第二章 怨霊【1】
ゆさゆさと肩を揺さぶられ、アヤは大きく息を吐いて飛び起きた。寝汗がひどく体中から吹き出している。どうやら、
「……ひどくうなされておいでよ、アヤ姫。お水をお持ちしますわ」
栗色の瞳で自分を心配そうに見つめる星の巫女は、たしかイヨという少女だ。襟元を薄絹で巻いて、瞳と同じ栗色の長髪で耳を隠すように結っている。
「ああ、ありがとう」
「悪夢よけの霊符、あまり効きませんのね。クス殿のお手製ですのに、珍しいこと。よっぽど怖かったんですわ」
杯に注がれた水を手渡され、アヤは一息で飲み干した。喉がとても渇いていおり
「すまないがもう一杯くれないないだろうか。喉が干からびそうなんだ」
「かしこまりました……あ、わたくし大切なことを伝えに来たの!」
ぽんと手を叩いてイヨは嬉しそうなので、アヤは首をかしげる。玉の宮へ数週間ほど滞在をしているが、星の巫女たちは全員おっとりして穏やかそうだ。アヤの知る陰陽師、ひいては赤の国の呪術師とはまた雰囲気が違う。
「明日の午の刻に、玉の宮へ商人たちがやって来ますのよ。殿方ではなくて、きちんと女人が来てくださるの。月に一回だけ、櫛とか首飾りとか、いろいろ売りに来るのです。わたくしたち、それがとっても楽しみで。よかったらアヤ姫もご一緒しませんこと? せっかくきれいな緋色の御髪ですもの、髪飾りがあったら素敵だわ。わたくし、結い直して差し上げる」
雀のようにはしゃぐイヨを前に、アヤはあまり興味がないことを伝えられなかった。故郷では男扱いで育てられ、女子の好む装飾類を欲しいと思ったことがにないのだ。あまりに着飾ることには無頓着で、衣など着られたらよいと思っている。
「……あ、ああ。わたしはそういうのには詳しくないけれど」
「まあ、嬉しい。きっとよ? みんなで迎えに来ますわ」
にこにこと微笑んでイヨが言うので、アヤは黙って頷くしかない。みんな、というのはどれくらいの人数なのだろう。品の良い娘たちに囲まれることを想像して、アヤは少しばかり物怖じをした。
「星の巫女たちはあまり気にしないのだな……わたしのことも」
名目上は男子禁制の玉の宮に守られているが、アヤの身を引き渡すことを強く求められたら拒否もできないだろう。神聖なる巫女の住まいとはいえ、ここは黒の国の宮であり、彼女たちは大王に仕える者たちなのだ。あまり外界を知らぬアヤにも、赤の国が黒の国からうっすら野蛮と揶揄されていることを知っている。
「わたしは野蛮な火の民なのに」と言ったアヤに、イヨはきょとんとした後、けらけらと声を上げた。
「わたくしは白の国から参りました。半獣人ですわ、ごらんください」
イヨはするりと襟元に巻いた薄絹を取る。首元から綿毛のような獣の毛が生えていた。
「
金の神ミカボシによって建国された白の国は、獣憑きの半獣人が生まれ続けている。アヤも人づてに民の半数は何かしらの獣憑きであると聞いてはいたが、この百年の間は国を閉ざしているのでほぼはじめて半獣人に会った。
マノトの祖先は白の国の者で、よくマノトの母から「白虎が宿る
「……驚かれましたでしょう、白の国は閉じているから。わたくしは父方が黒の国でしたから、影響もこれだけなの。人によって憑き具合が変わるわ。まるでほぼ獣のような半獣人もおります。
わたくしはなんとか国を抜けて星の巫女の試験を受けたのです。半獣人と血が交われば、何世代かに一人は獣憑きが生まれてしまう。それで疎まれ、金の民は国を閉ざしました。でもわたくしは広い世界が見たかったし、星の巫女に憧れていたの。中つ国の乙女なら、誰でもそうでしょう?
