おんどら!

おんどら同好会

第一湯 夜のしじまとロードスター

 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  



 8月を間近にした夏の夜のこと。

 軽めの夕食を取った後、程よい眠気を感じながらも、私は1Kの部屋を出た。

 隣の部屋を通りがかると食器を洗う音がかすかに聞こえてくる。これからお風呂に入ったり、寝るまでの時間を思い思いに過ごすのだろう。

 アパートの階段を下り、凛とした静けさの中、涼しい風を感じながら駐車場に向かう。

 身体は疲れているけれど気分は軽い。流行りのJ-POPを口ずさみながら、眼前の車に掛けられたボディカバーをバサッと払いのけた。

 そこに現れたのは、ソウルレッドの『マツダ・ロードスター』。暗闇の中でも伝わるメタリックな真紅のボディが街灯を反射させている。

 手に握られたキーレスキーを押し込むと、返事をするようにウィンカーがパッと点滅してドアが解錠される。

 身体を屈めて乗り込み、クラッチを踏み込んでハンドル左下のスタートスイッチを押す。ガソリンが点火して車体を震わせながらエンジンがかかる。同時にメーターパネルが点灯し、針の振れが安定したことで準備完了を告げた。

 さて、行こうか。



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇   



 等間隔で置かれた光のアーチをくぐりながらロードスターが走る。

 オープンにした車内には夜風が入り込み、ショートボブの髪のなかを泳いでいる。

 車内から見える灯りは、道路照明と前を往くテールランプたち。暖色系の光が点々としている。

 そんな風景を見ていると気持ちが落ち着いてくる。私はアクセルを緩めてスピードを安定させた。そうして、やっと休日が訪れたことを実感する。

 ここは一人きりの空間。溜め息まじりに感情が口から漏れる。


「ふぅ……。やっと仕事おわったー」


 今日は土曜日。週休2日の会社なら土日休みが普通だと思う。

 なら、どうして夜になるまで心落ち着かなかったのか。それはすべて休日出勤のせいだ。


 私の仕事は、いわゆるシステムエンジニアというやつだ。企業の要望に合わせて独自のアプリを開発するチームに所属している。──と言えば聞こえは良いかもしれないけれど、実態を言えばデスマーチ処理班と言ったほうがいいだろう……。

 リリースを間近に控えたエンドユーザー向けのアプリに致命的なバグが見つかり、土曜日にも関わらず、なぜか別チームの私にも緊急対応が命じられた。仕様の知らないアプリを理解するところから始まり、バグを含む一機能をほぼ作り直すことになった。詳細設計を書いている時間もなく、クラス図をささっと修正した後、私たちはすぐにプログラミングに取り掛かった。

 結果的に言えば間に合った。うちのチームの知見もあったし、そこまで難しくなかった。作業は滞ることもなく順調に進んで正しく動くようになった──と思う。だって、ろくな検証もせずブラックボックスなテストを一通りやっただけだよ? そんな品質のサービスを世の中にリリースしてはいけない……。


 憂いを抱きながらも「そこから先は私の責任じゃない」と自分に言い聞かせ、夜の神奈川を横断するように一筋の光を伸ばしている東名高速道路を西下していた。

 何事もなく、ほとんど無意識に車を走らせて小田原厚木道路に乗り換える。小田原に近づくにつれて落ち着いた静謐な街並みが見えてくる。小田原西ICまできたら右方面に進み、その先で国道1号線に降りた。


 川と線路に挟まれながら進むと、正月の駅伝でおなじみの箱根湯本駅が見えてくる。天下の険、箱根の入り口である。

 そろそろ目的地に到着だ。どこかで飲み物でも買おうかな。

 駅の手前で左に折れて橋を渡ると、自販機の明かりが視界に入ってきた。

 ちょうどいい。そこでお茶でも買っておこう。

 自販機を越えたところでハザードを焚いて停車。車を降りると川の方から虫の音が聞こえてきた。

 人通りもなく静かな路地。夜は人気がなくてのんびり歩けるから好き。

 そんなことを考えていたら、自販機の前に人影を見つけた。運転中は気づかなかったけれど、どうやら女の子が屈んだ体勢で自販機からおつりを取り出しているようだ。

 近づくと向こうも私の存在に気づいたのか、目を丸くしてこちらを見た。おつりを取り出していた手が止まり、そこから小銭がポロリと落ちていく。

 チャリン────。


「「あっ……!」」


 驚きの感嘆符を上げたのは私のみならず、彼女も同様だった。

 彼女は買いたての炭酸飲料を落とし、小銭を集めようとワタワタしながら腰を下ろした。

 私も自販機の明かりを頼りに地面を睨み、コンクリートの上で鈍い光を反す10円玉を見つけた。膝をつきながらそれを拾う。

 彼女の方を見ると、取りこぼした餌を探す子犬みたいに鼻を地面に付けながら這っていた。そんな彼女に拾ったお金を差し出す。


「はい」


「あっ……、ありがとう、ございます!」


 立ち上がって私の手を握る彼女は、ペコペコと何度も頭を下げながらお礼を言った。

 私よりも若干背丈が低く、童顔でお団子ヘアをした女の子。歳は同じくらいに見える。ベージュのスカートにクルーネックのTシャツ、その上にポケットの付いたトッパーカーディガンを羽織っている。右肩からは、くり色の小さなポシェットを提げていた。

