第5話
――1回、やってみた方がいいと思うけど。
今のは自分に向けて言ったんだろうか。やっぱり、呆れられているんだろうか。意気地のないヤツと思われているんだろうか。
いや、そう思っているのは、自分自身かもしれない。誰よりも自分こそ、自分の意気地のなさに、呆れているのかもしれない。
「リュウちゃん。俺さ、小学校の卒業式の時、パティシエになりたいって言ったの覚えてる?」
「あぁ、言ってたね。」
まっくんが話しているのは、卒業式のメインイベントであり、同時にもっとも退屈な時間でもある、あの卒業証書授与の時のことだ。一人ずつ壇上に上がり、事前に用意させられる将来の夢を叫んだあと、校長先生から卒業証書を貰う。確かにあの時、まっくんはパティシエになりたいと言っていた。今の彼からは想像もつかない。けれど小学校時代からの同級生はみんな、まっくんはお菓子作りが得意だと知っている。中1の時の話だ。まっくんがバレンタインデーのお返しにと(まっくんは自分と違ってモテる)手作りバナナケーキを持ってきて、女子たちがざわついた…なんてことがあった。
「あれ、何でパティシエにしたか分かる? 」
「え…全然。何で? お菓子作るの好きだからとか。」
まさか、とでも言いたげな笑みを浮かべて、まっくんは正解を言う。
「ははは、まぁ嫌いじゃないけどね。でもさ、本当の理由はさ、お菓子作るのってスゴく簡単だからなんだよね」
簡単…なのだろうか。他の料理より繊細で、難しいイメージを持っていたけれど。
まっくん曰く、小学生の頃、彼の母親は休日になると、よくケーキやクッキーを焼いてくれていたらしい。見た目は派手でなくとも、卵と砂糖の柔らかい甘みがじんわり感じられる母の手作りお菓子が好きだったそうだ。そこである日、母親にお返しをしたいのと食べてみたいのとで、自分でお菓子を作ってみたいと思い立った。初めてのメニューには、焼きプリンを選んだ。冷えたものでなく焼き立ての温かいプリンを、一度食べてみたかったのだそうだ。レシピはスマホで調べて、材料は母に用意してもらい調理してみると、これが驚くほど簡単だった。焼きプリンがこんなに簡単なのだから、母の作ってくれるお菓子も、もしかしたら自分でも作れるのかもしれないと思った。以来お菓子作りが趣味の一つになった。
「ケーキってさ、オーブンとか使うから難しそうに見えるじゃん。でもあんなの簡単なんだって、自分でやってみて分かったんだ。だからパティシエ、やってみたいなって。」
もちろん家庭で楽しむデザートと、パティシエとして店に出すお菓子を同じにはできない。ただパティシエの技とて家庭料理の延長線上にあるのは間違いないだろう。だから、やってみたら案外できるかもしれない。そう思ったんだ、と彼は話す。
「だからさ、リュウちゃんも一回やってみたらいいと思うんだよね。脱走。」
まっくんの将来の夢と、自分のみみっちい現実逃避を一緒くたにするのは、何だか申し訳ない。それに脱走はルールで定められた、やってはいけないことだ。夢へのチャレンジとは話が違う。でもまっくんが言いたいことは、何となくわかった。
お菓子作りのように、脱走も一度挑戦してみればいい。もしかしたら呆気なく先生につかまり、未遂に終わるかもしれない。誰にも見つからずに駅までたどり着き、隣町までの電車に乗れるかもしれない。そこにある世界は、もしかしたら学校の授業よりもずっと退屈で、想像よりずっと大したことないかもしれない。いずれにしたって、ここで考えているよりはずっと学びや気づきを得られるだろう。先生からはしこたま怒られるだろうが、それが何だというのだ。むしろあの電車に乗って、その先にあるものを見ることで、中途半端な憧れに見切りがついて、授業に集中できるようになるかもしれないじゃないか。
屋上は錆びたフェンスに囲まれて、隙間一つない。籠の中の鳥は、自分の意思ではそこから出られない。だが自分は違う。鳥じゃない。だからこの籠からだって、出ようと思えば簡単に出られる。だというのに、なぜそうして夢想にばかりふけっているのか。一歩出てみればいい。そして知ってみればいい。
「やっぱ、行ってみるかなぁ…」
想像以上の代償を払うことになるかもしれない。だが、まぁその時はその時だ。命まで取られるわけじゃあるまいし。
「なら、善は急げだね」
まっくんは待ってましたと立ち上がった。しかし、さすがに善ではない。心の中で突っ込んでみると、自然と笑みがこぼれた。
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