第2話
内ポケットでスマホが振動している。俺は完全に無意識でスマホを取り出し、画面を見た。
「雫」
メッセージもなしにいきなり電話をかけてくるなんて、雫にしては珍しい。通話ボタンを押そうとして、俺はここが電車の中であることを思い出した。振動するスマホを握ったまま、手を膝に下ろす。窓ガラスに後頭部を預けて、目を閉じる。それだけで寝そうになったが、手元と膝の振動がそれを妨げた。スマホはしばらく振動していたが、そのうちに静かになった。
疲れた。
目を開いて、回りを見渡す。金曜日の終電二本前の電車は、見事に二極化していた。一方は、残業明けだろう、疲れ切った表情をしている人々。もう片方は飲み屋からの帰り道らしい、アルコールの臭いをまき散らしている集団。俺?勿論前者だ。繁忙期だから仕方ないといえば仕方ないのだが、連日終電間際の通勤はツラい。
駅に着いたらしく、隣に座っていた人が立ち上がる。代わりに腰を下ろしたおっさんから、どぎついアルコール臭が漂ってきて顔をしかめる。冬の冷気が暖められた車内を吹き抜けて、俺は足をすぼめた。
――転職するかな……。
うとうとと閉じかけた目の向こうで、宵闇に浮かんだどぎついネオンが嗤っているようだった。
ふと気づくと、家の最寄り駅に着いていた。
素晴らしい反射神経で飛び起き、ドアへと走る。セーフ。背後で俺を降ろした電車が動き出す。やれやれ。既に反対方向の終電は終わっている。乗り過ごしたら無駄にタクシー代を使うハメになる。
何も考えずにデッキを通って改札を抜け、帰路に就く。夜中だというのに、街は明るい。住宅街とはいえ、街灯が並び、マンションやらアパートやらの通路の光が空高くまで照らしている。月は建物の陰に隠れ、どこにあるのかさっぱりわからない。星はビルに囲まれた狭い空には見えない。地上の明るさにかき消されているのか、そもそも区切られた空に明るい星がないのか。なんにせよ、それが都会だ。冬といっても、ただ寒いだけ。それに付随する、何かがあるわけではない。
家までの道を半分程度来たところで、思い出した。
――そういえば、雫が電話よこしてたな。
スマホを取り出すと、雫からの着信で画面が埋め尽くされていた。イヤな感じだ。電話を折り返すと、ワンコールで繋がった。
「何してたのよ!?バカ!!」
一言もしゃべる前に罵られた。
「仕事だよ……」
「こんな遅くまで!?」
「繁忙期ダカラナー」
死人のような俺の声に雫は納得したらしい。
「そ、そう……大変ね。ってそれより!」
ほほう、俺の勤務状況より重要な問題がこの世に存在すると。まぁするだろうな。でなきゃとっくの昔に改善されてるはずだ。
「コヨミたちが大変なの!!」
「……大変?」
「そうよ!三人とも急に倒れちゃったの!!」
「はぁ!?」
一気に頭が覚醒する。
「倒れたって……どういうことだよ!?あいつらが調子悪くするなんてなかっただろ!?」
「~~そんなことわかんないわよ!とにかく倒れちゃったの!!」
時計を確認するまでもなく、終電は終わっている。
「明日土曜だし朝イチで行く」
「……わかった。迎えに行くわ」
雫は何か言いたそうだったが、言葉がなかなか出てこないらしい。
「じゃあ、明日」
俺は電話を切った。始発の時間を調べて、雫にメッセージを送る。
それにしても、コヨミたちが倒れるってどういうことだ。これまで、あいつらが体調不良になるなんてなかった。食事しているところも、水を飲んでいるところも、用を足しているところも見たことがない。完全にヒトとは違うイキモノだ。
だが、眠気と疲労に侵された頭で考えられるのは、そこまでだ。なんで。まさか。そんな。同じ言葉がぐるぐると頭の中を回って、靄と化していく。
だめだ。眠い。
俺は目覚まし時計のアラームをセットして、机に突っ伏した。
――ピピピピ!ピピピピ!ピピピピ!
