第3話
「滝本央(おう)成(せい)。環境技術室への配属を命じる。励むように」
「はい」
習ったばかりの敬礼をして、俺は辞令を受け取った。真新しい安全靴が、真新しい床に当たってキュッと音がした。
ここはアンジョウ環境株式会社中渓管理型最終処分場。……元、俺たちの遊び場だった山にできた、産廃処理施設だ。俺と雫は、その処分場のオープニングメンバーとして採用された。理系学部卒の俺は技術職に。雫は、事務職に。
俺はともかく、雫も就職したのには驚いた。新卒で採用された会社を半年で辞めてから、雫は女にのみ許される家事手伝い、ってヤツで実家にいた。たまに近くの小さな農産物店の手伝いをしていた程度だ。それがハローワークに行って、派遣ではあるがこの処分場の事務職を勝ち取ってきたのだ。
当然といえば当然かもしれない。
コヨミたちを失ったのは、雫もなのだから。
真新しい白い建物から、埋立地を見下ろす。そこには、変わり果てた山の光景が広がっていた。自然の森は失われ、敷き詰められた遮水マットが一面に広がっている。その周りは造成された桜並木が並んでいる。ぽつぽつと咲いている桜の花が、白々しい嘘のようだった。西側からは産業廃棄物が搬入される道路が伸び、俺の目の前の道路を通って、検査場に運ばれる。そこで異常がないか確認され、遮水マットの上に埋め立てられる。俺がいる建物は、水処理施設だ。産業廃棄物を通って流れてきた雨水などは、遮水マットの上を滑って、いったん貯水槽に貯められる。その後、この水処理施設で処理され、基準を満たせば川へと放水される。
どうでもいい、と思う。その水が流れていく先はコンクリートで固められた水路で、そこで何が生きているわけでもない。近隣の上水道は整備され、ここから流れ出す水を直接飲む人はいない。遮水マットで仕切った先に、昔暮らしていた生き物たちはいない。
俺は深呼吸した。
俺の仕事は、この水処理施設を統括する環境課の業務だ。書類の整備やら設備の管理やら、現場の連中がやりたがらないこと全般が担当らしい。なんにせよ、どれほどの仕事を任せてもらえるかは、室長の信頼次第だろう。まずは、まじめに仕事して信用してもらうしかない。
「おーい。ミーティング始めるぞー」
事務所に声が響いた。事務所にいたメンバーが、ばらばらと集まってくる。事務所、と言ってもそうなる予定の部屋、というだけで、机やら棚やら段ボールがごちゃごちゃと置かれた部屋にすぎない。今入ってきたばかりの人物が、俺たちの人数を数える。
「全員いるな。私が室長の見原伸輔だ。以前は別な処理施設で働いていた。施設のスタートアップは初めてだが、まずは運用が安定するまで慎重に進めていきたいと思う。よろしく頼む」
見原室長が敬礼すると、その場にいた全員――といってもたったの五人だが―――が敬礼を返した。
「じゃ、自己紹介から始めようか」
こうして、俺の第二の会社員生活が始まった。
その日は、事務所の整理やらなんやらであっという間に過ぎていった。オフィスらしい形になった事務所を眺めて、皆で満足する。書類棚のファイルは空のものばかりだが、いずれ重要な書類群で埋まっていくだろう。いかにそれに関与できるようになるかが、俺たちの目的に大きく影響する。それから、あいさつ回り。どこに何があって、誰が担当していて、なにをしている設備なのか。正直覚えきれないが。
操業開始にはまだ間があるので、この日の業務はこれで終わった。見事に17時退社である。うーんこのホワイトっぷり。大変素晴らしい。定時退社なんて何年ぶりだ?上司にさっさと帰れなんて初めて言われた。
実家、というか住民票も移したので自分の家に帰ると、母親が満面の笑みで迎えてくれた。
母親にとって俺の転職は願ったり叶ったりだ。自分の子供が帰ってくる、ということだけでなく、足を悪くした父親がこなしていた仕事の労働力としても。無駄に広いうちの自家用畑の管理と、家事とをダブルでこなしていたのは正直尊敬する。だがそれは、優先順位の低い放置することで達成されてきたことだ。埃まみれの倉庫と化していた俺の部屋の掃除、農機具庫や古くなった家財の整理整頓と廃棄、果ては電球の付け替えやら風呂掃除まで俺に振られる仕事は多かった。会社の仕事に余裕があるうちはやりますがね。
翌日から、俺はとにかく真面目に働いた。見原室長の指示に従って、ひたすら設備の動作点検をしていく。なんせ初めて扱う設備ばかりで、カンが働かない。とにかく見原室長の指示をブレイクダウンして現場に伝達し、現場から上がってくるデータをまとめる。それから、管理記録だ。このご時世、こんな設備があります、では誰も納得しない。その設備が正常に稼働し、維持されているかどうかを証明する記録が必要となる。さらにその記録をきちんと管理するルール作りも必要である。人間の社会は実に複雑だ。やるべきことは山積みだった。
