第二湯 おんせん娘と湯治郷
県道732号、湯本元箱根線。隣を並走する箱根新道よりもクネクネとした道で山を登るルートである。街灯も少なく、頼りになるのはロードスターのヘッドライトのみ。
この子、こんな真っ暗な道で迷子になっていたのか。
横目でちらりと彼女をみると、口をぼんやりと開けながら真上をじーっと眺めていた。山道で酔ってしまったのかもしれない。
心配になって声をかける。
「大丈夫……?」
こちらの声が届いてるか不安になるほどの時間が流れてから、彼女はつぶやいた。
「────空が、広い」
「え?」
「星がきれい。夜空を泳いでるみたい」
恍惚とした表情で彼女はそう呟いた。
オープンカーとはいえ、運転していると空を眺める機会は少ない。言われて初めて気づいた。星の綺麗な夜だった。
眺めていたい気持ちもあるけれど、ここは国内屈指の山道である。気を入れ直すようにクラッチを切ってギアを下げる。するとエンジンが大きく唸った。
ギアをいじる様子を興味津々に見ていた彼女が訊いてくる。
「運転できる女性ってかっこいいね」
「そうかな……」
考えたこともなかった。車はそこら中で走ってるわけだし、誰でも免許くらいは持っていると思っていた。
あれか、最近の子は車に興味がないのか? ……私も最近の子だけどさ。
彼女は首を縦に振りながら肯定を強めた。
「うんうん! なんか、レバーをガチャガチャってやってさ。なんか、かっこいい!」
「……馬鹿にしてる?」
「えっ? してない! してない! 私には恐くて運転できる気がしないもん」
手と顔をブンブンと振りながら否定された。
うーん……。たしかに、私も教習所に通っていた頃は怖かったかも。
ハンドルを握る力を緩めながら応える。
「私も免許とるまでは自信なかったよ。でも、すぐ慣れるよ。ほら自転車とかもそうじゃん。乗れるようになるまで時間かかるけど、一度乗り方を覚えればずっと乗れる」
「へぇー、そうなんだ。なんか、それ聞いたら自信でてきたかも! もし免許取ったら色んなところ行ってみたいなぁ」
まだ見ぬ遠くの土地に思いを馳せるように彼女は上空の星を眺めた。
「行ってみたいところとかあるの?」
「そりゃもう、たくさん! イタリアとかスウェーデンとか……。ヨーロッパの国を制覇してみたい!」
希望に満ちた表情でこちらに訴えてきた。
その顔を見ていると、なぜか不安になってくる。
「いい歳して迷子になるような子には難しいかもね……」
「ぬっ! わりとシンラツっ!」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
車を走らせて5分ほどで目的地に到着。アパートから高速を使って2時間ほどだろうか。
天山湯治郷。大きく2つの温泉がある他、和食の食事処がいくつもあったり、休憩場所も各所に設けてある。この辺りでは比較的広めの温泉施設である。
ちなみに湯治とは字のごとく温泉で療養を行うこと。本来の意味で言えば、私のように疲労回復のために日帰りで通い詰めるのはお門違いかもしれない。でも非情なストレス社会を生き抜こうとする私にとっては、週末にロードスターを走らせて天山に通うことが"湯治"なのだ。都会の喧騒を忘れて、ここでゆったりと休日を過ごすのが至高である。
駐車場にロードスターを停め、向かって右側にあるのが『かよい湯治 一休』。今回の温泉だ。外の券売機で入場札を購入してから受付へ向かう。
受付のおばさまからは「しずかに入浴すること」「かけ湯してから入浴すること」というお達しを受けた。それに対してふたりでコクリと静かに首肯した。
受付を抜けると渡り廊下につながる。風で揺れる木々の音が風鈴のように聞こえてくる。夜風が涼しくて気持ちいい。
女湯の暖簾をくぐると、着替え所と浴場が一体になった空間になる。浴場は半露天風呂になっており、山肌を眺めることができる。また下を流れる川の音が静かに聞こえてくる。
私はササッと衣類を脱いで、軽く畳んでからロッカーに放り込んだ。
裸になると日常のしがらみから解放された気分になれて心地いい。……決して露出狂とかではない。
さっそく浴場に行こう。
と思ったけれど、彼女は服を着たままキョロキョロと視線を泳がしていた。
「どうしたの?」
「えっ……、いや、なんか裸になるのが恥ずかしくて……」
彼女はモジモジと腕で胸元とお腹を隠すようにしている。まわりを見渡してみたけれど、お客さんは私たちを含めても5人ほどだった。
「夜だからほとんど人いないし、誰も見てないよ」
