第五話 『赤い海は罪科に堕ちる』 その138
美味い料理を食べていると、体が熱くなっていったからね。オレがシャツの襟もとに手を伸ばしたら、若者は足音を消して動く。閉じられていた船窓を開けていった。二つ、三つと。全ての窓が開け放たれて、少しは涼しい潮風が入って来て……気づかされる。
「潮風とも合うように、料理をデザインしているわけか」
「……嬉しくなりますね。そこまで、料理の意図を汲み取っていただける方は、極めて稀なんですよ。『モロー』の港の香りに合うように、少しショウガの量を減らしてもいるんです。本当にわずかな量なので、私の料理を食べ慣れている方でも気づけないはず」
「そんな細かなことにまで気を回すわけだ」
「ただのエゴですけれどね。楽しいんですよ、こういうの」
「その顔を見ると、そうなんだろう」
懐っこい顔になっている。子供のような顔でね。こいつは意外といたずら好きなガキだったのかもしれん。
……風が、動き。床も動いた。
「出航するのか」
「そのようです。少佐がお戻りになられたのでしょう。このまま、『大学半島』に向かうはずです」
「奴隷だった者たちをいきなり受け入れてくれそうな場所は、そこしかなかったからな」
だからこそロロカ先生経由でマクスウェル・クレートンに話しをつけてもらった。『大学半島』で政治工作や外交が必要だったのも、そのためだよ。
「『大学半島』は亜人種にも寛容ですからね。奴隷たちを受け入れてはくれるでしょうが……それから、一体どんなことになるのでしょうか?」
「気になるかな、シェフ」
「料理人ではありますが、状況次第では戦いもこなしますので。少しは、気になります。少佐の命令に従う覚悟だけはあるのですが」
「教えておいてやる。素晴らしい料理で、オレとオレの『家族』をもてなしてくれた礼にな」
「はい。どんなことが、起きるのでしょうか」
「『プレイレス』の全ての戦力を、結集させる」
「……それは……」
見開かれた瞳は、驚きと戸惑いを表しているようだな。
「『プレイレス』の都市国家たちは、常に不仲だったらしいが。それも今日までだぞ」
「変えられるのでしょうか」
「変わるよ」
短く断言したあとで、また豚肉とトマトの香りが絡んだパスタを口に含む。潮風の香りが、また一つ風味を変えさせてくれたよ。港によって、香りが違う……というところまでは分からなかった。それでも、たしかに潮風が香りにトマトの味が変えられている。
また一つ。
これまで知らなかった料理の楽しみ方に触れたな。ちょっとだけ、自分の料理にも活かせかもしれん。何とも高度な技巧で、ちょっと難解さがあるがね……。
それでも認識の側面が一つ足されたことは、大きいはずだ。きっと、オレの料理は上手になるよ。
楽しくて興味深い味に満足しつつ、細めた瞳を天才料理人に向ける。礼儀正しく待っていたからな。彼には料理を楽しんでもらうことが、何よりも優先されることなのさ。給仕としての態度も、この料理の付属物として機能しているんだろうよ。
話の続きをしてやるべきだ。マジメな職人に対しては、いつだって敬意を示したいのがガルーナ人さ。
「若者よ、可能性を信じろ。都市国家の垣根を越えて、君らは今こそ一つにつなれる。共に戦線を組んで戦うことは、大きな意味がある。そして……その戦いで勝利を勝ち得たときは、さらに大きな意味になるぞ。とてつもなく大きな結束の力を作り上げるんだ」
「……それほど、簡単なものなのでしょうか」
「ああ。勝利とは、大きな力を持っている。復讐心よりも、それは多くの者を一つにまとめてくれるものだ。勝利の味を知れば、ヒトは希望を信じられる。『モロー』から解放された奴隷たちを『大学半島』に届ければ、全てが変わるぞ。奴隷として人々が売り買いされる時代が終わったことの何よりの証になる」
「……時代が、終わった……?」
「なあ、君は知っているかな。『モロー』に奴隷が一人もいない状況を」
「……っ」
「とっくの昔に、変わっているんだぜ。そいつを、もっと認識するといい。世界っていうものも、じつは変えられるんだよ。ヒトの意志は、それを成し遂げる程度には大きい力を持っているのさ」
「……貴方がそうおっしゃられるのなら、信じてみます。たしかに、私は見たこともなかった世界を見ています。私は……そうですね。『奪還派』の海賊としての意識が、少し弱かったから。この変化を見落としてしまっていた」
「自分の仕事に集中していた。それも、悪くはない生き方だぜ」
「いえ。叔父の言葉を思い出しました。専門家は視野が狭窄しがちだから、気を付けるようにと。私は、まだまだ修行しないといけない」
「もっと大きな勝利を得るぞ。オレたちは、第九師団を打ちのめす。『プレイレス』にいる全ての者たちと、絆を作ることでな。明日は、今日よりも大きく世界は変わっているぞ」
「……なるほど。それなら、私は大きな仕事を考えないといけませんね」
「祝宴のための料理を考えておくといい。そいつは、オレみたいなよそ者じゃ分からない。長年、この中海で誰かのために料理を作り続けて来た料理人たちの仕事になる。記憶に残り、心を揺さぶる料理を、頼むぜ」
「はい。ストラウス卿。そろそろ、お酒を出すべきでしょうか。少佐からは、一番いい酒も開けていいと指示は出ています」
「そいつは飲みたいが―――」
翡翠色の愛しい瞳が、飲酒の衝動に釘を刺すために輝いていたぜ。
「―――今はいい。だが、最高の酒か。少佐が、オレに最大限の敬意を払おうとしていることが知れて、良かったよ」
安酒しか許されていなかったとすれば、ちょっと外交的な問題にもなる。
「ストラウス卿の『コラード』での交渉も、迫力がありましたから。それに、この『モロー』での勝利も、少佐が貴方に心酔するには十分なことです……ああ。なるほど。こういうコトなのですね。勝利がヒトを結びつける」
「脅すよりも、心酔してもらった方が仲良くなれそうだろ?」
「ええ。少し、戦士の考えが分かった気がします」
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