最初の挨拶

  小湊こみなとが岡島大学の門をくぐったのは、翌日の早朝のことだった。

  正門を入ってすぐ左手の建物が大学の管理本部で、学務課は、そこの4階に位置している。


  文科省もおよそ褒められた風貌ふうぼうではないが、岡島大学管理本部は「これが歴史です」と言わんばかりの古さだった。小湊は痩せている方だが、階段はのぼるだけでぎいぎいと音が鳴った。

 

  4階に着き、解放されていた学務課に足を踏み入れる。


  霞が関かすみがせきの生活で、すっかり早めの行動が身についていたのか、職場には、まだ誰も出勤していなかった。

  

  異様に横に長い部屋だ。

 

  自分の席がどこかも分からないので、とりあえず、換気のために窓を開け、ブラインドを上げた。

  部屋の奥にコンセントにつなぎっぱなしの掃除機があったので、これからお世話になる身分だからと、勝手が分からないなりに清掃をしてみる。

 

  正味しょうみ20分。そうやって埃を熱心に追っていたせいか、頭上から降ってきた声に、小湊は、最初、気付かなかった。

 「あの……」

 「っわ!? 」


  あわてて顔を上げると、小湊とそう歳の離れていなさそうな若い女性が、目の前に立っていた。

  その目線は、腰をかがめて作業をしていた小湊と、同じ位置にある。

  彼女は、少し警戒するように、まとっていたカーディガンを両腕で体に引き寄せって

 「えっと……学生さん、ですか? 窓口はまだ開いていなくて……ごめんなさい」

 

 その言葉に小湊が返答できないでいるうちに、廊下が急に騒がしくなった。

 「あら、もう学生さんが……」

 「リクルートスーツを着てるってことは……就職相談かな? 」

 「ごめんね。まだ面談の担当者が出勤してなくて」


 小湊はもう29のアラサーなのだが、相対的な若さのせいか、あるいは大学院生なら20代後半でも珍しくはないからか、どうも、彼らは小湊を学生だと勘違いしているらしい。

 ……そもそも学生が勝手に部屋に入って掃除をしている状況など、あるわけがないと思うのだが。


 「いや、私は……」


 慌てて否定しようとするのだが、職員たちの朝のあわただしさに飲み込まれて、なかなか声が通らない。

 そのせいで、とりあえず就職相談の担当者が来るまで、入口近くで待機という扱いをされる。

 

 時間を経るにつれ、喧騒けんそうしにしていった。

 

 「あの、こちらで新しくお世話になる、小湊というものなんですが!! 」

  やっと自分の名前を口にできたのは、もう学務課職員が出そろい、各々の作業を始めてしまっていた時だった。

 

  今のいままで学生扱いしていたリクルートスーツの男に突然叫ばれたせいか、周囲の空気が一瞬凍った。


  やがて、その言葉の意味を理解したらしい男性が、部屋の入口で縮こまっていた小湊の下にやってくる。

 180センチは越していそうな、その分、横にも分厚い、随分と貫禄のある男だった。


「これは失礼しました……小湊さん……新しい課長さんですね」

「は、はい。そうです。文科省からの出向で、この4月から……」

「いや、あまりにもお若いので、みんな学生だと思ってしまったみたいで……申し訳ない」

 そういって、朗らかな笑みを浮かべる男。

 ずっしりと響く、頼もしい声の持ち主だ。

 

 小湊の正体が分かって、再びざわつきはじめた周囲をよそに、男は落ち着いた様子で

「私は、学務課の職員で、課長補佐の、吉田といいます。これから、どうぞよろしく」

「よ、よろしくお願いします」

 課長補佐ーということは、父親でもおかしくない歳のこの人が、自分の部下になるのか。


 周囲をよく見れば、みんな自分と同じくらいか、それより上の年齢の人間ばかりだ。

 

 人生経験を遥かに積んでいるこの人達が、みんな、自分の部下なのだ。


 ……分かっていたことではあるけれど、キャリア官僚として地方に赴任するという事態に、あらためて、胃を痛くした小湊だった。

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