第1話「アオタブルー」

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 空が雲に覆い隠されて、くすんだ色をしている。きっと、帰る前に降り始めるだろう。

 傘を持ってきておいてよかった、と瀬川飛鳥せがわあすかは生徒玄関に置いたビニール傘を思い浮かべた。

 空模様が気になるのか、クラスメイトたちも珍しくそわそわした様子だ。教科書の演習問題よりも、雨に濡れて帰ることになるかも、ということの方がよっぽど関心事なのだ。

 飛鳥の隣に座る水島青太みずしまあおたも、窓際の席から外の様子を眺めている。先生の解説など、きっとほとんど耳に入っていないだろう。


「あっ」


 ほら、案の定だ。


「……なあ瀬川、ここ、分かる?」


 やはり先生の話を聞いていなかった青太は、申し訳なさそうな顔で、飛鳥に英語のノートを見せてきた。飛鳥は数日前に参考書で勉強した部分を思い出しながら、マーカーでラインを引くように、キャップをしたペンの先で青太の英訳をたどっていく。


「水島の英訳、『couldn't achieve his dreams』は『夢を叶えられなかった』って意味になる。提示された日本語文と意味は大きく変わらないように見えるけど、この問題で重要なのは『叶えられなく』をしっかり訳せるかどうか。『するようになる』の意味を持つ単語は、この前確認したよね。何だと思う?」

「ええと……『come』だっけ」

「そう。だから、『come』に可能の意味を持つ動詞を合わせて」

「……『He came not to be able to achieve his dreams』、どう?」

「大正解」

 

 丸、とペン先を滑らせる。キャップをしたままだから色は残らない。

 飛鳥の解説をノートに書き込みながら、青太は笑う。


「すごい分かりやすかった。さすがだな」

「そうかな。分かりやすかったならいいんだけど」

「多分、どうしてそうなるのか、を教えてくれるから、理解しやすいんだよな。ちゃんと勉強してるんだなって思う。よかったら、期末試験の前も勉強教えてほしいな」

「いいよ。塾がないときなら、放課後は空いてるから」


 やった、と微笑む彼と目が合った。そしてなぜか、目を逸らせなくなった。

 青太の目をちゃんと見たのは、これが初めてだった。

 

 飛鳥が青太と同じクラスになったのは2か月前、2年生に進級してから。昨日の席替えで隣の席になって、高校入学以来、ようやく初めて会話をしたのだ。

 ただ飛鳥は、同じクラスになる前から彼のことを知っていた。彼の黒髪と黒眼は、ある意味目を引くからだ。

 しかしそれでも、水島青太という少年は目立つタイプではなかった。

 運動は人より得意だが、勉強は少し苦手で、でも平均点くらいはとれる。自己主張をあまりしないので、クラスの中心にはなれない存在。けれど誰とでも楽しく話せるし、どこにいても上手く馴染んでいる。

 ──『無色』なのに。


 青太がであるかどうか、実際のところは知らない。でも今日こんにち『有色』が多い中で色彩も持たない髪と目は、一般的に『無色』である証拠だ。

 それに彼は、友人に自分は『無色』だと話していたような。

 やはり水島青太はなのだ。


 けれど、彼の目は今までに見たことのない色をしていた。

 海の底の、青が濃くなって暗くなったところを掬い上げたような色。普通の黒とは違う、深い色彩を秘めた目をしている。


「あ、雨降ってきた」


 だが、青太の目線はぱっと外れた。水の匂いを感じ取ったのか、彼は窓の外を見ていた。

 湿気を孕んだ梅雨入りの風が、半袖シャツの裾から伸びる腕を掠める。肌がかすかに粟立って、飛鳥はそれを隠すように腕を撫でた。


「寒かったか? 窓閉めようか」

「あ、うん……ありがとう」


 青太が先生に言って席を立つ。飛鳥は黒板に目を戻すが、見計らったように今度は右隣から「ねえねえ」と声をかけられた。


「飛鳥くん、今回の演習問題どうだった? あたし、難しくてほとんど解けなかったんだぁ」


 右隣の席の女子生徒が、猫なで声で話しかけてくる。同じクラスになってから頻繁に名前を呼んでくるクラスメイトだ。飛鳥より二回りも背の低い彼女は、下から覗き込むようにして、きらきらした桃色の瞳で見つめてくる。

 飛鳥は無意識に息を止めて、しかしすぐに「そうだね」と息を吐き出した。


「たしかに、いつもよりひねった問題が多かったね」

「だよねえ。でも飛鳥くん、ほとんど正解じゃん。やっぱり頭いいよね、尊敬しちゃうなあ」


 飛鳥はそれに薄く笑って答える。彼にとって、女子を相手にして話すのに今更どぎまぎするようなことはない。それでも、彼女の色鮮やかさは心臓に悪かった。

 教室を見渡せば、亜麻色、橙色、金色、深緑色、藍色、藤色、桃色と本当に色とりどりだ。大抵の生徒はそれが生まれつきのもので、あちらこちらでカラフルに煌めく目も、また同様だった。

 目に鮮やかな光景に、飛鳥の気分は重くなる。

 

 ふと、一際大きな風が教室に吹き込んだ。飛鳥の前髪を柔くあおって、カーテンがふわりと膨らんで、飛鳥の目は思わず、そちらへ引き寄せられる。

 青太が窓際に立っていて、窓を閉めようとしていた。

 

 飛鳥は、自分の白い髪が揺れる向こうで、青太の黒髪がひるがえるのを見た。そうして、普段彼の耳にかかっている髪の毛の、奥の色がのぞいた。


 晴れた日の海のような、濁りのない青色がのぞいた。


 その色が見えたのは一瞬だった。ぱたん、と青太が窓を閉めて、青は黒髪の奥に隠されてしまったから、それ以上は確認できなかった。でも決して、見間違いじゃない。

 彼のそれは、錯覚を疑う余地のないほど何物よりも鮮烈な青色で、『有色』そのものだった。


 青太が振り返って、また目が合った。しかし、飛鳥は反射的に目を逸らした。見たくなかった。

 見ていられなかった。

 飛鳥は胸の中にじわりと、淀みが滲むのを感じた。

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