第三湯 ようこそ、『喫茶 レリーフ(Re:lief)』へ!
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
一週間を登山に例えるなら、山頂に位置する水曜日。
人によって曜日の感覚は異なると思う。「水曜を乗り切った。あとはたった2日!」と楽観的に考える人がいれば、「やっと水曜まで来れた。まだ2日あるのか……」と悲観的になる人もいる。私はどちらかというと後者である。
山登りというのは、文字通り山を登ることに目が行きがちだ。けれど帰りの下り坂を忘れてはならない。調子づいて足早に下ろうものならスタミナ切れや転倒の恐れがある。下りこそ細心の注意が必要なのだ。
ゴール間近である金曜日は最も危険。上司や同僚の抱えこんでいた問題が行き場を失い、「あとはよろしく!」とばかりに私の背中に重くのしかかる。足を止めようものなら足がガクガクと震え、まともに歩けなくなる。この震えはなんだろう。疲れか恐怖、はたまた憤怒によるものだろうか。
また山というのは天候が変化しやすいもので、ときに登山者の行く手を阻む。最悪の場合、災害によって道が無くなっているなんてこともある。そうなれば絶望的だ。仕事に置き換えるなら、サービス残業という名のビバークで巻き返しを図る者もいるだろう。またある者は、山小屋と呼ばれるような小さな1Kの部屋で身体を横たえ、疲れも取れない状態で再出発を強いられる。人はそれを休日出勤と呼ぶ。
この間リリースしたアプリは、なんらトラブルもなく、私は別の開発物をスケジュール通り進めていた。とても心穏やかな一日だった。
それにも関わらず、心のどこかで不安を覚えた。
何も問題は起きていないのに、なぜ?
こういうときは灯台下暗しということもある。案外、自分の手元で問題を作り出していて、それが後からトラブルとして上がってくるかもしれない。どうでもいいけど、灯台下暗しと大正デモクラシーって似てるな。
なんてことを考えながら退勤後の駐車場でトランクに荷物を積み込んでいた。荷物と言っても午前中の雨空のために用意したビニール傘くらいである。今は綺麗な夕焼け空なので不要な物となる。
愛車のロードスターで帰路につく。オレンジ色の西日が目に染みる。
入社してから2年間、行き帰りするだけの通い慣れた道。久しぶりの定時帰り。夕暮れに染まる街並みを見るのはいつぶりだろう。仕事から解放されたことで気分が高ぶり、鼻歌まじりにしばらく走らせる。
そのうち信号が赤になり、知らない花屋の前で停車した。
ふと、メーターに目をやると、主張してくるランプの明かりに気づく。
「あれ?」
半ドアのマークが点滅していた。締め忘れたかな?
首を振って両ドアを見るけれど、開いているかどうか目視では確認できない。
信号が青になってしぶしぶ走り出す。
「どこかに停めて確認したいな」
前を見据えながら駐車場を探してゆっくりと進む。
左手に自動車を6台ほど停められそうな駐車場が現れた。道に出ている木材の看板には『Re:lief』と書かれている。読み方が分からないけれど、雰囲気から喫茶店のようなお店であることが分かる。
「ちょうどいいや。ここに入ろう」
初めて立ち寄ったそこは、三角屋根が特徴的な木造2階建てのお店。白い壁と淡青色の屋根。年を重ねたような鈍さはなく、真新しいものに見える。お店の正面にはカバードポーチがあり、アーリーアメリカン様式を感じさせる。そのデッキの中央にドアがあり、左側にはテイクアウト用の渡し口がある。右手にはガレージがあり、スロープで上った先に『ユーノス・ロードスター』と呼ばれる初代ロードスターが停まっていた。ガレージの隣には、木に隠れるようにコンテナが置かれている。なぜかは分からないけれど、そこだけが異質な雰囲気を放っていた。
駐車場に車は停まっていないけれど、正面のデッキに自転車が1台立てかけられていた。店先では、店員さんと思われる制服を着た女の子がメニューボードをいじっている。
店員さんに向けて「すぐに終わるんで、停めさせてください」と心の中で嘆願した。
車を停め、運転席のドアを開いて閉じる。しかし半ドアのランプは消えない。
次にシートベルトをはずし、左腕をのばして助手席のドアを開いて閉じる。だがランプは消えない。
「なぜ……。壊れちゃったかな?」
ドアの故障か、それともメーターパネルの故障だろうか。
「修理代、いくら掛かるんだろう……」
自動車の修理となれば数万円はくだらない。
予想外の出費を憂いて途方に暮れていると、コンコンッと窓が叩かれた。
「わっ!」
