第3話 水族館の人魚の話

駅の近くにある水族館では人魚が展示されている。他の魚と一緒に大きな水槽の中を泳ぐ人魚はのびのびと泳いでおり、たまに水槽の端っこで貝をじっと見つめていたり、ガラス越しにこっちをじっと見ていたりする。かく言う僕は、ここの人魚に恋をしている。好きになったきっかけは確か六月の中旬、曇り空にじっとりとした気温の昼過ぎ。ガラス越しにこっちをじっと見つめている彼女と目が合ったから、だと思う。僕は海の底を見たことが無いけれど、きっと深海はこういう色をしているのじゃないかと思わせるような深い深い藍色に、一気に心臓が跳ね上がる。その瞬間、僕はガラス越しの彼女に恋をしたことに気づいた。


それからの僕は大いに浮かれた。学校の図工の時間には人魚を書いたし、夏休みの自由研究という理由を付けて毎日会いに行った。そんな毎日が楽しくてたまらなかったのだ。


だが、ある日のことである。いつもはガラスのすぐそばにいる彼女が、水槽の奥の方にいたのだ。

どうしたのだろう。そう思い、見えやすい場所に移動する。

「!」

そこにいたのは、魚に尾を齧られて泣いている彼女の姿だった。水の中でもわかる哀しそうな表情に、僕は混乱する。魚は尾だけでは足りないようで、彼女の白い肌にまで牙を向けようとしていた。

―――――――係員を呼んでこよう。

そう思って走り出そうとした瞬間、「それ」は起こった。

先程まで泣いていた彼女は顔をあげると、その白くほっそりとした手で魚の尾びれを掴み、そして―――――がぶり、と牙を立てた。暗がりの水槽に、血のような煙が見える。魚は人魚に比べれば小さく、手の中でじたじたと暴れている。人魚はそれに構わずに、そのまま鰭を食いちぎった。そうして口の中に収めたものを咀嚼しごくんと呑み込む。魚は次第に抵抗する気力を失っていき、やがてすべてが人魚の腹の中に納まった。

あたりには血で汚れた水と、口を拭う人魚の姿だけが残る。

僕は怖くて、おぞましくて、生々しいそれにすっかり怖気づいてしまい、へたりとその場にしゃがみこんだ。その動きを視界の端に捉えたのであろう、人魚は僕に視線を向け――――――


「―――――――――」


それはそれは綺麗な笑みで、人差し指を唇の前に立てたのである。

好きな人からひみつの共有をされて、喜ばないひとはいるのだろうか。僕は単純だから、こくこくと頷いて―――――彼女の口の端に付いていた血に、どうしようもなく心臓を高鳴らせてしまったのである。

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