兄からの依頼

 夏休みが始まりかけようとしていたとき、一本の連絡が入った。相手はもちろん『坂道さん』だった。

 坂道さんはぼくの古い知人で坂道の途中にある古美術商をしている30過ぎるのおっさんである。

 ぼくとは10ぐらいしか違わないはずなのにまるで友人みたいに慕ってくる。

「二泊三日の旅にどう?」

 電話の先に話しかけられるおっさんの口ぶりにぼくは萎えた。

「他に友達はいないんですか?」

「勇真君と遊びたいもん」

「こじらせていないで彼女でも連れて行ったらどうですか?」

「遊びたいもん」

 このひとは…まあ、夏休みが始まりとくに家族や友人でどこか旅行する予定などいまのところない。ましてや、坂道さんところに行くことをあまり親は好まない。だから断る理由もないのだけれど、ただ行きたくない気持ちの方が勝っていた。

 それはなぜかって? 答えは単純だ。坂道さんのお願いは大抵はよくない事。命がいくつあっても足りないと思うことはたくさんあった。だから、彼からの誘いにビクッとする。

「…いつ頃、いくんです?」

 ものはためしに聞いて見た。嫌な予感がすぐに的中した。

「今日」

「きょ…は?」

「今向かっているから、すぐに準備して入り口で待っていてね」

「ちょっ! 聞いていないで――」

 ブツリと切られてしまった。相変わらずやることはハードで相手の気持ちを尊重しない。こんな人といつまでも子供じみたことをしていていいのだろうか。確かに坂道さんの手によってあの時以来、病気や転ぶことも変なことに巻き込まれることもしなくなった。坂道さんがそばにいる。ただ、それだけでも変わったのは事実だ。

 けど、車が家の前に現れた。窓を開けサングラスをかけ、白いワンピースを着たおっさんが顔を出した。

「なんつう格好をしているんですか?」

「どうや、店員さんにお勧めされたんや。これでちったぁ、若く見えるか」

「その格好で学校前とかでよく見かけます。通報されますよ」

ぼくの感想が気に入らないのか坂道さんはとんでもないことを吹っ掛けてきた。

「勇真君の分もあるよ」

「いらん!!」

 こうして長い長い夏休みが始まった。最初は二泊三日だけの宿泊かと思っていたが、実際はそうではない。坂道さんは嫌な顔をしながらこう言ってきた。

「これから会うのはボクの兄貴なんや。なんでも君も三日分借りたいって聞かないんや。ボクとして兄貴に君を貸すのはごめんや。けどな、君を変えれるかもしれない。君を狙っている対象を変えれるかもしれない。ボクの力ではせいぜい……」

 口ごもった。このときの坂道さんは寂しそうな顔をしていた。

 車を走らせて三時間。ついたのは山の中にある山荘だった。二階建ての木造建築。今にも壊れそうなのかベランダが宙づりしている。

「兄貴、怒っていな。まあ、彼女に振られたっていってたし、まあ仕方がないよな」

 怒っていた? すぐに察した。ぼくをまもるために兄貴を殴ったと。もしかしたらあの時の仕返しに呼び出したのではないかと。

 その兄貴とはいったいどんな人なのだろうか。坂道さんみたいに胡散臭そうな格好をしながら怪しげなビジネスをしているのだろうか。それとも、単なる変人なのだろうか。さすがに一家兄弟でそんな変わったことになるはずはない。ぼくはそうであってほしいと言わんばかりに目を瞑って待機していた。

「……勇真くん」

「はい!」

 肩を叩かれビクッとして目を開けた。そこにいたのは坂道さんではなく知らない男の人がたっていた。

「君が勇真君か。大きくなったもんだな」

「はぁ…」

 しゃがみ込み、面と向かって話す。

「弟が世話になったな。アイツは昔から無茶ばかりする。話を聞かない弟を持って兄さんは哀しいぜ」

 そうか。この人が坂道さんのお兄さん。体付きは坂道さんみたいにひょろくはなくお肉はしっかりとついている印象だ。ボディビルダーでもしていたかみたいにガッチリとついているように見えた。顔は整った顔つきだ。とても30を過ぎているとは思えないほど若く見えた。服さえ、視なければ。なぜなのか兄弟そろってセンスがなにのだろうか。坂道さんと同じ白いワンピースを着ていた。まあ、服装は人それぞれだ。それなりの理由で着ているに違いない。ぼくはそのことをスルーつもりだった。つい口が滑る。