「いやいやいや、今まさに見られてるよ!」
顔をリンゴみたいに赤らめながら、私にそう訴えてきた。
面倒くさいな……。服のまま温泉入りたいなら、砂風呂にでも行くしかないよ。でも箱根に砂風呂はないかな? そしたら水着になってユネッサンに行くしかないね。
思わず腰に手をやって溜め息を吐いてしまう。それでも私は優しい声を心がけた。
「別に、誰もあなたの身体になんか興味ないよ」
「それはそれで傷つくっ!」
その後も「近くにいると脱げない!」と頑なに訴えるので、私は諦めて浴場へ向かった。
まずは、かけ湯。足元から上半身にかけて順番に6杯ほどかける。身体を清めることだけが目的ではない。急な入浴による体温上昇は血圧が上がって危険なのだ。
そうして内にある檜風呂へゆっくりと入る。
「ふぅ……」
肩まで浸かった私の口からは、自然と息が漏れていた。
湯船のなかで両手、両足をぐぐっと伸ばしていると、近づいてくる人影に気づいた。
「お、おまたせしました……」
タオルで前を隠しながら彼女が歩いてきた。
「遅かったね」と言おうとそちらに顔を向けると、彼女の豊かな胸が目に飛び込んできた。
で、でかい……。お腹も恥ずかしそうに隠してたけど、決して太っているわけでもないし、なんならくびれもある。そんなプロポーションしておきながら恥ずかしいとか、私に対する侮辱か!?
……持つ者にしか分からない恥ずかしさがあるのだろうか。
私は平らな胸に手を当てて心が泣いているのを感じた。
恐る恐るといった具合にかけ湯をした彼女は、左足からゆっくりと湯船に入る。湯加減もちょうど良いようで、すんなりと肩まで浸かれていた。
彼女は大きく一息ついてから、
「ぬぅ~~~~、いい湯だね~~~♪」
歌うような口調でそう言って、気持ちよさそうに顔を弛緩させた。湯に浸かった雪だるまが溶けていくような表情だ。
そして何かに気づいたように鼻をくんかくんかと動かした。
「ぬ? ヒノキの香りの中に柑橘系の匂いがある?」
「そう?」
檜風呂なのでヒノキの香りは気づいていたけれど、言われてみると、たしかに柑橘系の匂いもあるようだ。
湯船に何かが入っているのかと思い、辺りを見回してみたけれど、香りの出どころは確認できなかった。
彼女は目をつぶって再び鼻を動かし、不敵な笑みをこぼした。
「くんくん……。これは柚子の香りと見たっ!」
嬉しそうに両手を湯船の中で動かす彼女は、湯船の底の感触を気に入ったようにしばらく撫でていた。
「柚子の香りもそうだけど、このヒノキの匂いと感触がすごく落ち着くね」
まったくその通り。同感である。
私は頷いてから思い出したことを口にした。
「思えば私、この檜風呂が好きで何度も通うようになったんだ」
「へぇー、そうなんだ。そういえば」
そこで言葉が途切れて、少し考える間があってから、
「……えーっと、なんて呼べばいいかな?」
と自嘲めいた笑みで尋ねてきた。
そういえば、お互い自己紹介もまだだったか。
名乗ろうと口を開いたら、慌てたように彼女がガバッと動いた。
「あっ、こういうのは自分から名乗らないとね。あたし、
なぜか敬礼を送ってくる茅野さん。
大学生だったんだ。ということは、同い年かちょい年下かな。
この流れで私が名乗らないのはおかしいだろう。
「私は
「おっ! キャリアウーマンだったん……ですね」
私のことを歳上と思ったのか、急にたどたどしい口調になった。
「いいよ、別にタメ口でも。そんな歳離れてないと思うし」
「そう? じゃあ、サヤちゃんって呼んでいい!?」
茅野さんが勢いよく前のめりに寄ってきたので、水面が激しく揺れて水しぶきが飛んできた。
今度は急に馴れ馴れしいな……。別に構わないけどさ。
タオルで顔を拭いながら、そっぽを向いて応える。
「うん、まぁ、いいよ」
「やった! じゃあ、あたしのことは夏帆って」
「茅野さんね。よろしく」
「なんか、まだ距離を感じるっ!」
目を白黒させながらあんぐりと口を開ける茅野さん。
表情がコロコロ変わって面白いので、しばらくこのまま放っておくのも面白そう。
だが茅野さんはすぐに気持ちを切り替えて話題を振ってきた。
「それで、サヤちゃんはどこから来たの?」
「横浜だよ」
横浜市民は、神奈川県民とは名乗らない。県外の人から見たら大した違いはないかもしれないけれど、こういう時はつい横浜を強調してしまう。
「えっ! そうなの? あたしも横浜住みなんだよ」
「偶然だね〜」と嬉しそうにする茅野さん。対する私は「ふーん」とか「へぇー」とかそんな言葉を返すだけだった。
