8.心の奥
「……ちぃ?」
「あ、しょうくん。久しぶり……」
飲み会で星名に後押しされてから数日後、俺は千咲の家に行った。
姑息だけど、千咲のお母さんにあの伊吹って奴が来ない日を聞いてその日を狙って来た。だから今日なら二人になれる。
「卒論、終わったんだね! おつかれさま」
「うん。ありがとう」
「……」
「……」
おかしいな。会話がまったく弾まない。今まで千咲とどうやって話してたっけ?
千咲は今日も体調がいまいちよくないらしく、ベッドの上にいた。
「最近あんま調子よくないの?」
「……うん。ちょっと胸の辺りがザワザワして気分悪くて。でも、大丈夫!」
「そっか。無理はしないようにな?」
これまでもずっと千咲の体調には波があった。
一番大変だったのは、高校受験のとき。車椅子に座ったまま毎日長時間机に向かって勉強をしていたせいで、尻のあたりに褥瘡というものができてしまい入院までした。
そのときは憔悴しきった千咲を見て、このまま千咲がいなくなってしまうんじゃないかと不安で夜も眠れなかったほどだった……。
「しょうくん……、ごめん、おトイレに……あ……」
ベッドの上で千咲が身体を動かした瞬間──その何とも言えない表情を見て、俺はすぐに察した。
「ごめん……またやっちゃった……」
「ん、風呂場連れてく。おいで?」
脊椎に障害を抱えている人の中には、排泄の予感を感じにくい人も多くいる。千咲もその一人だ。
いつもは定期的にトイレに行く習慣を付けている千咲だけど、トイレに行くのを忘れてしまうことも度々あった。
下半身の濡れた千咲を横抱きにして風呂場に連れて行く。久々に触れた千咲の身体に、胸がキューっと熱くなる。ほんの少しアンモニア臭を感じたけど、それすらも愛おしく感じてしまう。
洗い場の椅子に座らせて、扉を閉めた。
千咲が濡れた衣服を脱いでシャワーで流すまでにベッドのシーツを取り換える。シーツの下にはそれ用のパッドを敷いてあるから、マットレスまでは染みてない。
これまでにもう何度も繰り返してきた流れだ。
濡れたシーツを洗濯機に放り込めば、浴室からちょうど千咲の声がした。
「しょうくん、終わったよ」
「はいよ」
浴室の中を見ないように顔を背けて、バスタオルを手渡す。交換する形で千咲から渡された濡れた衣服を洗濯機に放り込む。
千咲の新しい着替えを用意したタイミングで、ちょうど浴室の扉が開いた。バスタオルで下半身を隠した千咲が、バスチェアの上で気まずそうな顔をしている。
「ふはっ、なんちゅー顔してんの?」
「……ごめんね」
「ん、来て」
これまでだって何度もあったことだし、どうってことないのに。いつにも増して気まずそうな顔をしてるから思わず笑ってしまった。
腰下を隠してるバスタオルが落ちないようにゆっくりと再び抱きかかえると、千咲の部屋へ戻る。
ベッドの上に降ろし、換え用のズボンを渡すと、俺は一旦彼女の部屋から出た。脱衣所に戻って洗濯機を回す。
……嬉しい。おかしいかもしれないけど、今この瞬間、今まで通り千咲の介助を出来ている自分を心から嬉しく感じた。
「しょうくん……」
頃合いを見計らって部屋に戻れば、ズボンを履き終えた千咲がベッドを起こしてこっちを見ている。
「なに、どうした?」
近づいてベッドの脇に腰かければ、なぜか泣きそうな顔をしてる千咲。
「……もう、来ないで?」
「は……?」
突然の言葉に、さっきまでの浮かれた気持ちがまた一気に急降下していく。
「あ……あのね、伊吹くんがヤキモチ妬いちゃってさ? 大変なんだよね~。だからもう、しょうくんのお世話にはなれないなぁって」
俺は腕を伸ばして、強引に自分の胸の中に千咲を引き寄せた。
もうこれ以上突き放されるのは……限界だった。
「……なんで? なんで急に俺のこと遠ざけるようになったの?」
「……」
「なんであんなポッと現れた男のこと急に好きになんの?」
「……」
「俺……ずっと……子供の頃からずっと……」
飲み会での星名の言葉が頭をよぎる。
「ずっと好きだったんだよ」喉元まで出掛かってるその言葉を発しようとした──そのとき……
「……気付いてよ……」
胸元から小さな声が聞こえてきた。絞り出したような小さな声。わずかに震えているその声に驚いて、千咲の顔を見る。
「私、しょうくんといると辛いの。なんか……苦しくなっちゃうの」
「え……なんで……」
千咲は無理に笑っている。笑おうと努力してると言った方が正確かもしれない。いつもと違う、変な笑顔だった。
「んー、なんでかな? しょうくんにはこれまで沢山お世話になったし、いつだって側にいてくれて心強かったけど……。あれかな? 神様が“そろそろしょうくんを解放してあげなさい”って言ってるような気がするんだよね~」
千咲が俺を遠ざける理由……
それは間違いなく、あの伊吹って奴は関係のないことなんだと、この時はっきりと分かった。
明るく言ってても泣いてるように感じるのは、千咲の心の奥にある暗い何かに触れたからだろうか。
うるんだ目。掠れた声。小刻みに震える身体が、否が応でも彼女の葛藤を伝えてくる。
「お願い。もう来ないで。お願いだから……。今まで沢山ありがとう……っ」
千咲はついに泣き出した。
俺は何も言えなかった。
俺と一緒にいたら千咲は辛くなる。そう言われてしまったらもう、そばにいたいという俺の欲求を押し付けるわけにはいかない。千咲を苦しめることは、したくないから。
「……ちぃ……」
布団にくるまって横になってしまった千咲の後ろ姿に話しかける。
「……何かあったらいつでも呼んでね?」
精一杯の言葉だった。
身体を震わせ、鼻をすする音を聞きながら、俺は静かに千咲の部屋を出た──
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます