1-5

 いっそ、この雨が強く降って、青太の声をかき消してくれればいいのに。けれど霧雨は、空気を濡らす程度に柔く降るだけだった。 


 まるで水の中にいるみたいで、息苦しい。


「……どうして、僕が無色colorlessだって分かったんだ」

「……なんとなく、だよ。なんとなく、瀬川の目の色が、本当の色とは違う気がして。オレもだから……人の目の色がどうしても気になるんだ」


 そう言って、青太は自身の目を覆い隠すように、右手で静かに触れた。

 つっかえながら出てくる言葉で、彼が自分を気遣いながら喋っているのが分かった。いつ切れるか分からない緊張の糸が1本、2人の間に張られているようで──それが切れたときに壊れてしまうのは、飛鳥の方だった。


 《COLOR》に適合している人ほど、相手の瞳の色を見て《COLOR》の力量を判断できる、と姉から聞いたことがある。

 それは感覚的なもので、全員が等しく同じようにそうできるわけではないが、有色coloredとして優秀であればあるほどその傾向が強くなる、らしい。

 飛鳥には分からない感覚だから、今まで記憶から抜け落ちていたのだ。


 ──同じだって? ふざけるな。

 僕と違って、君は持っているくせに。

 飛鳥は、心の奥底に嫌な風が吹いて、ざわざわと波立つのを感じた。


 飛鳥は『無色』colorlessだ。

 文字通り、《COLOR》を持たない人間。


 《COLOR》は小学校高学年から中学生にかけての成長期に発現する。個人差はあっても、ほとんど確実に、中学校を卒業する前に《COLOR》を手にする。

 しかし、飛鳥の《COLOR》は発現しなかった。同級生たちが次々と、それぞれに能力を手に入れていく中、飛鳥の手元にあるのは無色colorlessの診断書だけだった。

 誰にも言えなかった、言いたくなかった。無色colorlessであることを知られたくなくて、中学3年生の時、髪の毛を脱色して、金色のカラーコンタクトを買った。人より弁が立つ性質たちだから、誤魔化しだけは上手くできた。

 だから、両親と姉以外は、飛鳥がそうであることを知らないはずだったのに。


「……このことは、誰にも言うな」


 飛鳥のその言葉は、お願いでも頼みでもなく、脅しだった。

 青太は、「うん」とだけ返事をした。

 ただ、飛鳥が踵を返したとき、青太は小さな声で呟いた。


無色colorlessって、そんなにだめか」


 その言葉が体内を傷つけながら、心の奥底の、最深部に沈殿する。それが色彩を持つのなら、胸の痛みも、血も、飛鳥は受け入れるつもりでいた。それが自分の色になるのなら、と。

 けれど、どう足掻いても飛鳥に《COLOR》はない。


 青太に何か、ひどいことを言ったような気がする。灼ける喉が、自分が大きな声をあげたことを示している。

 飛鳥は青太の表情なんかろくに見ずに、そのまま走り出した。家に帰るまで、拳はきつく握り締めたままだった。

 無闇に手を開いて、自身の手が虚空を掴む感覚は、もう味わいたくなかった。


 ◆


 少女に再会したのは、その翌日、高校の最寄り駅の前だった。あの特徴的な、三つ編みを輪っかにしたような髪型で、後ろ姿だけでもすぐに彼女だと分かった。

 声をかけるべきか、と少し迷っていると、ふと少女が振り向いた。真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下の煌々とする橙と、ぱちり、と目が合う。頬にかかる黒髪は肌の白さを際立たせるが、儚げな雰囲気はなく、素朴な感じの少女だった。


「昨日の……」


 彼女は何かに気付いたように、もう一度大きくまばたきをした。飛鳥は小さく会釈して、笑いかける。


「こんにちは。昨日ぶり、だよね。あの後、大丈夫だった?」

「はい……ありがとうございました、本当に」


 少女は、お手本みたいに丁寧なお辞儀をして、飛鳥を見た。橙の真ん中に、太陽の黒点じみた瞳孔がある。それに真っ直ぐに捉えられると、なぜか言葉が消えてしまうような感覚がした。