社会人になってから交友関係は浅く狭くなる一方だ。最近は会社のチームメンバーとしか、それも業務に関わる話しかしていない気がする。どうも女の子と話すときの作法みたいなものが欠如しはじめているようだ。
……とは言うものの、他人に興味を持てない性格だった私は、学生時代から友達が少なかった気がする。本音をこぼしたり、キツい言い方が相手の気分を害すことに気づいてはいるけれど、大人になった今はどうにも直せそうにない。
そんな私の塩対応にも関わらず、茅野さんは興味を持って質問してくる。
「でもさ、檜風呂だったら横浜の方でも入れるんじゃない? わざわざ箱根まで来なくても」
私は「あーー、たしかにね」と相槌を打ちながら斜め上を眺めた。視線の先ではライトに照らされた山の万緑が揺れている。
「箱根までドライブするのがリフレッシュになるから、っていうのもあるけど、ここに来る理由はあれかな」
そうして私は正面を向いて押し黙った。
茅野さんは明確な答えをもらえず不安になったのか、キョロキョロしながら私の表情をうかがっている。
「えっと……、つまりどういう」
それを制するように「しーーっ」と人差し指を立てる。瞳をパチクリとさせる茅野さん。私はその指で正面の岩肌を指し示す。
辺りが静寂になり、かすかな音が外から聞こえてくる。岩肌を静かに流れる滝の音、下を流れる川のせせらぎ、そして余韻の残る鐘の音。
白い湯気に包まれ、そんな音たちに耳をすませていると、意識がふわふわと浮かび始める。身体が軽くなるのを感じる。抱えている悩みや不安が溶けて消えるような感覚。
茅野さんも私の言わんとすることを理解したようで、静かに瞳を閉じ、柔らかな表情で身体を揺蕩わせていた。
そんなふうに、ふたりでしばらく瞑想していた。
どれくらい経っただろうか。山から来たと思われる緑々とした葉が私たちの前に舞い降りた。その葉っぱが水面を揺らしたところで、意識が戻ってきた。
茅野さんはこちらに微笑みを向けてくる。
「温泉っていいね。気持ちがリフレッシュするというか、リセットされる感じ。サヤちゃんは、休みの日こんなふうに過ごしてるんだね」
「そうだね。箱根の温泉がほとんどだけど」
箱根は、車を使えば自宅から遠くないし、なによりも静かだ。山は比較的車も信号も少ないから運転するのが楽しい。箱根が有名なドライブスポットというのも頷ける。
最初はロードスターで箱根をドライブすることがメインの目的だった。けれど、いつからか温泉に入ることも目的になっていたようだ。「せっかく有名な温泉街に来ているのにドライブだけではもったいない」と思ったのかもしれない。今では箱根温泉の虜になっている。
生粋の温泉好きであちこち温泉地を巡るというわけではない。あくまで私にとって、ドライブと温泉を堪能するのに箱根が最も適しているのだ。横浜というか、神奈川住みで良かったと思う。
「温泉かぁ……」
肩にお湯をひとかけした後、茅野さんは自分の身体を気にする仕草を見せた。
「入るのは気持ちいいけど、誰かと一緒に入るのは緊張するなぁ。ホテルにも温泉があったんだけど、みんなと入るの恥ずかしくてすぐに上がっちゃったし」
「ホテルの温泉はどんな感じだったの?」
「えっとね……。あっ、脱衣所の洗面台がひとつひとつ個室みたいに分かれてたよ。珍しいよね」
「お風呂の特徴を訊いたつもりだったんだけど……。そこから茅野さんが泊まっているホテルも分かるかもと思って」
「なるほど」と手をたたく茅野さん。なんとか思い出そうとしばらく唸った後、手のひらを合わせてみせた。
「ごめん。大浴場に関しては『広いなぁ』くらいの感想しかなくて……。露天風呂もあったみたいなんだけど、そっちには行ってないんだよね」
「そっか……」
さすがに温泉の泉質・効能とかまで覚えているなんて期待していない。
せめてお風呂の特徴が分かれば良かったのだけれど、難しそうだね。
茅野さんは腕を組んで「ぬーん……」と記憶を絞り出そうと必死になっている。湯気があたまから出ているように見えて、ショート寸前のロボットのようだ。
次の瞬間。何かを思い出したようで、カッと目を見開いた。
「そうだっ! たしか、宿のお風呂は2つあった気がする。1つ目のお風呂に入った後、友達から『明日はいちの湯に行こう』って言われたはずだから」
『いちの湯』か……。ということは、『にの湯』というお風呂に入っていた可能性がある。
そんなお風呂のある宿がどこかにあったかな?
