1-5
いっそ、この雨が強く降って、青太の声をかき消してくれればいいのに。けれど霧雨は、空気を濡らす程度に柔く降るだけだった。
まるで水の中にいるみたいで、息苦しい。
「……どうして、僕が
「……なんとなく、だよ。なんとなく、瀬川の目の色が、本当の色とは違う気がして。オレも同じだから……人の目の色がどうしても気になるんだ」
そう言って、青太は自身の黒い目を覆い隠すように、右手で静かに触れた。
つっかえながら出てくる言葉で、彼が自分を気遣いながら喋っているのが分かった。いつ切れるか分からない緊張の糸が1本、2人の間に張られているようで──それが切れたときに壊れてしまうのは、飛鳥の方だった。
《COLOR》に適合している人ほど、相手の瞳の色を見て《COLOR》の力量を判断できる、と姉から聞いたことがある。
それは感覚的なもので、全員が等しく同じようにそうできるわけではないが、
飛鳥には分からない感覚だから、今まで記憶から抜け落ちていたのだ。
──同じだって? ふざけるな。
僕と違って、君は持っているくせに。
飛鳥は、心の奥底に嫌な風が吹いて、ざわざわと波立つのを感じた。
飛鳥は
文字通り、《COLOR》を持たない人間。
《COLOR》は小学校高学年から中学生にかけての成長期に発現する。個人差はあっても、ほとんど確実に、中学校を卒業する前に《COLOR》を手にする。
しかし、飛鳥の《COLOR》は発現しなかった。同級生たちが次々と、それぞれに能力を手に入れていく中、飛鳥の手元にあるのは
誰にも言えなかった、言いたくなかった。
だから、両親と姉以外は、飛鳥がそうであることを知らないはずだったのに。
「……このことは、誰にも言うな」
飛鳥のその言葉は、お願いでも頼みでもなく、脅しだった。
青太は、「うん」とだけ返事をした。
ただ、飛鳥が踵を返したとき、青太は小さな声で呟いた。
「
その言葉が体内を傷つけながら、心の奥底の、最深部に沈殿する。それが色彩を持つのなら、胸の痛みも、血も、飛鳥は受け入れるつもりでいた。それが自分の色になるのなら、と。
けれど、どう足掻いても飛鳥に《COLOR》はない。
青太に何か、ひどいことを言ったような気がする。灼ける喉が、自分が大きな声をあげたことを示している。
飛鳥は青太の表情なんか
無闇に手を開いて、自身の手が虚空を掴む感覚は、もう味わいたくなかった。
◆
少女に再会したのは、その翌日、高校の最寄り駅の前だった。あの特徴的な、三つ編みを輪っかにしたような髪型で、後ろ姿だけでもすぐに彼女だと分かった。
声をかけるべきか、と少し迷っていると、ふと少女が振り向いた。真っ直ぐに切り揃えられた前髪の下の煌々とする橙と、ぱちり、と目が合う。頬にかかる黒髪は肌の白さを際立たせるが、儚げな雰囲気はなく、素朴な感じの少女だった。
「昨日の……」
彼女は何かに気付いたように、もう一度大きくまばたきをした。飛鳥は小さく会釈して、笑いかける。
「こんにちは。昨日ぶり、だよね。あの後、大丈夫だった?」
「はい……ありがとうございました、本当に」
少女は、お手本みたいに丁寧なお辞儀をして、飛鳥を見た。橙の真ん中に、太陽の黒点じみた瞳孔がある。それに真っ直ぐに捉えられると、なぜか言葉が消えてしまうような感覚がした。
「どうして、助けてくれたんですか」
「どうして、と言われても……君が困ってるように見えたから、そうした方がいいと思って」
「……あの、昨日、もう一人いましたよね。同じ高校の、男の先輩。2年生の」
青太のこと、だろうか。
昨日の青太とのやり取りのことは忘れようとしていたのに、彼女のその言葉をきっかけに勝手に彼の声が頭の中に流れてきて、飛鳥は眉をしかめた。
飛鳥が
お互いに知ってしまった秘密を、忘れようと、なかったことにしようとするみたいに、今日の2人は、努めて普通のクラスメイトとして接した。仲が悪いと疑われないよう簡単な雑談はするし、授業中必要になれば勉強も教え合うが、それ以上の言葉は交わさない。
そうやって明日も明後日も平行線のままでいれば、夏休み明けの席替えの後は、お互い話すこともなくなる。それでいい。
「ああ……水島のこと? 彼がどうかしたの」
「知り合いなんですね。逃げるときにぶつかってしまったので、大丈夫かな、と思って」
「ただのクラスメイトだよ、昨日はたまたま下校のタイミングが重なっただけ。水島なら大丈夫だよ。特にケガとかもしてなかったみたいだし」
「そうですか……」
そうして少女は、また何かを考え込むように黙りこくってしまった。しばらくして、短く息を吸って、彼女が喋り出す。
「──最近、よくあるんです。昨日みたいなことが」
湿度の高いべたつく空気の中、少女の後ろで、雨雲が
「知らない人から声をかけられることが、ここ最近で何度かあって。どうして声をかけられるのか、全然心当たりがなくて。困ってるんです」
だから、と、彼女は飛鳥を見つめた。
「……助けてほしいんです」
飛鳥には、少女が落ち着いているようにも、焦っているようにも見えた。
妙な感覚だった。冷静に話しているような気もするし、矢継ぎ早に言葉を重ねているような気もする。
「僕にできることがあれば、力になりたいけど……でも、僕は一高校生だし、まずは親御さんに相談した方が」
「家族には、心配かけたくないので言えないです。それに、みんな仕事で忙しくて、言い出せるような感じじゃなくて」
それでも、飛鳥にとっては、「助けてほしい」という言葉が、頼られているという感覚が、どうしようもなく甘美に感じられてしまった。まるで、真っ黒な闇の向こうから聴こえてくるセイレーンの歌声のように。
一拍おいて、飛鳥は渇いた喉に、小さく息を呑んだ。
「──分かった。これ、僕の電話番号。困ったことがあったら連絡くれていいから」
「……ありがとうございます。私も、一応連絡先渡しておきますね」
2人はそれぞれに生徒手帳を取り出し、白紙のページに電話番号を書くと、破り取って交換した。飛鳥が受け取ったそれには、携帯の電話番号の下に、「岬海黒」と書かれていた。
「みさき、う、み……?」
「黒い海って書いて『みくろ』って読むんです」
「みさきみくろ、さん、だね。……岬か」
岬。みさき。
なぜだか、1文字の漢字と3文字の音が印象に残る。
「どうかしましたか?」
「ううん。いや、どこかで聞いたことあるような気がしてさ」
「珍しい苗字でもないですから。でも、もしよかったら、下の名前で呼んでください」
「じゃあ、
飛鳥の名前と携帯の電話番号が記された紙を受け取って、
上空で大きな風が吹いたのか、雨雲が不気味に蠢いて、形が崩れていく。
「よろしくお願いします、飛鳥先輩」
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