「その格好、変態さんですか?」

 坂道さんの兄は、真面目そうな顔をした。

「バカをいってはいけないよ。この姿こそ、開放感に満ちた服装だ」

 やっぱり兄弟そろって変な人たちだ。そんなことを横に置いといて、「すごいセンスですね。今度教えてください」というと坂道さんの兄はとても嬉しそうに語るのである。

 時間を置いて、坂道さんの兄の話を遮るようにして、気になることを尋ねた。

「あの…ぼくにいったい何の用事なのでしょうか?」

「君にはあの山荘で泊まってもらいたい。もちろん、オレも一緒さ」

「坂道さんは……?」

「帰ってもらったよ。ここはオレと君だけ。まあ、三日も過ぎればまた会えるさ。さあ、ゆっくりくつろぎたまえ」

 そのセリフ、すっごく変です。それではどこかの本のセリフなのでしょうか。それとも今思いついたのでしょうか。ふつふつと疑問がこみ上げてくるが、唾液と一緒に飲み込み、早くこの時間が過ぎるのを待つしかなかった。


 最初の一日目は大したことはなかった。坂道さんの兄(以降、坂兄さん)が昼食を作り、部屋の片づけなどを手伝いながら過ごした。近くの川から魚を釣り上げ、その日の晩飯として平らげた。

 二日目もとくになにもない。窓から差す太陽の日差しを身体に受け、熱心に日焼けしようとする坂兄をよそにゲームをしていた。

 そして最後の日、山荘を後に外に出ようとしたとき、扉が重くのしかかるかのようにビクともしない。坂兄はぼくを遮り「ああ、ようやく来たね」と怖い顔をしていった。あんなに明るく楽しそうな顔をしていた坂兄はどこにもなく、ただ静かに怒るように自分を守るように怖い顔をしていた。坂兄がとても怖く、別人のようにも見え、この人から逃げなくてはと恐怖で足が逃げようともがいていた。

 しかし、足が動けない。足を見ると小さな白い手が足を掴んでいた。

 悲鳴を上げると、坂兄はぼくを見ることなく、玄関の外を見つめていた。相変わらず怖い顔をしてみていた。

 ぼくはガタガタと震わせながら早くここから出たい、坂道さんに会いたいと必死で逃げようと無我夢中に暴れていた。だけど足に掴む手をほどくことはできなかった。そのとき、カバンからてるてる坊主が飛び出し、僕を守るように足に向かって突進した。

 手から解放され、てるてる坊主に感謝しながら彼を見ると、絶望的な状況があった。

 てるてる坊主が白い手によって何枚も何枚も引き裂かれ、形は原型をとどめていなかった。

 ぼくは叫んだ。せっかく大切な相棒、友達ができたと思ったのに、こんな別れ方をしなくてはならないのだろうかと、手を伸ばし助けようとしたが、てるてる坊主は変わらない表情で「来るな」といっていた風に見えた。ぼくは力なく手が床に落ちると、てるてる坊主は見るも無残に、変わり果てた姿となって床に散らばった。

 白い手は満足したのか、床の下へと消えていった。

 すると玄関の扉を押していた坂兄は扉ごと外へ押し出されるかのように吹き飛んだ。

「さ、坂兄さん!」

 玄関の外へ出るとそこには坂道さんが車を止めて待っていた。

「兄貴、約束の時間だよ」

 坂兄は立ち上がり、坂道さんを見るなり「その顔を二度と見せるな、お前は一家の面汚しだ」とかなりひどい言い草を吐き、ぼくを一言も見ずに荷物を持ってさっさと山を下りて行った。

「大丈夫やったか」

 坂道さんの言葉に救われたかのように感じ、その場でわんわんと泣いてしまった。涙があふれて、鳴りやまない弱い声にぼくは力なくその場に倒れる事しかできなかった。

 てるてる坊主とのお別れ、坂兄の鬼のような怖い顔、そして『一家の面汚しだ』という坂兄の捨てセリフが気になりながらも車に乗って家に向かって走っていた。

 坂道さんの横顔はいつも通りに無愛想で白い顔があった。いつもの坂道さんだ。けど、あの時の坂兄のセリフが耳から離れない。坂兄はいったい、ぼくを連れて何をしようとしていたのだろうか。

 そのことを訪ねたかったが、声に出せなかった。

 もし、ここで坂道さんの事実を知って、今の自分の鼓動を押さえつけることはできるのだろうか。そんな自信はない。ぼくはほとぼり覚めてからゆっくりその話を聞こうと、再び目を瞑った。

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