宮にはわたくしを獣くさいと嫌う方もいらっしゃるわ。でもまったく平気よ、我ら金の民にも矜持があるのです」
金の神ミカボシを祀る白の国の民はみずからを「金の民」と称する。光の神テルヌシと闇の神クラヌシから生まれた神々の中で、金の神ミカボシは他の神々と交わることを拒み、高天原へ赴くことをしないという。我が子に会えぬことをテルヌシが嘆き、それが白の国から獣憑きが生まれる所以であると言い伝えられていた。
黒の国以外の国は自国の血統を重んじる傾向にあるが、黒の国は優秀であれば他国の者でも国の中枢を担うことができる。その点においては平等で良いところであった。
アヤは次の言葉を慎重に選びながら、イヨにいう。
「わたしは広い世界に出たいと思ったことがなかった。ずっと
他国への興味すら持ったことがなかったし、女王候補と望まれていたのに、
「クス殿はともかく、わたくしは凡人ですし、とても飽き性なのですよ。学ぶことが尽きないこのお役目が楽しいですわ。アヤ姫は生まれながらにわたくし達とは違うのですから。カグチの愛娘ですもの、赤の国を愛する心が強いのは当然でしょう」
イヨはくりっとした瞳を細めると、水差しから杯に水を注いで、ふたたびアヤに手渡した。
「もうしばらくしたら、火傷の薬を塗り直しましょう。まことに回復が早いのですね。痕が残ってしまったことが惜しいですわ」
「……慣れているんだ。これぐらいで済んでよかった」
「まあ、いけません。乙女たるもの、美しさは保たねば。わたくしがとっておきのどくだみ油をお持ちします! ひとたび塗れば、つるつるなのよ」
人差し指を立てながらイヨが力強く言うので、アヤは思わず吹き出して、「ありがとう」と笑った。
星の巫女たちはとても優しく、アヤへ親切にしてくれる。陰陽師である彼女たちが巫女という神職も担っており、一応はホムスビであるアヤを重んじてくれているとはわかっていても、純粋に嬉しかった。
(……なんとか迷惑をかけず、鈴の宮へ行きたい──どうすれば?)
焦る気持ちばかりが募り、アヤは掛け布を握りしめた。ひとりで事を成し遂げたいけれど、この身体ではまだ俊敏に動けない。とうとう観念してクスに打ち明けるしかないのだろうか。
「イヨ殿、伝言を頼まれてくれないか。クス殿にアヤが話したいことがあると」
「……ええ、それはかまいませんけれど。クス殿は今夜、ご不在なの。お帰りになったら伝えましょう」
「かまわない、ありがとう」
イヨは何かを言いたげな表情でアヤを見やり、そそと立ち上がった。
「水差しが空になってしまってわ、汲んで参ります」
一礼をして部屋から下がり、しばらく廊下を歩いたところで、イヨは足を止める。
「なにもご心配されることはありませんでしたわ」
懐に小さな声で話しかけると、もぞもぞと白い鼠が顔をのぞかせた。鼠はイヨの首元にある産毛をかき分け、すんすんと鼻を鳴らす。
「──そうね。こそこそとするのは気分が悪いこと」
この白い鼠はクスの式神である。陰陽師はさまざまな式神を操るが、クスは小さな生き物におのれの意識を移す術が得意だ。
クスもアヤが何事かを隠していることを悟っており、様子を見るようイヨに伝えていた。
「きっと隠していることも、お話してくださいます。まだわたくしたちを信用するか迷っていらしたのね」
「嘘のつけぬ、素直な姫君ですもの。思い悩んでいらした様子なことはわかっていましたのよ。ああ、まったく……タビオ様の屋敷で
鼠はクスの声でイヨにそう言うと、くしゅくしゅと顔をかく仕草をした。貴族たちは何かと星の巫女を頼り、小さなことでも依頼をする。今宵はとある貴族の頭痛が止まらぬという訴えを受け、
「うふふ、玉の宮はお任せくださいませ」
イヨは小さな鼠の額を優しく撫でると、しゃがみこんで手のひらから逃がす。鼠はぴょんと小さく跳ねた後、虚空へ消えた。イヨはそれを微笑んで見送った後、小さくつぶやく。
「……なぜかしら、胸騒ぎがします」
水差しを手に持ちながら、イヨは井戸に向かう道すがらで、必ずアヤを宮から脱出させねばと胸に誓った。
神懐姫(カムナツヒメ)〜水の少年と火の少女の物語〜 二野ペネロペ @nino_penelope
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