その言葉は、どんな刃物よりも鋭く

 それはまるで怯えた子羊のようだった。何もかもが信じられなくて、何を信じたら良いのか分からなくて、突然見知らぬ場所に放り出された赤子のようで。

 ユーシーは、そんな情けない姿を晒しているレンの胸ぐらをつかみ、二、三発頬を引っ叩いた。


 「逆上か、女のヒステリーは見苦しいな。」


 弦は煽る。だが、奴の言葉を聞いてはならない。亡霊はいつもそうだ。狡猾に潜み、人の弱みを付け狙う。伊集院弦という男は、そんな亡霊を象徴するような男だった。


 「しっかりしなさいこのバカ!そんなに私が、仁が信用できないなら……直接聞けば良いでしょう!そこの亡霊に、何故自分が亡霊に立ち向かうことになったのか!!」


 俺は思い出す。仁さんと数少ないやり取りを、亡霊に狙われている……違う。もっと根本的な話だ。バロンでの出来事、彼は終始、俺を、俺の友人を気遣ってくれていた。あの態度は全て嘘だったのだろうか。短い間だったが、彼と交わした言葉は全て偽りだったのだろうか。

 弦の理路整然とした言葉とは対称的に、それはあまりにも感情的な理由だった。理由は分からない。だが何故か、仁さんは、他人のようには思えなかった。崩れていく身体、最後まで俺の身を案じてくれた。最後に見せた皮肉めいた笑顔は、本心からのものだったと、今でも確信をもって言える。

 確かに仁さんは肝心なことを何一つ教えてくれなかった。直接伝えてくれたのは、亡霊が動き出したということ、そしてこれから危機が訪れても自分を見失うなということ。


 「あぁ……そうだ……そうだった。」


 俺は弦を見つめる。


 「例え確かな話ではなくとも……確たる根拠がなくとも……俺はあの時、信じたんだ。仁さんの人柄を、仁さんと確かにあったはずの俺との思い出を。」

 「例えそれが虚像、虚影だとしてもか、少年?」

 「いいや、直接言葉は交わせなくなったとしても、俺の……俺たちの間には、虚ろなものなんてない!」


 弦の言葉はもう耳に届かなかった。俺は次こそ放つ。光の一閃を。その光は屋敷の壁を穿ち、風穴を空ける。その中央に弦が立っていた。


 「恐ろしい力だな、まったくもって。伊集院の力をもってしても、防ぎきれない。何より嫌になるのが、貴様自身はまるで本気を出していない、挨拶程度の攻撃でこれだからだ。」


 光の一閃、それは確かに脅威である攻撃ではあった。だがそれはレンが持つことになった力の一つに過ぎない。彼の原初は、かつて弦の糸を焼き尽くした炎にある。弦は知っていた。その炎の正体を、故に彼は初めから、正々堂々と戦うつもりは微塵もなかった。正面からぶつかったところで、勝てるはずがないと、既にあのとき、理解してしまったからだ。


 「だからな、切り札を用意させてもらった。願わくばレン、貴様に人の心があることを祈るよ。」


 突然轟音がして壁が崩れた。弦は轟音の方向へと駆け出す。逃げるつもりだというのなら、許すはずがない。俺は即座に弦を追いかける。


 「来ないで!!」


 聞き慣れた声がした。急停止する。目の前が突然えぐれて吹き飛んだ。俺は声の方向を見つめる。


 「ふむ、撹乱のために脳と声帯は自由にしていたが、難点はあるな。だが、それを補う利点があると私は願うよ。」


 弦の言葉が耳に入らなかった。俺は現実を直視したくなかった。あれは何だ、弦の悪趣味な……嫌がらせだ。そうに決まっている。だって、あいつはヒステリーを起こして……一人帰って……ここには……いないはずなのだから……。

 それは一見、巨大な蜘蛛のようだった。異常に伸びた手足のようなもの。触腕という表現の方が正しいのかもしれない。触腕はまるで鞭のようにしなり、振るう。建物をえぐり吹き飛ばしたのは、まさにそれだった。

 そしてその中央には、四肢を切断されたコトネがいた。切断された両腕両足から、異常に伸びた手足のようなものが生えているのだ。


 「見ないで……お願いだから……。」


 涙ぐんだ声でコトネは顔を背ける。だが意識があるのは頭部だけで、手足はまるで別の生き物のように動き出し、俺たちを襲う。唖然として、身動きが取れなかった俺は触腕をまともに受け吹き飛ばされる。コトネの悲鳴が聞こえた。


