脆く儚く憎く、尊いもの

 気がつくと人気すらない、薄暗い場所についた。この町にこんな場所があったのかと思うくらい。いや、薄暗さが別世界だと思わせるのかもしれない。

 「なぁ境野、お前夢野のことどう思ってる?」

 とりあえず、ここがどこなのか教えてほしいのだが、夢野のことについて突然聞かれたので答えに悩むが、あまり気の利いた答えは出なかった。大切な友人であるとしか言えない。

 「いいやつだよな、あいつは……なのにあたしは……あいつに……二度も……ッ!」

 絡めた腕の力が強くなる。歯ぎしりの音が聞こえた。

 「この辺りはさ、この時間は誰もこないんだよ境野、なんでこんなところに連れてきたんだと思う?」

 分からない。周囲に人がいるとまずいことでもあるのだろうか。気づくと俺は壁を背にしていた。

 「なぁ、境野……教えてくれよ……この胸の苦しさを取り除くにはどうしたらいいかを……!」

 俺はそのまま壁に叩きつけられ、高橋に押し倒される。何が起きたのか理解できず、叫ぼうとした瞬間口に何か柔らかいものが触れた。突然のことで理解が追いつかない。数十分も続いたかと思うほどに錯覚した感覚が戻った時、それは高橋の唇だったことに気がつく。唇だけではない。何かが口の中に入ってきている。高橋の吐息と喘ぎ声が聞こえる。手は俺の頭を掴み離さない。抵抗すればできるのに、本当に抵抗していいのか俺の脳内は混乱に満ちていた。それは不器用だが激しく求めるようなキスだった。高橋は二度とはなさないと言わんとばかりに身体を重ね、左手は俺の背中にまわし、更に強く抱きしめる。俺は……。

 『本当に警戒すべき相手は笑顔で相手の懐に潜り込んで刃物を刺す。』

 血液が逆流する。世界が灰色に染まる。脳が震えた。違う、これは違う。突然脳裏に湧いた言葉が俺の全神経を覚醒させ、事態の収束を図る。俺は無理やり高橋の手を引き剥がし、突き飛ばした。

 「ゲホッ!ゲホッ!!う……げぇぇぇぇ!!」

 俺はその場で咳き込み嘔吐した。胃の中全てを吐き出す勢いで、盛大に。その姿を高橋は、信じられないものを見るような目で黙って見つめていた。

 「はぁ……はぁ……。」

 胃がムカムカする、まだ少し気分が悪い。だがこれで良い。指を動かす。問題はない。

 「は……はは……なんだよそれ……なぁ……なにしてんだよ……。」

 突き放され尻もちをついている高橋の頬に一筋の雫が流れていた。涙を流しながら乾いた笑いでこちらを見ていた。

 「なんなんだよ……なんなんだよ、なぁぁ!!」

 明確な拒絶、怒りが、憎悪が、殺意が静寂を満たし、それは形となって姿を現し、空間を歪めた。そして世界に亀裂が入り、まるでテクスチャが剥がれたかのように歪な世界が現れる。俺は知っている、この世界を。ナイ神父が広げたものと同一であると。

 「なぁ……そんなことされたらさぁ……もうあたしは……あぁ……。」

 そして世界の中心には高橋が立っていた。アタッチメントを展開し、そして涙で濡れた頬は化粧なのか何かが落ちてきている。そして見えた。化粧の奥に、頬に刻まれた刻印を。どういうことだ、仁は高橋が亡霊ではないと確かに言っていたではないが、だというのにあれではまるで……まるで……。

 「あたしは、もう……。」

 ───殺さなくてはならない。最後までそう口にはしなかった高橋にアタッチメントとは別のものが現れる。それは禍々しく、目を背けたくなるほどに醜く赤黒いハエの群れだった。ハエの集団はまるで高橋の意思に従うかのように高橋の周囲でマントのように形作る。そして地面が破裂した。高橋のアタッチメントによる加速、一瞬にして距離を詰める。

 触れていない場所から血が溢れ出した。避けたはずなのに何故?傷跡を見ると、そこには蛆虫が湧いていた。おれは蛆虫を必死に払う。血が止まらない。このハエをなんとかしなくてはならない。俺は高橋のハエを吹き飛ばそうと拳圧を飛ばそうとする。だが、ハエは高橋と一体に動く。下手に攻撃すると高橋に当たってしまう。それが俺を躊躇させた。アタッチメントにより高橋は加速する。この間見た時よりも性能が向上している、伊集院同様隠していたのか?実力を?

 「がはっ!!」

 そのまま膝蹴りを腹に食らう。俺はよろめきかけるが本能がまずいと察知しその場で一瞬にして後方へ飛んだ。血が流れる。背中からだ。背中に蛆虫が産まれてきている。高橋の蹴りを受けて終わりではない。その後のハエによる攻撃、それにより止まらない出血を受けてしまう。これを受けすぎるといずれ失血死するだろう。涙を流しながら戦う高橋を見る。何故そんなになってまで戦うのか、何が悪かったのか。今までの高橋との思い出が脳内を駆け巡り、俺は手も足も出なかった。

 「境野……境野……境野ぉぉぉ!!」

 堰を切ったように高橋は叫び更に蹴りが入る。アタッチメントは変化していた。それは以前のものとは違い、更に大きく、禍々しく、傷つけるためのものに。受けた腕が出血した。ハエによるものではない、アタッチメントについている刃物によるものだ。更に蹴りを連続で入れる。一発一発が重く鋭い。腕はズタズタになり、出血が止まらない。それでも俺は手が出せなかった。高橋が倒れた俺に近寄ってくる。

 「何のつもりだよ……あたしはお前を殺しに来てんだぞ。」

 高橋の手が俺の首を絞める。

 「ほら、抵抗しろよ。死ぬぞ?」

 首を絞める力が段々と強くなっていっている。

 「……できない。」

 絞められながら、何とか伝えなくてはならないと声を振り絞った。

 「高橋を傷つけるなんて俺にはできない……。」

 高橋は馬乗りになり無言で首を絞め続ける。動かなくなるまで、体温を感じられなくなるまで、この二人きりの歪な世界で。

 境野の目の光がなくなっていく。今、境野の目にあたしはどう映っているだろうか。醜い女として映っているだろうな。嫉妬に狂って、激情に駆られて、裏切って。きっとあたしのことを決して許さないと憎悪に満ちた顔で死ぬのだろう。そう思ってるのに、結局、境野は表情を変えずに、目の光は失い、力は失い、体温は冷えていく。いつもと同じ顔であたしを見て、死んでいった。

 「あ……あ……あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁああああ!!!!」

 頭が突然クリアになる。自分のやったことが、取り返しのつかないことをしてしまったと、絶望する。何で、どうしてこんなことに、あたしはただ……ただ……なんでこうなったんだ……。

 境野の死体を揺らす。もしかしたらまだ死んでいないかもしれない。だが力なく身体は揺れる。表情は変わらない、肌の色はどんどん落ちていき、唇は青色に染まっていく。

 「う、うそだよな……なんで……え……いやだ……いやだよこんなの……。」

 境野の死体を抱きしめて泣き叫んだ。周りの目も気にせずに。

 「いやいや、まさかこんな結末になってしまうとは。伊集院くんの報告は興味深かったし、境野くん何かすると思ったんだけどね。だってほら小賢しい真似をしてたんだ、このくらいの試練は乗り越えるって思うだろ?」

 突然、男が現れた。スーツの男だ。何故かあたしはこの男を知っている。どこで出会ったのか思い出せない、思い出そうとすると頭痛がする。

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