驚いて思わず助手席に逃げるように身をよじる。窓の外を見ると、店先にいたはずの店員さんがいた。店員さんは目を細めた笑顔でこちらに手を振っている。目をパチクリしていると、その顔に見覚えのあることに気づいた。
「か、茅野さん?」
茅野夏帆。箱根で迷子になっていた女の子。小さな子供のように驚いたり笑ったり、感情と表情の豊かな大学生だ。
夏帆は、白のコックシャツと黒のサロンエプロンを身に着け、黒色のキャスケットをかぶっていた。おまけにチェック柄の小さな可愛らしいスカーフを付けていて、喫茶店の店員というよりも、モノトーンで落ち着いたスイーツショップの店員のようだ。
夏帆が喋りたそうに手招いていたのでパワーウインドーを開いてみる。すると明るい声が窓から入ってきた。
「やっぱりサヤちゃんだ! 『赤いロードスターかっこいいなぁ』って見てたら、サヤちゃんっぽい横顔が見えてさ。そしたら本当にサヤちゃんでビックリしたよ」
「ビックリしたのはこっちだよ。無断駐車を怒られるかと思った……」
手を胸に当てると動悸が収まっていないようで、まだ心臓がドキドキしている。
キョトンとした表情で夏帆は小首を傾げた。
「ぬ? ウチの店で一休みするんじゃないの?」
「違うよ」とは言いづらい問いだな……。
けれどしょうがない。正直に答えよう。
事の経緯を説明。かくかくしかじか。
「なるほど、それでドアをパタパタしてたんだね」
ガッテンといった具合に手を打つ夏帆。
「で、直りそう?」
「うーん……ダメそうかな。原因もよく分からないし」
腕を組んで眉を寄せる私に対して、夏帆は「そっか……」と悲しそうに同情の顔を向ける。なんで私よりも深刻そうな顔してるんだ。
でも夏帆は明るい表情をすぐに取り戻してパンッと手のひらを叩いた。
「まぁ、せっかくだしさ、お店寄っていって! 先週オープンしたばかりなんだよ」
「えぇ……」
つい嫌な顔をしてしまった。
せっかく定時退社できたから、早く帰ってネトフリで海外ドラマの続きを見ようと思ったんだけど……。それに車修理の見積もり依頼出さなきゃだし。
今日が金曜の夜なら良かった。明日が休日とわかっていれば多少足を伸ばしてもいい。
しかし今日はまだ水曜日。無駄な体力は使いたくない。同じような理由で、週の中盤に飲み会へ誘ってくる上司の気がしれない。まぁ、花金に誘われても絶対に行かないけど。
帰りたいオーラをぷんぷんに出している私。それでも夏帆は気にすることなく、ドアを開いて腕をつかんできた。
「いいからいいから! サヤちゃんならウチの店気に入ると思うよ」
「……私が?」
別にコーヒーや紅茶が嫌いとかではないけれど、どうにも気が進まない。
というか、夏帆が切り盛りするお店でもないだろうに……。何が彼女をそこまで自信にさせるのだろうか。
無意識のうちに私は車の外に出されて、腕を掴まれた状態のまま店内に向かって連行されていた。
「ちょちょちょっと! 強引すぎるって!」
鍵を閉めようと慌ててキーレスを押し込む。ロードスターはウィンカーをパッと光らせ施錠し、ただただ拉致される主人を「じゃあの」と見送るだけだった。
諦めて前を向くとユーノスが目に入ってきた。ひと目で丁寧に手入れされていることが分かる。きっと長い年月、乗り手に愛されてきたのだろう。丸みを帯びたバンパーが優しく微笑んでいるようにも見えた。
成るがままに連行され、重そうな扉を開くとドアベルがチリンッと鳴った。
店内に入った瞬間、私の口から感嘆の声が漏れた。
「わぁ……」
内装は白を基調にしたカリフォルニアスタイル。デニム素材のソファー、観葉植物のサンスベリアやモンステラ、木材のインテリアが爽やかさを演出している。吹き抜けの天井は解放感があって、シーリングファンがゆったりと回っている。
左手にカウンター席、その奥にソファー席が2組ある。
右手には大きな窓が貼られており、そこからガレージの様子を眺めることができる。コルクの壁を背景に、タイヤやパンタジェッキ等の整備工具が収納されたラック、そしてユーノスがスポットライトに照らされて展示されている。
ガレージのユーノスに惹かれて近づくと、足元から煙が立っていることに気づく。発生源は窓に沿って置かれている長テーブルのようだ。煙? いや、これは湯気だ。テーブルの下にお湯が浅く張られているのだ。これって……足湯!?
なんだ、この喫茶店……。
不思議な空間に戸惑って、お店の中をぐるりと見渡す。壁には、様々なロードスターの写真や自然豊かな景色の写真がたくさん貼られていた。
夏帆が振り返り、手を合わせながら一礼した。
「ようこそ、『喫茶 レリーフ』へ!」
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