第1話「アオタブルー」
1-1
空が雲に覆い隠されて、くすんだ色をしている。きっと、帰る前に降り始めるだろう。
傘を持ってきておいてよかった、と
空模様が気になるのか、クラスメイトたちも珍しくそわそわした様子だ。教科書の演習問題よりも、雨に濡れて帰ることになるかも、ということの方がよっぽど関心事なのだ。
飛鳥の隣に座る
「あっ」
ほら、案の定だ。
「……なあ瀬川、ここ、分かる?」
やはり先生の話を聞いていなかった青太は、申し訳なさそうな顔で、飛鳥に英語のノートを見せてきた。飛鳥は数日前に参考書で勉強した部分を思い出しながら、マーカーでラインを引くように、キャップをしたペンの先で青太の英訳をたどっていく。
「水島の英訳、『couldn't achieve his dreams』は『夢を叶えられなかった』って意味になる。提示された日本語文と意味は大きく変わらないように見えるけど、この問題で重要なのは『叶えられなくなってしまった』をしっかり訳せるかどうか。『するようになる』の意味を持つ単語は、この前確認したよね。何だと思う?」
「ええと……『come』だっけ」
「そう。だから、『come』に可能の意味を持つ動詞を合わせて」
「……『He came not to be able to achieve his dreams』、どう?」
「大正解」
丸、とペン先を滑らせる。キャップをしたままだから色は残らない。
飛鳥の解説をノートに書き込みながら、青太は笑う。
「すごい分かりやすかった。さすがだな」
「そうかな。分かりやすかったならいいんだけど」
「多分、どうしてそうなるのか、を教えてくれるから、理解しやすいんだよな。ちゃんと勉強してるんだなって思う。よかったら、期末試験の前も勉強教えてほしいな」
「いいよ。塾がないときなら、放課後は空いてるから」
やった、と微笑む彼と目が合った。そしてなぜか、目を逸らせなくなった。
青太の目をちゃんと見たのは、これが初めてだった。
飛鳥が青太と同じクラスになったのは2か月前、2年生に進級してから。昨日の席替えで隣の席になって、高校入学以来、ようやく初めて会話をしたのだ。
ただ飛鳥は、同じクラスになる前から彼のことを知っていた。彼の黒髪と黒眼は、ある意味目を引くからだ。
しかしそれでも、水島青太という少年は目立つタイプではなかった。
運動は人より得意だが、勉強は少し苦手で、でも平均点くらいはとれる。自己主張をあまりしないので、クラスの中心にはなれない存在。けれど誰とでも楽しく話せるし、どこにいても上手く馴染んでいる。
──『無色』なのに。
青太がそうであるかどうか、実際のところは知らない。でも
それに彼は、友人に自分は『無色』だと話していたような。
やはり水島青太はそうなのだ。
けれど、彼の目は今までに見たことのない色をしていた。
海の底の、青が濃くなって暗くなったところを掬い上げたような色。普通の黒とは違う、深い色彩を秘めた目をしている。
「あ、雨降ってきた」
だが、青太の目線はぱっと外れた。水の匂いを感じ取ったのか、彼は窓の外を見ていた。
湿気を孕んだ梅雨入りの風が、半袖シャツの裾から伸びる腕を掠める。肌がかすかに粟立って、飛鳥はそれを隠すように腕を撫でた。
「寒かったか? 窓閉めようか」
「あ、うん……ありがとう」
青太が先生に言って席を立つ。飛鳥は黒板に目を戻すが、見計らったように今度は右隣から「ねえねえ」と声をかけられた。
「飛鳥くん、今回の演習問題どうだった? あたし、難しくてほとんど解けなかったんだぁ」
右隣の席の女子生徒が、猫なで声で話しかけてくる。同じクラスになってから頻繁に名前を呼んでくるクラスメイトだ。飛鳥より二回りも背の低い彼女は、下から覗き込むようにして、きらきらした桃色の瞳で見つめてくる。
飛鳥は無意識に息を止めて、しかしすぐに「そうだね」と息を吐き出した。
「たしかに、いつもよりひねった問題が多かったね」
「だよねえ。でも飛鳥くん、ほとんど正解じゃん。やっぱり頭いいよね、尊敬しちゃうなあ」
飛鳥はそれに薄く笑って答える。彼にとって、女子を相手にして話すのに今更どぎまぎするようなことはない。それでも、彼女の色鮮やかさは心臓に悪かった。
教室を見渡せば、亜麻色、橙色、金色、深緑色、藍色、藤色、桃色と本当に色とりどりだ。大抵の生徒はそれが生まれつきのもので、あちらこちらでカラフルに煌めく目も、また同様だった。
目に鮮やかな光景に、飛鳥の気分は重くなる。
ふと、一際大きな風が教室に吹き込んだ。飛鳥の前髪を柔くあおって、カーテンがふわりと膨らんで、飛鳥の目は思わず、そちらへ引き寄せられる。
青太が窓際に立っていて、窓を閉めようとしていた。
飛鳥は、自分の白い髪が揺れる向こうで、青太の黒髪が
晴れた日の海のような、濁りのない青色がのぞいた。
その色が見えたのは一瞬だった。ぱたん、と青太が窓を閉めて、青は黒髪の奥に隠されてしまったから、それ以上は確認できなかった。でも決して、見間違いじゃない。
彼のそれは、錯覚を疑う余地のないほど何物よりも鮮烈な青色で、『有色』そのものだった。
青太が振り返って、また目が合った。しかし、飛鳥は反射的に目を逸らした。見たくなかった。
見ていられなかった。
飛鳥は胸の中にじわりと、淀みが滲むのを感じた。
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