星が見た夢
夕焼けが見える。茜色に染まる街並み、俺は一人河川敷に座っていた。この景色が好きだった。夕暮れ時、それは一日の間で僅かに垣間見ることが出来る瞬間。普段見慣れた光景も、この時だけは神秘的で、真新しいものに見えた。
家に帰ると父と母が迎えてくれた。久しぶりに見た景色だった。母の顔を久しぶりに見た。本当に久しぶりで、最初誰だか分からなかった。そうだ、俺の母親はこんな顔だった。どうして、あの人を、他人を母親だと錯覚したのだろうか。妹は当然いない。俺の家庭は三人家族だ。昔から。そして……今は一人だ。
「……境野、起きろって、境野!」
場面が変わる。ここは学校だ。目の前にいるのは無限谷。無限谷はプリントを渡してきた。アンケートらしく、クラス全員分を集めているらしい。俺は黙ってアンケートに記入する。
「サンキュー、これであとは『夢野』だけだな。あーあ、相変わらず女子に絡まれてら。」
『■野』はいつも一人ぼっちだった。地味な容姿、暗い性格、鈍臭い頭それが原因で、よく女子に絡まれている。俺は助けないのか、と無限谷に尋ねた。
「無駄だよ境野、俺が止めに行ったところで俺が見えないところでやるだけさ。女子ってそういうとこあるんだぜ?」
そんなものか、と俺は無関心を装った。無限谷は友人たちの元に戻る。
視界にノイズが混じる。
夕暮れ時、校舎内は茜色に染まる。『夢■』が一人泣きながら、地面に散らばった何かを集めていた。俺はそれを拾う。宝石のようなものだった。それに気がついたのか『■野』は俺を見て、おずおずと声をかける。
「か、返して……ください……。」
突然景色が歪み始める。俺は宝石のようなものを渡す。『夢■』の目は赤く腫れていた。涙を流していたのだろう。
視界をノイズが埋める。
「どうして……そんなになるまでしてくれたんですか。」
俺はこの街から追い出されるように引っ越しすることになった。でも今でも覚えている。清々しい気分だった。『■■』は心底不思議そうに、傷だらけの俺に声をかける。答える義務はない。そう、これはただの気まぐれ。俺の自己満足。
あの日から、俺はクラスで腫れ物のように扱われた。暴力事件を引き起こした中心人物。だがそれと同時に『■■』に絡む女子もいなくなった。灰色の学園生活で、俺が唯一成し遂げた小さな善行。
興味がなかったことだ。忘れていたのは仕方がない。いつも一人で読書をしていた女子生徒。綺麗な長い黒髪を三つ編みに結んでいて眼鏡をかけていた。夢野とは髪型、顔、体型、眼鏡の有無、全てが一致しない。勿論、他の知っている女子とも。
彼女は……この世界には、俺が紛れ込んだ世界には存在しなかった。
「で、お前は異世界からやってきたチート能力持ちってわけか。」
比較的新しい記憶だ。仁さんは俺の説明を聞いて笑う。
「そんな顔すんなよ、笑うなってのが無理な方だぜ。あぁ、でも安心しな。頼まれたからにはしっかり仕事をこなす!それが一流の探偵ってやつよ!いやそれ以前の問題だ、兄弟、お前が誘われたこの世界は狂気に満ちてるかもしれないが、それでも折角の人生だ、楽しく行こうぜ。」
「あ?兄弟が気に入らない?なんでだよ!似たようなものじゃねぇか!……仕方ねぇ、ガラじゃないんだが……それなら相棒……相棒と呼ばせてもらうぜ!心配すんな、俺とお前ならやれるさ、なんせ俺たちは───。」
ガタン、ゴトン───。
茜色に染まる電車に俺は座っていた。向かいには仁さんがいる。
「───どうした?目が覚めたか?」
窓の外を見る。見慣れた河川敷。誰かが手を振っている。電車の音が規則的に鳴っていて、川に架けられた橋を渡っている。
「夢を見ていたんだ、仁さんと初めて会った時のことや、この世界に来る前の夢を。」
電車が揺れる。辺りを見ると乗客は俺たちしかいない。この電車はどこに向かうのだろうか。
「レン……ここまで来てしまったってのはな、そういうことなんだ。郷愁、精神の防衛本能。突然見知らぬ世界に飛ばされて、正気で居続けられるはずがない。それは恥ずかしいことではない。俺はお前の保険だ。最後の防衛ライン。」