 まだ落ち着きを取り戻せていないようで、汗にじむ顔には焦った様子がうかがえる。突然現れた私に驚いたのかな。


「そんな、気にしないで。それより大丈夫? ビックリさせちゃったみたいで、ごめんなさい」


 焦り曇る表情をのぞきながらそう言うと、彼女はペットボトルをぶんぶん横に振りながら快活な笑顔になった。


「いやいや、むしろ誰か居て安心したよ! だって歩いても歩いても誰にも会わないんだもん」


 アハハと笑いながらキャップをプシュッと開ける。すると炭酸が噴水のように勢いよく噴き出した。


「ぬぅーーーーっ!?」


 そう叫びながら透明のシュワシュワな液体を顔面にくらっていた。

 髪からポタポタと水滴を落としながら、しばし硬直。そして、うるうるな瞳で今にも泣き出しそうな顔になってしまった。


「うう……、ベトベトだよぉ……」


 彼女の髪と服は、炭酸水でびしょびしょに濡れて哀れなものになっていた。

 見かねた私は彼女を落ち着かせるように、


「ちょっと待ってて」


 と声をかけてから路肩に停めた車に駆け出した。

 助手席を開けるとシートに放り出されたトートバッグがある。そこからフェイスタオルを取り出し、再び彼女の元へ戻る。

 彼女はポシェットから取り出した小さなハンカチで顔を拭いながら、心許ないと言った表情で溜め息をついていた。悲愴感的なオーラが漂っている。そんな彼女にタオルを差し出す。


「これ、よかったら使って」


「えっ、いいの?」


 躊躇いながらも手は伸びてきている。肯いて渡してあげると、再び明るい表情を取り戻した。


「ありがとう! いやー、何から何までお世話になりっぱなしだね」


 安堵したように彼女はタオルに包まれて、濡れた髪をポンポンと乾かしていた。

 そのタオル、本当はこの先で使うはずだったんだけどね。まぁ向こうでも買えるし問題ない。


「じゃあ、私はこれで」


 軽く手をあげて「それじゃ」と挨拶して踵を返した。

 すると突然、足元に影がぐわっと飛び込んできた。


「ええええぇ!! 待ってぇー!」


 振り返ると彼女の顔が予想以上に間近にあった。

 びっくりして思わずのけぞってしまう。


「ど、どうしたの? ……タオルならあげるよ」


「そうじゃなくて! いや、それもあるけどっ!」


 タオルをギュッと握って、彼女は息を落ち着かせた。


「実は……、写真撮ろうと思って、ふらふら散歩してたら道に迷っちゃって……。泊まってたホテルの場所が分からないの」


 話を聞くに、どうやら彼女は地元のひとではなく、友達と一緒に箱根に来ていたらしい。そして、ひとり迷子になって慌てていた所に私が通りがかった、とのこと。


「そうなんだ……。あ、スマホは? 友達に連絡してみた?」


 彼女はポシェットの中をごそごそと確認する。だが入っているのは財布と観光パンフレットくらい。表情を曇らせてかぶりを振る。


「……無いみたい。ホテルに置いてきたのかな」


 なるほど。……なにか引っかかるところもあるけど、ひとまず状況は理解した。


「じゃあ、ホテルの名前教えて。そこまで送ってあげる」


 私はスマホを取り出して地図アプリを起動させた。

 一方の彼女は考える人のポーズになって固まっている。


「……忘れました」


 そう言って、しゅんと悲しい顔でうつむいてしまった。濡れた髪とグッタリした表情、さらに街灯も少ない暗がりということもあり、誰かが今の彼女を見たらおどろおどろしい姿に映るだろう。

 どうしたものか……。このまま放っておくわけにもいかないし。

 ふと彼女が肩に掛けたタオルが目に入った。そこで、私がここに来た目的を思い出した。


「ひとまず温泉行かない? ちょうどこれから行くところなの」


 彼女は瞳をパチクリして、キョトンと小首を傾げた。


「おんせん?」


「そう。日帰りで入れるところがあるから、まずは身体洗っちゃおうよ」


 彼女は自分のびしょ濡れ姿を一瞥してから、思い立ったように顔を上げた。


「行きますっ! あたしを温泉に連れてってください!」



 ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  



 暗闇の路肩に停まるロードスターは、オレンジ色のハザードを点滅させている。

 助手席のドアを開けてから運転席に回り込む。

 私の後ろに続くようにロードスターの正面に回り込んだ彼女は「わぁー」と感嘆を漏らし、


「すごい! オープンカーだっ! かっこいい!」


 幼稚園児のような感想を述べた。さっきまでの暗い表情はどこへやら。興奮したように眼を見開き、嬉々とした表情を浮かべている。

 女の子がロードスターに興味を持ってくれるのは初めてだ。パーキングに停めていると寄ってくるのはおじさんばかりだったから驚きである。……別におじさんが嫌いとかではないんだけどね。


「オープンカーに乗るの初めて?」


「うん! まさかこんなところで乗れるなんて思わなかった! ……あっ、ごめんなさい」


 興奮した様子を見られたのが恥ずかしいのか、彼女は顔を赤らめてしおらしくなった。

 車に乗り込んでからも落ち着かない様子で、上を見たり後ろを見たりハンドル周りを見たり、忙しく視線を動かしている。

 あまりジロジロ見られると居心地わるいな……。思えば、助手席に誰かを乗せたのはこれが初めてかもしれない。

 そんなことを思いながら彼女を見ていると、嬉しそうな表情と目が合った。


「ぬ?」


 彼女は首を傾げながら疑問符を上げた。


「……出発するからシートベルト締めて」


「あっ、はい! すみません!」


 カチャッとシートベルトの小気味いい音を鳴らし、ピシッと背筋を伸ばす彼女。


「準備完了ですっ!」


 意気揚々と、キリッとした顔を向けてきた。

 なんかよく分からないけど、楽しそうでなによりです。

 ギアを1速にしてハザードを消す。右のウィンカーを光らせてから後方を確認するけれど、後ろにあるのは暗闇の景色だけ。

 エンジンをふかしながら、ロードスターが二人の女の子を乗せて走り出した。


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