1ー6
窓の外、夜空に白い星が見えるのに気づいた。雨雲の切れ目に差し掛かったのだろうか。最近はいつも天気が悪いから、星を見るのは久々な気がした。
モノクロの夜の空。飛鳥はふと、生徒手帳に挟んだままの紙片を思い出した。黒髪の後輩、
できることがあれば力になる、と彼女に言った。
頼られたことが嬉しかった。優等生で基本的に何でもできる飛鳥にとって、頼られることはよくあるはずなのに、いつもとは何かが決定的に違った。
まるで、傷口の痛みを忘れさせてくれるような──。
「あすかー、夜ご飯、もう食べた?」
突然、自室の部屋をノックする音と
「もしまだ食べてなかったら、一緒に夜ご飯にしましょ。母さんがハヤシライス作ってくれてるの」
「分かった、すぐに下りるね」
飛鳥はポケットに紙片を仕舞って、机上のノートに視線を向けた。途中式で止まった演習問題が、咎めるように見つめ返してくる。なんだか今日は勉強に集中できなかった。
夜ご飯を食べたら続きを解こう、と飛鳥はノートと参考書を開いたまま、ダイニングへ下りた。
◆
「勉強してたの? おつかれさま」
ハヤシライスに火をかけ直していた
白い七分丈ブラウスにパンツスーツの出勤スタイルで、艶のある白い髪を後ろでひとつにまとめていた。
「飛鳥はほんとに真面目よね。たまには遊んでもいいのに」
「もうすぐ塾の模試と、そのあとに期末考査があるから、今は遊んでる暇ないよ」
「計画的に努力できるのは飛鳥のいいところだけど、ちゃんと休まないとだめよ」
「休んではいるよ。ちゃんと寝てるし」
ほんとにー? とくすくす笑いながら、白鳥が手招きする。素直に隣に立つと、白鳥は優しい手つきで、飛鳥の前髪を柔らかく分けた。
「ほらここ、ニキビできてる」
「えっ、うそ」
「半分はうそ。まだ小さくて目立たないから、しっかり寝たらすぐに治るわよ」
7つ上の白鳥は、ずっと飛鳥の面倒を見ていたからか、飛鳥以上に飛鳥のことを知っている。
敵わないな、と改めて思いながら、渡されたハヤシライスと麦茶を食卓に並べた。ダイニングの温かな照明を受けて、テーブルクロスに麦茶のべっこう色の光が散らばる。
姉に誘われるまでは、自分が夕食をとっていないことにさえ無自覚だった。トマトの酸味と甘さが混ざった優しい匂いが湯気と共に立ち上って、飛鳥の嗅覚をくすぐる。すると、思い出したように食欲が戻ってきた。
飛鳥の向かいに、白鳥がわくわくした様子で座る。
「いただきます」
示し合わせずとも重なる言葉。
そういえば、姉と一緒に食事をとるのは随分と久しぶりだ。
機動隊員という変則的な勤務体制の白鳥と高校生の飛鳥では、そもそも生活リズムが大きくずれていたし、最近は緊急出動が増えているのか、家に帰ってくることも少なかったのだ。
「今日はもう仕事終わりなの?」
「ううん、むしろこれから。夜勤入っちゃって」
「そっか、大変だね」
「まあ、仕事だから仕方ないわよ」
美味しいね、と白鳥が笑う。
ハードな生活を送っているはずなのに疲れを見せない彼女に、飛鳥も「そうだね」と笑い返した。
白鳥は決して、自分の弱さを明らかにしない。
いつも正義を貫き、感情に振り回されず、冷静に判断する。
真っ直ぐ前を見つめ続けるその金色の瞳は、幼い頃からの飛鳥の憧れだ。
「私がいなくて寂しい?」
白鳥がいたずらっぽく尋ねる。
「そりゃあ、寂しいよ。もっと帰ってきてくれたら嬉しいけど……でも、姉さんの仕事の邪魔はしたくないから」
「そんな物分りのいいこと言っちゃって。小学生のときみたいに、もっと甘えてくれてもいいのよ」
「いつの話してるのさ」
「そうだ、それじゃあ次の休みに、一緒にどこか出かけましょ」
「休み、とれそうなの?」
「1日くらいだったら大丈夫よ」
その言葉に、飛鳥は少し、目を輝かせた。
姉と遊びに行けるなんて、何ヶ月ぶりだろうか。それに学校に塾にと、このところ勉強続きだった。勉強は好きだけど、そればかりだと息が詰まってしまう。
「それなら、僕も一緒に出かけたい」
「よかった。そうだな……海とかどう?」
