1-4
また雨が降り始めた。梅雨入りしたばかりの天候は本当に不安定だ。
雨の
少女は道路を挟んだ向こう側にいた。黒髪を三つ編みにしたあと輪っかにして結んだ、変わった髪型の少女。セーラーカラーまで真っ白な夏服は、飛鳥と同じ鏡大附属高校の制服だ。襟にあしらわれた緑のラインを見るに1年生だろう。
彼女は雨宿りをしていたのだろうか、シャッターの閉まった店先に立っている。
問題なのが、そんな彼女に対して、背の高い男が詰め寄っていることだった。何を話しているのかは分からないが、ナンパとかそういったものではなく、もっと深刻そうな雰囲気があった。
そして彼女と──夜迫る黄昏のような、炎に
少女と目が合ったのはほんの一瞬だけ。それでも飛鳥は、自分がどうにかしなければ、という気になって、思わず駆け出した。
「瀬川? 駅行くんじゃないのか?」
「……急用思い出したんだ。じゃあね水島、また明日」
青太との会話を一方的に終わらせて、飛鳥は横断歩道を渡る。
背の高い男は、少女に対して何やらぼそぼそと低い声で詰め寄っていた。少女の方は男に対して「知りません」「分かりません」を繰り返している。とてもじゃないが、会話が成立しているようには見えない。
「すみません」
2人の間に割って入るように、飛鳥は男に声をかけた。
「この子と待ち合わせしてるんですけど……彼女に、何か用ですか?」
男を刺激しないよう、努めて声音は優しく。
男は、はくはくと、かさついた唇を何度も開閉しながら、重心が定まらないのかゆらゆらと揺れている。
その不気味さに思わず眉を顰めたその時──飛鳥の体は重力を失った。
景色がぐわりと、急速に遠ざかる。抵抗する間もなく路地裏の奥に引き倒され、飛鳥と少女は強かに背を打ち付けた。視界が一瞬暗転して、光が裏返って、見るとボロボロになったスニーカーの爪先、そして何者かが自分たちを見下ろしていた。その目は、毒々しいまでの緑で爛々としていて、
腕に巻き付いていた蔦らしきものが、粒子になって散逸し、その何者かへ還っていく。
こいつに引き摺り倒されたのだと、瞬時に理解した。
鈍痛で小さく呻く少女の腕を引いて、大丈夫、と訊く。見る限り大きなケガはしていなさそうで、彼女は小さく頷いた。
飛鳥は少女を庇うように、彼女と緑目の間に立ちはだかった。ビニール傘を握る手に、緊張の汗が滲んだ。
「
そいつは端的に吐き捨てた。
飛鳥は、存外その声が若いことに気が付いた。自分たちとそれほど変わらない年齢、おそらく大学生か、下手をすれば高校生くらいかもしれない。
ただ、その容貌はおよそ自分と同年代には見えなかった。血色の悪い肌、痩せこけた頬、目の下に深く刻まれた隈。目深に被ったキャップの影から、緑が異様なまでに鋭い光を灯している。まるで、ヒ素を混ぜた人工色で塗りたくったような目だ。
「そいつに用がある。お前は邪魔だ。今だったら逃がしてやる。だから退け」
呂律の回らない口元、渇いた声。異様も異様だ。
ただ、今はそいつがどんな人間かは関係ない。この場から逃げられさえすればいい。
だが路地裏入り口にはあの背の高い男が待ち構えていて、目の前のこいつは
ただ、緑の粒子が宙にとどまったまま、二手、三手目の蔦はすぐには生成されない。こいつは生成スピードを犠牲にして物量を増やしているようだ。
だから、すぐには手を出せないはず。
逃げるとしたら今だ。
飛鳥は右足を少し下げて、ちらりと一瞬、背後の少女と目を合わせた。そのまま視線で、路地裏の入り口を示す。
彼女が正しく理解してくれたかは分からないが、彼女は一度まばたきをして、ほんの小さく、飛鳥以外には分からないように首を縦に振った。
少女が、一歩退る。ざり、と彼女のローファーがアスファルトに擦れる音。
瞬間、少女が翻って走り出す。
飛鳥も追うように、緑目のそいつに背を向けて駆け出した。
不意の行動に、相手は反応が遅れた。入り口で構える背の高い男が右手に何かを構える。先端に冷たい光が閃くあれは、ナイフだ。
「伏せて!」
飛鳥の声に、少女は上体を低くして男の脇腹を駆け抜けようとする。
男はナイフを振り上げる。
飛鳥は左脚を軸に、男に向けて渾身の力で傘を突いた。
ビニール傘の柄が男の手首を打ち付けて、男が
男の態勢は僅かに崩れたままだ。いける、無理矢理走り抜けられる。
勝算がどれくらいかなんて、もう考える間はなかった。
けれど。
背後から、温度の無い蔦が飛鳥の腕を絡めとった。1本は左腕に、遅れてきた2本目を傘で防ぐが──3本目、それが飛鳥の首を絞めあげた。
