雲を作る工場

羽間慧

第1話 元社畜、転職する

「のぶっち、触り心地どうよ?」


 同僚の結城ゆうき梨李りりは、にへへと口角を緩める。勤務中なのに、だらけまくった顔をしていていいんだろうか。


 俺は、結城に言われるまま撫でていた。結城の持つ二つの塊――布団の中に詰める原料を。


 原料の見た目は、綿そっくりだ。触るとひんやりして、雲のように柔らかい。いや、雲そのものなんだから当然だ。


 ここ、東雲しののめ製作所では、空に浮かぶ雲を作っている。理科の実験でも雲を作ることができるのだが、本物の雨雲の制作は難しい。たとえ材料を揃えたとしても、空気中の水蒸気が過飽和でなければいけないからだ。

 詳しい製造方法は、企業秘密ということらしい。それゆえ俺は、ダークファンタジーにあるような設定が原料なのではないかと推測している。


 得体の知れない物体を売ることも、余った切れ端を布団の綿に使うことも、虫唾が走る。


 それなのに、なぜこんな不満だらけの職場に就職したかと言うと、事の発端は二ヶ月前に遡る。




 ペットボトルの炭酸は、ぬるくなっていた。キャップを開けても、ぷしゅりという音は鳴らない。まるで俺みたいだと思う。青春という鮮度が落ち、将来に夢も希望も見いだせない。残った液体を空きっ腹に流し込んだ。


 時計の針は、二十一時を指している。デスクに残るのは俺一人だけだ。退勤間際に差し出された紙束を、恨めしげに睨みつける。


 なーにが「田江くんなら明日までに仕上げてくれるよね」だ。実際、仕上げたけども! せめて昼休憩のときに渡せ。またサービス残業しちまったじゃねーか。はぁ。夕飯食ってシャワー浴びたら、日付変わっていそうだな。とりあえず両目と腰の痛みをクソ上司に肩代わりさせたい。


 ネクタイを緩めて伸びをすると、背後に鍵の音をがした。


「施錠の時間だよ。デスクのもの片して」


 緑の作業着が、俺を冷ややかに見下ろしていた。入社したときは、缶コーヒーを差し入れしてくれたのに。早く帰れないという苛立ちが、全身から伝わった。


「すみません。すぐ帰ります」

「定時で帰って、飲みに行ったらどうだい? 会社にずっといても、いい出会いには恵まれないよ」

「できるだけ、善処します」


 俺は愛想笑いを浮かべて退社した。


 結婚できないことより、親の老老介護の方が不安ですよ。とはおくびには出さなかった。笑顔を貼り付けて、相手の求める行動をすれば波風は立たないのだから。


 リアルで付き合っていたことはある。たった一度、通知を見逃しただけで別れられた。


 デートの誘いを三日も放置するなんて信じられない。どんなに弁解しても許してあげない。彼女の別れ際のセリフは、五年経った今でも鮮明に思い出せる。


 理不尽な話だ。出張でスマホが見られないと、前もって伝えていたのに。最後に電話したときにも再三言った。それなのに彼女は自分の話ばかりで、俺の事情は全然知ろうとしてくれなかった。


 今の上司もそうだ。俺を怠け者と見なして、自分の仕事を押し付ける。おかげで定時退勤が遠のいていく。気楽なものだ。他人任せにしていれば、定時に上がれるのだから。


 ガラス窓に映った目元は、我ながら怖かった。


 怒りを抑えろ。耐えることには慣れているはずじゃないか。田江しのぶ、お前は器の大きい人間だろう? 上司の態度を許してやれよ。同期が全員辞めちまうくらいクソだけどさ。お前ならうまく対処できるって。


 もう一人の自分が涙ながらに訴える。


 いつかって、そんな日が来る前に心が病んじゃうんじゃないかな。たまには早く帰ろうよ。そろそろ有給消化もしたい。休もうと思う度に出張を命じられるから、休むに休めないんだよね。よし。明日は有給を申請してみるか。たぶん一蹴されると思うけど。




 やるだけやってみようとした。その前に、育休申請希望の後輩が奴を苛立たせてしまうのは予想外だった。


「育休を取りたい? きみは男だろう。そんなものは女が取ると、相場が決まっているんだ。今までに、うちで育休を取った男性社員がいるか? いないよね」


 時代遅れも甚だしい。悪しき前例を盾にするとは、愚かにもほどがある。


「こんなつまらないことで相談して来るな。わしは忙しいんだぞ」


 上司はひらひらと手を振り、後輩を下がらせる。社員全員から非難のまなざしを浴びても、反省する気は起きなさそうだ。上司と俺の視線が合う。


「育休なんて、田江くんには縁がない話だったね。きみもいい歳だ。付き合っている人がいないのなら、わしの知り合いを紹介してあげるよ。ありがたくて声も出ない? それは嬉しいなぁ」