正直なところ、どれが会社を潰す「仕事」に繋がるのかよく分からない。会社の仕事であるからには、どれも会社にとって必要で、潰せる要因にはなるのだろうが。
着々と廃棄物の受け入れ態勢が整い、俺の残業時間も伸びていった。家の仕事は二の次になり、母親の息子が帰ってきた喜びも減ってきたようで、ハンバーグの出現頻度が減った。誠に遺憾である。
そして、ついに。
最初の廃棄物が、この処分場に運び込まれた。
どんよりと曇った日だった。昼間だというのに仄暗い中、展開検査場に降ろされた。俺を含めて、集まった職員たちがそれを見守っている。所長が拍手を始めた。俺たちは、それに倣った。
その帰り、俺は管理棟に立ち寄った。管理棟は廃棄物管理の事務的な手続きをする建物だ。所長や営業、総務などの仕事場でもある。
総務の事務所を覗く。雫はいない。
「北澤さんは?」
うーむ、名字で呼ぶのはなかなか落ち着かない。
「給湯室だと思いますけど」
「ありがとうございまーす」
給湯室を覗くと、確かにそこに雫がいた。インスタントコーヒーを淹れながら、何かをいじっている。普段はゆるい恰好をしている雫が、事務員の制服をきちんと着こなしているのはなんだか新鮮だ。
「雫?」
「わっ」
びくっ、と雫の体が跳ねる。
「タキオか……びっくりさせないでよ」
「お前がぼーっとしてたんだろ。どうかしたのか?」
「どうかしたって……」
雫は手を握りしめた。その手の中には、藤蔓でつくられた古びたリースが握られている。
「もう、作れなくなったんだな、って」
「ああ――それ、もしかして昔コヨミたちと作ったヤツ?」
雫は目を伏せた。大切な思い出に触れるように、指先で柔らかくリースを撫でる。
「……もう、戻れない」
雫は唇をかみしめた。
「今更だろ。工事が始まった時点で、終わってる」
「そうだけど……まるで、死体の上を歩いてる気分」
「死体の上?」
「そ。コヨミに、キラに、それから、たくさん。たくさん。森に生きてた、みんなの死体の上」
「キラは死んでないだろ」
あの時掘り出したキンランとギンランは、雫の家の庭に植えた。栄養剤も与えているし、俺は育っているものと思い込んでいた。あのキンランとギンランが枯れなければ、キラは死んでいない、とも。
「ううん。枯れちゃった」
俺は、息を呑んだ。
キンランとギンランの人工栽培は極めて難しい。それでも。キラの力があれば育つのではないかと。たとえ消えてしまったとしても、キラは俺たちのために力を貸してくれるのではないかと。そんな都合のいい夢を見ていた。
翌日、俺は雫の家を訪ねた。
雫の家の裏庭には、プランターと植木鉢、虫かごが並んでいた。プランターと植木鉢で生きているのは、小さな雑草ばかりだった。その上に、枯れたキンランとギンランが覆いかぶさっていた。
雫は黙って立っている。
キラの言う通り、土と草を集めた。それらを均等に、植木鉢とプランターに入れた。栄養剤も渡した。水は、雨が降らなければ雫がやっていた。……植物を育てる、そのためのことはすべてやったつもりだった。
俺は、目を閉じた。
「キラ……」
「うん」
俺は目を見開いた。
「キラ!?」
目の前には、枯れたキンランとギンランの花冠を被った少女が立っていた。その姿を透かして後ろに並ぶ植木鉢とプランターが見えている。
「うん」
俺は立ち尽くすしかできなかったが、雫はキラの前に跪いた。
「キラ……キラ……!!ごめんね、ごめんね……全部枯らしちゃった……」
雫はキラにしがみつこうとしたが、その手はキラを通り抜けた。キラは小さく笑った。
「ありがとう」
いつもとは逆に、キラの小さな手が雫の髪を撫でた。
「あのね、あたし、消えたくなかった」
「知ってるよ!!だから、ごめんって……」
キラは首を振った。
「そうじゃないの。あたし、わかった。しずくと、タキオが、一生懸命お世話してくれた。だから、いいの」
「いいって、そんな!」
「いいの。あたし、二人に会えた。二人が大好き。その二人からとっても愛されてる。それって、すごく幸せじゃない?」
キラは微笑んだ。
「幸せを感じながら消えられるって、素敵でしょ?」
「キラ……」
「だから二人も笑ってね?」
そう言って笑うキラは、これまで見たどの姿よりも美しかった。そして、そのまま、キラは消えていった。
雫は泣き笑いの表情だった。俺が、どんな顔をしていたのかは分からない。笑おうとした、それだけは事実だ。
Remember our Nature.
