を睨んだ。


 「わかってますよ、あの人がもうこの世に居ない事くらいっ!だから、貴方を利用したい!お互い様でしょう!?」


 近くにいる。

 見えないくせに、手を出すなんて。



 「・・・李桜、大丈夫ですか?ごめんね、ごめんね。」

 

 僕は謝る事しか出来なかった。李桜は何度も頷いた。


 「ううん、お姉は悪く無いよ。」


 李桜の言葉に僕の涙は止まらなかった。  


 「お姉は絶対悪くないよ。」


 そう、李桜は涙を流してくれた。


 そして僕は李桜の手を引いて部屋に連れていった。悠臣の事を話した。

 悠臣の写真を誰かに見せるのは初めてだった。

 李桜はただ、黙って聞いていたが悠真の話になると感情的に見えたので悠真に好意を持っている事はわかった。

 『悠真』も隣に居るのだろう。甘い匂いが鼻を掠めている。

 ・・・新緑の匂いはしない。逃げたのかと思ったがどうせ近くで聞き耳を立てているだろう。

 

 話を聞きながら李桜の表情が安堵に変わっていくのがわかった。これまでの不安の謎が解けるように。

 悠真の話の時は瞳の輝きが違っていた。興味がある証拠かな。

 悠真の明るさや素直さは魅力的だ。それに悠真が現れたなら


 「・・・あの人、なんて言ってたんですか?」

 

 そう問うと李桜は身構えるように固まった。黙り込んだ後にゆっくりと口を開いた。


 「・・・お姉さんは想いが強すぎる。どれだけ望んでも絶対に叶う事はない。心身を病むだけ。

 強過ぎる激情は誤った判断をさせる。・・・幸せになりたいだろ?って。」


 李桜の言葉に僕は驚愕だ。

 

 「あの夢魔さんは『そんなに似てるのか?』って言っていた。似てるだけじゃないの?ゆうまも、夢魔は好意を持った相手に見えるって。」


 それをお前が言うのか。

 想いが強いのも欲張りなのも幸せになりたかったのも

  

 「ふ、ふふっ。おかしっ。」   

  

 全部自分だったくせに。


 笑い出した僕を李桜は瞳を丸めて見ていた。


 「あれは『悠臣』で間違いないでしょう。今度会ったら胸ぐら掴まえて僕が言ってやりますよ、『また幸せになりたい』と。」


 僕の幸せも貴方の幸せも一緒なんだ。

 

 「僕はね、あの人の癖は見抜けます。特に嘘をや隠し事はね。さぁ、ピザを注文しましょう。僕はお風呂に入ってきますから。」

 

 気が抜けたのかお腹も空いた。軽くシャワーを浴びてこよう。


 「・・・お姉待って。」


 李桜は僕の手を掴み、瞳を潤ませていた。


 「大人の夢魔さんが悠臣さんなら、子供は悠真だよね?」

 

 悠真なのか僕にはわからない。悠真には1度も会った事がないから。


 「・・・悠真、だよね?」

 

 悠真であってほしいと願っている李桜の姿はまるで僕のようだ。

 あの人にとって、悠真の存在がどれだけ大きかったか。

 悠真を抱いて死ぬくらいだから。

 

 「・・・あの人の言う、強過ぎる激情ならば悠真でしょうね。」

 

 死んでも悠真を離さないと考えたんだろう。



 入浴後は届いたピザをたべた。

 李桜からも悠真の話題に触れないし、僕から掘り返す事もない。


 バラエティ番組をぼんやり眺めていると甘い匂いが漂ってきた。李桜が入浴中なので暇を持て余しているのだろう。

 『悠真』が隣に座ったのだろうか。

 

 「悠真もお笑い好きですか?一緒に見ましょうね。」


 喜んでいるのか、甘い匂いが強くなった。

 背後からは新緑の匂いが香る。

 僕は振り返って舌を出して挑発した。

 後ろには誰も居ないが、悔しがっているだろうと思ったから。

 

 バラエティ番組が終わる頃、甘い匂いがしなくなった。『悠真』が居なくなったのだとわかる。


 僕は立ち上がって、冷蔵庫からビールを取り出した。ずっと奥で眠っていた、期間限定のやつだ。

 パッケージにあの人の好きな桜が描かれていたから興味本意で買った。


 窓枠に腰掛け、プルタブを引っこ抜く。

 僕はゆっくりとビールを喉に流し込んだ。

 だって、


 「・・・にがっ。」


 甘くない。ので僕の口には合わない。

 それでも今夜ビールにしたのは。


 新緑の匂いのする方にビール缶を突き出す。

 

 1人で何をしているんだろうとか、気が狂っているのかとか。はたから見たら思われそうだが。


 僕にはあの人が居るんだとわかるから。


 空を睨んで突き出す事、数秒。

 腕も疲れたのでビール缶を置いて僕は月を眺めた。今夜は雲が多いな。


 暫く月を眺め、温くなったビールを一気に流し込んだ。


 「・・・うぇ。」


 やっぱり美味しく無い。眉を寄せて眉間に皺を刻む僕の横を風が吹いた。


 あの人に、バカにされているように感じた。



 

 

 

 

 


 

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