 「それはね、愚かにも一人でここに来たんだ。丁度よかったよ。おかげで私は良い武器を手に入れた。伊集院の身体を使った武器。以前から検討はしていたのだが、やはり血なのだな。扱いやすい。」


 一人で……来た……?どうして?コトネの手により破壊されていく館を見る。未だに亡霊は弦しか見かけない。ということは……ここは伊集院家ゆかりの地だったのか?つまりコトネは最初から弦がいたのを知っていたのだ。知っていてここに一人で来たのだ。理由は一つ、未だに唯一の肉親を信じて、コトネは一人、弦と話をして、亡霊に堕ちた兄を信じて……。


 「コトネは……お前に何も言わなかったのか……?」

 「……?あぁ!コトネ!それのことか。あぁ確か言っていたな……自首をしろだの……何故そんなことをしなくてはならないのか、理解に苦しむ。」


 俺はかつて、コトネに兄を断罪しろと、一生をかけて償わせろと言った。コトネはずっと、その言葉を胸に秘めていたのだ。俺の言葉を受けて、きっと兄は改心できると。俺を信じて、俺のせいで。


 「さっきから何なんだお前は、コトネは……お前の妹ではないのか……こんなことをして、お前に人の心はないのか!」


 弦は笑い吹き出した。それは初めて見せる感情だった。笑い……初めて見る人間らしさの筈なのに状況とあまりにも不調和で、ただひたすら浮いていた。


 「あ、あぁすまない。貴様に人の心を問われる、とはね。答えよう。妹だからなんだと言うのだ?他人には変わりないだろう?貴様こそ、他人に何を期待しているのだ、これはただのバカな女だよ。単身で敵地に乗り込み、世迷い言を主張する、世間知らずな間抜けだ。あぁしかし訂正しよう。人としては期待していなかったこれだが、武器としては、とても優秀だよ。特にレン、貴様には効果が高いようだな。」


 笑いながら、頬を歪めながら弦は語っていた。当たり前だが弦の言葉は全てコトネの耳にも届いている。弦が喋る度に、コトネの表情は暗くなり、その目からは涙が溢れていた。彼女が信じていたものが、目の前で醜く崩れ去っていく。目の前にいるのは、もう理想の兄でもなんでもない。兄は自分を妹とすら見ていない。路傍の石と同じもの。こんな姿にされても、なお、心の底ではきっと何か理由があるはずだと、抱いていた希望が粉々に打ち砕かれる。

 そして失意の底にいるというのに、身体は勝手に動き出し、レンを痛めつける。頭の中はもうぐちゃぐちゃで色々な感情が濁流のように押し寄せ、気が狂いそうだった。いや、もう既に狂っていたのかもしれない。最初からずっと、気づいていないのは自分だけで。

 触腕の動きが止まる。異変に弦は気づいた。黙って受け続けたレンだったが、その実は違った。タイミングを見計らっていたのだ。全ての触腕を同時に掴めるタイミングを。


 「ふざけるなッ!!」


 掴んだ触腕を握りしめる。触腕は砕け散ってコトネはバランスを崩し倒れる。


 「『これ』だと?世迷い言だと?武器だと?お前は、人を家族をなんだと思っているんだ!!お前を信じて、一人でここまで来たコトネの気持ちが理解できないのか!!?お前はお前を信じた妹の気持ちを裏切り続けて、何とも思わないのか!!?」


 弦は自分の胸にナイフを突き立てた。血液のシャワーが湧き出る。それはいつか見た光景、ただし規模は明らかにこちらの方が大きい。血液は肥大化していき、コトネの欠損した手足をカバーする。そして弦はそれを操るようにコトネの近くへと移動し、自身も武器と化したコトネと一体となる。


 「改めて見ると醜い姿だ。恋仲と言ったか?化け物同士、お似合いだな。さてこれからは兄妹のコンビプレイといこうか。」


 俺の言葉などまるで聞かず、弦はコトネの肉体を利用して巨大な蜘蛛型の鎧を作り上げた。その姿はまるで、蜘蛛に寄生した寄生虫のような姿だった。そして左腕が禍々しく輝く。


 「私の恩恵は、今の貴様には、効果的だろう。」


 弦は手をかざす、何かをする気だ、俺はとっさに防御した。しかしそれは防御不能の技、必殺ではないが必中の秘術。単純故に、あらゆる防壁も加護も突破し、相手を呪う。まさしく恩恵と呼ぶに相応しい。こと干渉能力だけでいうならば究極の一。俺の心は一瞬の間、闇へと飛ばされる。

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