敵を知り己を知らば百戦危うからず。まずは、当社という「敵」を知ろう。
産業廃棄物といえば、燃え殻、汚泥、廃油、廃酸、廃アルカリ、廃プラスチック類、紙くず、木くず、繊維くず、……要するにゴミだ。収集された産業廃棄物は中間処理施設に運ばれる。中間処理施設では、大きな廃棄物は小さく、有害な場合は無害化し、処分しやすくする。その後、最終処分場に送られ、埋め立てられる。
最終処分場は、安定型、遮断型、管理型に分かれる。安定型最終処分場では、性質が安定していて、腐敗したり有害物質が溶け出したりすることがない廃棄物が埋め立てられる。遮断型最終処分場では、有害物質が含まれ、通常の方法では無害化できない廃棄物が埋め立てられる。管理型処分場では、安定型処分場では処理できないが、遮断型処分場で処理するまでもない廃棄物が埋め立てられる。要するに、燃え殻や汚泥のような腐敗性があり、地下水を汚染する可能性のある廃棄物を埋め立てる処分場だ。
そして、我らがアンジョウ環境株式会社中渓最終処分場は、管理型だ。そして、俺の仕事はこの処分場から放出される水の水質管理。
……ごくごく単純に考えて、この会社を潰すには、行政が認めていない量の汚染物質を流す、という方法がある。なんせ、浄化設備の管理は俺の担当だ。笑えることに、俺は設備の設定をいじる権限を持っている。
だが、汚染水を放出したところで、誰か別の人物にそれを見つけて、通報してもらわなければならない。そうして社会問題として取り上げてもらわなければ、会社は潰せない。
周りの自然環境なんざとっくの昔に壊れてしまっているが、それでも汚水を流す決心がつかなかった。たとえ壊れてしまっていても、俺たちにとって思い出が詰まった大切な土地なのだから、ぞんざいに扱いたくなかった。
会社を潰すいい方法が見つからないまま、時間ばかりが過ぎていった。
その日、俺はいつものように書類をさばいていると、ある分析データが目に留まった。
処分場から外部へ放出している水は、基本的に処分場内で分析し、安全であることを確認している。しかし、分析対象によっては、定期的に採水し、専門の分析業者に委託する必要があるものもある。その結果は、「当処分場は問題なく管理されています」という証拠として、ホームページに掲載される。
環境省が定める方法で分析されたことを示すマークと、分析業者のロゴが入った今回の分析結果を、時系列順に一覧表にしていく。手作業で。
アルキル水銀化合物、検出限界以下。水銀及びアルキル水銀その他の水銀化合物、検出限界以下。カドミウム及びその化合物、検出限界以下。鉛及びその化合物、検出限界以下。……
検出限界以下、というのは検出されなかった、と同じような意味と考えていい。ゼロと言わないのは、分析装置が検知できないレベルで、ごくごく微量に含まれている可能性は否定できない、といういかにも理系の発想のためだ。当然、検出限界は省令で定められる排出基準よりはるかに低い。検出限界以下であれば基準を満たしている。
データは続いていく。
1,1,1-トリクロロエタン。0.2 mg/L。
1,1,2-トリクロロエタン。0.0008 mg/L。
これらの化学物質はいわゆるフロンガスだ。人への毒性は低く、昔はよく使われていたが、オゾン層を破壊する恐れのある物質であると解ってからは使用が禁止されている。オゾン層というのは、太陽から放出されている有害な光、要するに紫外線を吸収している大気の一部のことだ。この二種類のトリクロロエタンは現在使われていないはずだが、規制される以前の古い建物だとかから出てきたのだろう。
さて、環境省令では、排水の中の1,1,1-トリクロロエタンと1,1,2-トリクロロエタンの基準はそれぞれ3 mg/L、0.06 mg/Lだ。
俺は、1,1,1-トリクロロエタンの欄に0.0008 mg/L、1,1,2-トリクロロエタンの欄に0.2 mg/Lと記入した。
これで、1,1,2-トリクロロエタンは基準値から外れた事になる。つまり、社外では当処分場がまともに排水を処理していないという証拠になる。それでいて、社内では1,1,1-トリクロロエタンと1,1,2-トリクロロエタンを見間違えた、という凡ミスにしか見えない。
残りの物質については分析結果をそのまま、忠実に入力した。
