第4話 おそろしの人魚の話

その海域には恐ろしい人魚がいるという。ある時は波を起こし、ある時は船を沈め、ある時はその歌声で男を海に引きずり込んでしまうという。地元の漁師たちは妻から貰ったお守りを身に着け、航海へ行く。すると不思議と人魚の被害に遭わないという―――――これもまた、噂の域を出ない。

その人魚はそれはそれは美しく、見た者の心を一瞬で掴んでしまうような美貌なんだそうだ。それも、また噂。けれど噂の効力はすさまじく、何人もの男が海へ向かい、行方不明になったり、溺死死体として上がったり、波打ち際ですっかり骨抜きにされていたりしている。

要するに、その人魚は破滅の象徴なのである。


夜も深まったころ、私は海に素足を浸した。ひどく冷たい水温に顔をしかめるが、それでもかまわない。スカートの裾を掴みながら、一歩一歩海へ近づいていく。やがて腰まで水に浸かったあたりで、「ねえ」と声をあげた。


「人魚さん、いる?」


「---------」

月がゆらゆらと揺れる静寂の海に、ぱしゃんと音が立つ。音の方向を見れば、人魚が海から顔を半分だけ出していた。目だけが、私を見つめている。本当にいたんだ、という気持ちと、今まさに視線を恐ろしく思う気持ちが綯交ぜになる。けれど、私はまさにそのためにここまで来たのだ。ごくんと唾を飲み、言葉を発する。


「私を、殺してくれる?」


思っていた以上に私の声は掠れていた。ここまで来ても私は怖いらしい。どきどきと嫌な音を立てる心臓の音を聞かないふりして、言葉を続けた。

「…………私、もう生きていたくないの。でも、自分で死ぬ勇気は無くて。………あなたの事を聞いて、殺してもらいたくて、ここまで来たの。」

「--------」

「……わ、私。男じゃないから、あなたのご期待には沿えないけれど………ほ、ほら。たまには女の子のお肉を食べるっていうのも、いいんじゃないかしら。私、こう見えて風邪もひいたことが無いのよ。悪いお薬もやっていないし、だから、だから――――――」


言っているうちに、涙がぼろりと零れ出た。私は、何をしているんだろう。今から死ぬのに、どうしてこんなに泣いているんだろう。どうして人魚にまでこんなに媚びなきゃいけないんだろう。みじめさと極まった恐怖で、私はもう限界だった。

「---------お願い、お願いだから、早く、私を…………」

「-------------……………」

人魚は、その上半身を海上に出した。ざぱんとしぶきを上げて、私の方に近づく。


近くで見たら、人魚はとても、とても美しかった。


そうして人魚は、






次に気が付いたのは、病院のベッドの上だった。どうやら私は波打ち際ですやすやと眠っていたらしい。水を飲んだ形跡も、外傷もなし。ただただずぶ濡れの状態で、朝焼けの海を背に倒れていたのだそうだ。

眠っている間に体を拭いてくれたらしい。心なしかさっぱりしている。窓の外をぼんやりと見つめていると、また涙が出てきた。


私は、人魚にまで選ばれないんだろうか。

私は、人間ではないものにまで拒まれるのだろうか。



ベッドの上でひとしきり泣く。泣いて、泣いて。そうして、ふと気づいた。


「------------------なに、これ………?」


窓際に、きらりと光るものを捉える。恐る恐るそれに触れて見ると、掌に乗るぐらいの大きな鱗だった。太陽の光に透かしてみれば、乳白色の中にピンクや水色、黄色や緑、青や赤といった様々な色が浮かび上がる。

「……………綺麗………………」

誰かの忘れ物だろうか。そう考えた所で、あ、と声が出る。



その海域に出没する人魚のうろこは、それはそれは美しいという。乳白色のうろこの中に虹が浮かんでいるような、そんな不思議な色をしているのだそうだ。

そうして、気を失う前のことを思い出す。


人魚は、やさしく微笑んで。私の額にキスをしたのだ。


「------------」

人魚は私を選んではくれなかったけど。それはもしかしたら、気まぐれかもしれないし、同情かもしれないけれど。


それでもなんとなく、明日も生きてみてもいいかもしれないと思った。


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