第8話 男の人魚の話

海に行きたい、と彼は言った。

ついにこの時が来てしまった―――――そんな思いを顔に出さずに、「いいよ。いつにしようか」と応える。その時、俺の声は震えていなかったろうか。


俺は男の人魚と一緒に生活している。確か半額マークがでかでかと貼られていた水槽にたった一人で浮いていて、瞳には夜明けの空の彩が映ってた。店主いわく、もう少ししたら処分するんですよ、とのことだった。売れなくなった人魚は食用として流通し、誰かの食卓に並ぶ。俺はなんとなくそれが耐えられなくなって、団地暮らしだというのに「買います」と勢いだけで彼を買い上げたのである。妙に必至そうな俺を、「彼」はどんな顔をして水槽の中から見ていたのだろうか。

俺は彼に浅葱、と名を付け風呂で飼い始めた。浅葱は見た目は二十代前半の男性のすがたをしていて、肩辺りまで伸びた黒い髪をしていた。正直、自分と同じぐらいの年頃(の見た目の)のいきものに対してどう接していいかわからなかった俺は、まず彼に言葉を教えることにした。彼はすいすい知識を吸収していき、いつの間にやら自分から防水カバーの付いた本を読むようになった。狭いだろうと思って、少し広い風呂付きのマンションに引っ越した。

彼は頭が良い。それを褒めれば、「人魚は本来そういう生き物なんだよ」と言った。じゃあ、人間は今人魚から知性を奪ってしまっているのではないだろうか。時折そう思っては、ちくりと胸が刺されるような感覚を覚えた。


彼は時折、海を見たい、と零した。そうだ、本来なら海でのびのびと泳いでいるはずの人魚という種だ。今はこうして懐いてくれているし、なんだったら友人のように話をしてくれる彼だが、やっぱり本心では海に還りたいのかもしれない。そんな気持ちは日々を過ごすうちにどんどん膨らんできて、心臓を刺す針はどんどん増えていった。いつかあるかもしれない別れや、この美しいいきものを手元に置いている罪悪感は誰にも話せなかったし、もちろん目の前の大好きなものにいう事なんてできるわけがなく―――――――


だから、もしかしたら。俺は彼がそう言う日を待っていたのかもしれない。胸の奥の方で、永い間苛んでいた針がポロポロと落ちていき、代わりに大きな空洞が空くのを感じる。

そうして数日後、俺は彼を後部座席に乗せて海に行くことにした。月がまるく浮かぶ、静かな夜だった。

「ついたよ」

後部座席に声を掛けると浅葱はその瞳をぱちりと開き、窓越しに広がる海を見た。あと数時間したら、その目の中にほんものの夜明けを映し出すことになるのだろう。それはきっと世界一美しい光景だと思うのだけれど、あいにくと俺はそれを見ることはできない。それだけが心残りだった。

浜まで彼を抱っこして、波打ち際に放つ。浅葱はありがとう、と低く穏やかな声で言って、そのまま腹這いになって波の中へと進んで行き、やがてその全身を水に漬けた。やがて時折ちゃぷちゃぷと音を響かせながら、頭だけを出して遠くへ遠くへと泳いでいく。俺はその黒髪が見えなくなるまで、じっと海を見つめ続けた。やがて頭はもう見えなくなり、静寂の海にはちっぽけな俺一人だけが残された。

帰ろう、と頭では思うのに、なかなか体が言う事を聞かない。砂を蹴り上げては整え、蹴り上げては整え。やがて、「せめて夜が明けたら帰ろう」と自分の中で結論を出した。まだ時間がある。車に一度戻って、後部座席で寝よう。後部座席は彼が寝がえりを打ちやすいように、畳んでブルーシートを敷いている。巡回中の警察に見つかりでもしたら、職質は免れないだろう。そんなことを考えながら踵を返そうとした瞬間、うしろから「彼方」と声がした。

俺の名前だ。名前を、呼ばれた。

「――――――――っえ、」

驚いて振り返れば、そこにはびしょ濡れになった浅葱の姿があった。一瞬別れを惜しんでくれるのかと思ったが、彼の口から出てきたのは思わぬ言葉だった。

「思い切り泳げてすっきりしたな。じゃあ、帰ろうか。安全運転で頼む」

「――――――え、いや、待てよ。いいのか?その……………」

「なにが」

「………………帰らなくて。」

浅葱はその目をぱちくりと瞬かせ、疑問符を付けて復唱した。そして。

「…………俺が帰る場所は、お前の所だけだろう?」

彼は今さら何を言ってるんだと言わんばかりの顔をしていた。

俺は全身の力が抜けて、へなへなと砂浜にしゃがみこんだ。空いたはずの穴がどんどん埋まっていく。ずっとずっと刺されてきた日々は何だったのか。なんだか可笑しさと哀しさと、それらを上回るほどの安堵が胸を占めた。浅葱は俺の奇行に眉を顰めるでも馬鹿にするでもなく、腹這いになってずりずりと俺の方に近寄り、俺の顔を覗き込んだ。

「………大丈夫か?」

「うん…………大丈夫、大丈夫だ。………ちょっとだけ、安心しただけだ」

かえろう、と俺は言った。ああ、と彼は頷いた。


狭い風呂でいいのか、と俺は問うて、彼はいい、と言った。

他の人間とも人魚とも会わないまま一生を過ごすんだぞと問えば、きみよりも倍の時間生きるんだぞ、と彼は言う。それもそうかと俺は笑う。


俺でいいのか、と問えば。彼はやっぱり目をぱちぱちとさせ、「お前に見つかった瞬間から、俺にはお前だけだ」と返した。


やっぱり俺は、この美しいいきものと過ごすことに若干の罪悪感を感じる。けれど本人がいいと言っているならいいかと納得させて、目の前の男に選ばれたという昏い優越感を抱えながらこの先も生きていくのだと思う。


願わくば、俺が死んだ後の彼が少しだけこれからに迷いますよう。


そんなことを思いながら、後部座席から夜明けを見つめる彼をバックミラー越しに見たのであった。



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