俺はその表をpdfファイルにして、ホームページ担当に送った。
「タキオ君」
翌日、俺は見原室長に呼び出された。見原室長の手には、ホームページにアップされるはずの排水の分析結果一覧が握られている。
俺はその瞬間に要件を把握した。もちろん、気付かないふりをする。
「はい」
「今月の排水の分析結果はあるか?」
「自動測定結果ですか、有人検査結果ですか?」
「業者に委託しているヤツだ」
俺は書類棚から分析業者が送ってきた報告書をまとめているファイルを取り出した。
「どうぞ」
見原室長はそのファイルをめくっていく。そして、当たり前だが、今回の1,1,2-トリクロロエタンのページで手が止まった。持ってきた俺が入力した表と見比べている。
「タキオ君、ちょっと来てくれ」
俺には、ハイと答えるしか選択肢がなかった。
事務所に隣接した狭い会議室、通称説教部屋に見原室長と向かい合って座らされる。
見原室長が分析業者の報告書と、ホームページ用の表が並べられる。
見原室長はホームページ用の表の、1,1,2-トリクロロエタンの欄を指した。
「基準値を超えているな」
「……はい」
「俺のところには、異常なしと報告したな」
「はい」
ええ、そう報告しましたとも。実際異常値なんて出ていなかったのだから。
「分析業者の報告書を確認したが、こちらでは基準値は超えていない」
「……僕の、入力ミスです。申し訳ありませんでした」
俺は立ち上がって思い切り頭を下げた。目論見が失敗したイラつきが顔に出ていそうだったからだ。
「1,1,1-トリクロロエタンと1,1,2-トリクロロエタンの結果が逆になっているようだな」
俺は頭を下げたまま、何とか表情を取り繕おうとしていた。
「見間違いやすい項目だとは思うが、基準値が明らかに違う。例月の値を見ていれば防げたミスだ」
「……はい」
「タキオ君、顔を上げてくれ」
考えてみれば、俺の目論見の失敗と、仕事上のミスは同じ「失敗」だ。俺は、恐らく、悔しい、と見える顔で頭を上げた。見原室長は静かに俺を眺めていた。
「……いいか。我々産業廃棄物を取り扱う者にとって、「信用」は何より重要だ。産業廃棄物処理は現代の社会では必要不可欠だ。すべてのごみが自然に処理されることはあり得ない。だが、それと同時に、歓迎される施設ではないことも確かだ。
お前もこのあたりの出身だからわかっていると思うが、建設の際ここに存在した生物群は失われた。正常に稼働している時でさえ周囲の生活環境に影響を及ぼしている。万が一事故が起これば、地域住民に被害が及ぶ可能性だってある。
しかし、そのリスクを負っているのは我々ではない。地域住民の皆様だ。その地域住民の皆様に、我々が問題なく設備を稼働させていて、地域住民の皆様への影響は最小限ですと証明するのが、我々検査部門の職務だ。そして、万一の際に排水を止められる水際なんだ。
タキオ。お前のミスはただの打ち間違いじゃない。この処分場の信頼に関わる危険だ。今回はホームページ担当が気付いてくれたおかげで、社内で発見できた。ただ、次も同じように気付いてもらえるとは限らない。
同じミスをしなくする方法を検討して、対策案を提出するように」
「はい」
「近隣住民の皆様のご許可によって、処分場を建てさせていただいている(・・・・・・・・・・・・)ことを忘れるな」
「……大変、申し訳ありませんでした」
俺はもう一度、頭を下げた。
説教部屋を出ると、俺は大きくため息を吐いた。同僚たちが憐みの視線を向けてくる。だが、俺の思考は全く別の方向に向かっていた。
信用とは何だろう。
見原室長を含めて、処分場を造ったヤツ、働いているヤツらは皆、周囲の環境なんかどうでもいいと思っている、そう考えていた。
だが、少なくとも、見原室長については、考え直す必要がある。あの人は、解ってやっている。理解した上で、必要だと判断している。
……俺は、聞きもせずに、決めつけていただけじゃないのか。
対策案という名の始末書を書いていても、俺の頭はぐちゃぐちゃだった。
その夜、久々に俺は雫の家を訪れた。いつもはリビングで話すのに、今回は雫の部屋に通された。前入れてもらったときはきれいに片付いていた部屋が、ごちゃごちゃになっている。
雫は、どでかいクマのぬいぐるみを抱きしめて、ベッドに座っていた。確か、子供のころ誕生日にもらったやつで、小さいころからのお気に入りだ。
