1-7

 雨粒と冷えた夜風が、肌に当たる。


 終電に乗って海黒から教えられた場所へ向かうと、彼女は身を隠すように路地裏の陰に蹲っていた。飛鳥は暗いスマホの画面から目を離して、海黒に駆け寄った。


「海黒さんっ」


 飛鳥の声を聞いて、海黒がこちらへ顔を向ける。


「飛鳥先輩。来てくれたんですね」

「君の力になる、って言ったから」

「ごめんなさい。ありがとうございます」

「……大丈夫? 怪我とかしてないかい」


 ごめんね、と断って、飛鳥はスマホの懐中電灯モードで海黒の状況を確認する。

 彼女は深夜にも関わらず制服姿だった。膝には擦り傷があり、血が滲んでいる。深刻ではなさそうだが、立ったり歩いたりするには痛むだろう。なにより色白の肌と血のコントラストで、それはひどく痛々しく見えた。


「とりあえず、この辺りから離れよう。ここは危険だ」


 飛鳥は周辺を見回して、誰もいないのを確認すると、海黒をゆっくりと立たせた。

 旧型の街灯が湿ったアスファルトを点々と照らすのみで、大通りと比べると、ここは随分と暗い。

 元々は小規模な商店街だったらしいが、10年前に《COLOR》の暴走による大きな事故があって、ここにあったテナントはほとんど別の場所へ移転してしまった。

 今は、無人と化した店舗のみが残っている。そこに、行く当てのない住所不定者や所謂いわゆるチンピラがたむろしているため、痛い目に遭いたくなければ近付くべきではないエリアだ。

 少なくとも、こんな時間に、女の子がひとりで来るような場所じゃない。


「塾の帰りに追いかけられて、こっちに走って逃げてきたんです。家が近くにあるんですけど、家までついてこられたらと思うと、怖くて……」


 飛鳥が状況を訊ねると、海黒は小さな声で答えた。


 飛鳥たちが住む地域には広域的に、こういった治安の悪い場所が点在している。

 《COLOR》を悪用した犯罪の急増に伴い、限られた予算と人手で治安を維持するため、人口の一極集中が図られた。

 だが、住みやすく安全な地区に人を集めて、そこに予算と人手を割いた結果、管理の手が及ばないエリアが穴抜けのように生まれてしまったのだ。


「追いかけてきたのは、昨日のアイツら?」

「暗かったので、分かりません。でも多分、同一人物じゃなくても、似たようなものだと思います」

「もし近くにいたら厄介だな……ひとまず、このまま大通りに出よう。まだ人通りがあったから、そこだったら下手に手を出してくることはないと思う」


 海黒に腕を貸してやりながら、飛鳥は歩き出した。

 大通りまで出たらすぐにタクシーを呼ぼう。そして、海黒を自宅まで送り届ける。

 高身長で、私服姿だと大人びて見える飛鳥とは違い、海黒は制服姿で、年齢を騙るのは難しそうだ。タクシーの運転手に通報されて補導対象にならないように、上手く誤魔化さなければ。

 飛鳥は念のため、スマホでを確認する。頭の中で建前を考えながら、一応上着も貸した方がいいかもしれないな、と隣を歩く海黒を見た。


 その時、海黒も飛鳥を見上げていた。強い眼光をした目は、少しの揺らぎも見せない。

 

「──飛鳥先輩は、どんな《COLOR》を持っているんですか」


 唐突な問いかけに、飛鳥は瞠目する。どうして今そんなことを、という疑念を《COLOR》はものによっては純粋な戦力となるから、と詭弁で無理矢理上塗りする。

 そうでもしないと、彼女が隣を歩いていることに対して、言いようもない不安感と後悔に襲われる気がしたのだ。


「…………大したことないよ。人に見せられるようなものじゃない」

「……そうですか」

「……海黒さんは?」

「私は、鉄を生成できるだけです」


 海黒が手のひらを上に向けてみせる。すると、手の上で黒い粒子が渦巻き凝縮され、あっという間に5センチほどの双三角錐が3つ、彼女の手の中に落ちた。純黒の表面は艶を帯びて、わずかな光を鋭く反射している。