一瞬、凍った。
ザザーンと波の音。快晴の下、鮮明な青の海面と白波が脳裏をよぎる。
「……海は、今はいいかな」
飛鳥は、皿についたルウをスプーンの縁でさらいながら答えた。
「そっか。まあ、晴れてないと綺麗じゃないか。最近、天気悪いもんね」
「海がダメだとしたら、山とか?」なんて呟く姉のコップが空いているのを見て、お茶を注ぐ。こぽこぽと涼しい音を立てながら、小さな水泡が泡立っては消えていく。
そんな姉の話し声も、麦茶の音もかき消すように、飛鳥の心の中で、ざわざわと不穏な風が吹き始めた。
「屋外じゃなくて、屋内がいいんじゃないかな。どこかの店とか」
「うーん。たしかにそうね。飛鳥はどこか行きたいところはある?」
「ぱっとは思いつかないけど……考えておくよ」
米粒を咀嚼して、嚥下して、それを繰り返す。
スプーンが皿を撫でる音がして、白鳥は両手を合わせてごちそうさまと言った。
少し遅れて、飛鳥もごちそうさまを言った。
時刻はもう、日付を跨ごうかというところだった。白鳥はこれから署に戻るため、後片付けは飛鳥の役目だ。
食器と鍋をシンクに置いたとき、後ろから白鳥に声をかけられた。
「この電話番号が書いてある紙、飛鳥の?」
水を止めて振り向くと、白鳥は飛鳥に紙片を示した。海黒と交換した連絡先だ。スラックスのポケットから落ちたのだろう。
「みさき……み、くろ、さん? 女の子?」
「うん。1年生の子」
「ふぅん、そっかそっか」
白鳥はなぜか嬉しそうに頷いている。電話番号は既に登録してあるから、飛鳥はそれを受け取って、手の中でくしゃりと丸めた。
「別にそういうのじゃないよ。たまたま知り合って……まだ学校に慣れてないから、勉強とか色々教えてほしいって」
慌てて嘘をついてしまったが、白鳥はにこにこしたままで、それ以上は言及しない。
話題を変えようと、飛鳥は口を開いた。
「それにしても姉さん、よく『みくろ』って読めたね」
「言われてみれば……変わった名前よね。案外、どこかで同じ名前の人に会ったことがあるのかも」
海黒という珍しい名前の人間が、他にそうそういるだろうか、と飛鳥は首を傾げる。
しかしそれよりも、名前だけで、岬海黒が女の子であることを言い当てられたことが妙に引っかかった。
たとえ白鳥と海黒が実は知り合いだったとしても、どうということはないけれど。
「まあ、人助けはいいけどね。あんまり夜遅くまで外を出歩くのはだめよ。最近、暴動も暴力事件も多いから」
「分かったよ、姉さん」
「本当に、無理しないでね」
「それは」
口をついて、言葉が零れ落ちる。
「僕が、
返事は、すぐには返ってこなかった。
かちり。時計の秒針が動く。
ふと、白鳥と目が合った。夜だというのに、まるで黎明の水平線に広がる光を吸い込んだように、金色の瞳ははっきりと煌めいていた。
自分の偽物の瞳とは、明らかに違う色だ。
「弟だから。心配なの」
それだけよ。彼女はそう言った。
白鳥を見送って1人になった飛鳥は、姉の言葉を頭の中で反芻しながら、残りの皿を洗った。多めに出した水が手を叩く度、体温が少しずつ奪われていくような気がした。
海、と聞いただけで、彼のことを思い出してしまった。ざらついたままの心は、大好きな姉と話しても平らにはならない。
考えないようにしているのに、考えない方がいいと思っているのに、上手くいかない。
──その時、スマホの着信音が鳴り響いた。
心臓が跳ね上がる。急いで画面を見て、そこに表示された名前に、心拍数が急上昇していく。
岬海黒。
通話を繋げる。もしもし、と言って、しばしの沈黙のあと声が聞こえた。
「……飛鳥、先輩」
小さな声だった。息の多い、囁くような声。間違いなく海黒の声だ。
どうしたの。尋ねる。
「助けてください」
キッチンの窓から風が吹き込んで、飛鳥の首筋を撫でる。
濡れた風だった。再び雨雲が迫っている。間もなく雨が降り出すだろう。
窓の外は、真っ黒だった。
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