体感的に一秒も経たないうちに、アラームが鳴り響いた。無意識にアラームを止めて時計を見ると、もうすぐ始発の時間だ。一瞬のつもりがしっかり寝てしまったらしい。しわくちゃになったスーツを脱ぎ捨てて、普段着に着替える。ヒゲだけ剃って家を飛び出す。
始発に滑り込んで、中渓に向かう。快速で一時間半
コヨミ。ヒメ。キラ。どうして。
彼らのことを考えていたはずが、また寝落ちていた。
それにしても、人の感覚とは偉大なものだ。中渓駅でばっちり目が覚める。改札から駆け出すと、雫の車が待っていた。雫もひどい顔色だ。目の下にはっきりと隈ができている。
「コヨミたちが倒れたって、どういうことだ」
「そのままよ。倒れちゃったの。……電車の中から、山の方見た?」
「いや。寝てた……つか、暗くて見えないだろ」
「そう……多分、見れば解る」
俺は窓の外を眺めた。日の出前の暗がりが、全てを包み隠していた。
車の振動が心地よい。つい瞼が落ちかけるのを、気合で止める。
「疲れてるね。着くまで寝てたら?」
「ああ……」
俺は瞼を閉じた。瞬間的に、意識が飛んだ。
「タキオ。起きて」
また一秒も経たないうちに、起こされる。実際には俺が疲れてるだけで、駅から山の入り口までの時間が過ぎているのだろう。無理矢理に瞼を開いて、立ち上がる。
「……なんだこれ」
眠いとか、寒いとか、そんなことを言おうとしたのに、森の入り口を見た瞬間、俺の口は別のことを言っていた。軽自動車がギリギリ入れるか入れないか、といった幅しかなかった森の入り口に、キャタピラの跡が残っている。普段、動物と人の足跡が付いているだけの道に、深々と刻まれた機械の痕跡は、酷く異質だった。
「……これは」
「来て」
雫はさっさと歩き出す。雫の足跡が、キャタピラの跡の一部を消したが、それはごくごく一部だけだった。
いつもの広場に着く。そこも、変わり果てていた。
キンランとギンランが生える、森の広場は跡形もなくなっていた。キャタピラの跡が縦横無尽に走っていて、草たちはなぎ倒されている。花をつけていないキンランとギンランの茎が、無残に泥にまみれてなぎ倒されていた。
「キラ!」
辛うじて泥にまみれていない野草の上に、キラが倒れていた。俺が抱え上げると、キラはうっすら目を開いた。
「タキオ……雫……」
「キラ!しっかりしろ!!」
「……来てくれたんだね」
ぽろり、とキラの目から涙がこぼれる。
「もっと……もっと、遊びたかったなぁ……森のお外に、出てみればよかった……みんなについていくだけじゃなくて、わたしからも誘えばよかった……」
「キラ……」
雫が泣きそうなのを堪えている。俺はキラを抱き上げた。その体は、酷く軽かった。キラの涙が、俺のコートを濡らした。
「……ヒメとコヨミは?」
「こっち」
雫に付いていく。疲労と寝不足で、足が上がらない。木の根や石に何度も蹴つまづきながら、キラを落とさないように必死で抱きしめる。
いつかの「天の川」の中で、ヒメが倒れていた。川は枯れて、むき出しになった石の上にヒメが横たわっている。川が枯れるなんて、これまでなかった。
「ヒメ!」
「おせーよ……ばーか」
「ああ、本当に馬鹿だよ!もっと早く来ればよかった!」
真っ青な顔色のくせに、ヒメはくくく、と喉を鳴らした。
「なに笑ってんだよ」
「お前だってそんな最悪な顔色のくせに、オレの心配してる。笑えるだろ」
「笑えねぇよ!お前、消えそうじゃねぇか!」
ヒメは枯れた川の上で寝転んでいる。ヒメの体を透して、石に落ちた紅葉の赤が見えていた。まるで、ヒメの体から血が流れ出ているようだった。
「いーんだよ……オレは散々光ったし……美味いもん食ったし……お前らにも、会えたし。オレが光ってるの、きれいだったろ?」
俺たちはがくがくと頷いた。
「なら、いーんだよ……オレは、満足してる」
「ヒメぇ……」
ついに雫が泣き出した。
「そうかよ」
俺はヒメを抱え上げた。重さなんて、感じなかった。
「俺は満足なんかしてねぇぞ!コヨミはどこだ!」
雫が歩き出す。それに付いていくと、峠を越えた。俺は息を呑んだ。視界が開けたのだ。 本来木々に覆われて、開けるはずのない視界が。
森が、ない。
日の出前の光に照らされて、真っ茶色の地面が露出していた。
「……嘘だろ」
そこでようやく、俺は思い出した。
「この辺一帯の森を切って、産廃処分場を造る話があるって」
雫の言葉が、脳内に響く。