「……大丈夫か?」
「……うん。タキオは、どうしたの」
俺は今回やったことを洗いざらい報告した。
「そう……タキオは、えらいね」
そう言って、雫はうつむいた。
「あたしは……頑張ってみたんだけど、結局は雑用しかさせてもらえないんだよね。頭よくないし、要領よくないし、処分場の運営にかかわる重要な仕事なんて、させてもらえない。処分場を潰すなんて、夢のまた夢だよ」
雫は、クマのぬいぐるみを抱きしめた。まるでそれが、コヨミであるかのように。
「……俺たち、これでいいのかな」
返答はなかった。
俺は、部屋から出るしかなかった。
家から出ようとすると、雫の母親に声をかけられた。
「タキオ君、雫のこと気にかけてくれて、ありがとね。これ、持ってって」
渡されたビニール袋には、ナスが大量に入っていた。雫の家もうちと同じく、自家用だが広い畑を持っている。一家で消費しきれない野菜は、住民間での簡単な贈答用によく使われている。新鮮な分、味は売っている野菜より上だ、と俺は信じている。
「ああ、ありがとうございます」
ナスを見ていると、涙がこぼれてきた。野菜を育てるには水がいる。その水は、かつては地下水だった。現在は、地下水に加えて、処分場からの水が混ざっている。それでも、このナスは、少なくとも見た目は、以前のナスと変わらない。
「タキオ君!? どうしたの!?」
「い、いえ、なんでもありません……目にゴミが入ったみたいで。それじゃ、お邪魔しました」
俺はナスの袋を抱えて走った。何か考えるべきことがあるような気がしたが、考えたくなかった。思考が止まるくらい、思い切り走った。だが所詮、運動不足の会社員だ。すぐに息が切れて、立ち止まる羽目になった。雫の家の明かりが、遠くに見える。
「央成」
声をかけれられて、俺は飛び上がるように振り返った。
後ろには、電動四輪車に乗った父親がいた。
「どうかしたのか?」
鈍い父親にまで悟られるほど、俺の表情はまずかったらしい。
「い、いや、何でもない」
俺は、何とか表情を取り繕った。
「雫んとこ行ってきた。……ナス、もらったよ」
「……そうか」
雫の状態は、元々の地元民の間には知れ渡っている。父親は、大体察したらしい。無言のまま、四輪車の速度を俺の歩調に合わせる。
四輪車のカゴには、工具が雑多に積まれている。父親は足を怪我して以来、引きこもりがちだった。俺はその事実をありがたく退職の理由に使わせてもらった。親の介護と言う大義名分は転職において非常に有効だった。ところが、近くにでかめのショッピングセンターができると、父親は電動四輪車を買ってまで、そこに通い詰めている。農機具やちょっとした家電の修理をするようになって、父親は活発になった。新しい野菜の育て方なんかを勉強してまでいる。
それもこれも、処分場ができて、この辺の人口が増えたからだ。見原室長のように、処分場で働くために引っ越してきた人がいるからだ。人が増えれば、潜在的な需要を見込んで、様々な施設が建つ。それによって、俺の父親のように、喜ぶ人は多い。
「このあたりも明るくなったな」
心を読まれたようで、どきりとした。
父親は上を見ている。
その視線の先には、アパートや民家、街灯が立ち並んでいた。古い、昔からあったものの方が少数派で、真新しいものの方が圧倒的に多い。それだけこの地域は変わった。これまで簡単な浄水設備しかなかった山奥の方まで、家々が並び、上水道と下水道も整備された。生活は、間違いなく便利になっている。
「……そうだね」
俺は父親に倣って、空を見上げた。
暗い。
コヨミがヒメと比べた夜空は、なくなってしまった。地上が明るすぎて、あれだけ見えていた星々が見えなくなっているのだ。ヒメとキラが生きていた森は、なくなった。
だが、見原室長の言う通り、産廃処分場は人間生活に絶対に必要なものだ。細心の注意を払って運営されていている。地域住民の生活は前と変わらない、というより便利になっている。その上、雫の家のナスのように、人が作るものは昔から変わらない。
コヨミとヒメとキラ、過去の自然のために、今の地域の便利さを壊してもいいのだろうか?
夜空は、ただひたすらに暗かった。
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