街が崩れていく。少しずつ、塵となって空へと霧散していく。それはまるで蜃気楼のように。幻想は晴れ現実が露呈する。そこには且つて見た景色は何一つなく、全てが別物である異世界。
「何もかもが嘘だったって言いたいのか。」
見覚えのある景色なんて一つもなかった。家にいたのは母親を名乗る異常者と、妹を騙る奇人。
「初めて会った時のことをまだ思い出せないのか。この世界は■■■■■■■。狂ってしまった世界。だからお前がもう無理だというのなら、俺は……。」
話の核心に入ろうとするとまるでモザイクが入ったように聞き取れなくなる。まるで世界が俺の脳に干渉しているようだった。だがこれだけは分かる。仁さんは俺と出会い、何かを知った。それは俺にとっても大切なことで。約束をしたんだ。大事な約束。それはまだ果たしていないこと。俺は昇降口へ向かう。
「……分かっているのかレン、俺のことはもう気にするな。辛いならやめれば良い。お前はお前の幸せを享受する権利がある。」
座ったまま、仁さんは俺を見ないで呟くように答えた。
「分からないさ。でも仁さん、俺はまだやっぱりここにはいられないんだ。あいつらが、この世界で出会えた皆が待っているから。」
俺の答えに仁さんはしばらく沈黙し、そして微笑んだ。そんな気がした。これは幻、きっとこれも俺の作り出した都合のいい幻覚だろう。幻覚を打ち破るには、そんな都合の良い世界を、俺自身の手で、破壊することだ。拳を思い切り握りしめ、車内を叩きつける。電車は奇妙な形に変形するが、何故かレールから外れず進み続ける。俺は何度も叩きつける。いつしか電車は形を失い、俺は外に放り出された。そして世界は歪む。全てがひび割れ崩れ去る。偽物の世界。幻想郷。だが俺は知っていた。ここで見たものは全て真実であると。全ては欠落した記憶の中にある、大切な記憶。消された記憶。
奇妙な光景だった。弦が手を前に突き出したと思ったら、突然レンの力が抜けて、まるで意識を喪失したかのように、虚ろな目になり、弦の攻撃をまともに食らっている。
「流石に丈夫だな。意識を奪ったところで、殺し切るには何か特別な方法を考えなくてはならないようだ。」
異変を感じたユーシーはレンの身体を抱えて退避する。襲いかかる触腕は縦横無尽に動き、物陰に潜もうが、建具ごと標的を狙う。
「おい、どうしたんだ!境野に何が起きたっていうんだ!!」
高橋は虚ろな目をしているレンの身体を揺さぶるが反応がない。まるで眠っているかのようだった。
「隠すほどでもない。それが我が恩恵の力。他者の幸福な瞬間を永遠のものとし、閉じ込めるもの。人はね、どんな苦痛にも耐えられるかもしれないが、絶え間なく溢れ出す幸福には、抗えないんだよ。こんな風に。」
境野を抱えたユーシーを捉えた弦は恩恵を発動した。瞬間、ユーシーは力なくその場に崩れ去る。ユーシーがこの日の為に対策していた防護策、その全てを貫通し、微睡みの中へと誘う。
「終わりだ、この女には多少手間取ったが、レンに比べれば大したものではない。」
触腕は刃物を模した形へと変化する。まず狙うのは確実に殺せるであろうユーシー。次にレンは時間をかけて必ず殺す。奴を殺せる機会など、今この時しかないと確信しているからだ。そして弦の洞察は当たっていた。計算外なことといえば、レンの覚醒が想定よりも、遥かに早かったことだった。
「ちっ、化け物が。人間の幸福など、ろくにないということか。人の心がないのはどちらだ。」
振り下ろされた触腕はレンに掴まれていた。動けない。あまりにも強すぎる力で、触腕一つ掴まれているだけで動かせないのだ。そして一瞬だった。自身を包む血液ごと燃え上がる。まただ、あの時と同じ炎。この世界のものではない異質の炎。弦の能力を容赦なく燃やし尽くし、コトネから切り離された。俺は弦の操作から解放されたコトネを受け止めた。
「やはりこうなってしまったか。元々私とお前とでは生命としてのレベルが違いすぎる。どんな気分だ?格下の私たちを蹂躙する気分は。殺すが良い、後悔はないさ。これは災害のようなもの、嵐に巻き込まれ死地に誘われるというのに、嵐を恨む人間などいない。」
