相棒とお守り(後)
誰かが肩をもってくれた気がした。
「目、あけい」
坂道さんが手を叩いた音で目が覚めた。臭いが濃い。マスクをしているにもかかわらずこの臭いは消えない。
「あと少しの辛抱だ。この部屋の中に”ある物”をとってこれば帰れるから」
坂道さんは背中を押すようにしてぼくをこの部屋の中へと押し込んだ。
部屋の中は真っ暗だった。ライトの光でさえも光を吸い込んでしまうほどの黒い。壁や天井、床もすべて黒く染まっている。ボヤや火事ではこうならない。黒く塗りつぶされていた。
窓があった場所には御札を張るように一つの箱が置かれていた。
本能が言っている。触ってはだめだって。だけど扉の前で坂道さんは拳を振り上げたり振り下ろしたり応援してくれている。応援する暇があるのなら部屋に入ってきてはくれてもいいのにと思った。
恐る恐る箱を開けた。手が震える。指先が嫌だというようにそれ以上掴もうとする力が入らない。まるで誰かに掴まれてしまっているかのようだ。
それでもなんとかして箱を開けた。中身は『てるてる坊主』がひとつだけはいっていた。箱にしまうほどこのてるてる坊主が訳ありなものだとすぐに分かった。箱を開けると同時に建物がきしみ床が揺れた。
断ってはいられなくなるほどではなかった。揺れはすぐにやんだ。
次々に沸き上がる疑問に混乱し始めたぼくは、坂道さんに振り返った。
坂道さんは応援する素振りと打って変わり表情は引きつっていた。その表情にぼくは一層に不安になる。
「あの、坂道さァ」
「勇真」
言葉を遮り、坂道さんはぼくを呼んだ。
その声はわずかだけど震えていた。ぼくの中の恐怖が膨らみかける。
「……なんなんですか」
「ぼくが合図したらそれに鼻を押し付けろ」
「はぁ!?」
「ええから言うとおりにしろ。嫌やったら無理にでも押し付けるから」
「ええ!?」
「ボクもやるから」
男二人でテルテル坊主に鼻を押し付けるのは今にして思えば嫌な構図だが、あの時は躊躇するようなことはなかった。坂道さんがそばにいてくれる。それだけでも安心感と安ど感に包まれたからだ。
てるてる坊主に鼻を押し付けゆっくりと呼吸するかのようにすする。すると先ほどの悪意はなかった。代わりに畳部屋が敷かれた和式の匂いがした。なんだか妙に落ち着いた。いつの間にか目を閉じ、その匂いだけを独占しようと口で呼吸するのも忘れその匂いだけが生きた心地があった。
「もうええよ」
坂道さんの声にひかれ、眼を開けた。すると先ほどまであったはずの箱と部屋がきれいに消えていた。
「え……」
眼前に広がる星空に呆然と立ち尽くす。
「ようやく戻ったな」
座り込む坂道さんにぼくは手にあったてるてる坊主を見た。てるてる坊主にはにこやかに笑顔な顔文字があった。
「ほれ、ボクが預かっておく」
ぼくからてるてる坊主を強引に奪うとてるてる坊主を見つめた後、星空に目をやった。
「……兄貴はボクを憎んどる」
坂道さんの隣に座るようにしてそのことについて尋ねた。どうせ話してはくれないかと思ったが素直に話してくれた。
「兄貴はボクと違って偉い学者さんだった。跡継ぎだって兄貴が背負うことになっていたんや。本来なら兄貴が君の面倒をみることになっていたんや。だけどな、兄貴がある事件に首を突っ込んでボクが君を守るはめになったんや。あんときは兄貴をすっごく恨んだ。けど、兄貴は逆にボクを憎んだ」
哀しそうな顔をしていた。きっと尊敬していたんだと思った。そんな兄に裏切られた。その兄も坂道さんである弟を憎んでいる。この二人になにがあったのか当の本人から口を割ることはないだろう。
「このてるてる坊主はどうするんですか? まさか、誰かに売ろうとか?」
坂道さんはきょとんとした顔をした。
「まさか、ボクがそこまで鬼なことはせんよ。これは兄貴に頼まれた大事な相棒なんや。誰かに譲ったり売ったりしたらボクはボクで信用しなくなるよ」
憎んだり恨んだりしているのに坂道さんはそこまでして兄に届けたいのだ。兄弟思いってやつか。ぼくは兄弟がいないからその気持ちは分からない。けど、きっとよいものなんだろうな。
てるてる坊主のことを”相棒”と呼んだ。坂道さんが”相棒”と口出すときは坂道さんのお店に飾られている商品すべてに与えられた称号のようなもの。称号を得られた”相棒”は坂道さんのお店の中に眠り、坂道さんが必要となればいっしょについていく。そんな関係なのだ。
車に乗り込み、制服姿のままだったことを思い出した。時刻は午後九時を過ぎていた。
「送ってやるから心配せんでええよ。上手い言い訳、考えとけよ」
坂道さんの投げやりにぼくは力なくうなずくのであった。
一週間後、ぼくは坂道さんに呼ばれて店に行った。
坂道さんは相変わらずレジスターに膝をつき、壊れたテレビを眺めていた(前回、ノートを奪われて以来、直していない)。
「お茶とお菓子用意してあるから」
白い顔に左頬が紫色に腫れていた。
「その顔、どうしたんですか」
「兄弟喧嘩してきたんや。兄貴、『俺の仕事を奪いやがって』とか抜かすからバキバキに殴ってやったわ。兄貴は自分のことになると周りを見なくなるから、『勇真を連れていくのは俺だ』とかいうから顔を殴ってやったわ。このありさまやけどな」
「負けてんじゃん……」
「これでも喧嘩は弱いんや。けど、あの後大事な人と会う約束していた兄貴の顔を台無しにしたからそれでチャラや」
にんまりと笑う。坂道さんも大概だと思うが。
坂道さんはレジスターの下の金庫からてるてる坊主を取り出し、僕に向かって放り投げた。
受け取ったぼくは小さく悲鳴を上げた。なぜなら、一週間前にあのアパートにあったそのものなのだからだ。
「心配せんでええ。それはお守りや。兄貴からぶんどってきたんや」
「もしかして、喧嘩をしたのって……」
「ボクは君の保護者やから、なんでもかんでも弟の大事なものを奪われるのはしゃくやからな」
坂道さんは大きく伸びをすると「やっぱ兄貴は嫌いや」と菓子を取り出しかみ切った。
てるてる坊主に鼻を押し付けるとふんわりと優しいにおいがした。妙に落ち着く。それに懐かしい。子供の頃に嗅いでいたものだと思うのだが、それがなんなのか思い出せない。
それよりも坂道さんは時々とんでもない無茶をする。
そしてぼくはそれに巻き込まれるのだけど、なんやかんやで助けてくれる。
そんな坂道さんのことが好きになるのはそう長くはかからない。だけど、ぼくはあることを忘れていた。ずっと幼いころから”ある約束”を……。
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