そう。俺は知っていた。産廃処分場ができるという話も、住民への説明会があったという話も、実際に土地の売買が進んで、造成が始まったという話も。
それなのに、気付かなかった。いや、日常の忙しさにかまけて、気付かないふりをしていた。地元のことなんて、関係ないと思って、見過ごしていた。それで、ヒメやキラがどうなるかを、……無視していた。
「コヨミ!」
喉から出てきた声は、悲鳴のようだった。ついこの間までその上を覆っていた、木々、草々、森のふかふか土。それら全てが失われた赤い乾いた土の上に、コヨミが座り込んでいた。
コヨミが緩慢な動作でこちらを向く。
「大丈夫だよ」
ひどい顔色だ。それでも、コヨミは笑顔を浮かべた。
「んなわけねぇだろ!!」
「コヨミは、大丈夫。まだ生きてるヒメボタルを全部集めて、飼ってあげて。まだ生きてるキンランとギンランを集めて、庭に植えてあげて。……全部死ななければ、ヒメちゃんもキラちゃんも、生きていけるかも」
どこか遠くを見て、歌うようにコヨミは言う。
「コヨミ!お前はどうなるんだ!?」
コヨミはにっこり笑った。
「大丈夫だよ」
山に朝日が射した。その朝日に溶けるように、コヨミは消えていった。ただ太陽だけが、煌々とその場を照らしている。
俺は、固まるしかできなかった。フリーズどころか、ハードディスクそのものが溶け出したような感覚だ。多分、雫もそうだっただろう。
ふと、コートを引かれて、俺は視線を下げた。キラだ。
「タキオ、お願い。キンランとギンランを助けて……。わたしは……消えたく、ない」
俺は歯を食いしばった。
「雫っ!」
「あ、……うんっ!」
雫の目に光が灯る。
「シャベルと、植木鉢、それから虫かご!あるか」
「家にあるわ!取ってくる!」
雫は走っていった。俺は峠に戻って、まだ緑が残っている一帯にキラを寝かせた。
「待ってろよ……絶対助けるからな」
キラは俺の袖をつかんでいたが、やがて離した。
「……いくぞヒメ。蛍の居場所を教えてくれ」
「……ん」
ヒメが足元の枯葉を指さす。それをひっくり返すと、たくさんの節がある、10センチ弱の黒い昆虫が一匹うごめいている。普通なら、気付きもしないだろう。
「これが、ヒメボタルの幼虫か?」
「ん」
ヒメはしんどそうにうなずいた。俺はその幼虫を捕まえて、ポケットに入っていた飴の袋に放り込んだ。残っていた飴は別のポケットに突っ込む。ついでにヒメの口にも飴を放り込んでやる。ヒメがくつくつ笑った。
「よし。後は、どこにいる?」
それから、ヒメの指示に従って俺はひたすら幼虫を集めた。飴の袋の中がなかなか素晴らしい見た目(勿論、反語的な意味で)になってきたころ、雫が戻ってきた。
「はい!虫かご!あるだけ持ってきたわ!」
「よし!」
俺は虫かごに土を入れて、幼虫を入れた。落ち葉をかぶせてやる。新しい住処で幼虫たちは生き残ってくれるだろうか。ヒメの意見を聞きながら、詰め込みすぎない程度にできるだけの幼虫を集めた。
「育て方、教えてくれよ」
「精々がんばれ」
ヒメの頭をなでると、ヒメはわずかに笑った。
次は、キラだ。
ヒメを車に寝かせ、キラを迎えに行く。
「……よかったぁ」
キラのところに着くと、キラが泣きながら縋り付いてきた。
「おいて行かれたかと思ったぁ……」
「そんなこと、するわけないよ」
今度は雫が、キラを抱き上げた。俺はスコップと植木鉢を抱えている。
「さて、まだ生きてるキンランとギンランはどこだ?」
キンランとギンランを育てるのは難しいと言われる。コヨミのうたにもあった、菌根菌の影響らしい。キンランの生育には、キンランに養分を与える菌根菌と、その菌根菌を育てる樹木が必要だ。その上で、それらの共生関係に悪影響を及ぼす雑菌が存在しないことが条件となる。そんな環境をその辺の庭先で構築するのははっきり言って無理だ。だからこそ、絶滅危惧種Ⅱ類に分類され、保全が叫ばれている。
キラの指示に従って、倒れているキンランの周りを掘り返した。菌根菌は大きく広がっているらしく、かなりの領域を掘らされた。周りの草も関係があるらしく、一見関係のない草まで掘らされた。植木鉢にキンランを植え、周りに植える用の土と草をビニール袋に詰めた。
あとは、生きているキンランとギンランについて、同じ作業を繰り返す。