弦の身体は燃えていた。だが意に介していない。他人事というより、既に諦めている。そんな様子だった。
「お前も、そうなのか。訳知り顔で、また肝心なことは話さないのか。弦、お前のした攻撃で俺は思い出したんだ。俺の記憶は偽物だったって。お前は俺の何を知っているんだ?」
弦は唖然としていた。そして静かに笑う。
「なるほど、私の恩恵は他と違いシンプルなもの。故にその絶対性は強い。だがまさか、今の貴様にも通じるとは、計算外だった。ありがとうレン、その言葉で、我々は少しは救われた。」
突然弦が吐血をする。またこれだ。肝心なことを話そうとすると起きる出来事。亡霊もワイルドハントも、何を話そうとしているのか。
「無駄だ、この程度では死なない。これは、
なおも吐血は続く。だが弦は自身のアタッチメントで損傷していく箇所を次々と修復する。執念の技だった。先程まで生きることを諦めていた男の態度ではなかった。
「境野連!貴様がなぜ人智の及ばない力を持つのか!なぜ家庭に見知らぬ連中が我が物顔でいるのか!なぜ記憶と現実が矛盾しているのか!なぜ聖釘に触れて正気でいられるのか!なぜ奴らの力と真っ向から戦えるのか!その答えは一つ!!」
銃声がした。振り向くとユーシーだった。ユーシーは弦に銃口を向けていた。だが銃弾はあらぬ方向へと飛んでいく。弦の光る透明な血糸、それに誘導されていたのだ。
「それ以上、口を開くのをやめなさい!」
弦の息は荒くなっていた。明らかに困憊している。だが弦は言葉を振り絞るように続ける。
「貴様こそが、聖釘やエンゲージリングの材料となる、あのおぞましき連中だからだ!!この世界に寄生する外来種、異界からの侵略者!そして……貴様を呼び出したのはあの……!」
瞬間、空が裂けた。そして弦に光の柱が振り下ろされた。光の柱が消えた時、弦は灰となっていた。少しの間をおいて、人型を保っていた灰は崩れ、弦の着ていた服と灰だけが残る。
「なにを……言っているんだ……?」
聖釘の材料、それは剣が言っていたアドベンターと呼ばれる存在。世界の冒涜者……。
アタッチメントでも恩恵でもない不可思議な力、覚えのない家庭……否、他人の家庭にまるで実子のように溶け込む俺自身、窓に貼り付いた正体不明の手跡……。
「嘘だ、出鱈目を言っている。また俺を混乱させようとしている。」
いや、そもそも俺は最初から知っていた。俺はこの世界の人間ではない。異世界の住人、異世界からの侵略者……。俺は自分の顔をぺたぺたと触る。こいつは誰だ?俺ですらない、だって俺の身体は、あの神社に。記憶が、走馬灯のように駆け巡り、逆流し、バラバラだった欠片に一筋の線が走る。
『異世界の行き方って知ってる?』
きっかけはこの声だった。俺は誘われた。この世界に。そしてこの世界にいた住人の……肉体を、日常を乗っ取って……。
「あ……あぁぁぁぁぁぁぁああああぁぁあぁ!!!!!」
頭を抱え空を仰ぐ。そして見た。光の柱が屋敷を貫き、あらわとなった天に浮かぶ、巨大な月を。いや、月ではない。巨大すぎて気が付かなかった。あれは目玉だ。巨大な目玉が俺を見つめている。ずっと、ずっとずっと昔から、あいつは俺を見つめていた!
身体が少しずつ崩れていく。それは自己矛盾の認識とともに訪れる滅び。そうだ、俺は最初から、この世界に……。
いてはならなかった───。俺の居場所は最初からなかった。俺はこの世界に紛れ込んだエイリアンだった。境野連の身体と日常を奪った最低最悪の人間……いや怪物だった。母もサキも俺に騙されていただけだった。涙が溢れる。頬にこぼれ落ちた。
───おかしいのは俺だったんだ。
「違います!!」
突然、夢野が大声で叫び、俺にしがみつく。いつものことだと思ったが違う。腹部に鈍い痛みを感じた。何かを刺されている。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私は、ずっと境野さんを騙して……友達だって言ってくれたのに……。」
意識が薄れていく中、夢野が涙ぐみながら謝る声が聞こえた。
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