「どうして、助けてくれたんですか」

「どうして、と言われても……君が困ってるように見えたから、そうした方がいいと思って」

「……あの、昨日、もう一人いましたよね。同じ高校の、男の先輩。2年生の」


 青太のこと、だろうか。

 昨日の青太とのやり取りのことは忘れようとしていたのに、彼女のその言葉をきっかけに勝手に彼の声が頭の中に流れてきて、飛鳥は眉をしかめた。

 飛鳥が無色colorlessで、青太が有色coloredであること。

 お互いに知ってしまった秘密を、忘れようと、なかったことにしようとするみたいに、今日の2人は、努めて普通のクラスメイトとして接した。仲が悪いと疑われないよう簡単な雑談はするし、授業中必要になれば勉強も教え合うが、それ以上の言葉は交わさない。

 そうやって明日も明後日も平行線のままでいれば、夏休み明けの席替えの後は、お互い話すこともなくなる。それでいい。


「ああ……水島のこと? 彼がどうかしたの」

「知り合いなんですね。逃げるときにぶつかってしまったので、大丈夫かな、と思って」

「ただのクラスメイトだよ、昨日はたまたま下校のタイミングが重なっただけ。水島なら大丈夫だよ。特にケガとかもしてなかったみたいだし」

「そうですか……」


 そうして少女は、また何かを考え込むように黙りこくってしまった。しばらくして、短く息を吸って、彼女が喋り出す。


「──最近、よくあるんです。昨日みたいなことが」


 湿度の高いべたつく空気の中、少女の後ろで、雨雲がおおきな怪物のように蠢いている。


「知らない人から声をかけられることが、ここ最近で何度かあって。どうして声をかけられるのか、全然心当たりがなくて。困ってるんです」


 だから、と、彼女は飛鳥を見つめた。


「……助けてほしいんです」


 飛鳥には、少女が落ち着いているようにも、焦っているようにも見えた。

 妙な感覚だった。冷静に話しているような気もするし、矢継ぎ早に言葉を重ねているような気もする。


「僕にできることがあれば、力になりたいけど……でも、僕は一高校生だし、まずは親御さんに相談した方が」

「家族には、心配かけたくないので言えないです。それに、みんな仕事で忙しくて、言い出せるような感じじゃなくて」


 それでも、飛鳥にとっては、「助けてほしい」という言葉が、頼られているという感覚が、どうしようもなく甘美に感じられてしまった。まるで、真っ黒な闇の向こうから聴こえてくるセイレーンの歌声のように。

 一拍おいて、飛鳥は渇いた喉に、小さく息を呑んだ。


「──分かった。これ、僕の電話番号。困ったことがあったら連絡くれていいから」

「……ありがとうございます。私も、一応連絡先渡しておきますね」


 2人はそれぞれに生徒手帳を取り出し、白紙のページに電話番号を書くと、破り取って交換した。飛鳥が受け取ったそれには、携帯の電話番号の下に、「岬海黒」と書かれていた。

 

「みさき、う、み……?」

「黒い海って書いて『みくろ』って読むんです」

「みさきみくろ、さん、だね。……岬か」


 岬。みさき。

 なぜだか、1文字の漢字と3文字の音が印象に残る。


「どうかしましたか?」

「ううん。いや、どこかで聞いたことあるような気がしてさ」

「珍しい苗字でもないですから。でも、もしよかったら、下の名前で呼んでください」

「じゃあ、海黒みくろさん。僕は瀬川飛鳥です、よろしく」


 飛鳥の名前と携帯の電話番号が記された紙を受け取って、岬海黒みさきみくろは頬を上げて微笑んだ。

 上空で大きな風が吹いたのか、雨雲が不気味に蠢いて、形が崩れていく。


「よろしくお願いします、飛鳥先輩」

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