第9話 ……自分の男が、寝取られるかもしれない瀬戸際なんだよ?
当初は大噴火を起こしていたものの、アリアになだめられ、注文した蕎麦を完食することで、多少は落ち着きを取り戻したらしい。
「……別に、ね? 浮気してたことを怒ってるわけじゃあ……ないんだよ」
いつも通りのオドオドとした振る舞いで、先程激怒した理由を百合芽自ら述べていく。
「そうなのか? いや、浮気じゃねぇけど。俺はアリア一筋だぞ」
「抱きしめられてた……」
「だーかーらー。あれは告白の勢いで姐さんの方が――」
「――ロザンナさんの好意を心底拒絶してたら……ふり払えたものなんじゃないのかな……?」
「うっ、」
ここで返す言葉に詰まってしまうのは、ロザンナに抱き締められた姿がアリアに目撃されたことを、千里自身後ろめたいと感じているからである。
「……アリアちゃんの世界に、略奪愛的な? そういう汚いものを……持ち込んで欲しくない」
そう言って、無表情ながらもハラハラとした面持ちで場の流れを見守るアリアの横顔を、百合芽は心底愛おしげに見詰めた。
「アリアちゃんは、ほら……女神みたいなものでしょう……?」
千里に視線を戻して発した言葉は、中々に狂った類のもので。
「確かに羽衣の言い分には一理あるが」
「あら、あるのですわね」
されど百合芽の発言をそうおかしなものと認識していない男がここにはいた。
「……御影君には、アリアちゃんにとっての王子様で……あって欲しいんだ」
「それはねぇな」
「あら、ないのですわね」
「大丈夫……。私は御影君が王子様じゃないことを知ってる……」
「喧嘩売ってんのかよオイ」
自分が王子様というガラでもないことは理解していたものの、いざ面と向かって指摘されると流石に腹が立つようだ。
「あなたが王子様ではなくても素敵な人であることはよく知っているけれど、アリアちゃんの前ではそうであることを貫き通して欲しいの」
「――っ」
けれど、百合芽は千里のありのままを好いていた。
理想の女の子たるアリアの前だけで千里が猫を被っていることすら織り込んで、異性としての好意を抱いていたのである。
「……それだけだよ。うん、長々と……ごめんなさい」
「――俺は、羽衣のことがよく分からんくなって来た。同族のつもりなんだけどな」
「
千里は知らない。
かつて百合芽が向けていた全方位への優しさが、今は千里とアリアにのみ注がれていることを。
「……私のことを考えるくらいなら、アリアちゃんを……その分たくさん愛してあげて……」
「あぁん? 知るかボケ。てめぇのことも考えるぞ。ダチなんだから当たり前だろーが」
「えっ……、えぇと、その……」
不意打ち、だったのだろう。
途端に百合芽が頬を赤く染め、あたふたとし始めるのだ。
「百合芽殿。一つよろしいでしょうか?」
狂ってはいながらも毅然とした百合芽の態度に気圧されていたアリアが、彼女が勢いを失ったことでようやく口を挟む機会を得た。
「私はあらかじめロザンナ姉さんから旦那様への好意を伺っております。その旨を本日外に出て伝える予定もまた同様にです」
「いいの……?」
アリアが告げた事実は千里にとって初耳であったように、同じく百合芽も驚きから目を見開いていた。
「……自分の男が、寝取られるかもしれない瀬戸際なんだよ?」
「構いません。子どもが欲しいという望みであれば、旦那様が束縛される時間は短期で済むでしょうから」
「はい、わたくしはアリアちゃんを押しのけてまで正妻の座を求めてはおりません。後々認知や養育費といった面倒事も千里君に対して絶対に求めないと誓いますわ。誓いを破れば最後、燃やされ――灰になることすら許容致します」
「赤薔薇商会の方々、仲間を燃やすような不義を私はしたいとは思わないのです」
幾ら槍玉に上げられようと、不動の笑顔で構えていたロザンナ。
「――百合芽ちゃん」
ここに来て彼女は百合芽の眼を真っ向から見据えた後、テーブルに額を打ちつけかねない程、深々と頭を下げた。
「お願いします。わたくしを信じてくださいまし」
「信じる……?」
刃物のごとき鋭さと、柔和な印象が入り交じる瞳。
「……あぁ、そういうことですか」
そこに根付く一つの感情を見て取った百合芽が、何かに納得するかのように頷く。
「私、ロザンナさんを信じたわけではありませんけど……その眼をされたら……もう、何も言えなくなります」
そして百合芽はコップの水に口をつけた。
「あなたみたいな人は……嫌いになれませんから……」
残存していた怒りが、彼方へと消え失せている。
「あらあら、まぁまぁ。わたくしは最初から今に至っても、百合芽ちゃんのことを仲間として好いておりますわよ」
伏せていた顔を上げ、ニコニコと百合芽へ微笑みかけるロザンナの側にも、隔意は見受けられない。
「よく分からんが、とりあえず話はまとまったってことでいいよな」
「おそらく、は。私もその理解に落ち着きました」
恐る恐るといった調子で顔を見合わせつつ、千里とアリアは事態の終息を感じ取ったのだ。
「千里君」
だが、そんな彼を逃さないとばかりに、猛禽の微笑みでロザンナが彼を貫く。
「告白に対する返事は、次の任務が終わった後にお願い致しますね?」
「……分かった。俺なりに精一杯考えてみる」
「心より感謝を申しあげますわ」
それで話は終わりだと言わんばかりに、ロザンナが軽やかに手を打った。
「蕎麦一杯だけでは足りませんわね。アリアちゃん、百合芽ちゃん。お代わりはよろしいので?」
揃ってアリアと百合芽が、首を横に振る。
女子二人は蕎麦一杯で充分に過ぎた。
「千里君は勿論、召し上がられますわよね?」
「おう、次はとろろ蕎麦で頼まぁ」
「うふふふふ。食べ盛りは良きことですわ」
ロザンナが二人分の蕎麦とさらにはビールを追加注文しているところで、再び蕎麦屋の扉がガラガラと音をたてて横に開かれた。
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