 もちろん、鉄そのものではない。《COLOR》で生成される物が、世界に元から存在する物に酷似していることはよくあるが、それらを組成する原子と、《COLOR》による生成物を組成する粒子は別物だ。

 海黒の鉄の場合、本物の鉄と違って、電気や熱の伝導性や磁性はないらしい。


「これだけです。私のも役に立つものじゃないですよ」

「でも、どんな《COLOR》でも、使い方次第だよ」


 そうなんですね、と海黒は呟いて、3つの鉄塊を柔く握り締める。黒色は粒子に還って、指の隙間から零れていく。


 霧散していくそれを黙って見つめていた飛鳥は、ふと、異音を聞いた。

 ざり、と靴底がアスファルトを擦る音。 

 はっとして、瞬間に音の方向へ振り向いた。


 そこに、人影が立っていた。

 街路灯で逆光になってはっきりとした容貌は分からないが、飛鳥と同じくらいの体格で、パーカーを着た男に見えた。息を切らしているようで、肩が上下に揺れている。

 緊張で体が強張るが、飛鳥は咄嗟に海黒の前に立ち塞がった。

 数秒、睨み合いの重い沈黙が続いて、ソイツは目深に被ったフードに手をかける。


 弱い光の中で、はらり、と黒色と青色が乱れて舞う。

 影が外れて、海のようにさやかに輝く青が、前髪の下に覗いた。


「……瀬川」

「……水、島」


 青太は曖昧な微笑さえ見せず、眉を顰めて、飛鳥の奥へと視線を向けた。


「岬海黒。一体どういうつもりなんだ」


 警戒心を孕んだ青太の低い声に、飛鳥は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

 彼の声一つで、胸の内にわだかまっていた不安が、うねりながら確信へ変わっていく。

 自分は何か、大きな勘違いをしているのではないか。


 彼はパーカーのポケットから紙片を取り出し、飛鳥と海黒の前に突き出す。

 それを見て海黒は──渇いた溜息をついて、吐き捨てた。

 

「しくじったんだ。こんな狭い場所で、場慣れしてない高校生たったひとりに逃げられるなんて。まあ、そこら辺の不良寄せ集めなんてこんなもの、か」


 刹那、真横で甲高い音が爆ぜて、青と黒の粒子が弾けた。

 青太と海黒が《COLOR》をぶつけ合ったのだ。

 先に撃ったのは、おそらく海黒だ。

 

「瀬川、離れろ!」


 青太がもう片方の手に水の球を生成しながら、こちらに手を伸ばす。

 飛鳥も、とてつもなく嫌な予感がして、すぐに青太の方へ走り出す。が、後頭部に硬い感触を覚えて、動きを止めた。


「下手なことしないでください。撃ちますよ」


 飛鳥の後頭部には、海黒が生成した鉄のやじりが突きつけられていた。それも、海黒がさっき見せた鉄塊よりも大きい。彼女がその気になれば、それは自分の脳天を貫くだろうと予測できた。

 呼吸を失う飛鳥の目の前で、青太が取り落とした紙片が翻って落ちていく。


 ──0時に旧世継商店街で瀬川飛鳥に危害を加える。


 脅迫文めいたそれは、生徒手帳の白紙ページを破り取ったものに、海黒の文字で書かれていた。

 青太がそれを持っていたということは、海黒の真の目的は、青太をここに呼び出すこと。


「飛鳥先輩って、思ってたより詰めが甘いんですね」


 海黒の声だけで、彼女が口角を上げているのが分かった。まるで、飛鳥の軽率さを嗤うように。


「学校のみんな誰も、飛鳥先輩が無色colorlessだってこと知らないなんて。髪の毛の色も目の色も偽って、少しの綻びも見せないように、徹底的にみんなのこと騙してるんですよね? だから、もっと手強いかと思ってましたけど」

 

