お気に入り
坂道さんは日々を自堕落(じだらく)に過ごす独身。
坂道さんの店には定休日はない。というか決まった営業時間がない。
店主のきまぐれで店を開け、飽きたら占めるという現代日本では到底受け入れられない営業スタイルだ。
もっとも最近は坂道さんは暇そのものを飽きているので大抵は開けている。
店主がそんなものだからか店内は無法(むほう)地帯(ちたい)と化している。
来るものをは拒まず、去るものは追わず。坂道さんに気にられない限り引き止めることはない。
その日、ぼくはテスト明けで久々に坂道さんの店に遊びに来ていた。当の本人に行くことは伝えていなかったため、店は開いていたものの坂道さんは留守だった。
一夜漬けの一週間を過ごしたためか睡眠不足だったぼくは、その場に倒れこむように眠ってしまった。
暗闇の中にぼくは一人突っ立っていた。
周りにはだれもおらず、ぼくだけがいる。だけど、たくさんの視線を肌で感じた。品定(しなさだ)めでもされているような不愉快な感覚に苛(さいな)まれた。
背筋が寒くなり、嫌な汗が吹き出る。すべてを見透かされているようで、胃袋がひっくり返りそうだった。
――逃げなければ。
そう思って走った瞬間、感覚が突然なくなった。指先を動かしている感覚はなく、瞬きしたのか呼吸しているのか声が出ているのか一切その感覚がなくなったのだ。まるで奪われたかのようだった。
どうしたらいいのか体が動かない中、時間だけが過ぎていった。
不意になにかに突き飛ばされたのか、腹に堅いなにかに打ち付けた。反動で顔にもぶったのか鉄の味がしたような気がした。起き上がろうとしたが、その意識は何者かにかき消され、全く動かせずにいると、何者かが耳元で囁く――。
気が付けば、ぼくは店の床に仰向けに天井を見ていた。背中が痛む。腹が痛い。痛いところを触れようと手を動かす。なんとこともない。体は正常に動かせる。唇に指で触るとじんわりと沁みた。どうやら倒れた際に唇を切ったみたいだ。
「大丈夫か?」
心配そうに見下ろす坂道さんの手には、一つの判子が握られていた。
「……ぼくは、いったい……」
坂道さんの手に引っ張られ、体を起こす。坂道さんと向き合うように座った。
「その手にもっているものはなんですか?」
その前にとぼくのズボンをたくし上げ、指を差した。
足首から脹脛(ふくらはぎ)にかけて無数の黒い小さな手形がついていた。
「良かったなぁ。もう少し遅かったら持っていかれていたかもしれん」
「お知合いですか?」
皮肉を込めて言ったつもりだったが、坂道さんは詫びれる様子もない。
「普段は大人しいのだけども、気に入ったもんがあると持って行ってしまう」
なにを? どこへ? と聞く前に坂道さんは答えた。
「だから、ここへ来るときは一本連絡をいれてほしい。今回はすぐに気づけたからよかったものの…あのままだったら、君のおじいちゃんに申し訳なくなってしまうところだったよ」
ほら、と坂道さんは手にした判子を振ってみせた。ぼくは慌てて壁にかけられた鏡を見てぞっとした。
そこには額に大きく『売約済み』と赤い印が押されていた。
「妙にきっちりした奴でな。誰かのお手付きやったら手を出してこない。だから、ボクは品物を多く取り寄せない。なぜなら、気づかないうちに”もっていかれて”しまうから」
坂道さんが見せた判子はそのためにあった。そして、品物を多く取り寄せないのも”彼”の存在があるからだ。坂道さんの店を開けっぱなしにしていたのも”彼”が守って……(?)いるからなのだろう。
次からは、一言連絡しようと心に誓った。
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