私は記憶を辿ってみた。
そして以前日帰りプランで利用したことのあるホテルを思い出した。
「それって南風荘じゃない?」
茅野さんは「えっ?」と首を傾げてしばし硬直してから、電撃が走ったようにザバッと立ち上がり、
「そこだっ!」
ズバッと人差し指を私に向けた。
それからしばらく私達はお風呂を堪能した後、頃合いを見て温泉から上がった。
受付で購入したバスタオルで身体を拭きながら、茅野さんは笑顔を向けてきた。
「サヤちゃん、ありがとう! おかげで無事に帰れるよ」
「別に、私は何もやってないよ」
「いやいや、温泉の特徴だけで場所が分かるなんて、まるで探偵だねっ!」
衣類を取り出そうとしていた手を引いて、茅野さんはビシッとサムズアップする。
するとカーディガンが落ちてゴトンッという重低音を鳴らし、そこからスマートなデバイスが顔を出した。
「「あっ……」」
ふたりの視線が床の一点に注がれた。
茅野さんは静かにしゃがんで、それを拾い上げた。
「スマホ、ポッケに入ってました……」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
茅野さんのスマホには友達からの通知が数件入っていたらしい。折り返しの電話をしながら、まるで取引先にお詫びをするサラリーマンのようにペコペコと何度も何度も頭を下げていた。
いいね。社畜になれる素質があるよ、この子。
電話が済むと、渡り廊下の縁台に座っている私のもとへ駆け寄ってきた。
「おまたせ! いやー、どうも抜けているところがありまして……。ご迷惑をおかけしました」
ぺこりと頭を下げる茅野さん。
まぁまぁと手で制して、私はその頭部に声を掛ける。
「気にしないで。……まぁ、写真を撮るために出歩いていたわりにはカメラを持ってる様子もなかったし、スマホで撮影してたんじゃないかと思った。私も早めに気付ければ良かった」
「すみません……。迷子になる直前までスマホで撮ってたのに。普段ならポシェットに入れるから、まさかポケットにあるとは思わず……」
韻を踏みながら茅野さんは自嘲気味に笑った。
まぁ気持ちは分かる。私も家で眼鏡を掛けているとき、その眼鏡を必死に探し回ったことがある。たぶん、それと似たような感じだろう。
「そんなことより」と話題を切り替えて、
「マップで確認したけど、ちょうどこの隣が南風荘みたいだね」
私はスマホのマップアプリの検索結果を見せてあげた。天山湯治郷と南風荘は、坂の登り下りこそ必要だけれど、地図上だとお隣に位置するほど近かった。
「そっか、これなら歩いて帰れそう────」
茅野さんは道のりを確かめるように外に目をやった。
さて私も帰ろう。
立ち上がって伸びをしながら帰路に思いを馳せる。それなりの道のりがある。
がんばるぞいと心のなかで拳を握り、
「じゃあ、私はこれで失礼するよ」
私は軽く手を挙げた。
対する茅野さんは、
「無理無理無理無理! 真っ暗で怖すぎるよぉ!」
ぶるぶると震えながら涙目になって私の腰に飛びついてきた。
正面の景色を見ると、明かりひとつない暗闇の山並みを確認できた。
たしかに暗いけど、これくらいの距離なら大丈夫だよ……。
とはいえ、女の子ひとりに歩かせるのは気が引ける。面倒を感じないわけではないが、乗りかかった舟というやつだ。
「……まあ、ここまできたらホテルまで送るよ」
「やったー! ありがと!」
立ち上がって腕に抱きついてきた。顔がくっつくほどの至近距離に茅野さんの笑顔がある。
近い近い。パーソナルスペースが極端に狭い子だな……。
それを引き剥がすように車に戻り、助手席に押し込んでやると、
「それじゃ、よろしくおねがいします!」
ビシッと敬礼を送ってきた。
よろしくと言われるまでの距離でもないけど、タクシーだったら嫌がられる客だろうな。というか、南風荘は温泉に行く前に通りかかったんだけどね。夜で暗かったし、星空とか見てて気づかなかったのかもしれない。
車体を振動させながらロードスターが始動する。坂道を登って駐車場を出た後、すぐに左に折れるように坂道を下る。夜も更けた箱根は、誰一人として歩いていなかった。
