第9話 花と人魚の話

本当につまらない人間だった。いくら思い返しても腹の虫がおさまらない。


出逢った時、「彼」はひどい怪我をしていた。幼い体に不釣り合いな大きな傷に、ひどく慌てたことを覚えている。近くの洞窟まで運んであげたけれど、怪我に効く薬も何も持っていなかった私は、しょうがないから自分の血を患部に垂らしてあげた。


「彼」は数日熱に浮かされていたが、やがて立って歩けるほどに回復した。そのあたりで近くを通りがかっていた船が「彼」を発見して、無事に保護されたらしい。


数日後、「彼」はわざわざお礼をしに来た。どこで摘んだのかわからない花を一輪手に持って、恥ずかしそうにもじもじとしながら。そんな様子が可愛かったから、私はなんとなく血液だけじゃなく、肉もあげたくなってしまった。

人魚の肉は不死の妙薬だ。それを食べるには「時の中に残される」という大きな代償と覚悟がいるが、この世で不死を望むものにとってはそんなのは些事でしかない。彼ら、彼女らが望むのは「不老不死」という何にも替えがたい概念である。誰も彼もが年を取っていき、愛する者を看取らねばならないという悲しみや苦痛を感じるならば、不老不死なんて向いていない。

けれど、人魚にとっては知ったことじゃない。人間がどう生きようが関係ない。

だから「彼」に肉をあげようかと囁いた。不老不死が手に入るぞ、と。

「彼」は首を振った。「向いていない」タイプだった。もっと背が高くなりたいからという理由で私の誘いを断った。思えば、その時から腹の立つ奴だったように思う。

そのあとも私は彼を誘った。そのたびに断り続けて、そのたびに心の一部分が殴られたような痛みを覚えた。十回言ってるんだから一回くらい飲んでくれたっていいじゃないと言えば、「彼」は苦笑いしてごめんね、と謝った。

肉はこの世のなによりも美味だと言えばほかにも美味いものはあると言い、不老になれば美しいまま、若いままでいられると言えば「年を重ねて渋さを得たい」と言い、不死になればなんでもできるといえば「子や孫を看取りたいんじゃない、看取られたいんだ」と話す。


ずっとずっとそんな繰り返しの毎日だった。私はこの応酬が、腹立たしくてたまらなかった。今日こそは飲んでくれると思っても、すげなく断る。私をここまで袖にする男は初めてだった。





ある日「彼」は入院することになった。もう年齢も年齢だ、体の悪いところのいくつも出てくるだろう。私はこれ幸いと思い、人間になれる薬を飲んで陸へと上がった。

病院の廊下を歩いている最中、私は上機嫌だった。どこを食べさせよう、どうやって食べさせよう。そんなことを思うと胸がはちきれそうだった。

けれど足を得た代償に、声が出なくなっていた。別に、いい。一目私の姿を見れば顔なじみの人魚だとわかるだろう。


「ああ、ごめんなさい。病気でね」


「彼」の目は、ほぼ見えていなかった。それでも輪郭は見えているのか、ひとが来たことはわかったらしい。お構いできなくてごめんね、他の部屋の患者さんかな、お若いお嬢さんがいらっしゃっても面白い話はできないけれど、と続ける。私は思わず下唇を噛んだ。足を得ても、言葉が届かなければ意味が無いじゃないか。

「僕はね、もうすぐ死ぬらしい。でも、悪くない人生だったと思うよ。僕にはもったいないぐらいの優しい奥さん、かわいい子供たち、ちいさな孫たち。素敵な友人たち。一人の人間にここまで素晴らしい出会いがあったのなら、それ以上は何も望まないよ」

今ここで、私の腹を掻っ捌いて肉を一切れ、その口に突っ込んだのならどうなるのだろう。「彼」は私がそんなことを思ってるだなんて考えもしないような間抜け面で「ああ、そうだ」と続ける。


「僕には、人魚の友達がいてね。」


静かに「彼」は語りだす。幼い頃に助けてもらってから、ずっと付き合いがあるのだと。ずっと年上で、いつもからかってきて、すぐ怒るし、素直じゃないし。けど、優しくて、美しくて、一緒にいてとっても楽しいんだ。彼はそう、静かに語る。私は手を力なく卸して、その声に聞き入っていた。

「そうだね。死ぬ前にもう一度、彼女に会いたいな」

私はなんだかたまらなくなって、彼に近づく。そうしてそのしわくちゃの手の甲を取って、そっとキスをした。



私はその日の晩、ありったけの花を摘んで、眠る彼のベッドの横にそっとそれを飾った。見ることはできないけれど、香りを感じることはできるだろう。

あなたが、はじめて私にくれた花。ねえ、覚えてる?覚えてるでしょうね、だってあなた、つまらないことまで全部全部覚えてるんだから。



彼はその三日後に亡くなった。棺にはあの花が敷き詰められていて、笑っちゃうぐらいの間抜け面で彼は眠っていた。

本当に、つまらない男だった。私の誘いを一度も受け入れてくれたことはない。つれない、私の思い通りにならない、私を置いて、勝手に幸せになって逝ってしまった人間。


「―――――――ひどい人!」


涙の一つでも拭きに来なさいよ、そんな言葉は泡になって、誰に聞かれるともなく消えていった。

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