半ば茫然としてその作業を眺めていたキラの花冠から、ひらひらとキンランとギンランの花びらが舞い落ちていく。それを追いかけるように、キラの大きな瞳から涙が零れ落ちる。
「……壊れてく……」
「キラ?」
「……壊れてく……森が、山が、木と木のつながり、木と草のつながり、菌と植物のつながり、植物と動物のつながり、コヨミちゃんが歌ってた土が壊れてく……」
はらはら、はらはらと花びらが落ちていく。
「あんなに、きれいに、細かく、つながってたのに、壊れてく……」
俺はキラの手を握り締めた。
「お前は、死なせない!」
キラは、弱弱しく微笑んだ。
作業が終わったころには、日が高く昇っていた。
「いったん帰ろ。お母さんがご飯作ってくれてる」
俺たちが散々ひっくり返したり掘り返したりした結果、ぐちゃぐちゃになった山を見渡す。峠を越えれば、ぐちゃぐちゃを通り越してまっさらになった山が広がっている。キラの言う通り、全てが壊れてしまった。
俺は、深呼吸した。
「……ああ。……ヒメ、キラ、帰る――」
言いかけて、俺は息を呑んだ。ヒメとキラはぐったりと眠っている。二人の背後のシートが透けて見えて――
「雫ッ!」
運転席に座ろうとしていた雫が振り返る。その時、俺たちの頭上へ雲が流れてきた。すう、と暗くなったそのほのかな闇に、飲み込まれるようにヒメとキラは消えていった。
「いやああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
雫の悲鳴が、山々に響き渡った。
――タキオはキラちゃんのこと忘れちゃうの?
コヨミの言葉が頭の中で響く。
聞いた時はあり得なさ過ぎて冗談にすら思えなかった言葉が、凄まじい現実味を帯びて襲い掛かってくる。コヨミや、ヒメ、キラは変わらない。あの山の自然は、ずっと何も変わらないと思い込んでいた。すべてが失われた今、振り返ってみるとそう思い込んでいたことこそが悪い冗談のようだった。
俺たちが忘れてしまえば、本当にキラは消えてしまう。虫かごで育てられているヒメボタルが死んでしまえば、雫の家で植木鉢に植えられているキンランとギンランが枯れてしまえば、ヒメとキラにまた会える可能性はゼロになる。……本当は、もうゼロなのかもしれないが、そう信じたくはなかった。
俺が、できることは何だろう。
もっと、季節を忘れないように。もっと、ヒメボタルや、キンランとギンランの世話ができるように。
答えは、自然と絞られていった。
転職しよう。
もっと田舎に。できれば、実家の近くに。
漠然と持っていた考えが、一気に具体化していった。
繁忙期を終えると、俺は転職活動を始めた。しかし、転職サイトをうろうろしても、なかなかいい転職先は見つからなかった。そりゃあそうだ。あんなド田舎に転職先なんざあるはずがない。
そして、ある時。
俺は、見つけてしまった。
俺の実家からほど近い、産廃処分場。……元、俺たちの遊び場だった山に造られている、産廃処分場。その、オープニングメンバーの募集を。
最初に感じたのは、恐怖だった。ついにここまで進んだのか、と。あの山は壊されてしまったが、まだ産廃処理施設は稼働していない、という妙な安心感が、砕かれた。
次に湧いたのは、喜びだった。やり返せる、と思った。
外部から、産廃処分場を潰せる段階は過ぎてしまった。周辺住民との合意の上で建てられたのだから。現状で手っ取り早いのはなんらかの不祥事を起きることだろうが、外部から社内の不祥事を洗い出すのは難しい。だが、中からならば。中から見れば、何らかの問題を見つけられるかもしれない。……あるいは、わざと問題を起こすことだってできる。
雫にそれを話すと、雫はにやりと笑った。見たことのない笑い方だった。
「いいじゃない。Remember Pearl Harborね」
「リメンバー・パールハーバー?」
「知らないの?第二次世界大戦のときの、アメリカ軍の合言葉。卑怯にも日本軍が奇襲したパールハーバーを思い出せ、日本を倒せ、復讐だ。ってね」
「へぇ。……なら、俺たちはリメンバー・コヨミ、ってとこか?」
「語呂が悪い。Remember our Natureでどう?」
「俺たちの自然を思い出せ、か。悪くないんじゃないか」
「でしょう?」
俺は履歴書と職務経歴書をさっさと書き上げて、処分場を運営する会社に送りつけた。
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