第7話 旦那様の裸を見なければ、私の朝は始まらないのです
朝、自室で目を覚ますとアリアが馬乗りになって千里の顔を覗き込んでいた。
「おはようございます、旦那様」
「……アリア」
苦々しげに呟く千里だが、その感情を分かっているのかいないのか、淡々とアリアは言葉を重ねていく。
「食事にされますか? シャワーにされますか? それとも――私の肉体をご所望でしょうか」
ズズイ、と。元より近かった顔がゼロ距離にまで到達。
人形のような丹精な顔立ちに艷やかな長い黒髪。そして吸い込まれそうな程美しい銀の瞳が、困惑する千里の姿を映し出している。
「おまえに一つ、教えておきたいことがある」
「はい」
「男は狼なんだよっ!!」
未だアリアを見上げる形で、千里は思いの丈をぶちまけた。
「耳と尻尾はどちらに?」
「そーいう意味じゃねぇんだよもぉぉぉぉぉぉっ!!」
アリアは千里の言葉の意味を斜め上に捉えた挙句、彼の肉体を
触れれば折れてしまいそうな儚げで華奢な身体。
けれども、抱く印象とは裏腹にアリアの肉体は頑丈極まりない。
そんな中やっとのことでアリアの束縛から抜けられた千里は、自室に備え付けられたシャワールーム(こちらはガラス張りではない)で汗を流していた。
「アリアの奴、不意打ちにも程があるぜ。何とか俺がなけなしの理性を働かせたからよかったものを――」
『入浴中失礼致します、旦那様。よろしければお背中を流しましょうか?』
「せんでいい! 俺のギリギリ保っている理性その他諸々を崩壊させようとすんな! このままだと獣になっちまう!」
しかし併設されたキッチンで朝食を作って待っていると語ったはずのアリアが、曇りガラスの向こう側に気配もなく忍び寄っていたのだ。
人間と
最もコレは、アリアに対する信頼心と好感度の表れでもあるわけなのだが。
『どのようなお姿になったところで、私の旦那様に対する愛が覆るような可能性は、
シャワー中の千里からはボンヤリとした姿しか認識出来ない。
『私、アリア・ナハトは旦那様に捧げられるために造られた女の子ですから』
だが、アリアが深々と淑女のごとき礼をしていたことだけはその動きから
「……本当に、感謝してる」
『感謝など不要です。そうあることが【魔女】の手によってこの世に造り出された私の使命であるならば、誇りを抱いて生きていくだけ。それだけの話ですよ』
心底から自分のような野良犬にもったいない嫁だと噛み締め、彼はタオルを身体に巻いてこう言った。
「じゃあ俺、今から上がるから。脱衣所の外に出てくれ」
『お断りさせて頂きます。旦那様の裸を見なければ、私の朝は始まらないのです』
「……うえぇー、マジかよぉ、オイ」
アリア・ナハトは御影千里の貞淑な妻である。
しかし若干ではあれど頑固なところも備えられていた。
千里とアリアは赤薔薇商会の幹部――という名の危険物であるがゆえに、禁域の一角で共に居を構えている。いわゆる同棲という奴だ。
「よう、羽衣。こっちだ、こっち」
「おはようございます、百合芽殿」
赤薔薇商会のビルに滞在した百合芽とは一階のロビーで落ち合う。
出社中の
「おはよう……御影君、アリアちゃん」
金髪のショートボブと豊満な胸を揺らした、どこかオドオドとした様子の少女が、困ったような微笑みを浮かべ、二人の元へ小走りに駆けて来る。
「よく眠れましたか?」
「うん、ぶっちゃけ家よりも落ち着けたくらいだよ……ありがとね、アリアちゃん。カレンちゃんにお礼を伝えておいてもらえるかな……?」
「私からよりも百合芽殿からの方が姫君も喜ばれるかと。姫君のことは好いておりますし尊敬の心もありますが、やはり私では接する際に怯えが生じてしまいますから」
「……あれぇ? カレンちゃんは可愛い女の子なんだけどなぁ……」
昨日とは比較にならないくらい親しげに会話を繰り広げ、さらには互いの呼び方がフランクなものへと変じている。
「もうそこまで仲良くなってやがるのか。女ってのはよく分からん」
白髪を黒に染めて、学校用に眼鏡をかけた千里が、驚いたかのように目を見開いた。
「学校にいる訳の分からない方々と比較して、百合芽殿と接していると心地が良いのです」
「あはは……。お褒めに預かり光栄だよ。でも、私からすると……アリアちゃんの真っ直ぐさに癒やされるんだ……」
ねー、と。言い合う女子二人。
一抹の寂しさを感じつつ、けれどアリアに友人が出来たのは良い事だと千里は割り切った。
「それでは学校とやらに参りましょう」
そう言って、赤薔薇商会のロビーから意気揚々と出て行こうとするアリア、追随する形で千里と百合芽が歩き始めるも、
「おや、電話のようですね」
突然、アリアのスマートフォンに着信が入った。
「もしもし、アリア・ナハトです――」
彼女は一旦足を止めて、電話の応対にかかりきりとなる。
「……御影君」
「ん? どうした、羽衣?」
その隙間を縫うかのように、百合芽が小声で千里に語りかけた。
「アリアちゃんは……、人の悪意にかなり疎いところがあるよね……?」
「――おまえ、この短期間でよくそこまで見抜けんな」
意外感もあらわに、千里が百合芽の顔をまじまじと眺めた。
「……私と違って、性格が良い」
自らに言い聞かせるかのごとく。百合芽は粛々と言葉を紡いだ。
「羽衣が性格が悪いとは思わんが……確かにアリアは穢れを知らねぇ、そんな奴だ」
百合芽の自己認識にはイマイチピンと来ないものがあるのだが、アリアについては概ね解釈一致。だからこそ千里は首を縦に頷かせる。
「私は学校でいじめられてて面倒な立場だから……アリアちゃんと仲良くなれたのは嬉しいけど……不幸体質っていうのかな……? 私のトラブルに巻き込みそうで……怖い」
「トラブル……なぁ。アリアは
いったい百合芽が何を懸念しているのか、千里にはその意図が掴めない。
「御影君も……」
「あぁん?」
「真っ直ぐな人なんだね……。そういうところ……すごく好ましいよ」
疲れ切ったかのような面持ちで、百合芽が千里を見上げた。
だが、千里を見つめるその瞳からは好意しか感じられない。
千里との会話に疲弊していないというのであれば、いったい百合芽は何に対して疲れ切ったと言うのだろうか。
「……大丈夫。アリアちゃんと私なんかが仲良くなってしまったことで彼女が被るであろう悪意は……、なるべく私が受け取るようにするから……」
グッ、と。たわわに実った胸の前で百合芽が決意を新たに拳を握った。
「……御影君だって、たぶんクラスの男子に滅茶苦茶嫉妬されてるよ? いつものようにのらりくらりとはいかないと思う……。気をつけて……」
羽衣百合芽は不幸体質である。
十七年の人生の中、人災から天災に至るまでかなりの数を一身に受けて来た彼女は、人の悪意とその流れに誰よりも敏感だ。
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