一分も経たずして南風荘へ到着である。助手席で静かにしている女の子に声をかける。
「ほら、着いたよ」
「はへぇ……。あ、つい寝てしまった!」
茅野さんは、重そうなまぶたを開きながら垂らしたよだれを拭っていた。
肝が座っているというかなんというか……。早寝の世界選手権に出場できるんじゃないか? ちなみに世界記録は、眼鏡の男の子が出した0.93秒である。
助手席から降りた茅野さんは、スマホを握りしめた手を振り上げた。
「ありがとう、サヤちゃん! また会おうねっ!」
それに対して「たぶん、これっきりだろうけど」という思いを抱きながらも、
「うん。バイバイ」
私は左手を軽く挙げて、そう応えた。
ゆっくりと走り出しながらサイドミラーを確認すると、茅野さんが手を振っているのが見えた。スピードを出し始め、しばらくしてからバックミラーを見るとちっちゃな人影がフラフラ揺れていた。
……湯冷めするから早く入りなよ。
なんだか面白い子だったな。
温泉に入ったときのとろけた表情がおかしくて思い出し笑いしてしまう。
なぜかロードスターに興味を持ってたし、物好きな子だな。……それに乗っている私が言えた義理ではないけど。
もし、また会えることがあるなら、ロードスターの良さを骨の髄まで分からせるためにドライブしてあげようかな。
ここから家まで2時間ほど。
火照った身体を冷ますように夜風を肌に受けながら、私は帰路を走り続けた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
朝6時。普段ならこんな時間なんかに起きない。
昨日の夜、迷子になっていたところを社会人のお姉さん(?)に助けてもらった。
身体は疲れていたはずだけど、目覚めがすっきりしてる。もしかして、これが温泉の効能っ!?
布団をかぶっても二度寝できる気がしないし、寝過ごして朝ごはんに遅れることだけは避けなくてはならない。朝ごはんはなんだろなぁ。じゅるり。
ということでベッドから起き上がる。
みんなはまだ寝てる。昨日戻ってきた後、彼女らから「どこ行ってたの!」とこっぴどく叱られた。心配かけてごめんなさい……。
みんなを起こさないようにそっとベッドから抜け出し、洗面所のアメニティ一式を手に入れてから静かに部屋を出た。
向かった先は温泉『いちの湯』。
朝シャンは日常的にしてるけど、温泉旅館で朝風呂なんてはじめてかも。なんだか缶詰にされた大物作家の気分だねっ。
脱衣所に入ると、朝早いこともあって、あたし以外には誰もいないことがわかった。
やった、独り占めできるよ! それに、……誰にも身体を見られないで済む。
浴衣をさっと脱いで浴場へ。
今日は露天風呂のほうに行ってみようかな。
細い通路をとおって重めの扉を開くと、透き通った冷たい空気が流れ込んだ。
そこにあったのは、タイル床のお風呂と桶みたいなお風呂。
桶みたいな方は、お一人様しか入れないサイズ感だ。せっかくだし独占しちゃおう。
「ぬ~ん、気持ちいい~♪」
誰もいない湯船。朝の新鮮な日差しがすだれを通して優しく顔を照らす。
温泉ってこんなに良いものだったんだ。
昨日迷子になってたときの焦りも温泉に入ったら忘れちゃってたし、もしかしたら温泉って抱えてた悩みを消してくれる効果があるかも。
サヤちゃんはいつもこんな感じで日々の疲れを癒やしてるんだなぁ。
佐倉沙耶さん。サヤちゃん。口数は少ないけど良い人だったな。
温泉と車のことになると目を輝かせていた。自分の芯を持っているみたいでカッコよかったなぁ。
きっと、またどこかで会えるよね。だって、どこの誰でもすぐに話せるSNS時代だもん。
…………あっ。
「連絡先、聞いてない……」
澄み渡った青空を呆けながら見上げる。
近くの山から返事をするようにカッコウが鳴いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
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