第5話

顔の赤みが引き、ようやく普段の落ち着きを取り戻した京子みやこが、ポンと手を叩いた。


「あ、そうです。帰宅途中だった天ヶ瀬くんに、わざわざ部室まで足を運んでもらったのは、いま鋭意製作中の衣装について意見をもらいたかったからなんです」


京子が部室奥の作業台をごそごそして、一着のコスプレ衣装を持ってきた。

久太郎の目の前に広げてみせる。


「ど、どうでしょうか?」


広げられた衣装は『魔法少女まどかマギア』の魔法少女服だった。


まどかマギア。

通称『まどギア』は今から10年と少し前に放送された夕方アニメで、社会現象を起こすほどの大ヒットを記録した番組だ。


丸っこくて可愛らしいキャラクターデザインの魔法少女ものと思いきや、その物語展開はシリアスそのもの。

平和を願う魔法少女たちと、それを食い物にしようとする悪いマスコットの間で繰り広げられる、血と涙と少女の葛藤が交錯したハードボイルドなヒューマンドラマアニメなのである。


特にアニメ放映3話で主要な魔法少女キャラのひとりであるとこしえマミが敵に敗北し、頭からボリボリと貪り食われたシーンは「夕方アニメでこんなものを放送するな!」と世間一般のご父兄方から多大なお叱りを受けた。


広げられた衣装を、瑠璃が目にする。


(……あ。あの衣装って……)


