学生相談
文科省の係長は、ほとんど平社員と変わらない立場だから、当時は、ひたすら上司の奴隷として動いていた。
一方、この学務課長という役職は、仕事量はそうでもないが、とにかく覚えることが多い。
学務課は、名前のとおり、大学における「
いわゆる
もちろん、小湊はそれまで教務系統の業務などしたことがないので、前任の課長や、部下に知識を頼らざるを得ない。
中でも、学務課の筆頭補佐である吉田補佐は親切で、数日かけて、簡単な
「教務いうのは、法令で画一的に規制されることが少ない代わりに、大学独自の教育方針に従うことが多い。非常に複雑で、奥深い仕事です」
吉田補佐は、小湊と
「例えば、これ、教務系の仕事をする職員にとっては、お決まりの質問なんですが……ある大学が、文学部を設立するとして、必ず開講しなければならない科目って、あると思いますか? 」
「文学部ですか? ……ええと、素人としては、英米文学論とか、そういうのが、必要なのかなって思っちゃうんですが」
小湊の
「それ!! 新人にありがちな、お決まりの答えです」
「えっ!? 」
「実は、文学部を作るにあたって、これこれこういう科目を開講しろ、っていう指定は、特にされてないんです。」
「そうなんですか!? 」
吉田補佐は小湊の反応を
「はい。ですから、極端な話、文学を読み解く際に必要と考えるのであれば、『情報工学』の授業を開講することもできます。どんな科目を並べようと、自由なんです」
そ、そうだったのか。
大学がそこまでの自由を有しているとは、まったく知らなかった。
小湊の衝撃を読み取ったのか、吉田補佐はこくりと頷いて
「そう、大学は、教務系の事項に関しては、かなりの裁量を与えられているんです。もちろん、はじめからこうだったわけじゃありません」
吉田補佐は、
「そもそも、大学を取り巻く法令には、全ての大前提である憲法の下に、教育基本法、学校教育法、
「問題は」と、吉田補佐は、学生に対するような、
「最後の、大学設置基準です。これには、単位認定の要件として、1単位につき、45時間の学修を必要とすることや、4年以上在学して、124単位以上修得することが卒業・終了の要件であること、などが書かれとります」
「大学を設置するための、最低の基準、ということですよね? 」
「そうです。この基準、最低基準といいながら、1991年までは、ガチガチやったんです。開設が必要な授業科目の区分から、科目区分ごとの最低習得単位数、学位の種類まで。それが、多様なニーズが求められる時代やっちゅうことで、1991年に大幅な改正がされたんです。いわゆる『大学設置基準の
その名前の響きは、さすがに文科省の官僚として、記憶していたが、そこまで大胆な内容だったとは。
「そこらへんが、日本の大学業界における、1つの
吉田補佐は、そこで、持参していたぺットボトルのお茶で
「2004年には、国立大学が法人化したので、認証評価制度も導入されました。緩和の代わりに、『評価』が重要になったんですな。……ここで、最初の話に戻りますが、理論的には、国は文学部にこういう科目をおけ、ということは指定していないので、好きな科目を開設できます。ですが、文学部に工学系の授業をおくなんてむちゃくちゃをしようものなら、この『評価』に、まず耐えられません。これが、国が大学を統制する、一種のからくりなんですな」
吉田補佐は、小湊をしっかり見据えて
「教務というのは、こういうふうに、大変複雑なんです。根拠も、色んなところに散らばっとります。それを覚えるところから、まずはやらんといけませんな」
「……ご、ご指導願います」
小湊は、顔を青くして答えた。
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それからは、勉強の日々である。
吉田補佐の言う通り、学務・教務の事務は、法律で画一的な規制がなされておらず、大学独自になされているものも多かった。
例えば、
法令で規定されているのは、自主退学か懲戒処分としての退学だけだ。
つまり、除籍手続きについて調べるのなら、国の法令を眺めていてもだめで、自分の大学の規則を確認せねばならない。
他に、多くの大学は、学生の在学年限の上限を8年としていることが多いが、これも、法令には規定がない。
大学設置基準に、「4年以上の在学、124単位以上の修得」が、卒業・修了要件と定められているだけだ。
こういった、法令で何が決められていて、大学にはどういった裁量があるのかを理解して、はじめて、実際の業務に取りかかる。
各学部の教育が、初年次教育と上手く連携する仕組みを構築したり、教育に関する各種委員会を主催し、教員側の組織の事務作業をこなしたり、だ。
いくら文科省のキャリアとはいえ、それまで大学と縁のない部署で仕事を行っていた知識ゼロの小湊には、大きな負担だ。
おまけに、それを実動員としてではなく、小湊は課長として、判断する立場にある。
頭がパンクしそうだ。
「……よいしょっと」
適度な
小湊は席を立ち、喉のうるおいを求めて、部屋の外にある給湯室に向かった。
まだまだやることはたくさんある。自分なりに頑張らないと。
そう自分に言い聞かせて、給湯室でひと心地つく。
さて、とコーヒーを入れたカップを手にして、再び学務課に戻ろうとした時だった。
「そんなわけありません!! 」
「き、きみ、ちょ、ちょっと落ち着いて……」
「彼女が……あたしの、親友が……」
学務課は、職員が普段の勤務を行う部屋のほかに、学生の相談を受けるための、専用の相談室を設けている。
相談室は学務課の大部屋の近くにあって、学務課を訪れた学生を、すぐに案内できるようになっていた。
どうやら、その大声は、不用心にも、わずかに開いていた相談室の隙間から漏れてくるらしい。
そして、学生のものと
「あたしの親友が存在しないって、どういうことですか!? 」
その、不可解な
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