 暗く深い穴の底に突き落とされるみたいに、飛鳥の思考は急速に冷えていく。


「『知り合いですか』って鎌かけたら、簡単にクラスメイトだって教えてくれるんだから。飛鳥先輩って、勉強も運動も振る舞いも見た目も何もかも完璧だ、って1年生の間でも有名なので、クラスの特定もすぐにできちゃいました。でも、呼び出したらすぐに来てくれるなんて、実は大したことないんですね」


 彼女の言葉に耳を塞いでしまいたいのに、動けない。

 飛鳥が無色colorlessであることを見抜いていたということは、海黒も青太と同様に強力な有色coloredなのだろう。そんな彼女に対して、飛鳥は無力同然だった。


「本当に、単純すぎて不愉快です」


 飛鳥をなぶる言葉に、我慢ならないと反応したのは青太の方だった。彼は一度消散させた水の球を、ふたたび形成し始める。

 しかし、飛鳥は「待って」と声に出さずに言った。

 海黒のこれは挑発だ。飛鳥たちの心に揺さぶりをかけて、隙ができるのを狙っている。だからこそ、動揺を見せてはいけない。

 それに飛鳥は、絶対に逃げ出せるタイミングがあると確信していた。

 

「せっかくなので、いいこと教えてあげますね。私の《COLOR》は、本当はただ鉄を生成するだけじゃないんです」


 ああ、分かってる。

 海黒がさっき鉄塊を生成したとき、それらは形を持った瞬間に自然落下した。

 重さがあって、何もしなければ重力に従って落ちるのだ。今、飛鳥の後頭部に突きつけられている鉄塊は、海黒がそれを空中で静止させているから。彼女は鉄を生成するだけではなく、それを自由に操ることができる。


 けれど《COLOR》には限界ある。

 物質を生成すること、それを操ること、そして生成物の形をずっと維持すること。《COLOR》の行使には体力と集中力を消費する。だから同じ状態を維持し続けるのは難しい。

 だから、海黒にも必ず隙ができるはずだ。

 鉄塊が滞空状態を維持できずに落下するか、もしくは、生成物が時間切れで粒子に還るか。


 ──その瞬間は、案外すぐにやって来た。


 飛鳥の脳天を狙う感触が弱くなる。維持可能時間を超過して、鉄がアスファルトの上に落下する。

 からん、と無機質な音が響くより早く、飛鳥は青太の方へ足を踏み出し、青太は飛鳥に手を伸ばした。


 腕を掴んで引き寄せる手、その傍らで、飛鳥の後方に向かって開かれた手。

 全ての一瞬が、飛鳥の目に焼き付く。

 青い光子が蛍のように現れて、集まり、1つの水の球になる。

 手のひらほどの大きさに膨張して、揺らぐ。

 視界いっぱいに広がる青の閃光。


 刹那、射撃。


 青の尾をひいて貫く弾丸。それは大きな金属音とともに破裂して、発散の余波で3人の髪の毛を揺らした。

 海黒が小さく舌打ちをする。追撃を放った彼女の双眸は、深淵から獲物を狙うコウモリの眼のようだった。


「瀬川、逃げよう!」


 青太が飛鳥の腕を引き、飛鳥も頷いて走り出す。身長の高い2人に対して海黒は低身長で、しかも足に怪我を負っている。走力の差は明らかで、このまま逃げられるはずだった。


「……逃がしませんよ」


 ただ、海黒の執念の方が一枚上手だった。

 突然現れた2つの人影に、飛鳥たちは行く手を塞がれる。

 痛いほど強く腕を握られ、飛鳥は青太が焦っているのだと直感した。


「水島青太さん。あなたと連絡がつかなくなってから、どんな風に生きてきたか知りませんけど」


 海黒は怨嗟の籠った目で青太を見ている。

 青太だけを、見ている。


「その様子じゃ、今も相当に不安定みたいですね。心の揺れは《COLOR》に直結すること、知らないわけじゃないでしょう。そのままだと、また暴走するんじゃないですか? それに──」


 海黒は手を拳銃の形にして、その人差し指を真っ直ぐ、青太に向ける。

 手首の外周をなぞるように、黒の双三角錐が円形に並び、装填される。


「《COLOR》から逃げ続けたあなたより、私の方が、強いので」


 彼女は目を光らせて、不敵に笑った。

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