瑠璃の脳裏に、とある出来事が思い浮かんだ。

それはまだ彼女が幼かった頃の記憶――


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


久太郎と瑠璃は今でこそ反発し合っているものの、幼い頃はそれはもう仲の良い兄妹だった。


どこに行くにも兄妹一緒。

幼稚園でも公園でもふたりは仲良く一緒に遊んだ。

家で眠るのも、食事も一緒だ。

もちろんアニメだってふたりで同じ番組を観て楽しんだ。


久太郎は瑠璃をよく可愛がった。

瑠璃も久太郎によく懐いた。

その関係が変わってしまったのは、まどギアがきっかけだった。


まだ幼かった兄妹は、まどギアをリアルタイムで視聴していた。

ふたりはまどギアに対して異なる感想を抱いていた。

久太郎は平和でぽやぽやした展開に、少しの退屈さを感じていた。

逆に瑠璃は魔法少女キャラの可愛い絵柄やポップな変身バンクシーンにすっかり心を奪われており、毎週の放送を今か今かと心待ちにしていた。


その日も兄妹はテレビの前にふたり並んで座り、まどギアが始まるのを待っていた。


「えへへ。お兄ちゃん、今日もまどギア楽しみだねー」

「んー? 俺はあんまり」


放送が始まる。

放送回は3話目だった。

Aパートは1話、2話と同様平和である意味退屈な展開だった。

しかしBパートに入り、物語は急変する。

兄妹が視聴する目の前で悲劇は起きた。

常マミが敵の魔女に敗北したのだ。


「ふぇぇ。マミちゃん負けちゃったぁ。なんでぇ?」

「おいおい、マジで? こんな展開ありか……」

「お兄ちゃん、マミちゃん、どうなっちゃうのぉ?」


兄妹は固唾を呑んで展開を見守る。

戦い敗れたマミが魔女に食いつかれ、ぶらんと吊り下げられた。

直後、首が噛み千切られる。

頭部を失ったマミの身体が、血溜まりの中にぼとりと落ちた。

それを画面越しに眺めていた兄妹は硬直した。


沈黙の時が流れる。

硬直が溶けたあとの兄妹の反応は真逆だった。


久太郎が興奮する。


「……す、すげー! めっちゃ凄かった! いまの首チョンパだよな! 首チョンパ!」


瑠璃が泣き出した。


「う、うえええええ……! マミちゃんが、マミちゃんが死んじゃったぁ!」

「なぁ瑠璃、凄かったな! 首チョンパ! 首チョンパ!」

「いやだよぉ。マミちゃんが……マミちゃんがぁ……」


泣きじゃくる瑠璃。

しかし興奮冷めやらぬ久太郎は『首チョンパ』を連呼しながら、瑠璃の周囲ではしゃぎ回る。

瑠璃は怒った。

泣きながら久太郎を打つ。


「お兄ちゃんのバカぁ!」

「な、なにすんだよ!」

「お兄ちゃんなんか嫌い! あっち行っちゃえ!」

「こら打つな! やめっ……」


ぽかぽかと激しく殴打してくる瑠璃に、つい久太郎が反撃した。

瑠璃は目を丸くし、一層激しく泣きじゃくる。

揉み合いが始まった。

それは仲の良かったふたりにとって、初めての兄妹喧嘩だった。


これが久太郎と瑠璃の仲違いの始まりだ。

そしてその日以降、久太郎はまどギアをきっかけにアニメの魅力に取り憑かれてオタク道を邁進することになり、瑠璃はアニメ離れをしてオタクを毛嫌いするようになるのである。


◆ ◇ ◆ ◇ ◆


瑠璃の目の前で、久太郎と京子がまどギアのコスプレ衣装についてアレコレと意見しあっている。

その姿を眺めながら瑠璃は小さく嘆息した。


(そうだ。あれからわたしたち少しずつギクシャクし始めて、仲が拗れちゃったんだ……)


些細なきっかけで変わってしまった兄妹関係に、せつなくなった胸がキュッと締め付けられる。


そうして瑠璃が回想に耽っていると、ガラガラと音を立てて部室の引き戸が開かれた。

顧問の老教師が顔を出したのである。


「おお、良かった。おったか」

「あ、先生。ちっす」

「こ、こんにちわ、です」

「……ん」


短い挨拶が交わされ、老教師は早速用件を切り出す。


「入学式の片付けで、少し人出が足りなくての。部活動中の在校生が駆り出されておるんじゃ。悪いがヌシらも手伝うてくれんか?」


久太郎と京子は顔を見合わせて頷く。


「俺はいいですよ」

「わ、私はこの後、少し約束があるので、それまでで良ければお手伝い、します」


ふたりは衣装を置いて部室を出ようとする。

瑠璃は久太郎の背中に声を掛けた。


「待ちなさいよ。私も手伝うって」

「瑠璃は別に手伝わなくていいんじゃないか? 呼ばれてるのは俺たち在校生だけなんだし。すぐ戻ってくるから、ここで待ってろよ」


老教師が今気づいたとばかりに驚いて瑠璃を見る。


「……んん? なんじゃ見ない顔じゃな。新入生か?」

「あっはい」

「そうか。ならヌシは手伝わんでもよい。入学式の後片付けを、式の主役である新入生にやらせるのは心苦しいでの」


老教師はなにが可笑しかったのか「ほっほっほ」と笑いながら、久太郎と京子を連れて部室を出て行ってしまった。


瑠璃はひとりぽつんと部室に取り残された。

目の前にはまどギアのコスプレ衣装が置かれている。

衣装は細部の調整を残すのみで、ほぼ完成していた。


なんとなしに衣装に触れてみる。

滑らかな指ざわり。

良い生地を使っている。

それに縫製も丁寧で、瑠璃は見ただけでこれが丹精込めて作られた衣装なのだとわかった。


「……あのとき私がもう少し我慢ができて、喧嘩さえしなければ、今でも仲良く出来てたのかな……」


呟いてから瑠璃は部室を見回した。

隅に仕切りの衝立が置かれた、着替え用のスペースがある。

その付近には全身を映せる大きめのスタンド式姿見鏡。

設備からもやはりここはコスプレ部なのだ。


それはほんの気まぐれだった。

瑠璃はコスプレ衣装を掬い上げ、大切に胸に抱えて衝立の内側に赴く――

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