 とんだ巻き添えだ。誰がテメェの提案をありがたがるかよ。

 俺は、喉の奥をこくりと鳴らした。


 感情を抑えろ。こんな奴のために苛立つのは、時間と体力の無駄使いじゃないのか。いつもみたいに受け流していれば、むこうが飽きる。冷静になれよ。


「コブ付きでもいいだろ? 田江くんは、選り好みできるほどイケメンじゃないしね。あ。今、そんなことないってツッコむところだよ。ほんと、田江くんはジョークが通じないね。ユーモアセンスは義務教育で勉強してこなかったのかな?」

「ははは。お恥ずかしい限りです」


 俺は、心の中で中指を立てた。こうでもしなきゃ、一発ぶちかましたくなる気が抑えられない。上司の嫌味から解放されたと思ったとき、あっけらかんと衝撃の事実が伝えられた。


「あ。昨日頼んだ資料、完成させたんだ。言い忘れていたんだけど、来週の水曜日までに終わっていればいい案件だったんだよ。急ぎじゃなかったんだけど、さすが田江くんだね。これなら他の仕事も安心して任せられるよ」


 ボールペンの軸が、ピキっと音を立てた。こいつのご機嫌取りのために働くのはうんざりだ。

 

 来月末で勤務終了、有給消化してから出て行ってやるよ! 引き継ぎして退職するから、文句は言わせねぇぞ。


 腹の虫は収まりきらず、俺は五年働いたストレスの元凶を去った。ついでにマンションの部屋も解約し、実家に戻ることにした。




「迎えに来なくていいって言ったのに」

「ゴールデンウィークも年末年始も帰ってこなかった忍が、ようやく帰省してくれたのよ。生きて帰ってくれて、母さんは……母さんは」


 おかん号泣。


 改札前で泣かれると、他の人の邪魔になるから場所を移そうか。あと、傍から見れば、俺が親不孝者として認定されるからやめてくれ。


 まぁ、退職理由の表向きは、親父の介護をするためだ。すまんな親父、だいぶ老けた設定にしちまった。でも、それくらい言わなければあの上司がうるさいんだ。


「そう言えば父さんは?」

「じいちゃんのそばにいるよ。じいちゃんは体操教室から帰って爆睡していたけど、トイレ補助がいつ必要になるか分からないからね」


 上手な嘘のつき方は、真実を織り交ぜながら話すこと。我が家で介護が必要なのは、父方の祖父一人だけだ。


 互いに近況を報告しながら、母の運転する車で帰った。紫陽花の咲く垣根がひどく懐かしい。俺がスーツケースを引っ張って家に入ると、母の怒号が響き渡った。


「日曜日の真昼間から焼酎をあおって、いいご身分だね!」

「おかえり忍。仕事はこっちで探すのか? 一ヶ月くらい、のんびり過ごせ。オクラみたいに細くなって可哀想だ」


 さすがに、オクラは言いすぎだろ。大学のときより五キロ痩せただけだ。


「じいちゃん、忍が帰ってきたよ」


 父は、籐椅子でくつろぐ祖父に話しかけた。


「忍。田江の墓は綺麗にしたか?」

「まだお盆休みには早いよ。じいちゃん、元気にしてた?」

「冷蔵庫の中に住みたいのぅ」

「また冷蔵庫の中に手を入れていたの?」

「冷たくて気持ちいいんじゃ」


 六月でバテていては、真夏を乗り切れそうにない。この家に戻って来た以上、祖父が熱中症で倒れないよう見張っておかなきゃな。


 孫の胸中を知ってか知らずか、祖父は疑問を投げかける。


「仕事を探しに来たんか?」

「そうだよ。じいちゃんが仕事を斡旋してくれたら助かるんだけど」

「あるよ」


 じいちゃんはキッパリと言った。某有名ドラマのセリフのように。


「わしの元職場だ。空を見上げるのが楽しくなるぞ」


 夕焼け色の看板が目印の、小さな町工場。それが東雲製作所だった。


 面接に行くと即採用。工場の中を見学させてもらうことになった。社長が一人の社員を呼ぶ。


「結城さん、田江くんに中を案内してあげて」

「は、はいぃー!」


 ストロベリーブロンドの三つ編みが敬礼した。大学を卒業したばかりの新人に見える。


「結城梨李っす! よろしくおねしゃす!」

「田江忍です。こちらこそ、よろしくお願いいたします」


 俺、敬語をマスターできていない奴に案内されるの? 心配しかないんだが。


「歳が近そうで嬉しい。頑張ろうね! のぶっち」

「ですから、のぶっちではなく田江と呼んでください」

「オッケー。のぶっち」


 ダメだ。日本語が通じねぇ。


「じゃ、まずは布団を作るところに、ごあんなーい!」

「うわっ。袖を引っ張らなくても歩けますから!」


 こうして俺は結城に連行され、雲の触り心地を叩きこまれるのだった。





【第2話】

 https://kakuyomu.jp/works/16817139557243611886/episodes/16817139557243633153

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