アスカレッド

とーし

プロローグ「カラーボーイ」

 瀬川飛鳥せがわあすかには、忘れられないことがある。

 10年前の、7歳のときの記憶だ。


 小学校が夏休みに入ったばかりの頃。自由研究で使う本を借りるために訪れた、図書館からの帰り道だった。途中のバス停で友達と別れて、ひとり、家まで歩いていた。


 飛鳥は覚えている。

 辺りに他の人はいなかったことを。

 ヒグラシの冷たい鳴き声が、暮れる空に消えていくばかりだったことを。

 その空は、明るいとも、暗いともつかない、見たことのない色だったことを。


 急にぞわりと肌寒さを感じて、飛鳥は角を曲がったところで走り出した。

 ぱたぱたと、靴底の音が静かな道に消える。手提げかばんに入れた本が大きく揺れる。

 早く、はやく。

 焦る気持ちに足はついていかず、足元がもつれて前に転んで、手のひらと膝を擦った。薄い肌の下から血が滲み出てきて、じんじんと痛む。

 鼻の奥がつん、とした。それでも泣き出さないように、唇をきつく結ぶ。


 ふと、自分の身体に影がかかった。


「どうしたの、転んだのかい?」


 飛鳥が見上げると、そこには男がいた。男は膝に手をついて、飛鳥を見て笑う。

 ゆっくり頷くと、男は手を差し出した。


「痛そうだね。ちょうど絆創膏を持っているんだ。車の中にあるから来なさい」


 男の後ろ、少し離れたところに古いワゴン車が停まっていた。

 飛鳥は男の手を取った。分厚い肉とかさついた肌の手は、思っていたよりずっと冷たかった。


 そこでやっと、飛鳥は、この男に「ついて行っちゃだめだ」と気が付いた。


「あ、あの……僕、いらないです。絆創膏なくても、帰れます」


 鳥肌はいっそうひどくなった。嫌な汗が流れて、シャツが背中にひっつく。

 飛鳥はもう男の手を握ってはいなかったが、男は飛鳥の手をしっかりと掴んだまま放そうとしない。足を踏ん張ろうとしても、恐怖と怪我のせいで、よたよたと男と同じ方向に動いていく。

 こういうときは、大声をあげて助けを呼ぶか、防犯ブザーを鳴らさないといけない。

 それから、それから。

 学校で教わったことが頭の中を流れていくけれど、喉も、手も、足も動かない。


 ワゴン車がどんどん近くなっていって、ドアが開けられて。


「いや……だ……僕、もう帰……っ」


 彼は容易く、生温い空気が充満する車内に押し込まれた。そして、ざらざらしたシートの上に乱暴に乗せられる。薄暗くて狭い空間に、体の底が冷えて、目の前が真っ暗になるような感覚がした。

 それでもどうにか抵抗しようとする飛鳥に、無機質な何かが触れる。凧糸のような細い紐が、自分の肌を這っている。

 男の手のひらから中指を伝うようにして生えた紐は、飛鳥の細い腕に巻き付いて、そのまま首を捕らえて、ぎゅっと締め上げた。 

 小学生の力では、もう抵抗できなかった。


 息が浅くなっていく。視界が端のほうからじわじわと、真っ暗に侵されていく。


 しかし、次の瞬間、光が闇を裂いた。


 締め上げる力が突然になくなって、かと思えば、自分をむごたらしく締め付けていた紐まで、あっという間に粒子になって消えた。

 驚いてドアの方を見ると、そこに男は立っていなかった。代わりに、車体の横から車輪が回る音が近づいてきて、ドアの前で止まった。

 あか色。

 車椅子に乗った男子高校生が、片手にあかい炎を燃え上がらせている。


「もう大丈夫」


 ちらりと飛鳥に視線を投げ、優しく笑って、そう、言った気がする。

 

「今すぐここから去るか、それとも今度は、『これ』を顔面に食らうか。選びなよ」


 炎が空気をまとって膨張し、大きく揺れてはバチバチと弾ける。

 男子高校生は、男から飛鳥を守るように、ワゴン車のドアの前に立ちはだかった。

 飛鳥が見えるのは彼の背中だけで、彼がどんな表情をしているのかは分からない。けれど、飛鳥を襲おうとした男の顔が悔しげに歪み、歯軋りをしているのは見えた。

 男は呻き声をあげて、両眼を見開いて、体を震わせている。すると、突然手を前に突き出して、男子学生――いや、その背後の飛鳥へ向かって空気を抉るように紐を伸ばした。


「……なるほど」


 炎が甲高く鳴いて、ぶわり、舞い上がる。男子学生の手の上で、あかい火の鳥が翼を広げた、ように見えた。


「そういうことなら、お望み通りに――ッ!」


 羽ばたく炎で大気が焦げる。

 あか色が大きくうねり、宙を燃やす火の粉の中で、塵が、粒子が落ちていく。

 彼は再び、男の伸ばした紐を一瞬で焼き払ったのだ。


 炎はすぐに収束した。きっと男が逃げたからだろう。男がさっきまでいたところは、いつの間にか空になっていた。

 おいで、と男子学生が手を差し出す。飛鳥は車椅子の彼の手を握り、ワゴン車から降りた。温かい手に、飛鳥の緊張は簡単に解けた。


「怪我してる……アイツにやられたの?」

「違う。これは、自分で転んじゃって」

「ん、そうか。でも、君すごいね。よく泣かなかったな」


 えらいよ、と空いている方の手で頭をわしゃわしゃと撫でられる。大雑把だけど、優しい手つきだった。

 すると、飛鳥の目からついに涙が溢れ出した。男子高校生は笑いながら、柔らかいハンカチで涙を拭ってくれた。


「怖かったな」


 彼は飛鳥の手を引いて、家まで送り届けた。2人並んでゆっくり帰りながら、飛鳥は彼に尋ねた。


「お兄さんは、誰なんですか」

「普通の高校生だよ」

「……名前は?」

「うーん。それは内緒」


 飛鳥が不思議そうに目を瞬かせると、彼はにっと口角を上げた。


「『ヒーロー』は、名乗らないのがかっこいいんだ」


 ヒーロー。

 その言葉が、飛鳥の見る景色とともに強く脳に焼きつけられた。

 あかい髪、あかい瞳の、車椅子に乗ったヒーロー。


 だからお礼はいらないよ、と彼は手を放した。そこは飛鳥の家の前だった。彼は手をひらひらと振ってすぐどこへ行ってしまったので、飛鳥はお礼を言えなかった。


 でもやっぱり、助けてくれてありがとう、と伝えたかった。自分の人生はあの日、彼と出会ったことで大きく変わったのだから。

 そういえば、あの日の空はあかかった、とふと思い出す。


 瀬川飛鳥の記憶には、今でも、あの『あか』が映っている。

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