首の骨が軋み、呼吸が一気に抜ける。
蔦が肌を擦る
今すぐ蔦を引き千切らなければ。なのに身体はちっとも動かなかった。ただ嫌な汗が汗腺から溢れて、喉は一瞬で渇いた。
ざらついたアスファルトの感触が、10年前の夏の日の、ワゴン車のシートのソレとそっくりだった。生温い空気の中、息もできず、暗い恐怖に沈んでいくだけだったあの時。
蔦がいっそう強く飛鳥の首に食い込む。開いた口からは残りの息と喘ぎが漏れるだけで、酸素が全く入ってこない。
指先が痺れる。視界が端のほうからじわじわと、真っ暗に侵される。世界が遠ざかる。
あの時はヒーローが助けに来てくれた。あか色のヒーロー。
でも今は、誰もいない。
色彩が欠けていく飛鳥の視界に、蔦に巻き取られたままぼきりと折れてしまったビニール傘が映っていた。
ひとつ、雫が落ちる音。
──青い光が闇を裂いた。
解放された気管に一気に酸素が流れ込む。吸いすぎた息に噎せながら、飛鳥は眼前に『彼』が立っているのを見た。
「動くなよ。次動いたら、今度は顔面に撃つ」
ぽたん、と『彼』の右手の人差し指から、青い輝きを湛えた水滴がこぼれる。
動くな、と言われた緑目は静止する。だが瞬間、絡み合い1本の槍のようになった蔦が、その人を貫
――パチン。指を鳴らして、水刃が、槍を一刀両断した。
それだけじゃない。背後で金属製の何かが地面に落ちる音がして、見れば青い水に濡れたナイフが、男の手から落ちていた。
緑目が悔し気に歯ぎしりする前で、まったく動かずに立っている『彼』。
黒いスラックスに白い半袖シャツ。短く切られた黒い髪が少し乱れて、本来の鮮やかな青色がのぞいている。
「……水、島」
彼の名前を呼ぶ自分の声は、耳を塞ぎたくなるほど頼りなく、情けない声だった。
青太が一瞬振り向いた。青太に隙ができて、緑目はチャンスとばかりに彼を押し退けると、そのまま背の高い男と共に大通りへ走り去ってしまう。
「おい!」と青太は声を荒げたが、結局追いかけることはなかった。
重い沈黙の中、飛鳥はしとしとと、雨が落ちる音を聞いた。ああそうだ、雨が降っていたんだった。
冷たい雨に髪が、睫毛が濡れて、寒い。
傷口に負荷をかけないよう、飛鳥はゆっくりと上体を起こした。肩と背中が痛んだが、それよりもずきずきと痛みを訴えているものがある。
瀬川、と青太が膝をついて飛鳥に目線を合わせる。首、大丈夫か。その言葉に、飛鳥は、大丈夫だと掠れた弱い声で答えた。本当はまだあの感触が残っていたし、10年前の紐までもがまだ巻き付いているような気さえする。指先で触り、もう首を絞めるものはないと分かったとしても、だ。
ふと、首に水が触れた。
「さわるなッ!」
その手を払うのに躊躇いはなかった。青太は何も言わず、静かに手を下ろした。
「……冷やさないと、痕になるかと思って」
「そんなの、自分でどうにかできる」
「……ごめん」
「《COLOR》持ってたのか。やっぱり」
うん、と肯定する声。飛鳥はアスファルトの上で、自分の手を握った。痛いほど強く握った。けれど自分の手の中には、握り締める以外の感触はない。
青太はやがて立ち上がって、立てるか、と飛鳥に手を差し出した。飛鳥は青太の手を取ることはなく、ひとりで立った。青太は眉尻を下げて、ぎこちなく微笑んでいた。
「あの女の子は、ちゃんと逃げられたかな」
「ああ。あの子なら多分、大丈夫だろ」
「そう……それならよかった」
折れて使い物にならないビニール傘を拾い上げながら、飛鳥は横目に青太を見た。心配そうに自分を見つめるその目。深海のようだ、と思ったのは勘違いじゃない。彼の真の瞳は、真昼の海のように透き通った青をしている。それを黒のカラーコンタクトで覆っているのだ。
水島青太が、本当は
「急に走り出すから、気になって追いかけてきたんだ。ケガとかしてないか」
その優しい言葉が、どうしようもなく煩わしい。
「してないよ、大丈夫。助けてくれたのは感謝してる。僕はもう帰るから、水島も早く帰りなよ」
「あのさ」
その場から急いで立ち去ろうとしていた飛鳥を、青太は止めた。飛鳥は振り返らずに、顔を少しだけ動かした。
「もう、こんなことするなよ」
「こんなことって」
「1人で
君には関係ない、と飛鳥が言うより早く、青太は言葉を続けた。
最近は事件が増えているから、何をするか分からない
だって、僕は。
「だって、お前は――
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